大西の叫びとさくらが通気孔の蓋に足を取られたは完全に同時だった。
 つまりは、手後れだった。

 「きゃぁぁぁ!!」
 「ちょ、ちょちょ・・・」
 どっしーん!!!

 大西が足を引っかけたのと全く同じところで、つまづいたさくらはそのまま大西にもたれかかるように倒れ込んだ。
 そう、立て膝をして座り込んでいた大西に覆い被さる様な格好で、どちらかというと、抱き着くような感じだった。
 ツイてない、いやツイてるのか、それともやっぱりツイているのか、いやはてさて・・・
 24にもなってまともに女性と手もつないだ事の無い自分が、たった一日で女性の脚に顔を埋めたり抱き着かれたりしたのだから。
 しかも、今度は相手が憧れの君、真宮寺さくらだ。

 倒れ込む勢いが、さくらのからだの柔らかい感触をスーツ越しの大西にも伝える。特に、鎖骨の当たりに伝わる感触はなんとも形容し難いほどに柔らかい。
 舞台稽古の汗を洗い流してきたばかりなのだろう、ほのかな石鹸の香りがする。
 優しさと可愛らしさを感じさせる、さくららしい石鹸を使っているようだ。
 大西の精神は別世界へと、今旅立った。

 「あう、あう、あう・・・」
 酸欠の金魚のごとく、口をパクパクと開閉する大西。
 既に頭の中は真っ白で、思考力は皆無である。

 「ご、ごご、ごめんなさいっっ!!」
 慌てて身を離すさくら。
 さくらが身を離しても大西の放心状態は解ける気配すらなかった。
 「お、大西・・・さん?」
 大西の表情が恍惚、眼が虚ろな事に気が付いたさくらが、心配そうな顔で見ながら言う。
 ある種の恐怖と不安も入り交じってたのかもしれない。

 ・・・・・・。
 反応皆無。

 「ちょ・・・だ、大丈夫ですか!?!?」
 自分がぶつかったショックで、大西が脳震盪でも起こしたのではないかと不安に駆られたさくらが、大西の肩を軽く揺する。
 そして、さくらの耳に微かに聞こえた大西の呟き。
 「柔らかかったなぁ・・・いい匂いがしたなぁ・・・でへへへへ・・・」
 そこにあるのはもはや締まりの無い面をした、ただのスケベオヤヂ。
 神崎重工の新鋭の面影はカケラも見当たらない。

 かぁ。
 大西の顔を見たさくらの表情が熟れ過ぎたトマトのように、真っ赤に染まる。そして火照る。

 「大西さん!!」
 無意味に叫びたい衝動に駆られたさくらが、鼓膜が破れんばかりの大音量で叫ぶ。
 さすがに今度は大西に届いたのか、はっと面を持ち上げる。
 「え、あ、う、っと、えーと、その、あの・・・」
 救いようのない醜態をさらした事を悟った大西は、完全に言葉に窮した。
 「えーと・・・・・・」
 言葉が無いのはさくらもまた同様だった。

 「そうだ!真宮寺さん、怪我はなかった!?」
 「え、あ、は、はい、大西さんが受け止めてくれましたから・・・」
 と言って、再び表情を真っ赤に染めるさくら。
 「そ、そうか、それは良かった。帝劇の女優さんに怪我でもさせたら一大事だから」

 さくらの様態を気遣う、と言う行動が大西に若干冷静さを取り戻させてくれたお陰で、どうにか言葉が出るようになった。
 「大西さんこそ大丈夫ですか?」
 「ええ、私の方も特には」
 ホントは少し膝が痛む大西だが、この程度でさくらに心配を掛けたくない。
 ・・・・・・。
 そしてまた会話が途切れた。

 「あ、そうだ、明かりのスイッチをいれなくっちゃ」
 出し抜けに沈黙を破る大西。
 こんな単純明快な事を忘れていたとは、我ながら気が動転しているのだと思う。
 2、3歩歩くと壁に設置された配電盤の前で足を止め、無数に並んでいるスイッチ類に手を触れた。

 パチン、パチン・・・。
 単音一つするごと、対応づけられた明かりが灯っていく。
 格納庫全体が明るくなると、さくらが見慣れた姿が出現する。
 光武が七体鎮座している格納庫・・・特に出撃命令が出ている訳でもないのに、自然と気が引き締まる気さえする。
 火照っていた顔も、自然と冷める。
 そしてまた大西も、光武を目の前にすると冷静さを取り戻す。

 「それじゃ始めましょうか、真宮寺さん」
 「ええ」



 チェックと言っても元が口実でしかないのだから、単純だ。
 実際に光武に搭乗してもらって、脚部固定のジョイントをはめてもらうだけだ。
 実際時の条件と同じにするため、予めさくらには戦闘服一式を着用してもらってある。
 それは完全に形式だけで終わる―――はずだった。
 そう、さくらの一言がなければ。

 「あれ、右のジョイントがちょっときついような・・・」
 「えっ!?」

 素っ頓狂な大声を上げる大西。
 当然だ。
 ついさっき、簡易とは言え総合点検を行ったばかりなのだ。
 だが、良く良く考えて見れば不具合が見付かっても不思議というほどでもなかった。
 所詮は搭乗者抜きで行った点検だ。搭乗者同伴で改めてチェックを行うという角度を変えたチェックを行えば不具合が出てくる可能性も皆無とは言えない。

 「ちょっと調べてみますんで、ジョイントのフックをはずして、左足を右脚部に寄せてみてください」
 大西が真剣そのものの表情で言う。
 「はい」

 大西の言われるがままに、ジョイントを固定するためのフックをはずすさくら。
 大西の方は簡単な工具一式を手にすると、そのまま光武に乗り込む。
 ちょうどさくらと間近に会い向かうような形だ。
 これが光武の点検中ででもなければ、大西は完全に硬直して指一つまともに動かせない状態であったろう。
 だが、今は自分にとって大事な仕事中だ。さくらたちにしてみれば舞台で上演の真っ最中のような物だ。
 彼女らが一度舞台に立てば他の事はまるで気にしないように、大西の表情も眉一つ動く事はない。
 却って、大西の素顔を見たさくらの方がドキリとしたくらいだ。
 それは大神が時折見せる、本気になった表情に通じるものがあった。
 光武に乗り込んだ大西は、自身の体勢を安定させるために空いている左側のジョイントに片足を通して、ジョイント固定のフックを下す。

 フックを下した大西の手に、微かな違和感が感じられた。
 「ん?」
 一瞬気を取られたが、今はフックの状態よりもジョイントを見る方が先だ。
 早速肝心のジョイントの回りを点検する。
 一通りジョイントの回りを点検するが、これと言って具合の悪いところは見当たらない。とすれば、考えられる事は一つだ。

 「どうやら、これは真宮寺さんの脚の方に何らかの変化があったみたいですね」
 ジョイントを調べ終わった大西が、体を起こしながら言う。
 「後で詳しく身体測定をしてもらってデータを作り直した上で、調整をしてみましょう」

 同時に、後で花組の面々の定期的な身体測定を提案しようと大西は思った。
 考えて見れば、花組の隊員達はまだ二十歳に満たない女の子なのだ。
 時が経てば多少体型に変化があっても何ら不思議ではない。
 さて、チェックも終わったし、ジョイントを外すか。
 そう思った大西が、フックに手を掛けた。
 その時。

 ポロ。
 フックの取り外しのためについていた取っ手が、問答無用に取れてしまった。
 元々このフックはジョイントをきっちり固定するために、ジョイントとの摩擦係数がかなりきつめになっている。そのために取っ手を付けてあるのだが、取っ手を付けた際の溶接に落ち度があったらしい。
 「げ」
 なまじ頭が働いているだけに、大西には自体がすぐに飲み込めた。
 光武に閉じ込められた・・・・・・


 はっ、そうだ、工具でこじ開ければ・・・
 さっそうとアイデアを閃いた大西が、慌てて工具を利き手に持ち直そうとして急に身体を捻る。
 だが、そんな時こそ不運と言うものは襲ってくる物だ。
 ズキ。
 先ほど転んだ際にすった膝が、身体の動きに反応して少し痛んだ。
 そして、その拍子に、持っていた工具を落としてしまう。

 カラーン。
 床の鉄板に乾いた音が空しく響く。


 「・・・・・・・・・」
 万事休すとはこの事か。
 絶句した大西が、暫し間を置いて口を開く。

 「真宮寺さん、落ち着いて聞いて下さい・・・・・・」
 といい放った大西だが、実のところ落ち着いてないのは自分だったりする。
 「は、はい?」
 自体が飲み込めてないさくらは、あっけらかんとした返事を返す。


 「私たち、光武に閉じ込められてしまったみたいです・・・」

 「え、ええ!?!?」
 さくらの絶叫が地下格納庫にこだました・・・・・・



 駄目だ。
 どうやってもロックされたフックをはずすことは出来そうに無い。
 もともとそう簡単に外れないように摩擦係数をかなり高めにしてあるのだ。
 手をかける面積が少ない状態のフックを外そうと、しばらく奮闘した大西とさくらだが、満足に力を掛けられない状態のフックを外す事など、どだい無理と言うものだ。
 そして。
 状況が確認できたところで、大西はさほど気にならなかったさくらの存在を強烈に感じ始めた。
 心臓が一回鼓動するたびに、そのペースを速めていく。

 気が付けば、二人の顔と顔の距離、僅かに30cm弱。
 小さな黒子一つ、そばかす一つでさえも鮮明に見えるくらいの距離だ。
 さわっ。

 不意に大西は首筋に微かなくすぐったさを感じた。
 お互いの距離が余りに近いため、さくらの吐息が微かに自分の首筋をなでるかのように駆け抜けていっているためであった。そして、吐息によって運ばれた微かな石鹸の臭いが、大西の鼻孔をくすぐる。
 はっきり言って、もう気が気でない。
 帝都大の入学試験を受けた時よりも、神崎重工の入社試験を受けた時よりも、その総帥神崎忠義と初めて会い見えた時よりも、大西の心は緊張の鎖に縛られていた。
 感じる緊張感は吐き気にすら近い。
 だが、それはさくらとて同じだ。
 大西の吐息が自分の髪を撫でるたび、ドキッとした緊張感を感じる。
 二人きりで閉じ込められたと言う極限状態が、さくらにも緊張感を強い、煽るのだ。
 これほど緊張感を感じたのは、ここ最近では思い当たるところが無い。
 心臓は早鐘と化し、頭の中は霞がかかったようにボォーっとする。
 体勢が体勢なだけに、顔を背けることすらままならない。
 おまけに作業用の無影灯がお互いの表情をくっきりと照らしてくれている。
 必然的にお互いに口を閉ざす。
 そしてそのまま二人にとって、長い長い沈黙の時が過ぎる。積載する気まずさ。
 それが頂点に達した、その時。

 「す、すす、すみませんでした!!」
 突如頭を下げる大西。
 「え?」
 いきなり大西謝られても、当然さくらは全く要領を得ない。
 「こんなことになってしまったのは・・・全ては私が悪いんです」

 大西の表情が翳る。
 「そ、それってどういう・・・」
 「本当は・・・真宮寺さん同伴のチェックなんて予定してなかったんです・・・」
 「え!?」
 「あお、その・・・真宮寺さんとお話するチャンスが欲しくって・・・その口実につい、でまかせを・・・」
 この時点でやっとさくらにも状況が理解できた。
 紅蘭と大西が示し合わせていた事が。
 だが、不思議にも怒りはまったく湧いてこなかった。

 「くすくす。いいですよ、気にしなくても。こうして光武に故障箇所があったのは事実なんですから、チェックの必要はやっぱりあったんですよ、経過はどうであれ」
 「いえ、故障箇所があったのは結果であって、真宮寺さんを騙した事に変わりは・・・」
 根が生真面目な大西には、やはりさくらを騙したと言う事実は消える事はなかった。

 「それに、実際にチェックをしてた時の大西さんの眼は真剣そのものだった様に見えました。あれもウソだったんですか?」
 「いいえ!!!そんな事はないです!!」
 思わず声を張り上げる大西。
 広大な空間なだけに、響きも良い。
 「だったら、御自分を余り責めないで下さい」
 「ゆ、許してもらえるんですか?」

 おずおずと尋ねる大西。
 「許す許さない以前に、気にしてません。それどころか、大西さんたちにはいつも感謝してるんですよ、あたしや花組の人たちは」
 「え?」
 今度は大西の方が要領を得ない。
 「だって、あたしたちが万全の状態の光武に乗れるのは大西さんのような技術者の人たちが、懸命に整備をしてくれればこそですもの」

 その一言で、光武を開発した時の苦労の全てが報われたような気さえする大西だった。
 基本的に大西のような技術者は表に出ない存在・・・舞台で言えば裏方だ。
 故に、彼らの名前がさくらたちの耳に届く事はそうない。
 紅蘭とて、技術者としての面は花組の人間といえども知らない部分も多い。
 そんな自分のような存在は、さくらたちにとって存在が薄い物であろうとある種の諦観すら大西は抱いている面がある。そして、それを甘受していた。
 だが、さくらの一言でその後ろ向きな思いは一遍に払拭されてしまった。

 「有り難うございます、真宮寺さん・・・・」
 大きな感激が、却って大西の言葉を弱くさせる。
 「あと早々、『真宮寺さん』じゃなくって、『さくら』でいいですよ。その方が距離を感じなくって良いですから」
 こういう気さくなところが、さくらの人気の高さの秘密なのだろう。
 「え、えーと、そ、それじゃあ、有り難うございます、さくらさん・・・」

 語尾はそれこそ、『蚊の鳴くよう』な声と言う表現がぴたりと当てはまるほど弱々しい。
 それがさくらには先ほどまで真剣に整備に打ち込んでいた大西の姿とのギャップの激しさを感じさせて、彼女に笑みをもたらした。
 「くすくす。はい、大西さん」
 春の日だまりのようなさくらの笑顔を向けられた大西は、真っ赤に赤面してうつむくしか出来なかった。
 ジョイントのチェックをしていた時の凛々しさは何処へ行ってしまったのやらと言う風体の大西が、却ってさくらに親近感を感じさせていた。
 そしてそれが、きっかけだった。

 それから二人には1時間ほど話し込んだ。
 硬さが抜け切ったわけではないが、お互いの間に距離はなかった。
 ずっと昔から知り合いだったような。和やかな雰囲気が二人の間を包む。
 話題はさくらは主に舞台の事、大西は帝都大時代から神崎重工に就職するまでの経緯等。
 その和やかさは初対面に近い者同士としては、類希の物だった。
 さくらにとっては、ちょうど大神と始めて出会った時のような気軽さを感じていた。

 「そして、今日ここにトゥリィ先輩の代理として派遣されてきたんです」
 「でも、まさかこんなことになるなんて思いもよらなかったでしょう?」
 いたずらっぽい笑みを湛えるさくら。
 「ええ、まさかこんな醜態をさらすとは思ってませんでした・・・とほほ」
 「でも、かすみさんとずいぶん仲が良かったみたいでしたねえ・・・倒れ込んだ時も、少しだけ嬉しかったりしたんじゃありませんか?」

 こういう時のさくらは実に意地悪である。
 大西が知る由も無いが、花組隊長の大神でさえ冷や汗をかかずにはいられないほどだ。
 「え、あ、そ、そんな事はないです、え、ええ」
 しどろもどろの大西。
 これではイエスと答えているような物だ。

 「本当ですかぁ?」
 「ほ、ほほ、本当です、本当ですとも。さくらさんが倒れ込んできた時も俺、ラッキーなんて思ったりもしま・・・あっ」
 緊張が解れて、気が緩んだのか思わず本音がこぼれる大西。
 自分の呼称が『俺』になっている辺りがその現れだ。
 言ってから、自分の言葉に気が付いて茹ダコのように顔を真っ赤に染める。墓穴を掘ったとしか言いようがない。
 「お、大西さんったら・・・」
 さすがにさくらも自分の醜態を思い出したのか、表情が桜色に染まる。
 何気に漂う気まずさが、沈黙を誘う。

 「あ、でも本当に済みませんでした・・・私の嘘に付き合わせてしまったばっかりにこんなことになってしまって・・・」
 「くす、まだ気にしてるんですか?もういいですよ、気にしなくって。それにこうしてお話してると結構楽しいですし・・・」
 そこまで言うと、さくらは急に口をつぐんだ。
 言ってから、自分が結構大胆なセリフを言った事に気が付いたのだ。

 「へ、へへ、ヘンですよね、あたし。初対面の人にこんな状況でお話してて楽しいって思うなんて・・・」
 慌てて手をぱたぱたと振るさくら。
 「え、あ、ああ、そそ、そんな事無いです、はい、決してないですよ。お、おお、俺もさくらさんと話してて凄く楽しいって言うか、あの、だから・・・」
 お互い、しどろもどろに言葉にならない言葉を紡ぎ合う。
 「あのその、だから、お、俺、あのそのさくらさんに・・・」
 その次の言葉を大西が口にしようとした、その瞬間!!!

 「ありゃー、なにやっとんのや、お二人はん」

 雰囲気を切り裂きかのように、底抜けたのんきな関西弁。
 声のした方をはっと振りむく二人。

 「こ、紅蘭(さん)!?」

 大西とさくらの声が完全にシンクロした。
 「でも、何やらエエ雰囲気みたいやったなぁ、おふたりはん」
 紅蘭が意地の悪い笑みを浮かべながら言う。
 一部事実なだけに何も言えず、赤面する大西とさくら。

 「でも、どうしたんや、その格好は?」
 不思議そうに尋ねる紅蘭。
 そりゃ、いくらなんでも光武に会い向かって乗っている光景は奇妙としか思えない。
 「えーと、あの、これは・・・」
 手身近に今までの経緯を説明する大西。
 ただし、さくらに抱き着かれた事だけは伏せておいた。
 「・・・で、こうなってしまったんです・・・」

 ・・・・・・。
 刹那の沈黙。

 「だぁーはははははははは!!!!!!!」
 怒声に近い音量で爆笑する紅蘭。
 当たり前だ。
 こんな状況誰が聞いても笑い話にしかならない。

 「さ、ささ、災難・・・ひー、おかしくって笑い死にしそうや!」
 腹を抱えて目には涙を浮かべながら笑いまくる紅蘭。
 そのまま笑い死してしまうのではないかというほどの勢いで笑っている。
 「もぅ、そんなに笑わなくったっていいいじゃない、紅蘭。それに、元はといえばあなたが大西さんをそそのかしたんでしょう」
 「え、あ、そ、それはえーと、あの・・・」
 さくらの反撃に、言葉に詰まる紅蘭。
 「そ、そそ、そうや、いまフックを外す修理道具を持ってくるやさかい、待っててや」
 そそくさと足早に工具棚の方へ足を向ける紅蘭。
 どう見ても、逃げているようにしか見えない。

 「もう、紅蘭ったら」
 当事者達にして見れば、どぎまぎの連続だったのだ。笑い話では到底済むはずも無い。
 その後、ばつが悪そうに修理道具を持ってきた紅蘭によってやっと二人は光武から解放された。



 「どうも、本当にご迷惑をお掛けしました」
 劇場のロビーで頭を下げる大西。その相手は無論さくらだ。
 「いいですってば、大西さん。そう改められると、こっちが照れちゃいます」
 屈託のないさくらの笑顔に、思わず大西も微笑む。
 「トゥリィはんに、すみれはんがお大事にと言う取ったって伝えといてや。喜ぶで、あの御仁」
 「ははは、了解しました」
 「お、大西さん、チョットだけ良いですか?」
 「え、あ、はい」
 さくらに呼ばれた大西が、さくらに歩み寄る。

 「今日の事は、二人っきりの秘密にしておきましょう」

 傍の紅蘭にさえ、聞こえないくらいの小声でさくらが言う。
 さすがに照れ臭いのか、頬が微かに上気する。
 「あ、は、は、はい」
 たった一言のなのに、大西の顔は既に熟れたトマト状態だ。
 「あの・・・・・・さくらさん、お、俺・・・」

 次の一言に、精一杯の勇気を込める。
 今なら言えそうな気がした。格納庫で言えなかった言葉を。

 「あなたに出会えて、ほんとに良かった。ありがとう」

 そう言った大西の表情は、充実感に満ち溢れ清々しさを感じさせた。
 「あたしも・・・大西さんに出会えて嬉しいです・・・これからも宜しくお願いしますね」
 極上の微笑みと共に右手を差し出すさくら。
 「ええ、こちらこそ」

 握ったさくらの手は、暖かく、そして柔らかかった。


=終=




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SAMMYさん特別寄稿「あなたに出会えて…」(下巻)

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