シリーズ 茅ヶ崎今昔物語


茅ヶ崎今昔物語No20昔の市役所

今の市役所の場所には、木造2階建の市立病院がありました。

この病院の別名は『野戦病院』と言われダルマストーブに扇風機完備で南風が吹くと院内に砂が入ると言う代物でありました。外の階段は底が抜けるので立ち入り禁止でした。

市役所は農協ビルの東側近辺であったと記憶しています。
これ又半端で無く、議会傍聴席は底が抜ける恐れがあり、使用禁止でありました。現在の様に、耐震強度についての論議は無くそれこそ大地震や火災が起これば、いの一番に倒壊か全焼する施設だったのであります。当時は然したる問題も無く、当然の様に執務していたのです。

この時代は、まだ新聞に『良雄へ父危篤・連絡されたし母より』なんて伝言があったり急用は電報だったりした時代であります。

お役人も白い開襟シャツに袖が汚れない様に腕まきをしていたのであります。ITも無ければやかましい事を言う人も少ない頃で、市民の為の仕事は今と変わらない情熱で取り組んでいたのですが、スピードが違いました。
公務員になりたい!と思う人も少ない時代で、まだ民間も、ノンビリしていました。

12月末の御用納めの日などは、ストーブの上のやかんに日本酒を浸けてスルメを炙って一杯やって市長のおさめの挨拶を聞いてほろ酔いで帰宅がスタンダードでありました。
そう、地方公務員は地味に仕事の代名詞だった訳で・・・・

月日は過ぎて、便利な時代となりました。お役人も忙しくご用納め夜に打ち合わせの電話が入ったり、休み中も諸連絡が来る様になりました。

また、公務員希望者も多くなり、狭き門となり、仕事の仕方もより高度となりました。
しかし、今も昔も市民の為に一生懸命働いている事には変わりはありせん。

スピートが速くなり、社会が複雑化したした結果だと思います。

現代社会はラデカルそのものですが、せめて心や精神は古き良き時代のゆとりを持ちたいと思うこの頃であります。


茅ヶ崎今昔物語NO.19・・ETサーフボード

サーフボードの国内生産は1960年代初頭に米沢プラステックやダックスゆテッドが先行して製造・販売を始めたとされています。時期を同じくして市内でも輸入サーフィン雑誌などを参考に、木材とFRP(繊維強化プラスティック)を使用したサーフボードが数名の方々によって造られ始めました。私は、小学校の担任の井坂先生の家で息子さん(ドジ井坂氏)が造っているところを見た記憶があります。

1966年?に茅ヶ崎市内にバーバリアンズと言う名のサーフィンクラブが発足しました。そのサーフィンクラブ長であった西野光男氏は、1967年、中海岸野球場付近にETサーフボードと言うブランド名のサーフボードの製造を本格的に開始しました。また、クラブハウスも開設しております。
今では常識となったサーフィン用の発泡ウレタン(クラークフォーム)を使用した技術をいち早く取り入れました。この技術は、湘南地区を発信源として国内に普及して行きました。

カルフォルニアの故アーニー田中氏が先生です。
当時、工場におられたカントリーラインの宇佐美さんにお話によると写真のETサーフボードは、1967年〜1972年頃に製造された物で、西野さんが星のマークに凝っている頃の作品で青と黄色の2本があったとの事です。
フォームの芯となるストリンガー()が無く、寒川のメーカーで作製されたフォームを貼り合わせてあります。また、樹脂やガラス繊維も総て国産品が使用されています。

1970年代中盤に第1次サーフィンブームが訪れますが、この時期市内には、全国から多くの若者がサーフボード製作技術を習得する為、市内に移住し、現在では、全国各地でビジネスを展開しておられます。現在、市内には約30店舗が存在しており、世界的にも、町の中にサーフショップが占める割合は1〜2位との事です。

現在、伊豆の今井浜でフライングスクールを経営されている西野さんにお電話した処、『懐かしいねー。娘は茅ヶ崎に住んでいるから市役所に見に行きます。ありがとう』コメントを頂きました。



茅ヶ崎今昔物語No.18・・昭和の正月遊び

昭和42年前後の茅ヶ崎は、宅地化の波が怒涛の様に訪れた景気の良い街でありました。宅地と農地や雑地が東海岸や中海岸でも普通に見る事が出来ました。

当時の小学生は、プレステーションが後世の世で子供の暇つぶしとなる事など想像する事も無く、ススキの生い茂る空き地で木枯らしに吹かれながら、日が落ちるまで鼻水を垂らしてひたすら人力で遊んだものです。
世の中が豊かになりつつある時代ではありましたが、正月の定番はめんこ・凧揚げ・大山ごま勝負でありました。


特に大山ごまは、卓越した技術と改造が必要な遊びの王様でした。大山ごまは、神奈川県独特の独楽で、大きな物で直径20cm・勝負用は10cm位であったと記憶しています。

大体、11月頃から駄菓子屋やおもちゃ屋の店頭にならび始めて、ハタキの付いた荒縄か麻縄とセットで買うのが正しい購買方法でした。『麻縄はしなやかで、独楽に張り付き、パワーをロスしない・・・しかし、値段が高い』

遊びはシンプルで、ひたすら長くはたきで叩いて廻すと言う、根性系の遊びでありました。

しかーし、相手の独楽に自分の独楽を投げつけて、独楽を割って心棒を頂戴するのが、新の王者の証と言う、恐ろしい側面もあった訳で・・・・・

当然でありますが、各人徹底した改造を心棒に行います。
ゴミ捨て場の自転車からベアリングを拾ったり、パチンコ屋に忍び込んで玉を拾ったり・・・・店員に追いかけられてもめげる事無く、勝利目指して潜入するあほうなガキでありましたが、当時はおおらかで店員さんも正月を楽しんで、大目に見てくれていた様に記憶しています。

そして、資材は整い、心棒の重心を低くする為にのこぎりで切ったり、彫刻刀でくり抜いてベアリングなどを装着するのであります。

お年玉を握り締め、ほくほく顔の駄菓子屋の親父に『僕、この独楽は一品だよ』などと、軽く煽てられて大枚はたいて新規購入して改造して・・・・
レースと同じで財力によって独楽のスペックが大きく変化する訳で・・買ったその日に独楽を割られた日には、ワンワン泣きながら家に帰ったものでした。

割った相手は、首狩族よろしく心棒に紐を通してコレクションにするでありました。
当然、チャンピオンは、町内で一目置かれる存在であり、2週間はヒーローで、遊びの隊長の権限は絶対でありました。
また、事故も多く、独楽を割る為に振り下ろした自分の独楽が跳ね返って顔面直撃・鼻血たらたらなんて日常茶飯事でありました。
正月も終わると不思議な事にパタッと独楽遊びは終了となり、

力学的関係も自然消滅し、年末までシーズンオフとなります。
今、思うと、他人のおもちゃを壊すと言う遊びなのですが、親も承知で一定のルールの中で、集団の中での競争や工夫する事を学ぶ一方、敗者に対する気遣いや、物を失った悲しみを冬空の下で教わった様に思い、とても懐かしい気分になります。

今では、まったく見る事が無くなりました・・・・大山ごまも店先から消えてしまいました・・・・・



今昔物語NO17湘南電車と小学生

昭和40年代の東海道線は、グリーンとオレンジの車輌でありました。
大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のユニフォームは、湘南電車と同じでグリーンにオレンジに(丸はマーク)でした。

平松投手やメガトン打線・近藤・ボイヤー・シピン・松原更に、外人中心の鉄壁内野陣と、個性的な選手が大勢おり、巨人軍とは、まったく違った雰囲気のチームだったと記憶しています。

V9時代の巨人に、セリーグ唯一打撃で真っ向勝負は大洋だけで、巨人キラーのカミソリシュート平松と城の内の投げ合う試合は、テレビの前で大人も子供も大興奮でした。

応援歌も確か「行くぞー大洋・行くぞー大洋」であったと思いますが、ちっとも行きませんでした。(1960年に三原監督時に優勝してますが)

話を戻して、当時の湘南電車は冷房車輌無し、全席喫煙席、当然窓も開きますし、ブラインドも木製です。

夏休みに江戸に遊びに行くときなど、バイナップルの輪切りアイスキャンディーか冷凍ミカンを買って、窓全開のタバコ全開でガタガタと出撃する訳で、小学生の乗り物酔い条件は完全にクリアーしております。
当然ながら、冷凍ミカン入りゲロッパと悲しい結末となるのでありました。

私がエヘン!と胸を張れる記憶と言えば、蒸気機関車に牽かれる湘南電車の乗った事です。
後にも先にも、この一回だけで、今でも(夢でも見てたのかい?)と思うのでありますが、親父殿に「トンネルに入ったら窓を閉めるのだよ」と言われた事が、今でも強く印象に残っております。

蒸気機関車は、当時の小学生の憧れでありました。

茅ヶ崎小学校の前が貨物列車の引き込み場となって為、年に1度くらいの頻度で貨物輸送用のD51やC62が停車する事が数年間続きました。
蒸気機関車の躍動感とメカニカルな力強さは、ジャイアント馬場やデストロイヤー以上の迫力と魅力でありました。
この時ばかりは、学校中の大ニュースで「WBC優勝」なみの騒ぎとなります。

授業何ぞそっちのけで校舎北側の窓から眺めるのですが、「見ているだけではつまらない!傍に行って触りたい」男子特有の欲望に我慢出来る程、おりこうさんでは無い我がクラス勇士達は、当然、コマンド部隊よろしく放課後に線路に侵入する訳で・・・・・

結果は言うまでも無く、(我、奇襲に失敗せり)で、通報により御用となり職員室にてガッチリと怒られ、翌日からニワトリの世話となるのでありました。

また、現在のツインウエーブの(開かずの大踏切)と言われ、有人による手動で管理されていました。

当然ですが、根性小学生は、閉鎖された踏切を毎日の日課として強行突破した訳で、最後はニワトリの世話で終わりとなります。

今ではテレビのニュースにでもなりそうなお話ですが、当時は子供の自己責任の範囲も大きく、やってしまった後の心配してくれての罰は、おおらかでホノボノとした優しさがあった様に思われるのは、単なるノスタルジーでしょうか。

藤沢の売店を見るたびに思い出す、東海道線のお話でありました。


茅ヶ崎今昔物語NO,16(根性の人々)

最近はウエットスーツも発達し、第3世代の小学生が冬の海で楽しそうにワイワイと波乗りをする時代となりました。
60年代・今回の主人公は、ロンゲにサイケのベトナム反戦運動の風体の兄貴達か、アイビールックの兄貴でありますが・・・

まだ、サーフィン用の国産ウエットスーツは無く、ダイビング用の5ミリ以上あるロングジョンにタッパを組み合わせたスーツを着用されていました。

現代のレトロロングジョンやビーバーテールじゃありません。潜水夫が着込むガチガチに硬く、大リーグ養成ギブスみたいな代物でした。

中には、トランクスにビーバーテールで30分もすると、顔や足に青い斑点が出来てブルブル震えて焚き火にあたっている兄貴もおられたり、子供ながらに「半端じゃね−」と思った訳であります。

冬の海には、カラスかカモメと漁師さんか、エロモードもしくはロマンチックモードのカップルか、物好きな小学生か釣のおっさんしか居ない時代であります。

冬の海に鰹節のバケモノに乗った兄貴達を見つけた当時の人々の驚きは「真冬に素足のミニスカートの成人女子」を0時過ぎの駅で見かける位のビビりであったと想像します。

中には、からかわれてビーバーテールをトランクスを履かずにそのまま股から股間の上のフックにかけろと教わった方もおりまして・・・海に浮かぶ、ちじみきった一物がたはみ出し震える姿は根性以外何者でもありません!


月日は流れ、パーのマークのボディグローブのサーフィン用ウエットが、茅ヶ崎に持ち込まれました。当時の先輩達は、バラバラにして色々と研究され、国産ウエットスーツ会社を茅ヶ崎に設立しました。ビクトリーウエットスーツです。ジャンケンのパーに勝つのはチョキ!チョキはビクトリーのVであります。初期のビクトリーのマークはチョキだったのです。世界一のウエットメーカーするとの意味もあったとの事です。(故)和泉さんの功績は誠に素晴らしい事で・・・心から感謝です。

茅ヶ崎今昔物語NO,15
茅ヶ崎今昔物語スペシャル・サーフィン編!!!!

モキチに集合
午後5時から、モキチにて、現在活動中のチームで、おそらく最古の伝統あるサーフチーム「バーバリアンズ」の45周年パーティーに来賓としてお招き頂きました。


カラパナの中央にパイオニア・・西野氏と榊原氏

白鳥キャプテンの開会挨拶・来賓挨拶・茅ヶ崎市長による乾杯の挨拶でスタート・・・爆発です!!


嬉しい事に第1次サーフブームの伝説的映画(メニークラッシックモーメント)の音楽を担当した「カラパナ」を招いてのイベントであります。1970年代のカボチャポイントでのサーフシーンやドジ井坂・榊原氏・アカサカヤ氏等の貴重な8mmの上映もありました。

大先輩と仲間の大集合です。先輩達もとても嬉しそうに、そして懐かしく素晴らしい茅ヶ崎ミラクルタイムを堪能されておられました。

カラパナのエンデングでは、中央に西野氏・榊原氏が椅子に座り、白鳥キャプテンによるサプライズプレゼントが手渡される、涙・涙の感動的なシーンが展開され、茅ヶ崎万歳・バーバリアンズ万歳的な感動が会場を包み込みました。クラブのスタッフの皆様の頑張りに感謝であります。


榊原氏を中央に大先輩の皆様

白鳥キャプテンの開会挨拶・西野氏のスピーチ・そして来賓挨拶・茅ヶ崎市長による乾杯の挨拶でスタート・・・爆発です!!

    西野夫妻・・茅ヶ崎のパイオニアです

復刻版でしょうか?ETの文字

1964年に結成されたチームでETサーフボード(茅ヶ崎で最初のサーフショップ・現ハンググライダープロ)の西野氏が発起人であります。その後、榊原氏がキャプテンを長らく努められ、茅ヶ崎のサーフシーンをリードし、現在にいたっております。1970年代前半の茅ヶ崎支部は、茅ヶ崎・平塚・大磯・二ノ宮・小田原・湯河原・相模原までの巨大支部でした。

茅ヶ崎支部はドジ井坂・青田・宇佐美・添田・三橋・磯崎・津田・鈴木・松野・抱井・中村プロ等と創生期のプロを世に送り出した強力な支部です。

ハワイからは藤沢プロが、日本の故郷に定めて頂き、活動の拠点として、美しいスタイルを若手に伝授して下さいました。

関西からも千葉プロを始め多くのプロが、茅ヶ崎に青春の一時期に住んでガッツを吹き込んでくれました。

また、遠藤(タカヒサ)・マント・宇井・金子・柴田・池田・表木・畑中・小谷・高田・鈴木(克)・鈴木(聡)・脇・佐藤・大沢・今田等ショートボードのプロ。

ショート・ロング両方の藤沢・抱井プロ。

そして遠藤(勇一)・藤沼・斉藤(英三)・関山・牧野・柳沢等ロングプロとBBも含めて様々なカテゴリーに、OB・現役プロ・新人プロを輩出しています。

アマチュアでも、榊原氏・佐藤(ランプ)・鈴木(守)氏・小菅(故人)・森(タカヤ)優勝・石井・細井優勝・今中・久米・赤座・金井(ヤスオミ)・関野(アニー)優勝氏等が優秀な成績をのこしています。金子元プロはNSA2連覇世界選手権には、森・大橋選手が派遣されています。

更に全本では、入賞こそ逃していますが、ベスト10までに入った選手は、私の知る限り20名を楽に超えます。

近年では、九州から松尾・高津佐・川畑プロが活躍し、若手の見本として、目標として茅ヶ崎を故郷しとして2世共々活躍してくれています。

そして、第3世代として大橋選手が今年度のジュニアチャンプとして、伝統を継承してくれました。

60年代から80年代前半にかけてては、音楽・ファッション・風俗や世相に多大な影響を与えてくれた兄貴達も大勢いらっしりました。

また、多くのカメラマンも輩出しております。サーフショップやウエットメーカーが集中して為、多くの外国人サーファーが訪れています。私の記憶の範囲では、バテンス・リドル・マイケル&デリク・ランディ・MR・ショーン・ハンス・バード・トニー・マービン・ランドルキム・ラビット・ガイ・キャロルなどなどが、チサンや西浜でサクッと波乗りしておりました。先輩達は、ガッチリとコネクションを持っておられました。

故人となられた方も多く、今日のパーティーにもしも参加されたなら、核爆発級の盛り上がりとなり、警官隊突入は必至でしょう。甘く切ない思い出は、心の中に永遠のモニュメントとして刻まれます・・・・

今日の茅ヶ崎は、先輩達の心意気を大事にし、次世代の育成と文化の継承に力を入れる支部として、ジャッジの充実や効率良い運営を日々研究しつつ努力しています。

これらは、先人達の英知と努力が多大に影響している事は言うまでもありません。

:私は、現在の波乗り環境と文化を開拓してくれた大先輩達に心から感謝しています。

今昔物語サーフィン編に登場する兄貴達のお祝いの宴でありました。


オールドサーファーにとっては涙もの!カラパナ

マントプロ・小谷プロ・コモスケ氏・

光栄にも、ご挨拶させて頂きました

服部市長もお祝いに見えられ乾杯の音頭を

CLBも若手になります

鈴木先輩と佐賀氏




三橋プロ・私・藤沢から林プロ

西野氏・宇佐美プロ(元asp極東アジアジャジ委員長)

細井支部長・ウオキリ氏・ドジさん

榊原氏・私・和好プロ・三橋プロ

関野氏・宇佐美プロ

市長・佐賀氏・井坂氏・中村プロ・私・カズ先輩・牧野MC

佐賀トトプロ・遠藤プロ


茅ヶ崎今昔物語No15 夏の遊び・市営プール

昭和42年頃、ホテルパシフックがオープンしたのですが、プール料金は子供で2000円か3000円であったと記憶しています。したがって、普通の小学生は学校のプール解放か市営プールがパラダイスとなる訳であります。

確か料金50円でありました。水の色は、エメラルドグリーンで底は見えませんでした。どちらかと言うと、バスクリーに近い色でバリバリの塩素の為、目を開けて泳ぐ事ヤツは、阪神の鉄人・金本並に尊敬されました。

海水浴場は、河川に洗剤等が垂れ流しの為、かなり汚く、茅ヶ崎海水浴場の不適かランクDの状態で、今日の様な快適には程鍍遠い状態で、海遊びの後は必ず、中海岸プールで塩素消毒をしたものです。

市営プールでは、休憩タイムがあり、全員が水から上がる時間がありました。飲食は売店のみだったと記憶しています。イカフライの駄菓子とチェリオで腹を満たし、バスクリーンに突入して、帰りは目が真っ赤でご帰還となるのでありました。

質実剛健市営プール・・・絶対にプールサイドの恋などありえない公営プールの鏡でした! そりぁー、プールの管轄は教育委員会ですからねー!納得。


茅ヶ崎今昔物語NO,14

1980年代のエンドレスサマー

1980年代・・・茅ヶ崎は、第一次サーフィンブームの爆発とホテル・パシフィックなどの影響で、メデアに注目されておりました。

雑誌ポパイでは、ドジさんやら津田プロがサーフィンについて特集をしたり、加山雄三やら尾崎キヨヒコやら平尾マサアキやら住んでいたり・・・太陽族からサーフィンやウエストコーストミュージックやらと、先端ひた走りでした。

ユーミンの歌ではゴッデス、アンルイスの歌では、スプレンドールが登場したりと「茅ヶ崎・何かカッイイ!」てな感じでありました。

サーフィンについても、兄貴達はカルフォルニア文化よりハワイがターゲットであった様で、まだまだ海外旅行が高額に時期に、毎年ハワイにサーフィン修行に行かれておったとの鮮明な記憶がございます。

学生運動やかぐや姫の「神田川」に象徴される、ストイックかつ純愛路線は微塵も無く、「最高!好いんじゃない」てな感じでした。
海洋性民族丸出しの気質と、大正時代から脈々と続く別荘文化と、本来の茅ヶ崎の気質が適当に融合されて、洒落にならない事はあまり気にしないふりをしつつ、スタンダードを大事する上品さがあった様に思います。

海の中では、イケイケのロングヘアーのお兄さんが自宅に帰ると「お母様、ただいま」なんて感じでギャップに痺れたりした記憶があります。

夏のパシフィクのプールなんて、当時・大学生の私が海の兄貴達の仕草に「カッチョエエ!」と憧れたものです。

パシフィクは、加山雄三のお父さんの上原健がオーナーでした。また、親族が「カフェブレッドアンドバター」を中海岸の自宅ガレージで営業していたり、アフターサーフィンでは、佐藤さんの「ランプ」に行ったりと、この楽しさは何時までも続くのではと思えた時代でありました・・・・

今でも、スポーティフカフェに行ったりすると、当時の兄貴達やオネー様が、人生の渋みを素敵に漂わせながら楽しい一時を過ごされている場に遭遇いたします。
「あら、太郎!元気にしてたの?」なんて、子供の時と同じに接してくれます。粋であります・・・そして、とても嬉しく思います・・・・

茅ヶ崎今昔物語No,13

昭和45年前後であります。桜が散って田畑の水が温む頃、国道1号線を越えると、あたり一面明るいパープルに染まっていました。

田植えを待つ田んぼに蓮華の花が咲いているでした。宅地化が進む東海岸や中海岸と打って変わった風景に小学生ながら痺れたものです。

春の訪れは、子供にとって水遊び解禁の時期です。

当時、冬場の海は人の気配は無く、数人の真っ黒いダイビング用ウエットのサーファーと漁業関係者と、幸せなカップルだけでありました。

当時の釣の主流は投げ釣りであります。初めはマジで釣を楽しんでいるのですが、ヤッパリ子供です・・・
飽きれば、砂遊びやらカニ取りでビショビショになり、夕暮れと同時に震えながら家路につくのでありました。

冬と違って自転車移動の活動範囲が日が伸びるにしたがって広がる訳です。

出張水遊びもありました。母親にお弁当とお小遣いをもらって、江ノ島までサイクリングと探検であります。

江ノ島内のお土産屋には、水を入れるとヌードが出てくる「美人盃」やひっくり返すと洋服が脱げる「ヌードペン」なんて言う商品が所狭しと並んでおりました。
ませた小学生が店先で、照れたりしながら全部の「美人盃」をチェックしてる姿は、微笑ましいと言うより「ハレンチ学園」の影響では?と眉をしかめられたのもです。

最終目的地は、江ノ島洞窟です。洞窟の手前は磯遊びに最適かつ危険です。ウミウシ・カニ・ふな虫・クラゲ・小魚取りに励むのですが、ヤッパリビショ濡れです。

行きはよいよい、帰りは怖いであります。江ノ島から茅ヶ崎までの4月のズブ濡れサイクリングは、寒いのと情け無い事しきりです・・・たいてい、翌日は風邪です。ベットで、「もう、あんな遊びは止めよう」と誓うのでありますが、翌年また同じであります。

茅ヶ崎今昔物語No12

ヤマダ電気は、カギサンと言う屋号のお醤油屋さんの工場でありました。大きな醤油を造るタルと、プーンと漂うお醤油の香りがしたものでした。また、今のロコスポーツの場所は、日本製麦の工場があり、北風の時には、麦茶の香りが東海岸ので漂ったものです。矢畑では、つい4〜5年前まで、亀甲熊(熊澤醤油)の工場がありました。

ヤマダ電気の場所は、カギサンからインテリア・イトー・そしてレストラン・ルアン・・・更にダイクマへと変遷して現在となります。昭和42年頃だったと思いますが、商業は平塚か藤沢と言われた時代に突如・デスカウント店舗が茅ヶ崎に出来た訳でありまして、ばあさんもジイサンも「デエクマに行くベー」(ダイクマに行こう!)と祭りの様な大騒ぎでありました・・・

そうそう!茅ヶ崎なまりがございます。

(い)を(え)に変え(た)を(て)すれば、立派なド・ローカル
です。更に「ですが」を「ですけんど」に君を「オメー」に変更すれば、100年在住者であります??

よく「オメー」と言われて怒る人がいますが、これも方言であります。悪気は全くありません!「オメー」が「テメー」になったら、怒りましょう!

「失礼ですけんど、オメーさん!今日はデエクマでデエコンを買いなすったね。おれっちも居たんだけんどよ」・・・
これは「失礼ですけど、君さー。今日、ダイクマでダイコンかってたでしょ?僕も居たんだよ」となります。


「明日はよー。てえへんだーな!朝からよ、湘南マラソンで道路はジュウテー(渋滞)でよ!テエシタ(たいした)もんだな」と茅ヶ崎弁で締めてみました・・
ウン・何のタメにも成らない内容ですって!・・・確かに


茅ヶ崎今昔物語NO11 プラモデルブーム

昭和42年頃、大東亜戦争が終って20年過ぎた日本は急速に発展し、もはや戦後は完全に終了したと言われた時代であります。
木製のキットからプラステックの精巧な模型が主流となり、模型屋さんは、小学生のアミューズメントパークでありました。
お年玉は、模型屋さんに吸収される結果となります。当時の主流はミリタリー全盛で、第2次大戦の各国の兵器であります。タミヤは、戦車を中心とした陸軍・ニチモ・ハセガワは海軍・航空機は機種によって各メーカーの傑作がありました。
タミヤのプラカラーや紙やすり・ニッパー等を一式揃えて模型造りに没頭する小学生・・・今ではオタクな不気味な存在でしようが、当時は健全な遊びだったのです。

夏休みの工作の宿題など、キリギリスの様に遊び回った結果、残り3日でプラモデルを作成し、堂々と提出すると言うアホな作戦を展開して、担任の先生に烈火のごとく叱られた記憶が、スイカの匂いと共に思い出されます。

当時、全校生徒の夏休み作品は、廊下に展示されました。

ポスターや自画像・昆虫標本や木工工作や押し花の紛れて、ポツンと展示されている、航空戦艦・伊勢の雄姿は、「こいつ、舐めてるな!」と実に可愛げの無い物でした。

しかし、学校を舐めている奴が各クラスに2〜3名いた事は、子供ながら「ホッ」としたものでした。
子供は残酷でありますから、模型チームは1ヶ月はクラスメートに馬鹿にされる訳でありまして、社会的制裁の恐ろしさを身をもって勉強するのでありました。

戦後の記憶が風化するにしたがって、車やガンダムに主力が移行し、ブラモデルブームも下火となり、専門店が街の中から消えて行きました・・・・男の子は、道具が好きなのですが・・・

茅ヶ崎の模型屋さんは、駅北側の下里模型一軒となってしまいました。



茅ヶ崎今昔物語NO10

対決!族VSサーファー・真夏の夜の決戦

昭和50年頃、太陽族から進化した「暴走族」は全国に広がり、ヤンキーブームが到来していまた。お話によると、専門誌もあったとの事!

GT38・400フォア・Z2やら、バイクと言うより爬虫類が爆走している様でありました。車もZ・スカイライン・ローレル・セドリック・シルビア・セリカ・マーク2・コスモ・・・金が無いとチェリーなんて言う兄さんもいらっしゃいました。また、バリッと決めた、カックイイ方もいらっしりました。

族の名前も、ルート20・ホワイトナックル・ヘルクイーン・皆殺しとか、スゲー名前であります。

夏の夜中ジトッとした134号は、甘い2ストローク排気臭と生ガスを吐き出すエクゾーストとゴットファーザーのテーマが入り混じり、短い夏と短い青春を全力で駆け抜ける、爆発的パワーに溢れかえってと記憶しています。

私は、すでに「波乗り小僧」でありましたので、興味を示さず、ひたすら「波・波・波」と、なーんも考えない小僧でありました。

そんな世相の中、突如、ヤンキーブーム絶頂期にサーフブームが到来しました。

カルフォルニア・ハワイの文化を模倣し、カラパナ・オーリエンズ・イーグルス・ストーンズを聞き、ワーゲン・サーブ・サニーバン・ボルボ・スターレット・ジェミニとロングヘアーの健康的でセクシーな女の子・・・・・方や、エーチャン・クールス・山口モモエ・三原順子と特攻服のタイトな女の子・・・思考が合うわけありません・・・

ある日、ヤンキーだった近所のお兄さんが、突然、パンチパーマをやめてマッシュルームカットで2m10cmのスワローの板にローレルに乗っていたりして・・・色が白いのと体力が無いので、修行の身となりますが・・・
てな訳で、お互い意識するのでありました。

54年の夏の夜、私、海沿いのガソリンスタンドでバイトをしていました。今のグランドホテルの前のコンビニの所です。

対面では、サーファーの兄貴達が、お洒落なパーティーの真っ最中・・・やって来ました、暴走チーム、
おー!何と間の悪い事でしょう。赤信号で目の前で停止!???何時もは、無視するのに・・・族のど真ん中にビール瓶が、戦国の破魔矢の様に飛んだ瞬間、デスマッチは始まりました。日頃パドルで鍛えた黒い軍団と仕事で鍛えた肉体と根性の戦い・・・車は燃えるは、バイクは飛ぶは・・・「すっ凄い・・でもあ゛ぶねー」、直ぐにレジのお金を隠して、観戦であります。この日は、一進一退のバトルの後、体力でサーフチームの勝利でありました。と言った具合で、当時、夏のルート134は熱い熱い熱気につつまれ、24時間ヒートアップしていました・・

みんな40代〜50代になって、どんな生活をしているのでしょうか!まだまだ老け込む年齢でも無いし、頑固なジジイになって社会の一線で活躍されている事を、同年代として願っています。



茅ヶ崎今昔物語No9

空き地と野球!

今では信じられない事ですが、昭和42年頃の東海岸北界隈には、芋畑や麦畑が点在していました。また、いわゆる雑地も、いたる所に存在していました。

時は、高度成長期の真っ只中、巨人(ジャイアンツ)は9連覇街道驀進中であります。柴田・土井・長島・王・末次・黒江・国松・森にエースは高橋か城の内のメンバーであります。横浜が、まだ大洋ホエールズの時代であります。相撲も大鵬・柏戸が横綱であります。

当然、小学生の遊びは、野球・缶けりと言ったシンプルな遊びが主流となります。「何処何処の空き地に集合」と言う感じで、近所の子供でチームを創ります。4年生位からは、少年野球に移行しつつ、平日は近所草野球であります。
空き地の横には、サツマイモ畑があって、ゴツイ自転車に鍬や釜を積んだ、麦藁帽子のおじいさんが農作業しています。ボールが畑に入ると最初は優しいのですが、最後には、鍬を持って追いかけられたものであります。追いかけられと子供は、よけい面白くなり、じいさんの怒る事をわざとして、更に怒らせます・・トンデモナイ・・・悪いクソガキであります・・・「ジイサン!御免なさい」・・今でも、時々思い出します!

出来立ての閑静な住宅街と空き地で草野球する子供と、鍬を振るって農作業をするじいさんのコラボは、究極のアンマッチでありまして、ビテオでもあれば、かなり笑える映像であると思います。

こうした、子供の楽園も忍び寄る開発ブームにより、徐々に造成され住宅に変わっていったのです。中海岸にも、松林に囲まれた空き地が点在していましたが、同様に、その姿を消して行きました。同時に街の中から、子供達の遊ぶ声も消えて行くのでした・・・・



茅ヶ崎今昔物語8

私が在学中の茅ヶ崎小学校は、現在の校舎の南西部に木造2階建ての校舎が存在していました。確か、3年〜4年生の2年間は旧校舎で過ごしたと思います。

昭和初期の映画に出てくる様な代物で、天井は剥がれ落ちていたり、消毒用のクレオソートがプンプン匂う廊下の照明は裸電球といった、幽霊屋敷を思わせる雰囲気がありました。

当然でありますが、日が暮れると恐ろしくて誰もいませんでした。講堂も木製であり、当時の事ですから、古くなった机や椅子が裏部屋に乱雑に放置されてあり、かくれんぼの格好の場所でありました。

毎年、年2回位、通学路に露天売りのオヤジが現れ、ボンドにきれいな砂を接着して絵を創るセットなどを、実演して法外な値段で子供相手に商売していました。

実演で作成する砂絵は「さすが、プロ!素敵」と言った内容で、私たちは「このセットがあれば巧い絵が出来る」と買ってしまいます。

しかーし、プロのおじさんみたいに砂絵が出来る訳でも無く、面白くも無く、「あー駄菓子でも買えばよかった」とガッカリするのでした。行商のおじさん達は、大体3日位で痕跡も無く消えて行きます。何だか寂しい気持ちになったものです・・・・砂絵以外に何を実演販売していたのか記憶がありません。おそらく、私、買ったんだと思います。ショックもデカかったのでは?


茅ヶ崎今昔物語7

昭和52年前後に、雑誌ポパイが火付け役となって「第1次サーフィンブーム」が始まりました。ジェリーロペスやリデルの髪型に口ヒゲ!ビートルにリンコンキャリアは、定番アイテムでありました。70年代とサイケなファッションの融合は、アウトロー的な魅力を強烈に放っておりました。(ムスクの香りも・・・)
今と違って、海までの交通手段は車でした。

当時、駐車禁止はあまりやかましく無く、チサン・辻堂・白樺の南北生活道路は、サーファーの車でイッパイでありました。厚かましい輩は、R134に直付け駐車でサーフを堪能していました。
ポロ車にトランクスだけで、サッと出かけてサッと自宅に戻る・・・波が良ければ、アフターは店でビールなんていったスタイルが、当然のごとく展開されていました。土日や連休は、路地と言う路地には、品川・横浜・練馬・多摩・足立・相模ナンバーと飽和状態でありました。また、キァリア泥棒が横行し、自己対策に苦労したものです。(セコイです)
陸サーファーなんて言葉が使われたのもこの時期です。キャリアにボルトで板を固定して、定番のファツションでR134を渋谷を走り回る・・目的は女の子であります。当時の皆様、どんな生活をされているのでしょうか?
とにかく、おおらかな時代でありました・・・



茅ヶ崎今昔物語6

最近、私の周辺では、つりブームが到来しているようです。
中学生の頃の茅ヶ崎海岸は、ばか貝(ハマグリと間違えていました)が、夏場から大量発生し、「ジョレン」と言う名の、鉄でできた自転車の籠みたいな道具にロープをつけて浅瀬に放り投げて貝を採るのと、醤油と網とマッチを持って浜に遊びに行きました。当人達は、ハマグリだと思っていますから、ガンガン捕獲してバリバリ食べていました。たまに、あたったりして!

また、駄菓子やに売っていた50円の仕掛けと、芹沢の山から取ってきた竹の節をケヅって竿を作り、馬入河に、はぜ釣りにも行きました。テンプラ油と鍋を持って、70年代どぶ川状態の河口で、たまに背骨の曲がったはぜが釣れたりしても、しっかり食べていました。「今思うと、ヒジョーに気持ち悪い」
また、投げ釣りも盛んで、今の倍以上にキス・イシモチなどが釣れたと記憶しています。

川釣りも小出川に雷魚が大量に発生したとか、ふな良いとか、小生意気な小学生軍団で、出かけたものでした。しかーし、子供は釣りに、すぐに飽きる訳でありまして、結局、川遊びとなってしまい、増水した川に転落して、どこかのおじさんに救助されて、ど説教をされて、ビショビショになって家に帰るのが殆どのパターンでありました。



茅ヶ崎今昔物語5

プロ野球イースタンの試合
昭和42年頃、巨人は川上監督の指揮の元、9連覇を樹立する黄金期でした。柴田・土井・・長島・王・高田・森・国松なんて言うメンバーでした。

高度成長期で、深刻な社会の歪がある事を国民も知りながら、輝かしい未来への期待から黙殺した時代でもありました。また、日本プロ野球の一番熱い時代だったかも知れません。
当時の子供は、あちらこちらの空き地で、野球三昧でした。だから40代は、ほぼ野球が出来ます!

茅ヶ崎でも、毎年、イースタンリーグ(2軍戦)が茅ヶ崎球場で開催されていました。巨人戦でありました。調整中の、城の内投手や高田選手を、野球少年達は、ビヒリながらも、心からの憧れで追ったものです。球場は満員御礼状態・・・グローブを持ってユニホームを着た少年がウロウロと言った状況でした。小学校は、試合2週間前から、野球の話ばかりと・・・野球パワー爆発でした。
残念ながら、新球場の記念イースタン戦を最後に硬式野球スペックに無い茅ヶ崎球場での試合は無くなりました・・・・・



茅ヶ崎今昔物語4

子供の頃、市立病院は、現在の市役所の場所にありました。木造で昔の学校みたいな建物で「野戦病院」があだ名でした。
市役所は、農協ビルと駐輪場のあたり・・・これも議場の床が抜けそうな耐震強度以前の寒い庁舎でありました。
図書館も阿部浅本店の前の丘にあり、ヤッパリガタのきた木造でした。
第一中学校は、東海岸小学校の敷地全部で平屋木造でした。春一番の時など、窓から砂が入る為、休校となりました。とにかく、お金の無い市でありまして・・・それでも、何かノンビリした気風が街にあったと記憶しています。

今の福祉会館の前の道も松林に囲まれ、どぶ川があり、不衛生極まりないどぶ川遊びをした物です。それでも、ちゃんと生きています。駄菓子屋で、夏の間中腐らないビニールに入ったジュースやヨーグルトやあんころを買ってきて日没まで遊び、ドブくさい匂いと泥だらけで家に帰れば、母親は、ゴキブリでも見つけた様なイヤーな顔して、庭で水洗いされた物です。夏は良いのですが、晩秋の頃は、本当に切ない時間でありました。



茅ヶ崎今昔物語3

昔のサーフショップ・・・日本の元祖ショップ ETサーフショツプ(西野氏)のお店だったかショツプだっかたかは、野球場の辺にありました。ゴッデスは今と変わりません。サザンビーチ入り口付近には、ビクトリーウエットスーツ(現在活躍する多くのウエットスーツメーカーはビクトリー系・ホットライン系・ダブ系で修行した人です)の直営店サマーガール・その後榊原さんのタブースがありました。アニーズはそのまま・ラバーズロックは辻堂にありました。

清月の前、自転車さんの場所はサンシャイン(カズちゃん先輩)そこから50mの所に初代バムがあり、サンシャインの場所へ移動・ドロンズはその場所から南へ50m位の場所。ズムズムと言う食堂があったり、ランプ(佐藤氏)、ショップマイが今のホソイの斜め前にドミンゴと並んでありました。

今のパラロアの辺には、コスミック(ドジ井坂)・その後にタートル・その後にセントラルビーチと変化しています。
ライズアンドシャインの場所には、ASO。たしか反対側には、ドンウエットスーツ(故和泉氏は近代ウエットの父です)がありました。産業道路中嶋には、ビクトリー工場が・・・
ラチエン通り、湘南信金の傍には、資本金300万円のクイックシルバーが・・他にウオーターマインドなんてお店もありました。雑誌ポパイでブーム到来、ロン毛で真っ黒、ムスクの香りにクールのタバコのカッコイイ兄貴達・・旧ビートルに綺麗なオネーさんのセット・・当時、中学生の私・・・痺れましたよ
昨日まで、族だった人が、今日見るとサーファーなんてのはあたり前で メデアと女の力は恐ろしい・・・・


茅ヶ崎今昔物語2

最近、結構気になる飲食店が目に付く様になりましたね!
昭和42年頃も、結構小ジャレタ店がいっぱいあり、ユーミンやアンルイスの歌に結構出ていました。

海水浴場134号北のコンビニは、シェルのスタンドで更に北側に、カバナと言うお店があり、平尾マサアキや尾崎キヨヒコなんかがよく食事をされていました。更に北に「伽羅」と言う高級レストランがあり、都内上場企業の社長・会長クラスが公用車でお見えでした。

パシフィクホテルも、2階に中華「一角」・屋上には湘南を一望出来るスカイレストランがあり、夏のデートに重宝していた様です。ラチエン通りの松林の中には、イタリア料理店があり、当時としては珍しく、松林の中のオープンサイドがあり、プール遊びの後、家族でのお食事は子供でもウキウキしたものです。
スプレンドールも太陽族・芸能人御用達。一中通りには「日比谷マツモト楼」・駅南口には「ジャルダン」なんて言うレストランもあったと記憶しています。

加山雄三や平尾マサアキやら、太陽族や石原裕次郎・・・・・
湘南から全国に文化を発信している頃で、当時、真っ暗な134号を鎌倉に向かうと、ケンタッキーの全国2番目の店舗や大海老のネオンが漆黒の闇にドカッと現れたものです・・・


茅ヶ崎今昔物語1 海の中は外人プロだらけ

1970年代後半から1980年代後半にかけてのサーフィン業界で、とても元気が良かったメーカーは茅ヶ崎に集中していまた。
辻堂海岸でスタビーズ世界戦が行われたり、丸井が部原で世界戦を行ったり・・・サンスタートニックシャンプーの宣伝は粕谷プロのライデングだったりと、結構盛り上がった時代でありました。

恐ろしい事に、1975年頃、茅ヶ崎カボチャで、バテンスとマークリデルが毎日波乗りしているのを、私は見ています。榊原(ダブーさん)がつれて来たのです。2年後には西浜にジャキーダンを・・・その近辺の年に、私はショーン・トムソン マイケル・ホーを、チサンのダンパーの中で発見しています。「ゲー恐ろしく巧い!」
1980年代からは、バード・マヒロナ ランドル・キム マービン&カラニ・フォスター ランデー・ラリック ハンス・ヒードマン マイケル&デレク・ホー MR ラビット等を焼き鳥屋・ダイクマ・パチンコ店で毎年見かけたものでした。ビクトリー・ASO・ゴッテス・バム・アニーズがライダーとして来日させていたので、茅ヶ崎には、トッププロが溢れていました。
また、榊原さんは、当時ハワイの先駆者で、若いハワイアンの面倒を見たりと太いコネクションがあったのです。
辻堂・鵠沼・鎌倉も同様で、先端を行ってました!
今日で言えば、台風のパークに、ケリー・スレーターやボンガが、突然サーフしているような状況で、毎年続く訳ですから、楽しい訳です・・・・・良い時代でした。