1月24日(金)
意識朦朧とした1週間が何とか終わる。疲れが全く抜けなくなり(よく眠れないのが大きい)、曜日の感覚もなく、「前にこれを食べたのは先週だっけ?」と思いながら2日続けて同じ昼食を取って、日記帳を見て愕然とする、というような1週間であった。が、遅れていた校正も終わらせ、授業の成績認定も済み、ようやく来週からはまた勉強が再開できるのでは、と思う。年を取るというのは、知識や経験が増える一方で体力は落ちていくので、いつ頃が最もバランスの良い時期なのかは判断が難しいが、「そのうち余裕ができたらやろう」と思っていることは今後遠からずできなくなるなあ、と実感させられる。この先数年で、研究をどういう形で本にまとめるか、を考えている。
自分の楽しみは、高校時代からずっと聴いているジャズ、同じ時期に速記で「読む落語」の楽しさを知ったが実際に寄席に通うようになったのは30過ぎてからの落語に加えて、最近では映画をよく見ている。昔は「古典的名作を」、という意識が強かったが、今では少し幅が拡がって、知らなかった世界が目の前に切り開かれていくのが楽しい。12月の国立映画アーカイブのアンジェイ・ワイダ特集も良かったが(20歳前後の頃に見た『灰とダイヤモンド』は、今でも個人的に「史上最強の青春映画」だと思っているが、今回30年ぶりくらいに見て印象を新たにした。が、それ以外にも未見のややマイナーな作品を含めこの人の世界が少し理解できた気がする)、いま惹かれているのはなんといっても市川雷蔵だ。チャンバラ映画のヒーロー、くらいのイメージしかなかったのだが、前にDVDで『破戒』(島崎藤村原作、市川崑監督)を見て、「この人はナイーブな内面性をなんと上手に表現するのか」と思い、今回角川シネマ有楽町で特集上映をしているので論文執筆の隙間を縫って何度か行った。期待以上に面白い。特集は月末までだが、論文も終わったので、これから月末まで少し頑張って通いたいと思う。ワイダは岩波ホールで上映するようなお芸術映画、雷蔵というと通俗的な大衆映画というイメージで、並べて何か言うのは変なようだが、自分の素直な感じ方がジャンルの垣根を無視して進んでいくのは、心地良いことだ。いやしくも映画が好きと言う人は、蓮實重彦と快楽亭ブラック(春日太一でも坂本頼光でも杉作J太郎でも良いですが)の両方をともに視界に収めるべきだと思う。
この2,3ヶ月でその他に印象に残っているのは、DVDで見た小林正樹監督・五味川純平原作・仲代達矢主演『人間の条件』(1959~61年)だ。日本映画史の金字塔と言っても大袈裟ではないし、仲代達矢の映画での最高傑作かもしれない、と思う。第二次大戦の日本軍を扱った映画で、政治的に左派寄りで(原作は見ていないのでわからないが、少なくとも映画版はスターリン批判が許容されるようになった時期の左派の悩みと懐疑が随所に現れているように感じた)、かつ全6部で計9時間半と大部なこともあって、公開時には高く評価されたが現在はどう見られているのかはわからない。が、それはどうでも良いことだ。あの戦争で身内が死んだり人生が変わってしまったりして、人によっては当時「今更もういいよ」と目をそらしたくなるような重苦しい主題を、これほどの迫力と重量感で正面から描き切ったのが、「凄い」としか言えない。何かを表現する上で、「大切なことを最後まで描き切る」という以上に重要なことはない。
1月19日(日)
何とか完成する。心底疲れ果てる。最終段階でこれだけ苦労するとは思わなかった(疲れ切っているのと、テーマが重いので、修正作業がなかなか進まなくて往生した)。今度こそ、少し頭を空っぽにして休まないと、次のことができない。
解放されて、ホッとして良い気分で楽しく一杯、かというと正反対で、心神消耗し切ってどん底の状態から薄皮を剥ぐように少しずつ回復していくまでは、当分ただただ暗く陰鬱な状態が続くのであった。世間で思われているよりも(誰も何も思っていないかもしれないが)、ずっとしんどい商売だと思う。
この論文、長く準備しながらあれこれ考えてはいたのだが、12月上旬に法律時報の方を脱稿した段階ではまだタイトルも決まっていなかった。タイトルが決まらないということは、様々な部分的な着想を組み合わせた全体像を貫く軸がはっきり見えていないということだ。一時は、もういっそ開き直って「私の考える憲法学」というタイトルにしようかとも思ったのだが(共同研究のテーマが「法学の方法」だったので、自分なりの方法を論じるつもりだった)、書き始める段になって「さすがにちょっとこれは」と思い直した。バカっぽいタイトルも時には有効だと思うが、馬鹿路線だと憲法学界では尾吹善人『憲法学者の空手チョップ』という超えられない壁があって、どうせ尾吹先生に勝てないのであればやはり真面目なタイトルで行くか、と結局「法律学的憲法学の基層―憲法史・国家論・統治機構を素材として」ということになった。考えに考えた挙げ句、中身を知らない人が見ると単なる大風呂敷にしか見えない、というのは私の癖だと思う(ちなみに、前著『現代憲法学の位相』というタイトルも、大風呂敷だと大分陰口を叩かれたようだが、意識しているのはシュミット「Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus」、「Die Lage der europäischen Rechtswissenschaft」の「Lage」であった。「地位」や「状況」じゃあしっくりこないよなあ、と大分考えあぐねた末、敢えて「超訳」した結果こうなったのであった。でも、究極的には間違っていないと思うのだが)。
1月13日(月)
体調を崩して3日ほどほぼ寝込んでしまい、修正作業が約束に間に合うかかなり微妙な状況に陥る。何も考えずに1週間ほどぼーっとしてみたい、と願う。
1月10日(金)
ようやく本文が最後まで書き上がる。疲労困憊する。肉体的疲労ではなく(もはや若い頃と違って徹夜で書くというのは不可能で、それなりにゆっくり休み休みやっている)、精神的疲労だ。自分にとって重いテーマをずっと頭の中に引きずって、緊張状態が長く持続すること自体が、無闇に疲れるのだ。
これで、後は本文を推敲・修正しながら註を付ければ(註はもう最少限度にとどめるつもりだ)、ようやく解放されて、少し前向きに2025年の仕事を考えられる状態になる。というわけで、まだ年が明けた気がせず、師走気分の1月なのであった(旧暦に従って生きていれば、それで正しいのかもしれないが)。