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７ 釣り師 突然警報が響いた。軽い衝撃が機体を揺らし、機体左側で引っ張っていたデコイの『カシン�検戮�放たれたことが体感される。 「着水音。モーターの推進音二。サブロックによる攻撃。デコイ１を発射。機関停止、マスカー放出。深度七〇〇まで潜航開始」 回避プログラムに従い、ドーターはカプールともう一基の『カシン�検戮竜ヾ悗鯆篁澆気察▲泪好�ーと呼ばれる音響減衰剤を放出すると、それに隠れて深度を取り始めた。 一方でドーターに開放された『カシン�検戮蓮�大音響を放ちながら、加速を始めてサブロックが繰り出す魚雷を振り切ろうとした。単純に速度を上げるだけではなく、水中音響弾を次々に放出し、音の障壁を作る。障壁に紛れた『カシン�検戮蓮�急角度で変針、海中を「キック」して水圧を変化させ、気泡と水流の固まりを作る。そこに内蔵されている小型のデコイを放ち、自身は機関を停止させて緩やかに潜航を始める。本物の潜水艦が行う回避パターンそのままである。 サブロックから放たれた二発の魚雷のうち一発は、『カシン�検戮�行った回避パターンに騙され、小型デコイを追いかけ始めた。もう一発は『カシン�検戮亮乃錣髻崙匹鵑澄廖�水中音響弾や小型デコイに騙されず、緩やかに沈降を続ける『カシン�検戮鯀世Α�『カシン�検戮蝋欧討撞ヾ悗鮑撞�動。急角度で潜航を始めるが、獲物を見つけて駆けだした魚雷はチーターのような加速を始め、ウォータージェットの水流を推進炎のようになびかせながら、見る間に一八〇ノット近い速度に達し、まもなく『カシン�検戮謀�達した。 「凄いもんだな……」カプールのソナーが描き出した戦場を見ていたマーシュは、うそ寒いものを感じた。 「しかし、グラブロってのはサブロックまで搭載していたのか？」 「ＶＬＳでサブロックを選択した模様です。本来は対潜攻撃機に対する対空用なのですが、弾頭は交換できます」 ＶＬＳ──垂直発射システムは、運用する弾頭をほとんど選ばない。さすがに重量制限は厳しく、あまり大型の魚雷は搭載できないが。グラブロは、中距離攻撃用の大型魚雷と、遠距離攻撃用のサブロックに搭載した魚雷とを使い分けているようだ。 「ドーター、敵の使用魚雷とか、分かるか？」 「敵の使用弾頭はＭｋ−３１『スティングレイ�供戮反簑�。三年前に連邦海軍が採用した最新鋭の対潜魚雷です」 「『カシン』でもかわしきれないんじゃないか？」 連邦軍の最新鋭対潜魚雷を使う海賊──。イヤな予感ほど的中するという古来よりの法則を呪いつつ、取り敢えずそのことは忘れて、現状についてドーターに説明を求めた。 「サンプリングの最上位で『スティングレイ』を想定しています。回避成功率は八三パーセント」 高性能に比例した価格のため、ろくに量産されていない『カシン�検戮鬚發辰討垢蕁△瓦泙�しきれない可能性があるというのだ。並の魚雷なら確実に止めた上に、半分ぐらいの確率で自分も生還する──使い捨てのおとりと割り切るには、あまりに高価すぎるかららしい。なんだか根本的なところで間違っているような気もするが──『カシン』でも完全とはいかないらしい。現に一基目は捕捉されている。 「つまり、最悪の可能性を引き当てたワケか」 「アイ・サー」 「それで、この先どうなるんだ？」 「先ほどの爆発の際に発生した海水の擾乱の影響は、『スティングレイ』相手だと、五十秒後に消滅します。敵はそのタイミングで第二派の攻撃を仕掛けてくると判断します」 エミュレーターとはいえ、最強クラスの戦術コンピュータとして開発されたイーディスの判断みたいなものである。未来の現実と考えた方がいいだろう。 「対応は？」 「デコイ２を予定よりも先行させるべきだと判断します。第二派が終わってから、距離を詰めるまでの時間が不足すると、第三派を受ける可能性がありますが」 「そいつはかわしてみせろと？」 「期待しています」 ……相変わらず単調な声だが、少しずつ人格部分も出来上がってきているらしい。母親とはまたちょっと違うか？ 「ま、さっさと距離を詰めてしまえばなんとかなるか。分かった。デコイ２をリリース。タイミングは任せる」 「アイ・サー」 「始まったみたいですね」 魚雷が炸裂した音は、アッガイのソナーでも捉えられていた。 アッガイの速度は二〇ノット。パッシブソナーにとってはかなり負担の大きい速度のはずだが、アッガイのソナーは特別製らしい。 「特別製なのはソナーじゃないぞ」スズキの質問に、イワタは笑って答えた。 「もともと静粛性を優先して設計された機体だから、航走音が低くなってるんだ。実際、今だって静かなもんだろ」 パッシブ、アクティブに関わらず、ソナーが捉える最も大きな音は、自身の航走雑音である。盛大に音をぶつけるアクティブはともかく、微少な音を聞き分けようとするパッシブの場合、航走雑音はかなりの邪魔となる。 両用型のＭＳは、冷却に海水を無制限に利用できるため、高出力のジェネレータを搭載しているものが多いが、アッガイはあえて低出力のジェネレータを採用し、火力・速度と引き替えに高度の静粛性を実現していた。探知能力に優れているのは、いわばその副産物である。 アッガイのソナーは、グラブロや『レーリュンド』の放つ以外の音も、すでに拾い上げていた。ＭＳが二機。距離はすでに六カイリを切っている。 ＭＳに搭載できるソナーの場合、探知距離はおおむね二〇カイリ程度だということを考えると、二機のＭＳが三十分近く探知できていないというのは驚異的である。アッガイでなければ考えられないことだろう。 「イーディスの計算通りってことだ。相手のソナーの性能と、海水の状態からシミュレートをかけたわけだ。もっとも、さすがに速度は絞りこまにゃならんが」 イワタはそう説明した。十分ほど前に三三ノットから二〇ノットに絞り込んだところだが、対潜戦闘ではこれでもかなりの高速なのだ。 「近づくにつれて速度はもっと絞り込むけどな。まあ、あと二十分少しだろう」 「バレませんか？」 「お互い目で見ているわけじゃないからな」不安を隠せないスズキに、イワタは笑いを含ませた声で説明した。 「重力や赤外線を探知できる機体がいないから、この戦いでは音波エネルギーが全てだ。アッガイから出たエネルギーが、連中のソナーにたどり着いたとき、ある一定のレベルを下回っている限り、連中には俺たちを『見る』ことが出来ない。すぐ隣にいてもな」 「胃の痛い話ですね」 「まあ、昼寝でもしてるんだな。潜水艦戦ってのは気長なもんさ」 七〇…七五…八〇……。カプールは跳ね飛ぶようにして水中を駆け上がった。 現在速度は八五ノット、まだ上がる。水圧の急激な変化に、機体が悲鳴を上げる。 「ドーター？」 「『スティングレイ』は追いつけません。上げ舵が大きすぎます。少し戻してください」 ここ数分の戦闘で急速に成長したドーターは、マーシュに必要な情報を手際よく伝えられるようになっていた。 二基目のデコイは意外にしぶとかった。第二派の二発を騙しきったのだ。さすがに第三派で仕留められたが。 その間にカプールはかなりの距離を詰めることに成功していた。つい先ほどからグラブロをソナーのレンジに捉えていた。距離は一八カイリ。もっとも、たった今の回避で深度を変え、変温層の上側に出たから、変温層の下にいるグラブロを探知することは出来ない。それは向こうも同じだが。 現在は戦闘が始まってから、なんだかんだと二十分近く経過しているから、じきにイワタの攻撃が始まるだろう。 しかし、いつまでもこんなことを続けてはいられない。そのあたりについて、ドーターの意見を聞いた。 「我々の任務は陽動です。現在の距離を保てば、変温層を上下するだけで、敵の探知を妨害できます」 「じゃあ、どうすると思う？」 「距離を詰めるか、離すかするでしょうね。離された場合は敵に積極性が無く、『レーリュンド』の直衛に戻るつもりと判断できますが、可能性は少ないと思います」 「つまり距離を詰めて勝負に出るか」 「サブロックの最小射程を割り込むので、魚雷戦になるでしょうね。あるいはこっちが撤退すると判断するのかもしれません。敵にしてみれば、三機中二機は沈めたわけですし」 「グラブロと中距離戦闘か……ぞっとしないなぁ」 「どうでしょうか。機載のデコイはまだ一発も使っていませんし、捕まる可能性はかなり低いと判断しますが」 「強気だな」 「いかがです、強気であることを、もう少し主張してみては」 カプールは八発の魚雷を搭載することが出来た。ただし、今回搭載している魚雷は二発だけ。あとは全てデコイ──『ロキ』になっている。身代わりになってくれた『カシン�検戮曚匹任呂覆い�、多少の攻撃ぐらいなら充分に役に立つはずだ。『ボナドヴェンチャー』にどうしてこうも多彩な装備が揃っていたのか、こうなるとイワタは確信犯だと考えるしかなさそうだった。 「魚雷攻撃か？ いまグラブロがどこにいるか、俺たちにも分からないだろ」 魚雷というものには、ある程度目標の距離や方向、速度といったデータを入力してやる必要がある。ひとたび放たれると魚雷自身が索敵を始めるが、やはり細かい解析は期待できない。このため、この時代になっても魚雷は有線誘導が珍しくなかった。 変温層の上に出たカプールは、グラブロからの探知を振り切ったわけだが、これは同時にカプールからも探知できなくなったことも意味している。二発しか持っていない魚雷を放っても、命中するかどうか、かなり疑わしかった。 「我々の任務は陽動です。牽制をかけることで任務の成功率と我々の生残性が上昇するのなら、遠慮は不必要だと判断しますが」 ドーターは言い切ったが、これは戦術ＡＩとしては未熟な彼女だから言いえた言葉かもしれない。 軍人は選択肢が減ることを嫌う。別に軍人に限らず、大抵の人間にとっても同じだろう。また、充分な能力を持たない人間は、決定的な行動を選択することを嫌う。その行動を選択することによって、この先どう展開するか判断できず、また不明瞭な状況の中で、最善と思われる選択を決定しかねるからである。 マーシュは一瞬、沈黙した。ついでドーターに訊ねる。 「魚雷一本と二本の場合の命中率は？」 「一六パーセントと三四パーセント」即答したドーターに、マーシュも間髪入れずに命じた。 「分かった。二本だ。コースやタイミングは任せる」 この先の展開を読み切れないのはマーシュもドーターと同じだった。二本しかない魚雷を使い切ってしまうことのリスクも承知していた。 あるいは承知したつもりだけだったのかもしれない。ある程度経験や能力を持った者なら、よりベターなタイミングが訪れる可能性について考え、躊躇したかもしれない。しかし、イワタのようなベテランなら、それを承知した上で、即断したマーシュの決断力を賞賛するだろう。拙速は遅巧に優る。戦場の鉄則だ。 経験に乏しいマーシュとドーターは、素人の直感に近い判断で、二本しかない魚雷を手放すことにした。これが正解かどうか分かるまで、さほどの時間も必要とはしないだろう。 「了解。『ロキ』を一基、おとりに使います。デコイ３と命名します」 マスカーに包まれ、三ノットの低速で海中を漂うカプールから、静かにデコイが射出された。わずかに加速を行い、一〇ノットで直進する。 カプールのコクピットには、ソナーが描き出した擬似映像が表示されている。天井は海面、床は変温層である。 ──突然、床が突き破られた。グラブロが変温層の上に出てきたのである。方位は〇五三。およそ二時の方向である。『ロキ』とはそれほど離れていない。 グラブロは魚雷を二発放つと、自身でも前進を始めた。 その時、ドーターは、二発のＭｋ−２６『トラウト』魚雷を放った。『スティングレイ』ほどの新鋭、高性能ではないが、ＭＳサイズの機体が搭載できる魚雷としては、破格のものである。 グラブロのパイロットは、自分が引っかけられたことを知った。そして、それを予想していたのだろう。自分の放った魚雷──有線誘導だった──を自爆させ、海中を混乱させた。おそらく、すぐさま変温層の下に潜り込んだはずだ。 ドーターもそれを予測していた。二本の『トラウト』は、グラブロの頭を押さえるように、同じく変温層の下へと潜り込んでゆく。ドーターはそれだけを命じると、『トラウト』と結ばれていたワイヤーを切断した。 「予想通りの展開ですが、命中率は四三パーセント。あまり期待できません」 「それは構わない。時間が稼げればいいんだ」 「それには成功していると推測します」 「ま、今のうちに距離をとっておこうか。うまく逃げ切らないと、陽動に成功しても意味がないからな」 「アイ・サー」 「よぉーし、シートベルト、ちゃんと確認しておけよ」 イワタはスズキに告げた。アッガイは敵両用ＭＳ──ザクマリナーだった──まで、わずか二百メートルの距離にまで肉薄していた。機関はほとんど停止しており、慣性によって推進を続けている。 もう一機のザクマリナーは、方位三四二──十一時の方向──に五百メートルほど間をあけている。 すでにイワタは仰向けだった機体を裏返していた。二人ともシートベルトに吊り下げられた姿勢のため、あまり居心地はよくない。しかし、軌道を変えず、わずかな水流の乱れも許されないとあってはやむを得ない。 アッガイはザクマリナーに忍び寄った。 イワタがコンソールに手を伸ばす。殺風景だったモニターに、色が復活した。 寒色に彩られた世界の前方に、暖色に染まった物体が仰向けに漂っている。不明瞭な輪郭はコンピュータが補正しているので、ＭＳ特有のいびつな人型であることが一目で分かる。 「サーマルイメージだ。こんなものを搭載してる両用型ＭＳは、こいつだけだろうな」 特殊任務用に開発されたアッガイには、陸上に潜入する際に必要と考えられていた機能が装備されていた。赤外線の分布を映像にするのもその一つである。 空中から水中の潜水艦を捜索するのには使えるが、水中同士の戦闘でこれを使ってもほとんど意味がない。ソナーの方が圧倒的にリーチが長いからだ。 アッガイだけがその例外だった。 アッガイはそのままザクマリナーの直上を通過し、すれ違う瞬間に左手を繰り出した。左腕の先端からは、普段は収納されている鈎爪が飛び出ている。 鈎爪は、ザクマリナーのコクピットを紙切れのように切り裂いた。パイロットは、なにが起きたのかも気付かないうちに死んだはずだ。 アッガイは、何事もなかったかのように海中を漂うザクマリナーをそのままに、もう一機のザクマリナーへと忍び寄っていった。 しばらくすると、同僚の異変に気付いたのだろう。そのザクマリナーはアクティブソナーを打った。アッガイのコクピットに、いやな音響が響き渡る。 もちろん、イワタがそれを予測していないはずがなかった。 「遅すぎるな」 アッガイは右腕を振り上げると、ザクマリナーに狙いを付ける。この時点で双方の距離は三百メートルを割っていた。 アッガイの右腕から、小さな魚雷が三発ほど飛び出した。口径は一〇五ミリ。一般的な魚雷の三分の一ほどである。 三発の魚雷は、ちょうど三秒後にザクマリナーの胴体に命中した。命中と同時に魚雷の先端から小さな炎が吹き出す。これらの魚雷には、ノイマン効果によって爆発のエネルギーを一点に集中し、装甲を焼き切るＨＥＡＴと呼ばれる弾頭を備えられていた。 そのうち一発は命中角度が浅く、海水中に炎を吹き出したため、ＭＳの装甲を焼き切るだけの熱量を与えられなかった。 しかし、残りの二発は適当な角度を保ったまま、機体に命中した。一発は左腕に、もう一発は胴体に。 左腕上腕部に命中した一発は、一瞬で腕の装甲を焼き切り、内部構造を焼き尽くした。もっとも、左腕にはなにも装備していないので、機体そのものの戦闘力は、さほど損なわれていない。 もう一発の魚雷は、ちょうどコクピットハッチに命中した。機体の中でもっとも堅牢な装甲に守られている箇所である。六層の構造を持つ装甲鈑の厚さは八五ミリ。魚雷が吐き出した炎は、そのほとんどを焼き切った。しかし、最後の層を構成するセラミック装甲が、かろうじて貫通を防いだ。燃焼室の直径が九〇ミリのこの魚雷の場合、理論上は直径と同じ厚さの装甲を焼き切ることが可能なのだが、現実というものは常に理論を下回る。加えて、ＨＥＡＴ弾は一枚板の装甲鈑なら有利だが、積層装甲相手ではあまり分が良くないという性質がある。 もっとも、ザクマリナーのパイロットにとっては、ＨＥＡＴ弾が装甲を焼き切ったときに生じるメタルジェットで、瞬時に焼き殺された方が良かったのかもしれない。魚雷がし残した仕事は、水深二五〇メートルの水圧が片づけた。コクピット正面のディスプレイ画面を吹き飛ばした水流は、全ての電装系をショートさせ、パイロットに恐怖と苦痛に満ちた断末魔を送ったのである。 アッガイのソナーに入った音は、期待していた爆発音ではなく、コクピット内部に突入する水の音だった。 イワタはすぐにザクマリナーのコクピットでなにが起こっているのか悟ったが、それについてはなにも言わず、「厄介なことになった」とだけスズキに告げた。 「どうしたんです？」 「手際よく片づけすぎた。これじゃグラブロのパイロットは、ここでなにがあったのか気付いていないはずだ」 「じゃあ、マーシュは……」 絶句したスズキには応えず、イワタは眉間にしわを寄せて考え込んだ。もちろん、その間にもアッガイは『レーリュンド』に向けて進んでいる。 ここのＭＳが喰われたことは、じきに敵の母艦が気付くだろう。しかし、グラブロと連絡する手段はないはず。 一方でマサフミの『ボナドヴェンチャー』も、こちらに向けて急行している頃だろう。なにが起きているかはイーディスが気付く。 まだ、こちらのイニシアティブは失われていないが、マーシュにのしかかる負担は、格段に重くなってきている。──畜生。つくづく実戦という奴は予定通りに行かないものだ。そんなことは一年戦争の頃に、嫌になるほど理解させられたはずなんだが。 「予定通りに作戦を進める」 イワタの声は、平静と変わらなかった。困惑した声で、スズキが訊ねる。 「じゃあ、マーシュは？」 「奴の才覚に期待するさ」 薄情に思えるほどに冷静な声だった。 何らかの問題が生じているらしかった。 そろそろイワタが交戦に入っていてもおかしくない頃合いなのに、グラブロが後退しようとしないのだ。 別段驚くべきことではない。少なくともマーシュはそう受け止めた。 まだ敵ＭＳとの交戦が始まっていないのかもしれない。グラブロのパイロットがとりわけ執念深い人間なのかもしれない。あるいはイワタが敵ＭＳを倒していても、その情報がグラブロに伝わっていないのかもしれない。 現に、カプールのソナーには、何の情報も入っていない。 もっとも、仮にＭＳの爆発音が生じたとしても、変温層の上下で加速と減速を繰り返している彼らが、音を拾い損ねる可能性は充分にあった。 とはいっても、普通ここまで鬼ごっこを続けていれば、マーシュのカプールが陽動だということに気付かないはずがないのだが。 いずれにせよ、こんなところで不毛なおいかけっこを続けていても、得られるものはもうないだろう。必要な時間は稼ぎ出したはずだ。 ドーターに訊ねると、彼女も同意見だった。ただし、今も『レーリュンド』に向かっている最中の『ボナドヴェンチャー』のことを考えると、グラブロを引き留めておくことのメリットがなくなったとは言えないという留保がついたが。 それにはマーシュも同意せざるを得なかったが、だからといって、いつまでも命を懸けた鬼ごっこを続けていられるとも思えなかった。やはり、独力でなんとかするべく、頭を使うべき頃合いだろう。 逃げられないわけではない。カプールの最高速度は──実はこの機体では一度も出したことがないので推測になるが──一六〇ノットを越えるらしい。グラブロの方は──これまた実際の数字はまた違ったものになるはずだが──一五〇ノットを越えない程度である。 要するにカプールの方が早い。しかし、グラブロのサブロックや、それから放たれる『スティングレイ』の方が、もう一つ早い。機関全開で突っ走っていると、全く耳が利かなくなるので、サブロック攻撃をかわすのはほとんど不可能になる。つまり、単純に速度にあかせて逃げようというのは、自殺を推奨しているのと同じことというわけである。 「どうすればいいと思う？」 マーシュはドーターに訊ねた。戦闘中は脳内で盛大に分泌されているアドレナリンその他の影響のため、うまい考えが浮かんでこない。 もともとイーディスは、そんなパイロットに最善の選択肢を提供するために開発されたシステムだといっても過言ではない。これはイーディスのエミュレーターであるドーターも同様だ。ゆえに、それが彼女たちのアイデンティティにもなっている。わずかな時間をおいた後、ドーターは答えた。 「一一カイリ付近の間合いを取り続けていればいいでしょう。これならサブロックの最小射程を割り込みます」 グラブロのサブロックには弱点がある。もともとＶＬＳで対空ミサイルやサブロックを打ち上げるスタイルなので、ほとんど直上の敵機を狙うのならともかく、遠距離の目標を叩くにはミサイルのベクトルを大きくねじ曲げる必要があった。 このため、ミサイルは三段構造になっていた。最初のロケットモーターで上空に持ち上げ──直上の敵機ならこれだけで攻撃することもできる──その後、姿勢を制御したところで二段目のブースターに点火。初期加速を終え、音速の五倍ほどの速度にまで加速したところで、三段目の弾頭部分が目標に到達する。 実は、高性能ではあってもこんな高価なシステムは歓迎されなかった。三段構造のミサイルを使えば、たしかに遙かな遠方の敵でも攻撃の対象と出来るだろう。しかし、グラブロが開発された一年戦争の頃は、ミノフスキー粒子が猖獗を極めていた時期でもある。レーダーによる対空攻撃は効かず、グラブロのソナーが有効な距離までを有効射程とすれば良かった。 グラブロのソナーは、直接には二五カイリ前後までの音を捉えることが出来る。となればここまでを射程とする様にすればいい。それなら二段で充分である。 問題は、海中の音とは必ずしも直接には伝わってこないということだった。 海中を伝わる音は、角度が浅いと変温層にはじかれるため、長距離の深い深度の音はつかめない。グラブロの場合、二五カイリというのは同じ変温層にいる場合の音を指す。違う変温層にいる場合、だいたい一〇カイリ程度になる。 しかし、深度二千から三千メートルの深海に向かった音は、水の密度その他の影響により、進むべき方向が海面方向にねじ曲げられる。海面まで届いた音は、そこで跳ね返って再び深海に向かう。つまり、海面付近から発せられた音は、いくつもの大きな弧を描くのである。これを収束帯と呼ぶ。海面から見ると、収束帯は三〇カイリごとに発生する。 グラブロにこれを適用すると、二五カイリまでの音、そして三〇カイリ、六〇カイリの音が聞こえるということになる。この間の、たとえば二五カイリから三〇カイリの距離にいる音源が発した音は聞こえない。また、理論上は九〇カイリ以遠の音も聞こえるはずだが、さすがに減衰が激しいためにグラブロのソナーのレベルでは捉えられない。 グラブロのＶＬＳを設計する際にもこれが問題になった。必ずしも交戦距離は二五カイリから始まるとは限らないのである。 結局、三段構えの高価なミサイルシステムが採用された。しかし、二段目の加速のために最小射程が大きくなってしまう。これがおおむね一二カイリ。一〇カイリぐらいなら攻撃に移れるらしいが、命中率は著しく低下する。このあたりの距離では、グラブロから直接魚雷で攻撃すべきと判断されていた。 一〇カイリという数字は、グラブロのソナーが違う変温層にいる敵をかろうじて捉えられる距離でもある。ドーターが勧めた一一カイリというのは、それをわずかに上回る距離である。余裕がないのはほめられないが、この際仕方がない。下手に距離をあけるとサブロックに狙われる。 「分かった」マーシュはこうした理由までは知らなかったが、素直に従った。質問を続ける。 「それで、グラブロはどうでると思う？」 「距離を一気に詰めてくるはずです。八カイリを割り込むと魚雷攻撃を仕掛けてくるはずですから、その点に留意してください」 「難しいぞ、そりゃ」 すでに述べたように、潜水艦に限らず、ソナーを使うものはあまり速度を出しすぎると、自身の発する雑音のために何も聞こえなくなる。このため、潜水艦は加速と減速を使い分け、移動と索敵を交互に行う。 また、カプールの機体が発生する推進力のため、機体後方の音は全く捉えられない。これをバッフルという。 マーシュが難しいといったのはそこだった。カプールはグラブロに追いかけられている。つまりグラブロはカプールのバッフルの方向から迫ってくる。さらに急いで逃げるためには高速を出さなければならない。水中での高速はソナー効率を低下させる。 とりあえずある程度の距離をとって、減速しながら旋回し、グラブロの位置を確認するということになるのだろうが、これとて下手をすれば、距離をとりすぎてサブロックの餌食になる可能性と背中合わせである。かといって距離が迫ると魚雷が襲いかかってくる。 「サブロック以外の攻撃なら、適当な間合いを保っている限りかわせます」 「分かった」マーシュとしては、ドーターの判断を受け入れる以上の選択肢はないようだった。 「回避ルートを教えてくれ。それと、最終的に、どうやって振り切るんだ？」 「二つの選択肢があります。『レーリュンド』に向かい、状況を混乱させるか、別の方向に向かい、グラブロがあきらめるのを待つか」 状況を混乱させるのは、軍人の場合、あまり好まれない。プロというものは、確実な判断を積み上げて成功へと導いていく。普通に考えれば後者を採用すべきだが、どうにも気に入らない点があった。それについて訊ねる。 「グラブロはあきらめると思うか？」 ドーターは正直に答えた。 「判断がつきかねます。常識的には『レーリュンド』の護衛に回るべきなのですが、我々の価値を相当に過大評価しているのか、現時点では未索敵状態の増援が存在するのか、あるいは敵のパイロットがまともな判断力を持たないのか」 マーシュは心の中で苦笑した。「まともな判断力を持たないパイロット」とは、要するに素人のことだ。軍人としては全くの素人のマーシュと、数時間前に「生まれた」ばかりのドーターが、相手を素人かもしれないなどと考えているのも妙な話だった。ドーターがイーディスから生まれたのでなければ、単なる冗談だろう。 「分かった。『レーリュンド』に向かう」 マーシュは自分の判断の素人臭さを自覚しながら命じた。自分たちの情報量に不安があったし、追われっぱなしというのが気に入らなくもあったのだ。 いいわけ 「とうとう、ここから『あとがき』とか『次回予告』とかの文字が消えたな」 今更言っても仕方のないことだが、やっぱ、九月の第一週までにケリを付けるべきだったな。 「他人事モードだな。でもまたどうして第一週だったんだ？」 ほら、『夏が来て、冬が来る』と言うだろ。 「……なんだ、それは」 一番無難な言い方をすれば、やることが多すぎたんだ。 「それじゃ、無難すぎて何も言ってないのと同じじゃないか？」 口にするとカドが立つんだ。いや、誰に迷惑がかかるというわけじゃないが── 「これ以上ダメグレードが上がっても、たいして問題にならないと思うんだが」 ……まあ、十月の第一週とはいえ、この時期に上げられたのは不幸中の幸いだな。これから忙しくなる一方だし。 「遊びに？」 …… 「……否定しろよ」 それだけじゃないぞ。 「否定になってないって。で、俺はいつまでグラブロに追い回されたらいいんだ？」 イワタはおまえを見捨てたからなぁ。ラストまでじゃないか？ 「丸腰のカプールでか？ なんか、俺の扱い、悪化の一途をたどってないか？」 気のせいだって。もとから悪いから。 「……さっさと家に帰らせてくれ」 急ぐつもりだよ。 「つもりは外せ」 |