マイク・マローニー 著
Taki 訳
博物館の館長のブルース・スミス氏との会談で、私は新砲塔チハの修復に最善を尽くすことを約束した。博物館としては人の協力は出来ないが、それ以外は出来る限り協力するし、設備は自由に使ってもよいとの事だった。私の仕事は週末、博物館の観客の前で行うことになった。さらに、博物館では私のために週末泊れる場所を用意してくれた。おかげて、私は自宅との往復の時間とガソリンを節約することが出来た。これは博物館側の私への好意だった。
家への帰り道、私の頭の中は新砲塔チハの事で一杯だった。家に帰ると早速、日本の三菱重工業に新砲塔チハの資料と内部の写真についての問い合わせの手紙を書き、それから自分の蔵書で新砲塔チハの事を調べはじめた。その時には、私の前にどんな災難や驚きが待ち伏せているかも知らないままだった。
埃を篩う
その週の金曜日、仕事を終えると私は資料と布と工具を車に積み込んで、フレデリクスバーグに向かった。一日目−私は土曜の朝早くに起きると、新砲塔チハを子細に観察した。外からの観察では、車体右側の上部転輪のうちの二本が折れており、右側の履帯が外れていて、いろんな口径の砲弾の弾痕が車体中にあり、左のマフラーは完全になくなっていて、表面は完全に錆付いていた。また、砲塔後部のハッチと砲塔右側面の視察ハッチが完全になくなっていた。私はこの戦車の素性を博物館の記録の中に探したが、それはとても困難なことが分かっただけだった。
新砲塔チハの所に戻ると、まず最初の私の仕事は錆付いている砲塔の二つのハッチを開けることだった。六時間後、私は両方のハッチを開く事に成功すると、内部を観察するために車内に潜り込んだ。内部は錆付いて朽ち果てており、操縦席のレバーやクラッチも完全に錆付いていた。さらに、床には埃が約三インチ(7.5cm)も積もっていた。車内で作業を始める前に、まずこの埃を取り除かなければならなかった。木枠と金網で篩を作って、55ガロンの空のドラム缶の上に置いた。埃は小型シャベルやブラシやその他の小道具で取り出して、篩の中に放り込んだ。埃を篩って当時の遺物を取り出すためだが、この努力は報われた。埃の中からは、アルミのエンジン・データ・プレート、三つに折れた日本語の書かれた木製の柄の歯ブラシ、それに日本軍の戦闘帽の切れ端が見つかった。見つかった物すべてを記録して、標識を付けると、博物館の遺物室に保管した。
謎の戦車
輸送と受け取りの書類を調べた結果、私はこの新砲塔チハの流転を逆に辿ることが出来た。ニミッツ博物館へはサン・クレメンティ島から、サン・クレメンティ島へはメリーランドのアバディーン実験場から、アバディーン実験場へはオージェン空軍基地から送られていた。オージェン空軍基地が捕獲戦利品の最初の調査地点で、アバディーンでさらに詳しい調査が行われ、サン・クレメンティ島は空軍と海兵隊の標的場だった。(この戦車の外側には様々な口径の弾痕があるが、一発の57mm対戦車砲弾は後ろから入って、雑納箱に跡を残し、オイルタンクを通り、エンジン室の後方内面で跳ね反って、エンジンの冷却ファンの下で止まっていた。)
オージェン以前に関しては、記録が何もないので調査は絶望的だった。この戦車がどこから来たかを知る手がかりとしては、砲塔に発煙筒発射機がある事と、操縦席右側のプレートに#99の擦れた文字がある事だけだった。結局、この新砲塔チハは依然として「テキサスの謎の戦車」のままだった。
最初の仕事
その週の日曜日には、一日中掛かって戦車から最も危険な物、アスベストのパネルを取り除いた。日本の戦時中の他の戦車に関しては知らないが、新砲塔チハはこれで絶縁してある。アスベストのパネルの厚さは平均半インチ(1cm強)で、大きさは平均、2フィート(24cm)×3フィート(36cm)だった。それぞれのパネルは、天井の羽目板を止めるのと同じような、アルミの細い枠で止められていた。よいアイデアだが、材料の選択を間違ってる!ガスマスクを付けて、パネルの大きさと形と位置を記録してから、それらのパネルを取り除いた。風雨と年月で、パネルの75%は触れると崩れ落ちてしまった。
砲塔のパネルを取り除くと、日本語の文字が完全に残っているのに気が付いた。その文字はメーカーの目印か、作業者の証明印のようだった。それらは砲架の右にあった。車内の下塗りの色はオレンジ色か赤のようで、文字は白だった。
体験から知ったこと
続く三ヶ月の週末の作業から、私は日本戦車の設計に関しての知識を得ることが出来た。戦車は風雨と年月で酷く痛んではいたが、内部には砲塔回転ハンドルや砲尾のようにまだ動くものもあった。三菱のエンジンはベルトドライブがまったく使われておらず、エンジン両側のリス篭式ものファンを含めてすべてがシャフトドライブで、私の意見としてはとても良い設計だと思った。
私の発見したこの戦車の大きな欠点は、砲塔バスケットがないことである。そのため、ドライブシャフトと戦闘室にカバーも無しに一部露出しているエンジン(注1)を避けながら、車長と砲手は砲塔が回転するのに合わせて歩き回らなければならない。さらに、二人には座るためのシートがないので立っていなければならない(注2)。また、操縦手と車体機銃手は専用のハッチがないので、席に着くには砲塔の中を通っていかなければならない。
砲塔は11時の方向で固まってしまっていた。砲塔は、11時の方向にある砲手用のクランク・ホイールと、3時の方向にある装填手も兼ねている車長用のとによって回転する。ホイールを一回廻すと砲塔は2インチ半(6.35cm)回転する。ギヤ装置の上には、移動中に砲塔を固定するための掛け金がある。砲を上下させるのは砲手用の肩当てによってであり、それ以外の装置は使用されていない。砲の引き金は南部ピストルのような真鍮性のシンプルなピストル式の引き金である。照準は単眼式の照準器によって行なう。
操縦手は車体右前方に座り、操縦は操縦レバーによって行なう。レバーの握りにはレバーの位置を固定するためのロックがある。駐車ブレーキは操縦手の左側にあり、アクセルとクラッチペダルは床にある。操縦手の視察窓は外開きで、ロックの着いた支柱により途中で止めることができる。約4インチ(10cm)×8インチ(20cm)×厚さ1インチ半(4cm)のゴムのパッドが操縦者の額のために視察孔に付いている。車体左側に座る車体機銃手には前方に視察スリットがあり、左手の車体下部には、外から見ると第1上部転輪の後ろにピストルポートがある。ピストルポートには涙滴型の揺れ金具のカバーが付いている。
車体前部にある二つのハッチは乗員用ではなく、変速機の保守用である。主変速機は操縦手と前方射手の間に置かれている。47mm砲弾30発を格納する主弾薬箱は車体左下にあり、箱には真ん中で二つ折れになる扉が付いていて空色に塗られている。もう一つの8発入りの弾薬箱は車体右側下部にあり、砲弾は下向きに格納される。エンジンの一部は戦闘室内にあり、幾つかの付属部品が露出しており、ドライブシャフトが繋がっている。ドライブシャフトは薄いアルミで被覆されていた。電線は車内通話器があったことを示していたが、無線機が搭載されていた跡も、それ用の電線も見当らなかった。すべての視察孔には着脱可能な厚さ1インチ(2.5cm)のガラスがはめ込まれていた。
仕事は終わった
続く三ヶ月の作業は主に、弾薬箱を取り外し、エンジンの手が付けられる部分を掃除し、真鍮性の重さ150ポンド(68kg)の冷却器を取り外し、砲塔が回転するようにし、戦闘室内のすべての可動部分を掃除して、金属の更なる腐食を押さえるために錆止めを塗った。これらの作業を週末、1日平均14時間行なった。私が作業をしている間中、観客はそれを見物しており、博物館はチハの修復の材料費に当てるための募金箱を設置したが、それには約5,000ドルが集まった。募金の中には日本からの観客の物もあり、その中で特に印象に残っているのは、日本から来た年配の紳士(多分、旧軍人だと思う)が、私が何をしているのかを知ると、目に涙を浮かべながら私の手を握ったことだった。
四ヶ月の作業の後、私は博物館の館長からパークの方針が変わったために、新砲塔チハの作業を中止しなければならないと告げられた。私はすべての報告や発見品や文書などを提出すると、工具を車に積み込んだ。私は砲口を頭上に突き出している戦車の前に立つと、将来の世代が、そして今あなたが見ることができる歴史の一片、第二次大戦に参加した誇り高い日本戦車隊の真新しいマークを付けて竹林から現れた戦車を自分が保存した事に大きな喜びを感じた。
禁無断転載
英語に自信がないと言う方は Taki taki@yellow.plala.or.jp 宛てにお送り下さい。翻訳の上、著者に取り次ぎ致します。