1.支那事変の伏線:
1936.12.13に発生した西安事件は、蒋介石が9年がかりの支那統一方針をやめ、翌年から日本を攻撃し始めたことから、欧米の極東史の専門家は支那事変の伏線と見ている。

しかし日本では蒋介石はじめ張学良など関係者が戦後も史実を隠ぺいしてきたので、謎とされたままである。そこで1991年のソ連崩壊後に明らかになったソ連の大々的な蒋介石軍事援助の事実からこの事件の真相を調べてみよう。

2.犯人は誰か
この事件は誰がやったのか。反乱軍を率いて蒋介石をとらえた現場監督は張学良将軍と楊虎城将軍である。その上のプロジェクトマネジャーは中共の毛沢東である。周恩来はその現場代理人である。では事件の命令者は誰か。それはこの事件で最大の利益を上げたものであり、また金や武器を提供したものである。
そして明白な動機があったものということになるだろう。それはソ連のスターリンであった。
           事件直前の状況 対日戦の利益
蒋介石 国民党指導者の蒋介石は国交内戦9年、ついに毛沢東を僻地延安に追い詰め、支那統一五分前という絶好の位置につけていた。

彼の戦略は、安内攘外といって、国内を統一してから、支那を植民地にしている英国などと交渉して独立国として権利を取り戻そうというものであり合理的であった。

日本は1932年に満洲国を作ったが、蒋介石はタンクー協定を結んで、満洲との鉄道、通信を正常化し、日本とは良好な関係を維持していた。

彼が一番警戒していたのが共産党であり、「日本は皮膚病だが中国共産党は(生命取りの」心臓病である」と述べたのはよく知られている。
自分の国民党軍を損耗するので得はない。損するだけ。事実戦後の内戦再開で上海戦24万の損失を嘆いた。
日本 日本は蒋介石と反ソ反共で一致していたので、軍事顧問を送るなど協力していた。 ソ連警戒中。大陸の戦争に利益なし。
張学良 張学良は満洲の軍閥張作霖の継承者である。満洲で日本人を迫害し,協定侵犯を300件以上起こしたので少数の日本軍に反撃され(満洲事変)本土に追い出され、部下を連れて当時国民党蒋介石軍の配下になっていた。蒋介石は張学良に共産軍本拠地の総攻撃を命じていた。

しかし張学良は蒋介石に内心反発し自分の軍閥軍を弱めようとしているのではないか、と疑っていたという。このためソ連や中共の工作にのせられた。張学良は元の勢力圏である満洲に帰りたかったので、何らかのソ連からの約束があった可能性がある。
日本を滅ぼせば満州を再度支配できると思った
毛沢東 中共の毛沢東は、1927年の蒋介石の反共攻撃で敗北をつづけ辺境を逃げ回って延安に到着していた。彼はソ連の顧問団とともに飛行機でソ連に逃亡する準備を終えていたという。
この中共を管理していたのがソ連である。ソ連は1921年に中共を設立し、顧問団、金、武器を与えソ連の極東政策に利用していた。
当時の毛沢東は田舎のゲリラの隊長にすぎず、世界の左翼から神と畏怖されていたスターリンとは月とスッポンであった。
蒋介石に追い詰められていたので、内戦が止めば息継ぎができる。
スターリン 欧州ではヒトラーが台頭し、軍事力を強化していた。これを見たスターリンは、東西挟撃を恐れて、東部国境の反共勢力である日本と蒋介石を無力化することを考えた。それは両者の戦争であった。

スターリンは反共の蒋介石を対日戦争に利用することを考えた。それは毛沢東は蒋介石と比べると田舎者であり、欧米の支援を取り付けるのは難しいと見たからである。
スターリンは1926年に蒋介石を軍艦「中山」号で誘拐しようとして失敗している。
1935年のコミンテルン第七回大会では主敵をナチスドイツ、ポーランド、日本としている。中共を滅ぼそうとしている蒋介石は入れていない。ということはスターリンはこの時すでに蒋介石を利用して日本攻撃を行わせる戦略を持っていたということになる。コミンテルンは「スターリンの手袋」と言われ、KGBが金も人も支配するソ連海外謀略工作の偽装組織であった。
東部国境の反共の日本と蒋介石が戦えば、安心して西部のヒトラーに対応できる。
月日           出   来   事
1936 6 エドガースノーが延安を訪問し周恩来と面談した。このとき、周恩来はスノーに蒋介石を利用して対日戦争を行わせる戦略を語った。これはソ連が第七回コミンテルン大会で示唆したものである。そして周は「蒋介石が対日攻撃をする時が、蒋介石の没落の始まりになるだろう」と述べる。この戦略は、勿論周恩来ひとりの案ではなく、毛沢東そして黒幕スターリンの戦略である。

しかし周恩来は、蒋介石を警戒させるので、この話を伏せるようにスノーに要求した。そこでスノーは、この話を戦後1957年になって初めて「中共雑記」の中で紹介している。これは毛沢東が蒋介石を殺すつもりなどはじめからなかったことを示している。そして西安事件の基本構想が中共幹部の間で共有されていたことを意味する。
1936 11 蒋介石は9年がかりの国共内戦に勝利し、支那統一の五分前の絶好の位置につけていた。そこで延安総攻撃準備を部下の張学良将軍に命令。ソ連顧問団と毛沢東は脱出の準備。
12/12 蒋介石は、部下の張学良の要請で延安総攻撃の打ち合わせのため西安に赴く。これワナだった。危険を知らせる警報もあったという。完全勝利目前の油断であった。
12/13 早朝、張学良,楊虎城の数千の反乱軍が宿舎を包囲。護衛部隊は射殺された。蒋介石は寝間着姿で裏山に逃げ込んだが逮捕された。
事件直後の朝日新聞はソ連の謀略工作であると報道している。一方ソ連のタス通信は日本の謀略であると報道した。出鱈目情報で世界を混乱させたのである。
12/x 隠ぺい工作:この時、「毛沢東は長年の宿敵なので毛沢東を殺そうとしたが、スターリンから生かすように電報が来たので、真っ赤になって怒ったがやむなく従った」というまことしやかな話がエドガー・スノーにより流布されている。

しかしエドガー・スノーは自分が見たわけではなく、共産主義者の孫文夫人であった宋慶齢から聞いた話と書いている。しかしウソ臭い。

というのは、当時のスターリンは恐ろしい左翼の神であり、狡猾な毛沢東がそれにたてつくような危険な真似はしないからだ。
それに周恩来が述べたように、蒋介石を利用するのはスターリンの命令を受けた毛沢東の既定の戦略であったからである。これはスターリンの主謀性を隠すためのKGB工作と考えるほうが合理的であろう。
12/x 張学良が国共内戦の停止と対日戦争を要求した。しかし蒋介石は長年の支那統一戦略をやめることになるので、当然ウンといわない。

周恩来が来て蒋介石と会談。1924年の国共協力当時、蒋介石は士官学校の校長、周は政治主任であったので面識はあった。
周が「校長、お久しぶりです」と声をかけると蒋介石はびっくりしたという。
そして周恩来は、ソ連顧問団(=スターリン)の指示により、蒋介石の生命とスターリンに12年間人質にされている長男蒋経国の生命を代償に降伏を要求したと考えられる。米国の専門家は蒋介石は頭にピストルを突き付けられたのだろうと述べている。
12/x 南京の国民党は指導者蒋介石を取り戻すために大部隊を西安に向かわせる動きを始めた。これをみてソ連、中共、張学良らはあわてた。蒋介石が死んでは筋書きが狂ってしまい困るからである。
12/x 夫人宋美齢の西安訪問: そこに蒋介石の夫人美齢が空路到着した。おそらく姉の共産主義者の宋慶齢からスターリンの蒋介石釈放条件を知らされたのであろう。そこで蒋介石はこの条件を呑んで降伏した。文書はないというが何があったかはわからない。土下座した写真を撮られたかもしれない。共産党は抜け目がないからだ。この間二週間かかった。
12/24 蒋介石、釈放。夫妻は空路南京へ帰還した。この時見送りにきた張学良は、突然飛行機に乗り込み無理やり随行した。蒋介石は驚いたが、これはソ連と共産党から用済みで殺されることを恐れたためといわれている。
12 南京に戻ると蒋介石は従来の国民党の基本方針を一変した。
イ、支那統一放棄、ロ、国共内戦停止。ハ、親日派幹部更迭。ニ、対日戦争準備
1937 対日攻撃の準備:
イ、武器、弾薬、食料の備蓄。兵員百万人の6か月分。馬10万頭6か月分など。
ロ、上海郊外に七万のトーチカ陣地と重機関銃装備など。
ハ、ソ連が三億ドルの軍事援助。総計戦闘機、爆撃機一千機。兵員4千名。秘密裏に到着。
4 蒋経国の釈放:1924年以来12年間もスターリンの人質になっていた蒋介石長男、蒋経国が許され、ソ連人妻を帯同して帰国。(西安事件の取り引きの結果とみられている)
7/8 北京近郊で盧溝橋事件ほか対日攻撃事件が発生。陽動作戦。関心を主戦場の上海から北にそらす。
7/29 北京近郊通州で日本人200名以上の大虐殺発生。日本人を怒らせ大陸の戦争に引きずり込むねらい。
7/31 米軍顧問シェンノート、蒋介石から対日攻撃の命令受領
8/12 米軍顧問シェンノート、蒋介石夫人宋美齢から上海の欧米人に戦争の警報を伝えるように指示された。
8/13 蒋介石軍五万が協定を破って、上海の日本人居留区を攻撃。日本側水兵四千名と居留民が必死の防衛。
これが支那支那事変の始まりであった。このあと日本の反撃上陸軍の大被害、杭州湾逆上陸、南京占領、講和提案と蒋介石の拒否、国民党親日政権樹立、日本の内陸進攻、 蒋介石の重慶逃亡、、勢力圏膠着7年となる。
蒋介石は主人のソ連の軍事支援、のち米国の軍事援助がなければ一日も日本と戦うことはできなかった。
1945 3 蒋介石が密使ミョウヒンを日本に派遣。講和と日本軍10万の貸与を要請。不成立。
戦後ミョウヒンは口封じのため蒋介石が処刑。
1945 8/15 日本降伏。蒋介石軍の被害150万。日本の被害50万人。実にもったいないことであった。

ソ連が満洲で共産軍を支援。内戦開始。
蒋介石は再び国共内戦を再開したが、一度捨てた支那統一五分前という絶好のチャンスは二度と戻ることはなかった。
1949 蒋介石は、中共に敗退し1949年に台湾に逃亡した。
この時、楊虎城は家族もろとも処刑された。張学良は随行して台湾に移住した。この裏では満洲で住民から絞り取った5億ドルといわれる金を代償に助命されたという。
しかし張学良によると蒋介石は、「お前のために支那を失った」と終世許すことはなったという。

張学良は宋美齢の庇護を受け、百歳まで長生しハワイで死亡した。
真犯人 ソ連のスターリンが独ソ戦にそなえて東部国境の反共勢力の無力化を図るため、蒋介石をとらえて屈服させた事件。大成功した。中共もシナの統一という大きな利益を上げたが十年以上後であり遅すぎる。直近の利益を上げたのはスターリンである。
被害者 日本である。蒋介石の対日攻撃を読めなかった。このため支那事変に引きずり込まれた。この裏では1933年からゾルゲが侵入し、近衛政府中枢の情報をスターリンに送っていた。尾崎らはスターリンの指令に従い日本の支那介入を進めていた。
解明の影響 イ、東京裁判史観の否定、  ロ、日本の村山談話史観の否定。
支那事変が、スターリンの対独戦に備えた東部国境工作となると、日本は傀儡蒋介石の代理戦争の犠牲者となり、侵略者ではなくなる
事実日本が何度講和を提案しても蒋介石は受けなかった。日本と蒋介石が講和されては、ソ連が困るからである。
抗日表現 蒋介石は最初排日としていたが、KGBの指導で抗日とした。英語だと抵抗する側が弱く、正義があるように感じさせる宣伝効果があるからである。被害者偽装である。実際は攻日であった。
満洲事変との関係 満洲事変は日本と満州軍閥の戦いである。しかし支那事変は、黒幕のいる国際戦争であり、満洲事変とは何の関係もない。日本と蒋介石はタンクー協定で講和している。支那事変は蒋介石がスターリンの傀儡として日本に代理戦争をしかけたのである。
反日歴史 工作 このため反日主義者は西安事件をなるべく隠ぺいし、研究を妨害する傾向がある。しかし欧米ではこの事件こそが支那事変の真の原因であるとみなされている。
日本の若い世代によるこの事件の一層の研究と広報が期待される

西安事件の謎を解く
関係者
事件解明の意義



経過