知覧沖縄聖地巡礼

                                 東京近代史研究所 代表 落合道夫(61歳 当時)
:退職して時間が出来たので、六月かねてから考えていた知覧,沖縄の戦跡聖地巡礼の旅に出た。東京出身の遠縁のものが沖縄防衛戦で戦死しているが,私としては日本民族の悲劇の現場を生きている間にこの目で見ておきたかったからである。その一方で悲惨、気の毒というイメージがあり気が重かったことも確かだった。

しかし巡礼した結果は思っていたものとは違っていた。戦死者は気の毒ではなく偉いのである。今までの多少とも第三者的な見方から、当事者の側にはっきり立つことが出来た。自分の立場が明確になった。そのため私たちがやらなければならないこともはっきりした。巡礼をして本当に良かったと思っている。
その意味でも国民は必ず一生に一度は参拝すべきであると思う。古い西国巡礼よりも現代の聖地に巡礼をすべきだろう。また高等学校生徒の修学旅行に参拝するもの良い。沖縄では中高生が国土防衛のために戦ったのである。日本人にとり一生の宝となる経験である

第一章 知覧特別攻撃隊
      基地参拝
東京から鹿児島へ
東京羽田から梅雨雲の中を飛行機で一時間半,鹿児島空港に到着した。雨は降っていないが高曇りで櫻島は見えない。早速空港からリムジンバスで知覧町へ向かう。乗客は自分のほかは老夫婦と数人の旅行者である。新緑は過ぎたが若緑の美しい山間の高速道路をバスはひたすら走る。鹿児島市を通過し、一時間少しで谷あいに小さな町が現れた。それが知覧町である。
植えこみが美しい盆栽のような町である。このような谷間に飛行場があったのかいぶかしく思いながら下車した。すると町から4Kmほど上の台地が飛行場の跡地であった。そこでバスで一緒だった老夫婦とタクシーで上がって行くと、並木道の両脇に白い石灯籠が数多く並びはじめた。特別攻撃隊の慰霊施設域に入ったのである。前方に町の管理事務所、特攻隊慰霊観音堂、特攻記念館など建物が現れてきた。
この台地こそが往時特攻隊の出撃した知覧飛行場であったのだ。今は緑濃い農地に変わっている。タクシーを降りて左手の特攻記念館に向かった。道の両脇は植えこみとその間に幾つかの慰霊碑が並んでいる。

特攻記念館:
特攻記念館はコンクリートの小ぶりな建物である。心を引き締めて中に入った。正面ホールに大きな絵がかかっている。六人の天女が飛行機の燃え上がる操縦席から傷ついた飛行士を助け上げている絵である。

これを見ていよいよ遺品の展示室に入った。特攻で散華された搭乗員の写真と遺品、辞世、遺言が多数展示されている。写真を見るとお顔は皆立派である。まさに眉目秀麗という言葉がふさわしい。これは顔に高い精神が表れているからであろうか。次々に並ぶ遺言や辞世にはまさに日本という共同体のために一身を捨てようとする覚悟が記されている。「人、死に臨むやその言やよし」というが、これらの私心の無い文章を読むとその深さ、高さ、温かさに強い感動が湧きあがり、思わずこみ上げてくる涙を止めることはできなかった。これが日本人の誠ということなのであろう。

決死の出撃前に仔犬を可愛がる17、8歳の少年航空兵の明るい笑顔は、ギターを抱える現代高校生のようで同じ世代の息子を持つ私には何とも言えないものがあった。泣きながら見送る人たちに対して、トラックの上からさわやかな笑顔で決別の敬礼をする青年達の姿。私が感じたのは、ただただ偉いということである。年少にもかかわらず日本のために一身をなげうったのである。本当に偉い。ここに日本民族の究極の真実があることを確信した。

出撃を直前に控えた隊員のお顔は爽やかである。死を覚悟した方々にはもはや俗世の毀誉褒貶は無い。彼らこそまさに日本伝統の神々の姿なのである。非常時に神々は現世の日本人の体に宿ってそのお姿を現わされたのではないか。
他の参観者は押し殺したように沈黙している方、昂揚して同行者に小声で話しかける人など様々であるが,皆一様に深く感動している。「立派な方が亡くなったのね」、「とても書けない文章だ」など囁き合っているのが聞こえる。


非常の時代:
展示室には特攻攻撃に使われた当時の戦闘機が数機展示されていた。あるものは九州南部の海底から回収されたという。ジュラルミンの腐食が60年の長い年月を語っている。この小さな飛行機に250Kgの爆弾を装着して知覧基地から沖縄まで約700Kmを2時間位で飛んだのである。現物をみて改めて胸が痛んだ。
しかし覚悟を決めた飛行士は自分のような弱い心境ではなかったと思う。戦争の時代、それも民族危急存亡のときには人間の心理は普通とは違うからである。当時を振り返ってみると、昭和20年3月には東京大空襲で10万人が焼き殺され、3月から6月の沖縄防衛戦では20万人が戦死し、8月には広島,長崎の原爆で30万人が殺されて行く。8月には満州にソ連が侵入し24万の日本人が殺され、70万の日本人が奴隷としてシベリアに連行されてゆくのである。
敵は老人や婦女子も容赦無く焼き殺していたのである。特攻の時代は同胞320万人が殺された日本民族の未曾有の受難の時代であったのだ。

鎮魂
展示室を一巡して入り口に戻った。再び6人の天女に炎の機内から救い出される重傷を負った飛行士の絵を見る。本当にこうであって欲しい。工藤雪枝氏が「特攻のレクイエム」の中で遺族の方がこの絵を見て救われた感じがしたと書いているが、私も心からそう思った。心に刻まれる絵であり、描いた伸矢勝好画伯に感謝したい。本当に見る人の心を打つ絵である。
外に出た私は英霊への感謝と顕彰の気持ちを表したかった。知覧には鎮魂の観音像が祭られているが、国家のために殉じた戦死者の顕彰は国家による霊的な施設が必要であると思う。周りを見ると多くの方が参拝に訪れている。遺族や戦友らしい高齢の方から若いカップルまでいろいろである。年間30万人が訪れているというがぜひ若い日本人に参拝してもらいたいと思った。「特攻のレクイエム」によれば、若い見学者が先人の捧げた至誠の偉業に感動しノートに残している。

*「今日初めて訪れ涙が止まりませんでした。戦争を知らない世代としてカミカゼと冗談で言うことの愚かさ,恐ろしさを知りました。私より若い人が国のために死んでいったなんてびっくりです。人生について深く考えさせられました」

*「私は鹿児島市内にいて今まで一度もこの地に来たことが無かったことを恥ずかしく思います。私たちと同じ年の頼もしい青年の勇姿に心を打たれました。本当に来て良かった」

*「同じ世代なのにこうも人生観の違いがあるかと今の自分が情けなく思えた」

*「私は大阪のボンクラ学生ですが、ここに来て自分を見つめ直す必要があると痛感しました。のんべんだらりと毎日を過す自分を恥ずかしく思う」

*「いつも会社で人間関係やつまらないことに悩みうじうじしていました。でも特攻隊員の方たちが背負っていた重圧に比べるといかに自分の悩みがちっぽけで些細なことかということに気づかされました。これからは頑張って生きてゆこうと思います」
                          「特攻のレクイエム」 工藤雪枝著 中央公論新社から抜粋

鹿児島市内へ向かうバス停で来るとき一緒だった老夫婦に再会した。老婦人は「偉い方達でしたね」と言った。私はうなづくだけで何も言えなかった。あの深い感動を表す適切な言葉が見つからなかったからである。

気の毒から尊敬へ
私が今まで特攻隊について感じていたことは,若いのに亡くなって気の毒というものであった。しかし特攻記念館を参拝後は偉いという尊敬の気持ちが第一となった。というのはあの戦争は日本民族の戦争であり,自分の問題であると実感したからである。そうであれば気の毒というような他人事では済まないからである。私の息子くらいの青年までが日本の国と同胞のために,決死の覚悟で飛び立って行く。これほど悲壮で偉大な行為を私は知らない。出撃された飛行士は日本の不利な戦況を十分理解していた。しかし他に方法は無かった。その上で非常な手段に挺身されたのである。そうとすればこの献身は気の毒ではなく,偉大である。私達の対応は当然永遠の感謝と顕彰でなければならない。
なお特攻の全戦死者は六千人、米国の被害艦船は300隻、撃沈30隻、戦死者五千人という。

裏切りから検証へ
しかしマスコミや政治家は特攻隊員の顕彰をしてきただろうか。していない。それどころか敗戦するや、占領軍に「あの人達を知らない」といったのではないか。この裏切りは最後の晩餐の後でローマ軍にキリストを知らないと言い張った弟子達に似ている。これは占領軍の反日占領政策、占領憲法、左翼マスコミ、反日教育の結果であるとされている。しかし独立後60年も経っている以上もはやそれが言い訳にはならないことを国民は知っている。英霊は正しく報われていない。だから誰もが特攻と聞けば心に痛みを感じるのだ。私達は過去の英霊への恩知らずの行為を懺悔し、あらためて国という共同体に殉じた特攻の英霊を胸を張って大々的に顕彰し祀らなければならない。その時が来ている。

第二章:鹿児島から沖縄への海の旅

右は特別攻撃隊が使った零式戦闘機の同型機
鹿児島から沖縄へ:
夕方6時フェリーが鹿児島港を離れた。次の巡礼地沖縄へ向かう。最上甲板に上がると夕闇が迫ってきた。スクリューの白い航跡の先にネオンが点き始めた鹿児島の市街が次第に遠くなって行く。船は東シナ海を一路南下する。吉田満著「戦艦大和の最後」を読みながら就寝した。翌朝目を覚ますと徳之島港に着いていた。波は高くは無いが曇天で時折雨がぱらぱらと降ってくる。甲板に出て鉛色の海上を眺めた。少なからぬ特攻機が沖縄に向かう途中この海域で敵の迎撃により撃墜されたという。
また3月に沖縄救援のために特攻出撃した戦艦大和の艦隊はこの海域で敵の攻撃を受け大和と随伴の軍艦が撃沈され数千の将兵が散華されている。私は小雨に煙る海に向かい壮烈な最後を遂げた多くの英霊に感謝の黙祷を捧げた。特にこの六月は沖縄の玉砕を目前に特攻機が多く飛び立った月でもあった。船は再び奄美列島の島々に寄りながら沖縄に向かって行く。往時これらの島々では沖縄に向けて梅雨空を南下する特攻機を見たり、また故障で不時着した飛行士を救ったこともあっただろう。今は沈黙し静かにそびえる島々も日本の悲劇の目撃者だったのだ。

古戦場:
夕方船は沖縄本島に到着し名護湾を横切り那覇港に向かった。こここそ60年前湾が真っ黒になるほど多数の敵艦船が攻め寄せたところであり、多くの特攻機が突撃した古戦場である。
私はデッキに出て黙祷した。あの知覧からここまで船で一日がかりで来たが、特攻機は二時間で到達したという。飛行士の必死の覚悟。敵艦から雨のように撃ち出される熾烈な対空砲火。火薬の匂いが充満する大気。その弾幕をかいくぐって殺到する特攻機。恐怖におびえる米軍水兵の顔。艦橋に激突し大爆発する特攻機。まるでその轟音が聞こえるようだ。ふと我に返ると夕闇の海は全てを飲みこんでただ静かにうねっているだけである。
しかし私達はここで起きた悲劇と特攻隊のあの 壮烈な偉業を忘れることは出来ない。かならず子孫に永久に語り継がなければならないだろう。夕闇迫る湾に再び雨がポツポツと落ちてきた。夜8時過ぎ雨の那覇港に接岸した。沖縄なまりが新鮮に聞こえる。

第三章沖縄防衛戦跡
 巡礼海軍司令部跡


   左壕入口、右壕内トンネル
海軍司令部跡:
朝バスで海軍壕跡へ向かった。ここは沖縄守備軍の海軍部隊の司令部跡である。司令部は那覇市を見渡す高台に作られた地下トンネル式になっている。入り口は赤い絨毯が敷かれ非常に綺麗に整備されていた。最近行われたサミットのためであろうか。参考書によるとここは昭和20年の玉砕後破壊され数年間人が立ち入らぬまま放置され雑草の生い茂るままであったという。それを生き残った旧部下が密かに切り開き遺骨を収集し祀ったという。
トンネルに入った。

かまぼこ型のトンネルは高さが丁度自分の背丈に合った大きさでいかにも同胞日本人の作ったものというなつかしい感じがした。側面には綺麗に揃ったのみの跡がある。廊下を降りると左右に小部屋があった。ある部屋は負傷兵の待機室であった。またある部屋は参謀の部屋で壁には玉砕に当たり自決に使われた手榴弾の破片が多数いまも細かくコンクリートの壁に突きささっていた。出撃用の鉄の扉があった。一度外に出た兵士はほとんど帰ることは無かったという。そして太田少将と高級幕僚が自決された部屋があった。壁には今もはっきりと辞世が記され花が供えられていた。「身はたとえ沖縄の野に死するとも守り遂ぐべし大和島根を」。私は合掌し黙祷を捧げた。

献花:
この静かで暗いコンクリート空間は往時野戦の騒音の中で悲壮な日本人の魂が交叉した場である。壕内は苦しむ負傷兵でいっぱいであったというが,今は何も聞こえずただ鎮まっている。トンネル内のいくつかの場所には沢山の生花が供えられていた。一巡して地上に上がると戦艦大和の大きな油絵が奉納されていた。沖縄救援のため大和以下の艦隊は3月に南下したが,多数の米軍機の攻撃によって撃沈されついに沖縄に達することは出来なかった。艦隊が到達できたら乗組員は地上戦の要員として出撃する予定であった。そこでこれらの海軍将兵の無念の思いを込めて当時の関係者がこの絵を沖縄に運び海軍司令部跡に供えているのである。

展望台に上がると那覇市街が良く見える。実に平らで身を隠す場所も無い地形である。ここに米軍が上陸し圧倒的な火力で攻撃し、日本軍は武器弾薬が尽きて白兵戦に及んだがついに全滅玉砕したのである。この時県民は一丸となって国土防衛に当たり,多くの犠牲者を出した。大田少将は玉砕に当たり,東京の大本営に決別の電報を打った。すなわち「沖縄県民は国土防衛のため,文字通り老若男女が全てを犠牲にして全力をあげて戦った。しかし武器弾薬,糧食も尽きてしまった。沖縄県民は実に良く戦った。将来平和が来たときには沖縄県民に対して格別の配慮をしていただきたい」というものであった。誰もが心を打たれる言葉である。

太田中将の最後の報告電文:
原文:昭和20年6月6日 大田司令官より大本営あて電文:
「沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部もまた通信の余力無しと認めらるるにつき、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急ご通知申し上ぐ。沖縄県に敵攻略を開始以来、陸海軍方面とも防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど省みるに暇無かりき。然れども、本職の知れる範囲においては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって、軍の作戦に差し支え無き場所の小防空壕に避難、なお砲爆下をさまよい、風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじありたり。しかも若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申出るものあり。所詮敵来りなば老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し身より無き重傷者を助けて共にさまよう、真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず。
さらに軍において作戦の大転換あるや、自給自足夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。これを要するに陸海軍沖縄進駐以来,終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられて、ご奉公の一念を胸に抱きつつ遂に・・・・・・(不明)・・・報われることなくして、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。一木一草焦土と化せん。糧食六月いっぱいを支えるのみなりと謂う。沖縄県民かく戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」

第四章 沖縄守備軍
玉砕の地参拝


左玉砕の海岸,
右慰霊碑
南部戦場跡:
海軍壕をでて再びバスで南部の牛島中将以下沖縄守備軍が全滅した南部戦跡と玉砕の地へ向かった。途中ひめゆりの塔を参拝した。壕は沖縄特有の地下壕にありここで追い詰められた医師や看護婦,臨時の看護婦を務めた女子学生達が自決、あるいは戦死した場所である。亡くなった女子学生も特攻隊の少年航空兵と同じ位の年齢だった。丁度雲間から光が差してきたが,壕は深く暗く上からでは内部は見えない。このような夏の日、激しい弾雨の中でついに力尽きたのである。合掌黙祷した。

沖縄の南部地域は平野で一面緑のさとうきび畑が続いている。1945年6月島の南端の身を隠す場所も無い摩文仁の平野に追い詰められた日本守備軍は最後まで戦い、武器弾薬も尽き全滅し牛島司令官は自決した。

牛島中将辞世:
牛島 満 司令官 陸軍中将 57歳 自決 辞世
「秋を待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ」(今沖縄防衛戦で倒れて行く同胞よ、あなた達は春に草が萌えるように、日本が復興したときに必ず日本人として再び生まれ変り、蘇ることであろう)
皇国(みくに)=日本、青草=日本国民(軍人,県民)の例え

平和公園:
バスは南端の平和公園に到着した。沖縄がサミットの会場であったためか緑の美しい広大で立派な施設である。参拝者の移動のためにミニバスが走っている。まず私は全国戦没者慰霊塔を選んで参拝した。出店を出している売店のおばさんから生花と線香を買い求め慰霊塔に供えた。このあたりで武器弾薬が尽きた沖縄守備軍と県民が玉砕したのである。この地域では敗戦の翌年になっても数万の遺骨が野ざらしなっていたという。自分の遠縁の人もここで亡くなったのだろうか。線香の煙が曇り空に立ち昇って行く。

この公園で気づいたことは、戦死者の出身県がそれぞれに慰霊碑を建設しているため碑が林立していることである。まとまりがない。これは国民として国土防衛のために戦死したのであるから一つにまとめるべきであろう。
つぎに慰霊碑には「顕彰」の文字を入れるべきである。戦死は事故死ではないからだ。単なる追悼や慰霊だけでは不足である。国家に貢献した功績を称える言葉を入れるべきである。
それから平和という文字が使われすぎている。戦死者は独立と自由のために戦ったのである。平和のためなら戦わなかった。論理的に誤っている。

資料館の不備:

県の資料館は立派であったが南国のホテルのようで20万人の犠牲者を祭る慰霊施設には馴染まない。もっと荘重なものに建て替えるべきである。
県の資料展示方針については既に産経新聞が報道しているが、いまだに冷戦時代のようで時代錯誤が感じられる。まず県が日本軍を敵視するのは誤りである。日本軍は国民軍であった。県が日本国民を敵視してどうする。
米国占領下で敵に迎合したのであろうが日本は1952年に独立し、沖縄も本土復帰している。米軍も靖国神社を参拝している。戦死者を顕彰するのに何の遠慮も要らないのだ。沖縄防衛は日本防衛であったから沖縄を含む全都道府県出身の軍人が防人として生命を捧げている。
沖縄県民も日本人として軍民一致団結して戦ったのである。県は占領政策に迎合した時代遅れの恥ずかしい国民離間の裏切り工作はもう止めるべきである。
このため沖縄戦の戦死者10数万への感謝と顕彰が無い。戦艦大和艦隊犠牲者への感謝が無い。(平成16年、大和犠牲者3千名の内、200余名の名前が石に刻まれたという。国民の怒りが伝わったのであろうが、少なすぎるし遅すぎる。)また特別攻撃隊への感謝の言葉が無い。

神坂次郎氏によれば、沖縄の地上戦体験者は特攻隊に感謝しているという。それは特攻機が来襲すると米軍の砲撃が一時停止するので、その間に女子学生は壕から出て生命の水を取りに行ったという。特攻機の搭乗員達は地上の同胞のために文字とおり生命を代償に水を購ったのである。

18歳で沖縄特攻攻撃で戦死された 松永篤雄飛行兵曹の辞世
「悠久の大義に生きん若桜、只勇み征く、沖縄の空」(悠久の大義=日本の自由と独立維持)

地上戦の戦死者の遺詠がある。「雲低き雨降る朝に特攻機来るかと友は外に立ちおり」。
絶望的な戦況で特攻機の来援をひたすら待つ地上軍将兵のワラをもつかむ気持ちが伝わってくる。その特攻機は沖縄救援のために二度と帰らぬ決死の出撃をしているのである。したがってその結果が成功しなかったとしても、国家と国民という共同体に対する特攻隊隊員の生命を捧げた誠には全国民とともに沖縄県からも感謝と顕彰がなければならない。沖縄県関係者は忘恩の徒である。

結び:
日本と英霊の
復活


左:糸満ハーレー祭
右:立派に復興した
那覇市
祭り:
途中運良く糸満港でハーレー祭りに出会った。バスの運転手の薦めで下車し糸満港に向かった。建物は強い日差しと雨で白茶けている。通りには色とりどりの屋台が並び大人,子供が群がっている。角を曲がると港である。周囲の岸壁には千人以上の人々が集まっていた。子供は綿菓子を持ち、大人はビールを片手に盛り上がっている。港内では黄色、青色、紫の3隻の舟に同じ色の鉢巻を締めた漕ぎ手が乗りボート競走が始まった。応援の拍手や声援が聞こえる。そこに主催社の漁船が日の丸と大漁旗を飾り立て音楽を流しながらゆっくり巡航し始めた。船上には黄八丈を着た娘が手踊りをしながらクルックルッと廻っている。とても可愛いしぐさなので観光客が盛んに写真を取っていた。悲しい戦場の巡礼をしてきた身にはこの平和な祭りの光景は実にありがたかった。

生まれ変わり:
観客の歓声を聞いていると、あの戦いで亡くなった方たちは立派に生まれ変わっているのではないかと思われてきた。牛島中将の辞世は立派に成就しているのである。とすれば私たちは英霊をいたずらにいたみ悲しむのではなく、感謝と顕彰を行いその不滅の貢献を永久に国民に伝えることこそ私たちの義務であり、英霊の喜ばれることではないかと思った。

日本は大東亜戦争で一度は敗北したが,その後7年で独立を達成し、今では世界第二位の経済大国となっている。失われた300万の英霊はみな蘇っているのである。国際社会も変わった。日本を攻撃した米国は日本に代わって共産主義との戦いの矢面に立つことになり朝鮮戦争,ベトナム戦争で大きな犠牲をはらった。今や米空軍は靖国神社に公式参拝している。これは60年前に米国ルーズベルト政権が犯した日本攻撃という太平洋戦争の過ちを陳謝していると理解して良いのではないだろうか。
英霊に元気を頂いた本当に心にしみる巡礼の旅であった。

歴史の見直し:

いま沖縄では英霊が反日運動に利用されている。これはあまりにも申し訳ないことである。見直しとして、価値観では戦死者は気の毒ではなく、偉いに改める。論理は日本の自由と独立を守るために命を捧げたのである。本来、反日、反国民軍宣伝の付け入るすきはないはずであるのに反日宣伝のため史実の隠ぺい、歪曲、偽造が行われてきた。これを正さなければならない。そして大々的に戦死者を顕彰することが後継者である私たちの責務である。