張作霖謀殺事件の謎
張作霖謀殺事件とは何か
1928年満州軍閥の指導者張作霖が蒋介石との内戦を恐れて、占領していた北京から列車で帰還する途中、奉天で鉄道陸橋爆破にあい、交差する鉄道の陸橋の下を通過する列車が上部陸橋構造物の崩落で停止した混乱の結果殺されたものである。陸橋爆破は河本大作大佐(関東軍参謀)が特別チームを指揮して実行したとされている。しかしこの事件には謎が多い。


当時の国際情勢 米国は1929年の大恐慌の直前である。支那は1912年の清朝滅亡以後軍閥の内戦が続き国内は分裂していた。満州は清朝という正統宗主権力が消滅したので三大勢力がけん制しあっていた。すなわち帝政ロシアの東清鉄道権益を引き継ぐソ連、現地軍閥の張作霖、日露戦争の満鉄権益を守る日本であった。戦前の日本軍は20万程度で国際的には軍事力はCクラスと見られていた。また協定により駐兵していた関東軍はたった1.2万の少数の軍隊で長大な満鉄路線沿線を守っていた。これに対して張作霖軍閥は三十万の手勢を誇っていた。ソ連は極東に日本本国の数倍以上の大軍を待機させていた。当時のソ連は対支那政策として国民党軍閥の蒋介石を第一次国共合作工作で取り込もうとしたが警戒されて失敗し国共内戦が始まっていた。 蒋介石と張作霖は支那統一をめぐって内戦をしていた。
各勢力の方針 日本はソ連を最大の敵とみなし、共通の敵を持つ張作霖と提携してソ連に対抗していた。張作霖は1928年北京まで占領したが、蒋介石軍の北上で満州に撤退した。日本は張作霖が支那本土に入ると、蒋介石が張作霖を追って満州に攻め込む可能性があるので、張作霖を満州にとどめておきたかった。スターリンは敵同士を戦わせて弱体化し、最後に双方を滅ぼすという漁夫の利作戦を得意としていた。支那政策でも蒋介石には融和、張作霖には敵対と政策を使い分けていた。スターリンは満州では白系ロシア人亡命者社会にスパイを潜入させ反日、共産主義宣伝を拡大していた。
誰が何のために殺したのか 日本の関東軍の軍人が陸橋を爆破したので日本が張作霖を殺したことになっている。しかし日本は張作霖と協力して協力してソ連に対峙していたので張作霖を殺してもメリットは無い。このため米国の支那通の外交官マクマレーは目的がわからないと記している。田中義一首相は責任を取り退任した。この結果張作霖の息子の張学良が後をつぎ激しい反日迫害を始めた。
最近「マオ」でソ連KGBの暗殺作戦であったという情報が出てきた。これは合理性がある。すなわち張作霖は反ソであり1928年の北京占領時にソ連大使館を占領し、隠れていた中共の幹部を処刑し、ソ連の謀略文書を公開しているからだ。
   関東軍が企画したのか 河本大作は参謀である。部隊長と違い部下はいない。それが所属の違う朝鮮軍の工兵隊を指揮して鉄橋を爆破している。関東軍の司令官も朝鮮軍の司令官も計画を知らないし、関東軍の工兵隊も何もしていない。日本軍は知らないので河本には日本軍とは別の指揮系統があったと考えられる。
河本チームが暗殺したのか 河本らは鉄橋陸橋を爆破し下を走行中の列車を停止させたが、肝心の張作霖の暗殺はしていない。赤穂浪士でいえば吉良邸の門を壊しただけである。また本人を捕らえようともしない。
緊急停車だけでは死なない 張作霖の列車は列車事故による暗殺を恐れてダイヤを変えながら速度を落として走っていた。だから鉄橋が落下しても真下にいない限り乗客が即死するわけではない。それどころか張作霖と同じ車両に乗車していた関東軍の儀我少佐は無傷であった。張作霖は列車事故では間違いなく死んでいないのである。河本の部下の列車襲撃班の尾崎義春大尉の手記によると、張作霖を探す行動をしていない。橋の爆破でおしまいである。おかしい
張作霖の死亡状況 一般には張作霖は列車事故で重傷を負い事故現場から護衛兵が最寄の妾邸に運び込みそこで死んだということになっている。しかし検死があったわけではない。張学良も立ち会っていない。死因は不明である。
張作霖謀殺の状況 そこで混乱の中で途中で殺された可能性が濃いということになる。それがKGBが暗殺に成功したというならば、護衛兵の護送途中で殺害された可能性がある。すなわち護衛の一部にKGBの現地人刺客が入り込んでいたということである。
張学良は事件当夜何をしていたのか その夜は北京で京劇を見ていた。ちょうど日本人が張学良一行に気づいて記録に残している。かれはその後変装して一週間かけて奉天に戻っている。
張学良は何故奉天に戻ったのか 関東軍が張作霖を殺したのなら張学良は海外に逃亡するはずである。しかし変装してノコノコ奉天に戻り跡目を継いでいる。これは関東軍が自分にとり危険ではないという情報が入っていたことになる。
日本政府の困惑 日本政府は現役軍人の命令逸脱行為に大きな衝撃を受け国際的な反応を気にして河本大作の動機の調査をしなかった。河本大作の日本のために行ったという理屈に合わない主張を認め、河本を退役させただけでひたすら隠蔽したのである。ただ関東軍や朝鮮軍の調査は行われ誰も知らなかったことが分かっている。総理大臣の田中儀一は張作霖と提携してソ連に当たるという日本の満州政策の基本戦略が崩壊し落胆している。昭和天皇はお怒りになり田中は更迭された。
張学良の冒険の謎 張学良は満州軍閥の跡目を継ぐと軍閥幹部を処刑して指導権を確保した。そして翌年1929年にはソ連の支配する東清鉄道を武力接収した。しかしスターリンはこれに対して赤軍7万を満州に侵入させ張学良軍30万を撃破した。張学良軍は3万人の損害を出して敗北した。一部は日本公館に逃げ込んだ。この結果ハバロフスクで張学良は接収を取り下げソ連と講和した。この張学良の冒険の裏には満州軍閥の弱体化を狙う蒋介石のそそのかしがあったと蒋介石の外交官の顧維均が備忘録に記しているという。
その後の満州と日本 張学良が満州軍閥を継承すると反日宣伝は激化し、日本人は生活が危険になってきた。このため関東軍が立ち上がり満州事変が発生するのである。この裏にはスターリンの張学良を使った敵同士を戦わせる作戦が見える。

関係者の処罰

日本政府の河本大作らの追及や尋問は軽かった。彼らが愛国者を偽装したことと、後に石原莞爾大佐らの計画した関東軍による満州事変が発生したことで騙されたものと思われる。このため河本は退役した。しかし配下の尾崎は昇進して最後は中将にまで上り詰めている。
資料河本大作の手記 中共の太原収容所で書かれたという河本大作の手記が昭和二九年文芸春秋に掲載された。これによると日本政府が張作霖謀殺を計画したことになっている。しかしその後の調査によるとこの手記は同じ収容所に入れられていた義弟が代筆したという。当然強制されたものである。この裏には中共の対日陰謀が見られる。すなわち偽手記の内容には真実ではないところがあるということである。張作霖の殺害はソ連と対抗している日本にとって自殺行為であり、日本軍の関東軍や朝鮮軍が関与していないことは明らかである。偽造河本手記はソ連への記述、配慮が欠落していることが特徴的である

資料 尾崎義春の随筆
「陸軍を動かした人々」
八小書店(昭和35年)

これは河本チームで襲撃を担当していた関東軍警備参謀の尾崎義春当時少佐の戦後の手記である。尾崎は終戦時フィリピンの山下兵団の幹部を務めていた。彼の任務は陸橋爆破が失敗した時は、線路に列車が転覆するようにしてあるので、その列車を捜索して張作霖を捕らえて暗殺することであった。しかし陸橋が落下して走行中の列車が停止するとそれで終わりである。これだけの大事件を起こしながら肝心の張作霖の死を見届けなかった。したがって河本の使命は列車の停止工作だけであったとと見ることが出来る。謀殺は別のチーム(KGBか)の仕事だったのである。尾崎の手記は内容が矛盾しているところがあるが事件の現場参加者の記録として貴重である。
資料 マオのKGB説とは ユン・チアン著の「マオ」(講談社)には、東欧の機密資料によるソ連のKGBが張作霖の謀殺に成功したという記述がある。ソ連問題の専門家の滝澤一郎氏の調査によるとこれはKGBの二回目の謀殺作戦であり、一回目は満州国境で爆薬を没収されて失敗したという。ソ連には日本軍に偽装して張作霖を謀殺する動機は十分あった。戦略的には共同してソ連にあたる日本と張作霖を分裂抗争させ弱体化すること事である。もちろん北京を占領してソ連大使館を捜索した張作霖への報復もある。なお本工作の主要ソ連工作員はその後スターリンのおなじみの「口封じ」でモスクワに召還されて処刑された。
資料 河本大作の略歴 兵庫県生。日露戦争では歩兵少尉で乃木軍の指揮下。大正3年陸軍大学卒。翌年漢口勤務。大正12年参謀本部支那班長、15年関東軍参謀、昭和3年張作霖事件で停職。昭和5年一度現役に戻った後予備役。昭和7年満鉄理事、9年満州炭鉱理事長などを歴任終戦時は山西の園錫山軍閥の軍事顧問をしていた。中共の攻撃で園は台湾に脱出。河本は同行を断り捕虜となり太原収容所に監禁され昭和25年、死亡した。享年70歳。河本大作はスポーツマンであり、酒は一滴も飲まないが踊りが巧い芸人で宴席ではよく「赤い夕日の満州の原に誰が植えたか桜花」が大佐のおはことしてよく良く謡われたという。