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FILM MAKER TAKESHI IKEDA
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2006年01月20日(金) イメージ合わせのパズル

チネテカ・ボローニャというサイレント期の映画フィルムの修復ラボラトリーがある。
修復というものが日常的に当然のように行われているこの国ならではのものだ。
僕は映画というだけでなく、
チャップリンの作品を中心に修復が行われている現場へと足を踏み入れてみたかった。
その作業をしている人が職人であるか否か、
僕の興味を引く人であるか否かは二の次のものだった。

このラボはボローニャ市の管轄で運営されていて,
夏場になればボローニャの街全体でサイレント期の映画祭があり、
街の中心には屋外に巨大スクリーンが現れるような隠れた映画の街である。
職人の国イタリアにしては個人レベルでの修復ではなく、
大々的に行われているもののようである。
当然、アポなしの偶然を装ったような撮影などは許されるはずもない。
事前にアポを取る必要があった。

この作品の内容を考えるとここのラボ自体は魅力的な題材ではあるものの,
正直取り上げるにはリスクが大きいこともあって、
自分の中では気持ちが薄っぺらくなってしまっていた都市だった。

アポ取りもうまくいかないどころか相手にされない。
ミラノからの日帰りだと滞在時間がかなり限られ、
行動範囲が狭くなるというフットワークの問題もあった。
街自体はとても美しく何度来てもいいと思えるが,
撮影するなら今回はやるかやらないかを決めるラストチャンスだった。


見えづらかった色彩


土曜日である事も手伝ってラボで作業している可能性も低かった。
それでも僕には白黒をはっきりさせる義務がある。
予告編の撮影時にロケハンしまくった街だけに街の配置は手に取るようにわかる。
ラボのある場所へとまっすぐ向かった。

そこで行われていたのは 10数枚程度の写真展だった。
受付の職員の女性もやる気が見えず、
会場に入ろうとすると何故か「しばらくしてからもう一度来なさい」という。
これはやはり個人レベルのオリジナリティ溢れるものを取り上げたいはずの
僕の趣旨とは異なってくるに違いない。

市という大きな力が勝っている施設の人々を相手にするには、
システマティックすぎて色が薄まってしまう。
イタリアの中でも生活の水準が高いと評される魅力あるこの街で、
その街の代表的なものを見たかったけれど,
それは代表すぎて僕の中では的を射なくなってしまっていた。


忘れ物に気付いた通りで


ロードムービーということを考えると,
この作品を製作するにあたっては何もかもがうまく行くだなんてハナっから思っていなかった。
ダメならその都度、方向転換を余儀なくされる事はあたりまえで、
行動を起こす度に最低でも二段構えで行く事,
下準備ができていなくても柔軟に対応していく事を要求される。

事前に得た情報で職人の工房が至るところにあるというのをキャッチしていたので,
街を歩きながらもあらゆるところにアンテナを張りめぐらせながら歩いていた。
しかし僕が歩いているときはかくれんぼの好きな工房が多いようで,なかなか出会う事がない。

街を歩くとき意味もなく遠回りをしたり,
自分だけのお気に入りのルートを作ることがある。
その場所の空気や匂いが僕を呼び寄せるのではないか?
静かな空間に引き寄せられたり色合いが美しく感じるところなど、
自分でも無意識のうちに歩いてる通りが各都市にある。

ボローニャでも表通りにはない、
裏通りにこそ感じられる不思議な安堵感に再会しに行ったところがある。
何も感じずに過ぎれば気がつかないモノがある通り。
そこで見つけたものは僕が探していたものではなかった。
でも結果的にはそれと出会うためにラボなどという
大きなアクセントを見させられていたのかもしれない。
それがなければ見つからなかったものなんだろう。

話をしているのはヒト


僕が出会ったのは家具の修復職人ミケーレだった。
工房の前の展示会らしきチラシを気にしていた僕を見ていたのか
「展示会に行きたいなら、○○へ行けばいいよ。でも今日はやっていない」と教えてくれた。

職人というと気難しくて頑固なイメージがあるし、
実際そうであるという声を聞くこともある。
でも何故かしら僕が出会ってきた職人というのは
そこからかけ離れた人ばかりのような気がする。
僕は職人のこだわりを曲げてやろうというつもりはない。
そういう意味では自分の考えを主張するかの様に踏み込んでいないからうるさくないのかもしれない。

人の本質というのは性善であってほしい。
人は決して悪気があるわけではない。
自分が見えていないだけ。

人が僕に対して良くしてくれるのは運がいいだけのこと。
彼らは僕が誰というでもなく、人として話してくれる。
目の前にいるモノを人として見ている。
至極当たり前の事だが、これはとても大切なことである。

彼には僕の思い描く職人像のようなものを感じた。
温厚で仕事に対して忠実である。
黙々と作業をするが話しかけてみると、
石を投げ入れると波が広がるかのように自分の事を語り始める。
それでも穏やかにそして気さくに自分のありのままを話す。

何気ない一言を発していたが,
人間らしい自分の弱い一面をもポツっと口にしていた。
たったその一言だけで僕自身救われたような気がした。
ボローニャへの足労はすべてがこれにかかっていたのだと確信を持つことができたからだ。


作品をかたどる声


職人というのはモノを相手に自己表現するものである。
相手にしているのはモノであって、
人によってはモノの向こう側の存在をないがしろにしかねない。
真正面からモノと対峙している人というのは,
きっと孤独、痛み、悲しみといった、人の感じるものをわかっているんだろう。

彼らは孤独の中での仕事師であり、
ふと降り注がれる泉には振り向くのではないだろうか?

僕自身、自力でこの映画を進行させていて,
はっきりいってしまえば辞めてしまうのは簡単な事。
なげたいというようなことを思ったことがないわけでもない。

僕が続けられるのはその先に見えている喜びであり,
助力を下さったり励ましてくれる人々からのエネルギーのおかげであり、
それに対して応えたいという気持ちがあるからである。

自分が素直に思う気持ち。
自分の気持ちに忠実でいい。

「楽しみにしています」
たったそんな一言でその人のためにだけでも創ろうと思える。
そんな些細な事がパワーに変わり無謀な僕を支えている。

どんなにうまくいかなくとも順調を装う。
それはある意味自分を正当化させるためであったり,
正しい根拠探しのゲームであるのかもしれない。
いつどの瞬間に自分のイメージ通りのものが目の前に現れるかわからない。
撮れるかどうかも不確定。
でも最後には辻褄を合わせていかなくてはならない。
自分も納得させないといけない。

そんな自分と同じ気持ちが彼ら職人にもあるのでは?
そう考えると僕も彼らの弱さを理解したくなる。
後継ぎとしてやらなくてはならないのかもしれないし。
つらくて辞めたいとも思うだろうし、
下らないしがらみに呆れることもあるだろう。

職人といえど人間。
どんなに世界が認めた人間であろうと完璧ではない。

迷いもある。
気持ちが移ろうこともある。
不安に苛まれることもある。


生きる中で立ち止まることは誰にでもある。
それは決してあやまちではない。
そんな中でも要求されることもある。

ムラのあるニス。
乾きすぎて痩せ細った豚肉。
いびつな形に割れたガラス細工。

そういう中で生まれて来た作品群。
彼らも魂のこもったモノであることは間違いない。
そんな状況下でも作り上げることができるのは、
飛び立っていく数多くの空を見上げているから。

彼らのストーリーの上に出来上がったモノこそが職人の作品と呼べる気がする。
それを手にできる事が人々の望んでいること。
そんな人々の姿は美しい。

孤独の中で声をかけるのはいつも心がそばにいる人。
その声に振り向き癒しを得られるのは突然の訪問者にはないもの。
そんな声を僕が職人たちに発せられるようであれば、
この作品にもその声を反映させていけるのだろう。
僕はいつでもカプチーノを入れてあげられるような,
そんな人間でありたい。

僕の気持ちが彼らに伝わっているのであれば撮影の意味は大いにある。
単調に見える継続した作業中に僕が彼らを非日常の世界へと導く。
そういった行為を理解してもらえるのであるならば,
僕が何をするでもなく人が見たいと思えるものが撮れていることだろう。

ミケーレとお互いに「Grazie」を言いあえた事が強烈な安心感を生んでいた。

職人たちからもらえる力は僕の誇りである。
勇気がほとばしっている。
彼らはいつも何かに気づかせてくれる。
僕の心の中にまでも作品を刻みこんでくれている。

世界は変わる


予期していたのとはまったく別の結果をもたらしたものの
「実はこうなるために最初から動いていたのだ」と自分に言い聞かせるように納得していた。
構想に忠実すぎてもよくない。

うまくいなかったのはラボのせいではなく自分の読みの甘さのせいである。
いやむしろうまくいかなかったわけではない。
パズルのピースは有効活用できたわけだから。

物事は自分の考え方次第で良くもなるし失敗にもつながる。
自分を変化に富ませて現象にうまいこと対応していく事で世界が広がり変わっていくのだ。
こういった結果は得てして理想的な作品へと昇華していくものである。

すっかり陽が落ちてしまった街にすっぽりと収まっている工房の前で、
レンズを磨いてカバーをかけた。


この日、撮影した映像の一部を公開しています。どうぞご覧下さい。

職人に出会えた街角 - Bologna 5




コメント

■イメージ合わせのパズル

転々とした展開の末にボローニャでの撮影はこれで終了にした。
どうするかいろいろ思い悩んだものの、結果としては自分でも納得したし最高のモノが撮れたと想えた。
本編で出すかどうかは未定だが、
ミケーレが言っていたことがいままで会った職人とは異なっていたのが新鮮だったから。
日誌の通り自分自身とダブらせて見ることができた。
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池田 剛 2006/04/26 05:43

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