トモ君の読書感想文   


ノルウェイの森  村上春樹 著         
                                             (2011年10月13日) 文責 トモ君
 言わずと知れた村上春樹さんの小説です
 永いあいだ、僕の中のベスト・ワンの小説は、三島由紀夫先生の『金閣寺』
でした。しかし、最近は『ノルウェイの森』にその座を譲りました。もう、十五回くらい読み直しています。どこをとっても失望されることが無い。『ノルウェイの森』の中で主人公がフッツ・ジュラルドの『グレート・ギャツビー』を絶賛していましたし、学生の頃、私は英米文学科の学生なのだから、フィツジュラルドくらいは、読んでいなきゃいけないだろうと思い、手にしたものの・・・学生時代は、少しも良さが解りませんでした。
 半年前、「『グレート・ギャツビー』は、ほかの方々が絶賛するほどでは無いにしろ、読んでよかった作品だった。」というようなことを仰られていたので、再読しました。村上春樹さんは、文章をフッツジュラルドから学んだんだろうなーと感じました。村上春樹さんのデビュー作 『風の歌を聴け』で、僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。殆ど全部、というべきかもしれない

 これは洒落というか、遊び心か、判りませんでしたが、その後、この一行が多くの大学図書館の職員さんを悩ませたそうです。実際、デレク・ハート・フィールドというアメリカの作家は存在しないからです。『風の歌を聴け』ですっかりファンになったハルキストは、このデレク・ハートフィールドがどうしても知りたいし、作品も読んでみたい。大学の司書さんも、いろいろ探してもわからない。とにかく、図書館の司書さん泣かせみたいだったそうです。まだ、PCも無く、本のカードで貸し出しや、返却をしていた時代だったのかな?−昭和は、そうだった。

 私はこの『ノルウェイの森』を読んでいて、気づいたことがありました。それは、『ノルウェイの森』は『竹取物語』に似ているなーとおもったのです。

 『ノルウェイの森』では、ヒロインの直子が、僕こと、ワタナベ・トオルに二つの課題を出す。課題とは言いすぎだが、二つの、お願いをきいて欲しいという。

 それは竹取物語のかぐや姫が、自分に求婚する男性陣に課題を出すのは一緒ではないだろうか?
 
 石作の皇子さまには、天竺にあるという『ほとけのみ石の鉢』
 車持の皇子さまには、東の海に蓬莱の山というのがあるそうですから、そこにはえている根が銀で、茎が黄金で、白い宝玉の実をつけた木の枝を、ひと枝折ってきていただきとうございます。
 安倍の御主人さまには、もろこしにあるときく『火ネズミの皮ごろもを
 大伴の大納言さまには、竜の首に、五色にひかるたまがあるそうですから、それをとってきていただきとうございます。
 石上の中納言さまには、ツバメのもっている子安貝をひとつもってきていただきとうございます。」


 
『ノルウェイの森』では、

直子が、主人公僕に、課題と言うか、お願いを喋る。
 
「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」
(中略)「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」と
言う。

 そして京都の療養場では、月光の中で直子はワタナベトオルが観ていることは知っていて、全裸になる。ワタナベ君
は無為無策のように、なにも出来ない。

 目を覚ましたとき、僕はまるで、その夢のつづきを見ているような気分だった。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた
(中略)そのせいで彼女のきれいな額がくっきり月光に照らされていた。(注略)
 彼女はまるで月光にひき寄せられる夜の夜の小動物に見えた。月光の角度のせいで、彼女の唇の影が誇張されていた。(中略)
 僕が手をのばして彼女に触れようとすると、直子はすっとうしろに身をひいた。(中略)
 しかし今僕の前にいる直子の体はその時とはがらりと違っていた。直子の肉体はいくつかの変遷を経た末に、こうし今完全な肉体となって月の光の中に生れ落ちたのだ。と僕は思った。(中略)

 直子の肉体はあまりにも美しく完成されていたので、僕は性的な興奮すら感じなかった。僕はただ茫然としてその美しい腰のくびれや、丸くつややかな乳房や、呼吸にあわせて静かに揺れるすらりとした腹やその下のやわらかな黒い陰毛のかげりをみつめているだけだった。

 月光の中で、僕ことワタナベ・トオルは無力である。どこまでも無力である。

 それはかぐや姫の月に帰って行く夜と同じに見える。

 大空から天人が雲にのっておりてきました。そうして地上から五尺くらいの高さのところへ、ずらりとたちならびました。
 これを見て、家のうちそとを守っていた人たちは、もののけにとりつかれたようにぼんやりとしてしまい、たたかうきもちなど、まったくきえうせてしまいました。

 
月光の中で無力になる。そこも類似していると、思います。

 『ノルウェイの森』は劇場映画化されました。私は、映画館では観ませんでしたが、DVDを観ました。
 うーん、あまりよくない。というより十五回くらい原作を読み込んでいるので、ストリーがわかってしまう。
 映像も、はっとする美しいシーンも無い。それもそうか、2010年の映画で、1970年前後の東京を描くのには限界があっ
たか?
 そして緑の、「いま私、なにしたいかわかる」の妄想は、もっと、もっとしつこいくらい繰り返しても良かったのではないかと思った。原作を知らない観客に、「緑の、いまなにしたいかわかる」に、こんなところでやめてくれよと、ワタナベ君は
怒るのだが、それが原作を読まなかったお客さんには解らないのではないだろうか?
 『ノルウェイの森』の映画化。僕個人の期待が大きすぎた。
 でも、生きている間に『ノルウェイの森』が観れて良かったと思っている。
 小説『ノルウェイの森』は、戦後以降の、最高傑作だと思います。

                                         
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   仮面の告白   三島由紀夫著

(以下 太字は引用)
 
永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。

 

 
三島由紀夫著 『仮面の告白』の書き出しである。超有名な書き出しである。

 私がかつて読んだ本(小説家になるにはどうしたらよいかを書いた本)の著者がこの部分に触れていた。著者・題名は書かない。
(以下 引用)

 
これもあまりに有名な一行。自分が生まれてきたときの光景を見たことがあるという大ボラから始まるわ
けですが、(中略)
 『仮面の告白』の冒頭は、いきなり意外な事実を語って、読者の興味を一気に掴んでしまう典型ですね。
自分が生まれた時の光景を見たことがあると言い張って(略)

 この本の著者は、小説家になるには、どのような書き方をしたら良いかという視点で講義をしているのであって,,この著
者が三島氏の『仮面の告白』を批評しようとしてら別角度から論じるのだと思うが・・・あえて言葉通りに受けてみた。
 私が思うに、仮面の下に素顔がかくされているのではなくて、(一般社会では誰もが仮面をつけている)
 大ボラを書き出しに持ってこなければ、嘘つきの三島氏の嘘の履歴が本当だと受け取ってもらえないのじゃないか?
という不安が三島氏にはあったのではないかと思う。この小説には華美で絢爛たる文体の中に、極めて巧緻な権謀術
数が張り巡らされているのである。
 パズル・ゲームによくあるのだが、「嘘つき村から来た。」という嘘をつく村人が厄介で頭を悩まされる。本当の嘘つきは
「自分は正直村から来た。」と嘘をつくだろう。また嘘つきは初めから嘘つきなので、嘘つき村から来たという言動も怪しく
なる。

 その一方で正直村の正直者は「正直村から来た。」と本当のことを言う。ここで裏と表の正直者が誕生する。

 (以下引用)
 例の「演技」が私の組織の一部と化してしまった。それはもはや演技ではなかった。自分を正常な人間だと装う
ことの意識が、私の中にある本来の正常さをも侵蝕して、それが装われた正常さに他ならないと、一々言いきか
せねばすまぬようになった 裏からいえば、私はおよそ贋物をしか信じない人間になりつつあった。そうすれば園
子への心の接近を、頭から贋物だと考えたがるこの感情は、実はそれを真実の愛だと考えたい欲求が、仮面を
かぶって現れたものかもしれなかった。

 ここは複雑な胸のうちを開襟し、自分は嘘つき村からきた嘘つきだという告白をしているのだと思う。

 前後関係は違うが、『仮面の告白』の中で、『お前は人間でないのだ。お前は人交じりのならない身だ。お前
は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ
』と吐露している。

 ここだけは主人公の慟哭として素直に受けて良いと私は思う。
 生まれたときの光景を見た・・・から始まる嘘の溢れる自伝的小説は、ほころびが出そうで出ず、修正され、さらに増殖
し、とうとう嘘は一つの作品として完遂してしまった。それどころか、私の首根っこを掴んでの首投げ。私は未だに参りまし
た。と思うのである。三島文学がマジックだと知りながらである。マジックの種も大方予想がつくのに・・・である。
 三島文学というと『ナルシズム』、『ナルシスト』という言葉がついてまわる。でも、私は三島由紀夫氏は逆にナルシスト
ではなかったのではないだろうか?。それどころか、成人後も社会的大成功・文化人としての高い名誉はありながらも、
ずっと何かの劣等感、疎外感、自己肯定感の低さ、醜形恐怖、外見上の悩み)をかかえこんでいたのではないだろうか
?と私は思う。
 しかし、氏の『ナルシズム』論で、
 
 以下 (引用)
 分の写真を写真を見るのをきらい、鏡を見るのをきらい、鏡を見るのをきらいな男たちには、深いニュ
ーロテック(神経症)な劣等感を持った人間が多く、又その多くは、別の知的優越感で保障されている。そ
してこれらの優越感へのどんな些細な批評にも、ヒステリックな反応を呈する場合が多い。鏡を嫌う男を
バンカラで豪傑肌の男と勘違いすると、とんでもないまちがいに陥る。彼らは、ただ、鏡をおそれているの
である。

 肉体改造前の、三島氏の自己の心象を現しているのではないかと邪推してしまいたくなる。
 三島氏は肉体を鍛え上げ、マッチョな肉体を手に入れた。しかし、氏は満たされなかったのではないかと私は思う。
  三島氏はミケランジェロの彫刻のような男性的な美しさではなく、ヴィーナスのような麗人と称されるような女性的な美
しさを本当は所有したかったのではないかとも私は思う。男性的な美しさと女性的な美しさは、美という同じ範疇に括れそ
うだが、決して同じ次元でモノを比べられないと私は思う。

 三島氏が、どこかのエッセイで書いていたのだが(なんというタイトルだったか忘れてしまった)、三島氏は
 「男性の女装は好意的だが、女性の男装は、受け付けられない。」というようなことを書かれていた記憶があるのだが・・・
 私は、そこでなぜ、女装は良くて、男装はだめなのか、深く考えず、また氏は何故、女性の男装に眉をひそめるのか分
析されていなかったので、私はさらりとその箇所を読み流してしまった。
 
 『僕は模造人間』島田雅彦著(新潮社)文庫 を読んで、島田氏は三島由紀夫氏の本質を見抜いていると私は思った。

 『僕は模造人間』より
(以下引用)
 背後で人の声がした。振り返って見ると、見覚えのある小柄な女ーいやワンピースを着ている男だ。ー
がいた。僕は思わず叫んだ。「三島由紀夫だ」彼は日本刀を去勢されたペニスのように握り締めており、
女形の流し目で僕をとらえた。

 
と島田氏は看破していられる。

 ジャンルは違うのだが、『第3の性』 大田典礼著  人間の科学社
(以下 引用)
 クラフト・エビングやネッケは、同性愛は先天的でどうにもならないものとし、シュテーケルは性的早熟説

を強調し、異常に早く強い性欲は抑圧されて同性愛にむかうという。シュレンク・ノッチヒや、クレッペリン

はもっぱら後天説をたて、フロイトをはじめ精神分析学派は有名な環境説である。

 
市井の私などが意見をしてはいけないのかもしれないが、私は『仮面の告白』の主人公の同性愛は、環境説があては
まると思う。失恋 ほぼ、皆が経験するのであろう。生きていて一度も失恋をしたことがない人を見つけるのはすごく困難
だと思う。しかし、『仮面の告白』の主人公は、園子(仮面の告白の途中から登場するヒロイン)との結婚を、主人公が逡
巡していると、園子は別の男性と結婚してしまうのである。そして婚姻後も主人公と園子は密会を続ける。いくら嫁ぐ前に
交際をしていたという事実があっても(たとえより深く愛しあっていた恋人たちであっても)、別の男性と結婚をした女性が
、結婚後も主人公との逢引には応じないと私は思う。著者の創作なのであろう。

 『三島由紀夫の世界』 村松剛著  新潮社

 この本で、三島由紀夫氏と生前に交友のあった村松氏が書いた本で、三島由紀夫(本名 平岡公威)氏の母堂である
倭文重さんの愚痴が描かれている。
 (以下引用)
 K子嬢との縁談について母堂の倭重文さんはーあちらにお宅は、はじめ御熱心だったのですよ。戦争中
で若い男がいなかったからでしょうね。 
(中略)

 それで公威も、その気になっておりましたの。ところが戦争がおわって若い人たちが帰ってきますと、公
威なんかでは、もの足りなくなったのでございましょうね。あちらは、ささっと結婚しておしまいになったので
すよ。

 
とこぼれ話が掲載されている。K子嬢とは仮面の告白の主人公と交際していたヒロイン 園子・或いは園子とはK子嬢を
指すのだろう。
 現実世界での女性との失恋。三島氏にとっては大きな挫折だったのであろう。異性愛・まさに掴み取る、その瞬間に自
己の手からはなれてしまった。掴みとれないのなら、最初からなかったことのほうが幸いだったはずだ。そしてそれは、三
島氏の大きなトラウマになったのではないだろうか?
  まずは自己愛からはじまり、同性愛
に移行し、そして同性愛的な時期から成長し、健全な異性愛に至る。私が精神分
析学派の環境説を援用したのもその責なのである。
  小説というバーチャルな世界で、自らが同性にしか興味をもてないというキャラが立てば、現実世界でおこった女性との失恋を取り消すことが出来る。あちらの世界(小説)では、失恋どころか、主人公が女性を振ったことになっており、おまけに振った女性(園子)は、自分に未練がありそうに・・・と都合よく書ける。

 三島由紀夫氏が創り上げた『仮面の告白』とは、漫画家 浦沢直樹著の『20世紀少年』の、ともだちが創り上げた、とも
だちランドのバーチャル・アトラクションと同じで、過去と現在とを、或いは現在から過去とが互換性を持つ世界である。
つまり『仮面の告白』という小説は、過去を現在から書き換えようとした小説なのである。つまり『仮面の告白』という小説
は、三島氏の三島氏による三島氏のための小説なのである

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            金閣寺      三島由紀夫著

 
 三島由紀夫著『金閣寺』には、公案の『南泉斬猫』の解釈が二度出てくる。金閣寺の和尚さんと、主人公の大学の悪友 柏木の二人によってなされるのである。

 一度目は日本国が敗戦した日(昭和20年8月15日に)である小説中の金閣寺の和尚さんが、お寺の皆を集め、講和でこの『南泉斬猫』を選び講釈する。二度目は、主人公の大学の悪友である柏木という学生に『南泉斬猫』の解釈を尋ね、著者は柏木に語らせるのである。

 私が、南泉斬猫の公案を要約してしまうと

 ある日、寺にものすごく美しい仔猫があらわれる。東西両堂がなんとかして自分たちのペットにしたいとし、ものすごく争うのである。それを見た南泉という和尚さんが猫をむんずと掴み、美しい猫を刀で斬って捨てるのである。その後、趙州という
高弟が帰ってきたので南泉和尚は趙州に事の次第を伝えるのである。それを聞いた趙州は、はいていた履を頭に載せるのである。南泉和尚は、それを見て、あーあ趙州があの場に居てくれたら、仔猫の命も絶たずにすんだのに・・・と嘆いたそうなのだ。

      以上が公案 『南泉斬猫』の私の)要約である。私の要約が拙いことは百も承知である。

  三島由紀夫著『金閣寺』では(以下 引用)

 れはそれほど難解な問題ではないのである。南泉和尚が猫を斬ったのは、自我の妄念迷妄の根源を斬ったのである。非情の実践によって、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、自他の確執を断ったのである。これを殺人刀と呼ぶなら趙州のそれは活人剣である。泥にまみれ、ひとにさげすまれる履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩堂を実践したのである。


  一方、柏木の解釈はこうである。(以下 引用)

  「南泉和尚の斬ったあの猫が曲者だったのさ。あの猫は美しかったのだぜ、君、たとえようもなく美しかったのだ。目は金いろで毛並みはつややかで、その小さな柔らかな体に、この世のあらゆる逸楽と美が、バネのようにたわわんで蔵われていた。猫が美の塊だったということを、大ていの注釈者は言い落としている。(中略)いいかね、美というものはそういうものなのだ。だから猫を斬ったことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美をてつけつしとように見えるが、さてそれが最後の解決であったかどうかはわからない。美の根は絶たれず、たとひ、猫は死んでも、猫の美しさは死んでいないかもしれないからだ。そこでこんな解決の安易さを諷して、趙州はその頭に履をのせた。彼はいわば、虫歯の痛みを耐えるほかに、この解決がないことをしっていたんだ。」


 ここからは私の勝手な南泉斬猫の解釈である。「私は欲望が生じたときにベタなリアクションをするな。」という戒めだと思う
 世の中の争い、惨事は他者(自分を除く人類)と同じ考え、同じものを欲することからおこるのである。石油、ダイヤモンド、高級住宅・・・先の太平洋戦争も、国民総動員で(反対したお方もいらしたが)起こしてしまったのである。これは偶然かもしれないが、小説『金閣寺』で和尚さんが終戦の日に、この南泉斬猫を選んだのも、私は(欲望の対象)を見ても、それを欲して捕まえようととは思うなどとゆう気を興さず、その美しい猫を見たときに一番遠いリアクションを行えということだと思う。趙州は、遠いリアクション=履を頭にのせた。私は、いきなりみんなの前で、立ちションをしたりしてもいいし、腕立て伏せの後、すばやく走り、お寺の鐘を頭で打っても良いと思う。欲望から遠くはなれ(美しい猫を所有したいなどという欲望を持たずに、もっとも、その欲望からの遠いリアクションをする大切さを求めているのだと思う。

 私は分かれ道で皆が皆で右に行こうとしたら、その時、たとえ右に行きたいと思っても、なんか意地があって左に行く性分である。そういう私は、マスコミ、広告関係、アパレル関係者には一番嫌われる人間だと思う。その理由は、『業界がつくりだす流行の裏の裏まで知っているし、流行などは『屁』だと思っているからだ。そして人と同じことをしない、人と同じようなものを欲しがらないからである。
 私は他者と協調性がなく、お上からの通達を無視し、人と同じ考え・視点を持たない訓練を積んでいる。こういう人間が多くなればあの太平洋戦争のような国民を総動員しての戦争は起こらないのではないのではないだろうか?
 私は日本という国を愛しているがゆえに、常識でさげすまれる『非国民』という名前で呼ばれても良いと思っている。

  話はそれてしまったが、私はこの小説は動機小説だと思う。徒弟のものが金閣寺に放火するまでの経緯を描ききった。
 最初の頃、主人公は「私の人生が柏木のようなものだったら、どうかお護り下さい。私にはとても耐えきれそうもないからと祈っている。しかし、数年後、唯一の明るい世界の橋渡し役だった唯一の友人(鶴川)が自殺をしていたことが柏木から知らされる。

 主人公は『それにしても悪は可能であろうか?』と自問自答する。しかし、溝口(主人公)は、行為→金閣寺を焼くこと を最後までためらっている。犯行直前に、金閣寺の和尚さんの友人の禅海和尚なる人物に「私をどう思われますか」と尋ねるのである。(中略)「私を見抜いて下さい」ととうとう私は言った。「私は、お考えのような人間ではありません。私の心を見抜いてください。と地獄の沼の底から手を伸ばし、助けを求める。或いはSOSを発信しているのだが、助けてくれるどころか悲鳴に近いSOSさへ気づいてさえもらえないのである。
 主人公にとって、金閣寺は、ペテンで、いかさまで、詭弁がまかり通った戦後社会そのものの象徴だったのではないだろうか?それ故、青年僧は金閣寺を焼失しようと思ったのだ。



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