双眸だけが彼のままだった。 新しく再生し皮膚も新しくしたというのに、その肌は再生させたとたん次の腐敗が始まるせいか、瑞々しさとは程遠く、何処かくすんで青白かった。初めて会った頃の生命の躍動を感じさせる日に焼けた肌や、あの頃のあまりある力を感じさせた健康的な四肢の持ち主とは、目の前で仰臥する姿からは想像がつかず、そう思うには違和感が大きすぎた。 そんな酷く身体が蝕まれた状況の中にあってさえ、その双眸は光りを宿し、決して衰えぬ生命の輝き現していた。身体が蝕まれたらその精神も腐敗していきそうなのに、その炯炯とした輝きは彼の精神状態の健全さを、この状態でさえ狂うことの無い強靭さを現しているようだった。 君はいつでもどんなときでも決して逃げようとはしない。 それは今よりも更に酷く、全身に毒が回り、腐り果てようとしていた時でさえそうであったのだから、その肉体に宿る魂がいかに強く高潔で近寄りがたいものであるか証明しているように思えた。 そう、今は違う。あれほどの危機は去ったのだ。 急速に腐敗の一途を辿り、今にもその人生を終ろうとしていたあの時に比べたら遥かに心安いはずだ。そのために心を込め技の限りを尽くし、彼の命を食らおうとする悪しきモノたちを駆逐してきたのは自分だった。その呪術のさなか彼の瞳を見続け、悪しきモノに覆われてもなお輝きを失わぬその瞳に何時の間にか魅了されていた。 いや、その前から囚われていた。 ふいに自分の中で考えを修正する。そう、そうなる前から出会った時から、彼に自分は囚われていた。そうでなくてはここまで総てを捨てて、彼を選んではいない。 自分の献身が今、彼を生かしているのだと、そう思う事に心は歓喜に震え、この最悪としか思えない彼の状況でさえ喜んでいる自分に出会った。そんな感情は誰にも見せられない。見せてはいけないことくらいは自覚していたが、このふたりきりの空間では、自然に笑みが零れ、その喜びが唇を飾ってしまうこともしばしばだった。 その後ろめたさで、この部屋から出たとたん条件反射のように眉を歪ませ沈痛な顔を作る。不安と焦燥の飾る表(かお)に、狼狽する同胞(はらから)を見ては内心、北叟笑む自分の意地の悪さに知らず苦笑する事が多くなった。 病魔に冒されている彼の魂はその病に負けぬ力を持っているのに、健やかな身体を持っていたはずの自分の魂は、彼の病苦を見ているうちに病んでしまったにちがいない、そう思えてならなかった。それならそれで良い。居直ったとたん苦しかったものが簡単に消失した。それまでの懊悩など嘘のような軽やかさだ。 視線を感じた。 その愛しい双眸がいつの間にか自分を捕らえていた。折角彼の側にいたというのに考えに独りひたりこんでいたようだ。病苦で疲れた彼がその珠玉を開く事は希となっていたのに、その瞬間を逃すとは自分の不覚振りに腹が立った。が、そんな内心の感情は少しも出さずに問い掛ける。 「辛い所はない?」 ことさら、にこやかな面持ちで尋ねた。そうしなければならないほど、内面は腐り落ちそうな思考で一杯になっていたのだ。この感情をその双眸は簡単に見破ってしまいそうで、知られたらそのまま拒絶されるのではないかという最悪の状況を思うとつい、不要な程に笑みが浮かんでしまうのだった。 「ああ、今は気分がいい」 掠れた声は彼のものとは思えない。朗々と響く、染み入るように伸びのある素晴らしい声だった。けれど殆ど使わなくなったせいか、病魔に喉の奥まで焼かれたせいか、潤いのないカサカサとして枯れた印象をもたらす声に変わっていた。 それでも彼の発する言霊に装う為ではない笑みが自然零れた。それに応えるように彼の瞳も和んだ。顔には闘病の疲れが張りついても、その瞳だけはやはり健やかに光る。 ゆらりとやせ細った腕が動いた。それをあまり動かないうちに素早く握り返して瞳を覗き込む。 覗き込む瞬間は審判を受けるようなものだったが、それでも惹かれるのだから仕方がない。見詰めていたいのだ、この人を。 「何か飲む?」 答えるにも力がいるのだろう、先刻声を出して疲れたのか、こんどは声にはせずに否定の意をこめ彼は瞼を閉じた。 けれどその唇は乾いて水を欲しいているようにしか見えない。傍らに用意していた白布を水で浸し、その乾いた唇を水で湿らすと、閉じていた瞳がまた開き、ちょっと心地よさげに眉を緩める。やはり乾いていていたのだ。彼は過分に与えられる行為にしないでもいい遠慮をしている。いくらでも与えたいのに…その態度は歯がゆいばかりだった。 この部屋の清浄な空気でなら大丈夫。空間を確認するように見回すと、宙に手を差し伸べた。とたん差し伸べられたあたりの空気が萎縮し、その空間から水を作り出す。ぷわんと不定形でありながらゆらゆらと中途半端な球が出来上がった、それを導きながらそっと、乾いた唇に寄せる。 彼はそれを咎めだてするかのごとく、緩めていた眉を少し険しくしたが口元に運ばれた水を少しづつ嚥下した。わざわざ作ったものを元に戻せないのなら拒絶するのも悪いとでも思っているに違いない。 「気にしないで、たいした技じゃない」 気休めの互いに解っていながら嘘をつく。 今の彼には出来るだけ清浄なものを、異物の少ないものを、こうして清浄に清めた空間で作られたもの意外を口にすることを憚るのだから無理であっても作り出すしかなかった。技としては精神力も体力も使うがそんなことは気にかからない、この技を使った為にくるであろう後の反動など、たいした事とも思えなかった。 下界のものは彼には全て汚(けが)れだ。汚れが腐敗を齎す。折角ここまで回復したのだから、彼を苦しめるモノをこれ以上持ち込むわけにはいかないと、自分に言い聞かせた。 外部との接触は最小にしたい。 その自分の申し出があっさり通ったのもそれを、皆が納得したからだった。 だからこうして彼を一人占めできるのだけれど。 嬉しくて仕方が無い。この空間にいる為にも、自分は持てる限りの力でもって彼の為に尽くそう。誰も入る余地のないように。 「ありがとう」 かさかさと乾いた声が告げる。その言葉のなによりも甘露に笑みが零れる。 他の人間はこの声すらも聞けないのだから。技を使い切っても完治しない彼の身体を眺めた。このままでいい。いつまでもこうしていられるなら。満足そうにまた瞼を閉じた面を眺めた。僅かでも潤ったからだろうか、先刻よりは穏やかな寝息が漏れ始める。 眠っていることをしっかりと確かめて呟く。 「ずっと、こうしていようね遼」 言霊にして誓約としよう。 誰も聞かぬ誓いをこの静かな空間に染み込ませた。清浄な空気がその誓いに戦くように僅かに震えた。 苛立ちでじりじりしながら伸が降りてくるのを待ったが、一向に気配が無い。今日はもう降りてこないつもりなのかと半ば諦めかけ、天の階(きざはし)から踵を返そうとしたものの、躊躇しつづけていると、伸の降りてくる姿が見えた。 視線が交差する。 「今、落ち着いて眠ったから」 自分が聞きたかった事を先回りして伸は答えた。 「お前も休んだらどうなんだ。顔色が悪いぞ」 「僕の顔色は元からだよ」 確かに、元々、海の男とは思えない白い肌ではあったが、今はその昔の比ではない。病的な感じのする青白さだった。日もあたらぬ部屋に篭っているのだから当然といえは当然だった。その上、気を注いで治癒の技を施しているはずだ。 「お前に何かあったら困る」 「僕しか遼の治療が出来ないからかい?」 不用意に漏らされた真名に一瞬当麻が目を剥いた。真名はよほどのことがないかぎり音にすべきでない、そう責めるような当麻の視線を余裕をもって伸は見返す。 「此処なら大丈夫だろう。かえって偽称で呼べばせっかく安定した気が乱れる」 当然のように吐かれる言葉を憮然とした様子で聞いてる当麻の様が可笑しかった。本来なら舌の回る男だ。言葉でもってこちらのことを言いくるめようとしそうなものなのに弱みを握られたように、黙っている。 弱みか、そう弱みといえば最大の弱みだな。彼の英知を持ってさえ遼の宿痾を除くことは出来ず伸に頼ってきたのだ。それにしても彼の事になると限りなく神経質な当麻。本当に大切なんだね。彼の為と言えばあっさり引き下がる程に。 「どうしてもあと一つ除く事が出来ない」 「お前でも無理なのか?」 信頼しきった当麻の声に伸は笑むしかなかった。伸なら絶対に遼を救ってくれるであろうと思い切った言葉だった。 「ああ、今の所はね。努力はしている」 あの最後の宿痾を除く方法は解っていた。今敢えて癒そうとしてないだけだ。彼らの全面的な信頼をいともあっさりと自分は裏切っている。 「天の君。水の君」 不意に背後から涼やかな少女の声がふたりのどこかちぐはぐとした空気を揺らし壊した。 「迦遊羅」 細腕の彼女には重そうな籠を抱えていた。その籠の中にはいろとりどりの実りが収まっていた。 「汚(けが)れは払ってあります。あの方にと思い持ってまいりました」 「そうだね。そろそろ物も口に出来ると思うよ。ちょうど良かった。ありがとう迦遊羅」 伸の言葉にかの人の順調に回復していく様を感じたのかふたりしてホッとしたような表情を浮かべた。 「迦遊羅、君も彼の代理で忙しいのにわざわざご苦労だね。無理はしないでおくれ」 「いいえ、水の君。貴方のはらった努力に比べれば大したこともございません」 真っ直ぐに賞賛と共に向ける瞳は同族のせいか、今床に伏している人に良く似ていた。彼女で満足出来たら手に入れる事もたやすかったかもしれない。そんな無駄な事を考えてみた。 「もう、僕は水の君ではないよ。一族には別れを言い渡してきたからね」 「いや、まだ空位のままだ。水の族は未だにお前を王だと思っているぞ」 そう、当麻が口を挟む。だが、心は少しも揺れなかった。困ったものだね。そうぽつりと言葉が漏れただけだった。 「それで、使者が来ている。月讀の君と話しがしたいと」 それもあって、いつ降りてくるかわからない伸を階の元で待ち続けていた。 「僕は会わないよ。会って汚れに触れたらまた禊ぐのに時間がかかる。その間に遼に何かあったら困るからね。天の君。君の英知で言いくるめて帰してしまえ」 身も蓋もない言いように、僅かに眉を顰めたが当麻はそうかと返しただけだった。彼にしても今、伸に遼の元を離れて欲しくはなかったのだ。 そのやり取りをハラハラした面もちで迦遊羅が見ていた。 「今は遼のことを優先したいんだ。迦遊羅貸して、遼が喜ぶよ」 はいと小さな返事をした迦遊羅の手からいくつか果物を受け取った。 「これ、僕が食べてもいいかな?」 どれがいいだろうかと物色していた伸の手が止まりぱっくりと割れ深紅の身を覗かせている果実を取った。 「勿論ですわ。水の君。貴方様も食べていただかねば、御身もお気をつけあそばしてください」 それに応えて口元だけに笑みを覗かせた。 「じゃあ、伸、適当に言って帰ってもらうぞ。だがそのうち表に出てもらわねばならないかもしれない」 「いかないよ。言っただろう」 穏やかな表情で迦遊羅から果物を受け取りながら、当麻の顔も見ずに言った言葉は鋭かった。それを再びハラハラと迦遊羅が伺う。 「大陸の連中が来ているんだ。天の鳥船のことで文句を言ってきているらしい」 視線をきちんと始めて当麻に向けた。 「あれはもう処分した。今、僕たちは力を拒否した。だからこそ遼が苦しんでいるんだぞ」 「言ったが聞かない。遼の姿がないのを不審がっている節もある。それに―――」 「秀や征士が討伐に出ることに恐怖を感じてるってわけかい?」 「そんなところか…」 当麻が肩をすくめて幾分ふざけて応えた。それに大仰に溜息で伸が応戦した。 「そのうち、もう少し落ち着いたら出てもいいが、今はまだ駄目だ。それまで知恵者天の君の舌先三寸でなんとかしろ」 「解った」 その会話はすべらかに流れていながらの音のひとつひとつに棘があり、軋んでいた。 「両君、そのように険しくなられなくとも」 二人のやり取りを見つめる不安げな少女の眼差しに、舌戦が止まり、互いに瞳で牽制しあって大仰に肩をすくめて終わりにした。 彼女の真剣な眼差しは、不安で苛立ち、とげとげとしがちな互いの頭を冷やすのに充分なものだった。遼によく似た双眸は、互いのささやかな傷つけ合いを何よりも今病床で苦しんでいる遼が悲しむ事を雄弁に語っていた。 「迦遊羅、ごめんね」 ふいに伸の口からその言葉がついてでた。 ぎょと、目の前の当麻が驚きで目を剥くのがはっきりと解った。言った自分自身が驚いているのだから当然かもしれない。 「いいえ、そんな水の君」 「もう少しで癒えるはずなのに、思うとおりにかないものだから苛立っていたようだ。心配なのは僕だけじゃないのにね」 いいえと小さく答えて少女が首を振る。その様子を当麻が何も言わず見ていた。その当麻の表情が何もかも結末を知っているかのように苦しげに見えて、不可思議な気持ちになった。自分はどんな表情(かお)をしているのやら。裏切り者(じぶん)の表情(かお)はどんな表情(かお)だろう。何に向かって謝ったのか自分自身でも計りかねた。 そう、もう謝罪の言葉をいくら尽くしても、自分の犯した間違いは許されないのは解っていた。 「遼をたのむ。外のことはなんとかする」 幾分、不安げな気配を階の間に残しながら二人は去っていった。 遼の事か…。僕に頼むなんてね。本当にいいの?見えなくなった当麻の背中に問いかける。 もっとも君に頼まれなくとも総て自分のモノにしたいのだ。 なにげに手元に残った果実を弄ぶ、ぱっくりと割れた朱の果肉がかの人の膿破れ腐れ落ちかけた時の割れた肉のようだった。 カシュと歯を立てて迦遊羅の置いていった果実を食べた。良く熟れて肉がはじけように見えた石榴の実の薄い果肉を楽しんだ。 爽やかに甘みとともに少しきいた酸味が口内に広がる。 「困ったな…」 誰もいないせいか不意に伸の口をついて出た。乱れない清浄な空気を揺るがす。 「果実よりも君の血膿の方が美味しいなんて…」 あとは苦笑じみた音が伸の唇から漏れて清浄なはずな空気を震わせる。けれど伸の鼻孔が感じるのは甘くも思える遼の体が放つ腐臭だった。 |
「ヤマタイ・壱『石榴』」終 平成12年5月15日脱稿・改稿 |
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やぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と、250ヒットしてくれたRINさんのリクエスト小説をUPしかし一部(汗)あと2本くらい続くかな〜ぁぁでございますごめんなさい。しかも、伸遼(?)の怪しげな作りで、ははは〜と笑ってごまかせでございますことよ。
ちなみにRINさんのリク小説テーマ【無理心中】(でしたよね)、さて如何なりますか?って先見えてるか(あははは〜)敵(阿久津)はあくまで笑ってごまかせらしい…vvv