引き止める手があった。 「そちらに行くのはお止めください」 引き止める手を見る。強く握り締めていた。必死なのだろう。 「そちらには辛い事ばかり、渡ってはいけません」 きっぱりと告げる声。 「何故、辛いと言い切れる」 「いつも後悔しておいでではないのですか」 いつも、そういつもそうなのだろうか?本当にそうなのか、自分には分からなかった。何故ここを歩いているのかも、ふと問えば答えがなかった。 けれど胸には当然のように心に住まっている憂悶を、完全に見透かされたかのように、きっぱりと返ってきた。しかもそのはっきりとした言い返しであるのに、何処か憂愁が声に篭っていた。 さすがにその口調は堪えた。 引き止められても、無理にでも行こうとした気持ちが萎える。諦めて真剣に自分を見返してくる少女に向き合った。 そう自分は行かなければならない、それだけが確かにある。 遅れたらあの人は先に先に行ってしまうのだろうか? 向き合いながらこの躊躇い。 「貴方は御優しい。だから行ってはなりません」 「優しくなどないよ」 少女の眉根がその言葉に曇り、ゆるゆると首を振った。まだ、きつく掴んだままのその手を、静かにだが無用とばかりに外そうとした。 「いやです。貴方は行ってはいけないのです」 気が急く。見失う訳にはいかないのに。 ぎゅ、と握り締め、力が篭っているのか白い小さな指が震えていた。それほどまでに何故必死に掴んでくれるのか?ふと、浮かんだのは憐憫にも似た情だった。 「どうしてだい?」 あくまでも駄々を捏ねる少女に優しく返す。 「悲しみばかりです。あちらは悲しいばかりです。貴方のように御優しい方には、その優しさゆえに辛いばかり」 ふ、と、その駄々を捏ねつづける少女に向けて笑みが零れた。 「では、このまま留まってこちらにいたら何がある?彼はいないのに」 はっと、少女はその美しい瞳を見開いた。言葉は優しく響いたのに、明らかに棘を含んでいる。握り締めていた指の力がフイに消えた。 笑みの浮かんだ表情のまま気負いもなく告げた。 「彼がいないのなら、こちらにいても同じ事だと思わないかい?」 「でも、こちらにいれば苦しむ事はないのではないのですか?」 言いながらも自信がないのか今までしっかりと向けられていた面が俯く。美しいばかりに広がる碧の黒髪がさらさらと肩口を滑り落ちてゆく。 「そんな事はないと思うよ、…残念だけど。何処にいても辛くないなんて事はないんだよ」 もう選んでしまった時から逃れられなかった痛み。 そう、たとえこちらに居たままでいても、彼の人の事を思って気を揉むばかり。ゆるゆるとゆるゆると腐ってゆくに違いない。決して何者も自分を傷つけることがないとしても、自分自身で傷を作り掻き毟り腐ってゆく。だがそうだ、そのほうが彼(か)の人の迷惑にもならぬかもしれない、皮肉な思いがふと浮かんだ。断固として行こうとしていた想いに初めて躊躇いが走った。 胸の内に巣くう闇。晴れることなく常に内在している闇(もの)。 それに比べたら今目の前で流れた少女の黒髪の瑞々しさはなんであろうか、黒と闇のような黒と認識しながら、少女の髪の流れる様に思ったのは光の奔流だった。かの人の瞳のごとき輝き。 その闇の中でさえ輝く光を見て、いつまでもここにいては置いていかれることに気が付いた。先刻の躊躇いなどもう霧散していた。再び気が急いたが項垂れたままの少女を独りに置いて行く事も躊躇われた。何処か放ってはおけない、ここまで自分に構ってくれるその温情故か? けれど、いつまでも此処に止まっているわけには行かない。もう彼の人は行ってしまった。彼の人の歩みに躊躇いはないだろう。自分はただただその後を追い。守りたいだけなのだ。けれど何故かまだ此処に留まっている。このままいたら先に行ってしまった人に追いつけるだろうか?見失うのでは?不安が無いかと言えば嘘になる。 しばし、沈黙が落ちた。 「貴方は御優しい」 再び少女が言い募った。それに何も答えず笑みを湛えたままの瞳でただ見返した。 「私を置いてこのような問答をせずとも御行きになっても構いませんのに、何故そうはなさらない?」 だから優しいのだと、貴方は御優しいと言うかの如く、少女がじっとその大きな瞳で見上げてくる。 「―――貴方は本当に御優しい」 噛み含めるようにふっくらとした花びらのような唇から紡がれる。 「それが、本当の優しさだろうか?」 少女が瞳を瞠った。表情は変わらない、しかし笑みを浮かべたままで言う言葉には思えなかった。 「貴女をただの言い訳にするだけかもしれないのに…、残念だけど、僕はそう強くはないんだよ」 言ってしまって今、躊躇ったまま此処にいる理由に気付いてしまった。 そう、強くは無い。そう、ずっと苦しんでいた。 笑みが剥落し、苦渋に満ちた表情がその面を飾った。 少女の手が裳裾から離れた。それまでは、力はないが弱々しくも、触れていた手だった。その手の行く先を眺めながら言った。 「貴女に引き止められて遅れたと、追いつけなかった事にしてしまうかと、卑怯にも少し考えていたよ」 少女が見詰める。 「でも、いつでも決めていたのは自分だったのに。ありがとう、気が付くことが出来た。だから行くよ」 苦渋に満ちていた表情(かお)は笑みに変わり、少女にきっぱりと背を向けた。 はっきりとした、しっかりとした歩調にもう迷いも後悔もないようだった。引き止めた瞬間の歩みと同じ。そう言いながら迷いはしないのだ。 やはり御優しい。そう思う。 残された笑みは胸に痛みを与えた。痛い笑み。彼の胸の痛みのように感じたと言ったら怒るだろうか? 何故こうも痛い? 「それでは私のせいになさって下さい。御恨みの何もかも私が…」 引き受けましょう。過ぎた望みだと、そんな理由も彼には無用であると分かってしまっていながら呟いてしまった。届かない、そう思ったのに、振り返らないだろうと、そう思っていたのに彼は振り向いた。 双眸に焼きつくのは晴れやかな笑顔。痛いのに何故、微笑む。息を呑む。 それすらも無用か…。 行ってしまうのですか、あちらは辛いことばかり。せめて誰かのせいにしてしまえば楽になれると言うのに――― 「…やはり貴方は御優しい」 ただ、そう小さく呟く。 いつもこうして独りにされるのだ。自分は一体、いつまでこの橋の袂にいればいいのか?ふとそんな思いが掠めて消えていった。ある用の為にしかこの先に行けぬ身を少しだけ哀れみ慰めた。 こちらには悲しみはない、辛いこともない。でも、ただ、何もない。 はたはたと涙が零れる。 泣いているのだと思っていたのに、頬を伝い雫が零れ落ちて、流れ拭う気にもなれない、いいやこれは涙ではない雨が止まないだけだ。もう自分が泣いているのか泣いていないのか、そんなことはどうでもいいことだ。 何故、何故、何故。どうしてと。そればかりが押し寄せてきて自分自身の感情さえ支配できない。 何故、雨は止まない。 折角掘った穴を泥水が覆い隠す。穴、そんなものを掘っただろうか。自分でも何をしているのか分からなかった。混乱していた。混乱している。どうして混乱せずにいられようか?何処に行ってしまった。何処に行かれた?追う背中をいつまでも追おうと決めていたのに、その人を守りたいと。 そう、守りたかった。 ――――たかった。 守れなかったのだ。 「私が呪ったからですわ」 「何故?」 見上げると少女がいた。美しい黒髪が肩を流れ落ちている。黒髪で有りながらその輝き、背後の闇に紛れることもなく際だっていた。 「私がお止めしましたのに、貴方は行ってしまわれた。そうなると解っていながら何故と思うにつれ、貴方さまの理不尽な行為に、私の好意を受け入れてくださらなかった事の恨み辛みに身を焦がしました」 自分を見下ろす、その清(さや)けく美しい瞳。対して今の自分の惨めさはどうだろう。世俗の泥に汚れまみれ、かの人の骸(むくろ)を抱きしめている。その骸すら、汚泥にまみれた身を清める事も出来ずにいる。 「おまえは優しいね」 言いながらも口に雨粒が、ぬぐえない汚れとともに流れ込む。胸にわだかまる汚れをさらに助長する。 「私はお恨み申したあげくに呪ったと、呪わずにおれようか。心底から貴方さまを―――」 「ああ、おまえはだから優しい」 いったん、少女を見た瞳はもう少女を見ていなかった。激しい風雨に打たれ続ける骸を見ていた。激しく叩付けられる雨粒が頬を流れてゆく。いや、泣いているのだろうか。 「だけど、譲らないよ」 その骸を見続ける彼を少女は見下ろす。傲岸な態度で恨みを述べた唇が不安に戦慄く。 「これだけは、譲れない」 もう自分を見てはいない。頭を垂れ、骸を見詰める背を見下ろす。 「今、僕は恨んでいる。何故、この人を死なせるのか。何もかもに対して憤っている。何故と思うそばから怒りに変わる。第一、何故、こうなることが解っていながら、彼を傷つけるモノから、すべてから守ろうと思ったのにもかかわらず、守ることも叶わず、こうして泣いている自分自身が恨めしい。この形作られた世界、その世界自体が彼を損なう、その損なう世界を救おうとする彼自身すべて、すべてなにもかも恨めしい―――けれど、優しい姫」 骸の頬に触れながら恨み言を述べる口元が歪み笑った。 「すべて彼からもらった。彼に関わるものはすべて何もかも、思うだけで沸き立つ気持ちも、愛しい気持ちも、恨めしいさも憎しみも諦めも誰にもやらない。これだけは全て誰にも譲らない。彼に関わるものは全て。何もかも全て僕のものだ」 断固とした言葉が断ち切った。 目の前に居ながらもう、彼には自分は見えていない。救おうにも求められていないものをどうしたら救えよう。 橋を越えていってしまったものには何もしてやれない。ほんの少しの救いも与えられず、その呪縛から離れる道に導いてもやれもせず、その恨みの肩代わりもしてやれないとは、何の為にここにいるのか。こんなにも、こんなにも思っているというのに、何一つ関わり合いもないとこの人は言う。 く、と唇を噛んだ。 「お恨み申す」 呟きが漏れた。これが恨むと言うことか。こんな事で思いが凝ってゆくのか。これでは人はひとたまりもない。のまれれば恨むばかり。恨んでどうなるのだろう。 恨むと述べたこの魂はこんなにも哀しい。 もはや、何者にも救われない。 これほどまでに捕らえて離さぬか。 憤りに似た感情が少女を支配した。その心情には不似合いな華やかな笑みで口元をかざりながら。 「もう、引き止めはしませぬ」 傍らを行き過ぎようとした男が言葉に反応して歩みを止めた。いつもは一顧だにもせず傍らを過ぎて行くものなのに。今回もてっきりそうなると思って、単なるむしゃくしゃする自分の気持ちを少しでもはき出したかっただけで呟いた嫌味だった。 「つれないな優しい姫よ」 声にはどこかその場を楽しむ響きがあった。その響きにつられて、絶対に顧みるものかと思っていた面を上げてしまった。黒髪がサラサラと肩先からこぼれ落ちていった。 穏やかな笑みをたたえた表情(カオ)が見ていた。その闇のような黒い双眸がただ笑っていた。 「もう、いたしませぬ」 きっぱりと言い切ったものの、この笑顔で懇願されたら、またこの前と同じようにこの後を辿ろうとする人を引き止めてしまうだろう。それが、さらにその人の決心を固め、その魂は不幸な最後を迎え、傷ついてこの地に戻ってくる。もう、その魂は痛ましさを通り越し、哀れみの言葉をかけることさえ躊躇う程なのに。 「姫がそういうなら仕方がない」 不思議なものであっさりと肯定されると気持ちも萎える。それをグと唇をかんで表に出さないようにするだけが精一杯だった。 「ご苦労だった。今までの事、感謝している」 「私の不甲斐なさをからかわれているのか!?」 「いや、本当に感謝している」 いつもの自信ありげな笑みをその顔はたたえていたが、いつもとわずかに印象が違うものだった。 何処か悲しい。 「姫が諦めるほどに、もう絶対にあれの魂は俺を選んで離れぬということだろう」 視線が絡んだ。 「それが、俺の望み」 きっぱりと告げた言葉。けれど、たぶん、そうで、そうじゃない。 だから私がここに残された。ここに残してゆくしかなかった。 「望みは叶った、感謝する。姫よ」 笑顔。 何故、この人たちはこんなに綺麗に笑うことが出来るのだろう。 「そんな顔をするな姫」 頬にひやりとした感触。戦うために鎧に覆われた指先は温みさえも伝えてはくれなかった。でも、優しい。 「あなたたちが出来ないから」 「いつも優しいな、姫」 ゆるゆると、首を振る。 「それは、あなたが御優しいから」 いつも引き止める彼とは何度もこんなやり取りをした。でもこの人とは初めてだった。いつも置いていかれるので口もきいたこともなかった。 「それはおまえに渡したものだ」 顔を上げると、何事もないように橋を渡ってゆく背中があるだけだった。いつもこうして見送るのみか。 「そう、あなたは優しいお方。迷いに決心が鈍らぬように此処に私を留めていった。解っているわ。だって、私はあなたですもの…」 そう、だから私はここに残された。あの方の弱さ。でも、本当にそれで良いのだろうか。こうして彼らが向こうに行くのを見送ること、見守ること、傷ついた魂をまた迎え入れる。 そして、また――――。 本当にそれで…。 引き止める手があった。 「水滸殿」 あどけない姫が自分の鎧の端をしっかりと握り締め、自分を見上げていた。『水滸』そうそうこれから行くところでは呼ばれるのだと、姫君に呼ばれ思い当たった。 「私も一緒にお連れください」 告げられた言葉は意外なものだった。これから自分が戦いに行くことははっきりしていた。そんな場所に連れて行けとは酷な事を言う。どう見てもその姫には似合うとは思えなかった。いや、いけないと思った。 しかし姫はしっかりと握って離さない。いつかこんな事があったような気がするがぼんやりとして思い出せない。いや似てはいるが、いつもとは違うと何処かで感じていた。 「私をあの方の元に連れていってください」 「あの方?」 「そうです。貴方様が大切に想っている烈火殿です。私はあの方の元に還らなければなりません」 きっぱりとあまりにもきっぱりと言われ呆気にとられ、その少女を見下ろす。とても良い思いつきをしたと確信に満ちた瞳は、きらきらと輝いている。 そう、あの人と同じ瞳。 どんな時も力失わない双眸の輝き。 「姫はあの方なのか?」 そっと手を差し出してその体を抱き上げた。 「はい。必要ないと、戦いには必要ないと置いてゆかれた一部です」 抱き上げてくれた人の体にそっと身を寄せた。 「貴方を愛おしいと想う心。貴方を失いたくないと想う心。戦う為にはどうしても弱くなってしまう、そんな心。本当はそんなに強くないのに、強く強くならねばならないので置いていったのです」 そっと抱き上げてくれた人の腕に力が籠もったのを感じて姫の眼裏がじんわりと熱くなった。 「けれど、そんな中途半端な心では勝てませぬ。いつまでも辛いばかりです。終わりにしてしまいましょう。もうこんな橋を渡らぬように、だから私を連れていってください」 頬の拭われて自分が涙を流していることに気がついて、その拭う指の持ち主を少し気恥ずかしげに見詰め返した。 優しい瞳が自分を見ていた。 微笑む顔にいつもような焦燥はない。 「姫。良いことを聞かせてくれた。しかし、姫。あの方の元に戻ったら姫は消えてしまうのではないのか?」 「それが本来の形なら、そうした方がいいと思いませぬか?私は早く戻りたい。戻って貴方に告げたい。あの方の声で言葉で」 幼子の素直さか、あまりにも熱烈な告白に嬉しく思った水滸も面食らったように、その幼い形を見た。 本来あの人の持っていたモノ。いつの頃からかそげ落とし、そこまでして戦っていたのかと、愛おしさに心が熱くなる。 自信ありげな瞳がきらきらと輝く。 「さあ、早う。あの方に追いつけなくなります」 笑みが零れる。 「あの方は貴方をなんとお呼びだったのか?」 しっかりと抱き上げ、橋を歩む。 「橋姫と」 ああ、得心したと水滸の笑みが深くなった。 「まこと愛(はし)姫であらせられるな」 小さく愛らしい形。しかしこの姫の強さ。そう、あの人の弱く、とても強いことを知らせてくれる。 手に入れたモノを胸に、もう戻らぬ橋を渡る。 |
了 2002年7月8日脱稿 2002年8月20日改稿 |
随分と遅くなりましたが「4949」のキリ番のリクエスト「橋姫」です。テーマが「橋姫」と頂いたとき思い出したのは波津彬子さんの「雨柳堂夢咄」でした。しかしぼんやりとだから、「雨柳堂夢咄」じゃなかったかも…しかし「橋姫」と言ったら宇治の橋姫神社。そうここは金輪とかに関係有る怖い方面なんですよね。夜ネット検索していたら丑の刻参りセットを通販で扱っているサイトに行き着き驚いたりもしました。事細かにその作法が書いてあってりして深夜読むとところじゃなかったです。うう。あとは「源氏物語」の宇治十帖での「橋姫」「橋姫の心を汲みて高瀬さす 棹のしずくに袖ぞ濡れぬる (姫君たちの心を汲んで同情の涙に袖をぬらします。)」が有名な所。その解説関係のサイトで「橋姫」は「愛姫」と読ませますというのを読んだ時なんて綺麗なんだ日本語っていいなぁ〜と思ったものです。素晴らしいよ日本語!しかしテーマ難しかったです。随分と遅くなってしまったからキリ番のSさんもうこのサイト見てないかもしれないなと思いつつ。遅くなって済みませんでした。 もし読んだなら少しでも気に入っていただけたらと思うばかりです。しかし、伸遼?これ…水滸・烈火というよりも烈火・水滸っぽいざんすね。 |