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2004年07月16日(金) 海岸沿い、夏のジェノバ
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一年ぶりにジェノバに来たような気がする。
もともと今年のスケジュールでこの時期ジェノバに通うことを決めていた。
久々に来た海岸、ボッカダッセ。
何一つ変わることなく、漁師のおっさんも漁の道具の手入れをしていた。
さてこの日はジェノバに住む友達と会うことになっていた。
ボッカダッセからバスで30分くらいのところにネルビィという街があり,
そこを待ち合わせの場所に指定された。
男同士ではあるけれど,きれいなスポットがあるというので、
ロケハンを兼ねて見てみようという気にさせられた。
彼はバイクのレースで手をけがして、父親の運転する車で駅まで来ていた。
彼はイタリア人なのに流暢な英語を話す。
英語をしゃべろうとするイタリア人に出会うのは珍しいことだ。
彼は日本が好きで日本語を勉強しているという。
日本を出てきた僕にとっては「どこがいいんだろう?」と、
純粋に疑問が湧いてきたので聞いてみた。
彼は日本には行ったことはなかった。
いろいろな単語を並べてはいたが,どれも的確な回答ではなかった。
本人も理由はない、いいと思ったから好きなんだ、と。
僕がまだ20代の頃、映画をやりたくて僕のところを訪れてきた人たちがいた。
何故映画をやりたいのか?
僕はそれが知りたかったが,明確な回答をしてくる若人はひとかけらだけだった。
彼の答えはそれらとオーバーラップしてしまった。
彼は仕事でアメリカに行った話とか,友達と海外に遊びにいったときのエピソードなど、
いろいろとしゃべりまくっていた。
別にそこに意味は見いださない。
楽しくいられる,そういうことで人生を謳歌しているようだった。
それもまた人生である。
日本語はイタリア語に比べたら難しいという。
僕にとってそんなことはないけれど,外国人から見たらそうだろう。
彼は覚えている限りの日本語の単語を並べていた。
何で日本語勉強するのか?
面白いからだよ,とさらりと言ってのける。
そこに意味は見いださない。
同じことを日本人が言ったら僕はどう受け止めるのだろう。
僕が気付いたのは、彼の目が生き生きとしていたことだ。
意味を考えてはいないけど,楽しんでいる。
よくよく思い返してみたら,彼は否定の言葉を一切使っていなかった。
僕の生き方とは相対するものがあるけれど,
でも充実した生き方をしているということで言えば同じだ。
よくしゃべるのだが,僕がいままでよく会ってきた夢のある人とはタイプが異なる。
夢があるわけではない。
でも下手に夢がある人よりも人生を満喫している、
僕にはそう見えた。
僕は自然と言葉にした。
「僕の映画作りの手伝いをしてくれないか?」
正直ボッカダッセの漁師のなまりの強そうな感じからして、
撮影の交渉は難航するのではと感じていた。
そして僕としてはもう少しロケハンをしてみたい気もしていた。
彼は2つ返事だった。
交渉するにしてもジェノバを一緒にまわることにしても、
僕ではなくとも人と交わることに楽しみを感じるのだろう。
初めて見た生き方というわけではないが,
こういう生き方も受け入れることができるようになった。
自分の器が広がったということなのだろうか?
そう想うことにしようと思う。
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