2月24日(月)
きっちり3週間かかって、風邪の症状はほぼ消える。が、ちょっと心身の調子を崩してしまい、対面の会議や食料品の調達以外はほとんど家から出ることができない日々であった。
このウェブサイトは、プロバイダーのぷららがホームページサービスを終了するとのことで、このまま放っておくと3月末で自然消滅する運命にあるのだが、引っ越し先を考える気力もなく、この先どうなるかは未定である。SNSは嫌いなので(情報収集に見るだけは見ているが)、そちらに移るつもりもなく、もしかしたらこの辺が年貢の納め時なのかもしれない。
2月11日(火)
深夜に咳と痰の発作が起きて目が開き、眠れなくなる。というようなことに意外と長く苦しめられる今回の風邪である。
出かける元気もなく、毎日少しずつ文献を読み進めるだけで淡々と時間が過ぎていく。
2月9日(日)
「風邪は引き始めが肝心」と言われる。体が冷えてゾクゾクッとした時に、早めに体を暖めて栄養と休息を取ると、治るのが早い、ということかと思う。が、風邪には「そういう種類の風邪」と「そうでない種類の風邪」がある気がする。疲労と冷えで体調が低下したような場合はそれも当てはまろうが、ある朝起きたら喉に明らかな違和感があって、「あっ、何かウイルスが体に入ったな」という場合には、それから慌てて対策をしても手遅れで、体内に入ったウイルスが一通り暴れ回り、退治されて症状が消えるまでに、どうしても2~3週間はかかる。
コロナの緊急事態で自宅蟄居中に考えたことだが、無ウイルス・無菌状態に隔離された人間が、酔っ払って裸で寝た場合、果たして風邪を引くのか。どうせ暇なので一度試してみようと考えたものの、果たせずに終わった。することがなくて毎日飲んでいたために、酒に強くなってしまい、なかなか酔っ払わないのだ。倒れるまで飲めるというのは若者の特権で、年を取るとこうしたことも難しくなるのだなあ、と慨嘆したのであった。
2月4日(水)
次の論文の準備を着々と進めているのだが、風邪で頭がぼんやりして集中力を欠き、まだテーマが茫漠としていて、原稿を落とすかもしれない。もっとも、世の中には「落としてはいけない原稿」と「落としても許される原稿」があって、今回は後者だと思うので、ギリギリまであれこれ考えても許されよう。ともあれ、論文の谷間なので、少し落ち着いて古典的著作を読み直せるのは有り難い。
2月3日(月)
風邪で意識朦朧とした頭で、マスクをして映画館へ。小津安二郎監督の遺作『秋刀魚の味』(1962年)。笠智衆演じる父親が、岩下志麻の娘を嫁に出した日の晩、寂しさを断ち切るように秋刀魚の暴れ食いをするシーンが、しみじみと涙を誘われる。まるで熱で幻覚を見ているかのように美しいシーンである。
同じく朦朧とした頭で考える。小津安二郎の諸作品を貫くテーマがあるとしたら、それは「火星人の不在」なのではあるまいか。超越を喪失し、火星人が決して姿を現すことのないこの世界で、人間はいかに生きるべきか。その証拠に、小津は初期作品から遺作まで、火星人を一度も登場させていないのである。風邪を引いている時には天才的なアイディアが次々と浮かぶものだ、と我ながら自画自賛せざるをえないが、この大変魅力的な説には、ひとつだけ大きな弱点がある。それは、世の中の大抵の映画監督は、自分の作品に火星人を登場させない、という問題である。
2月2日(日)
風邪、久しぶりのせいもあり、結構きつい。今年の風邪は喉に来る。
高熱までは出ないものの、一瞬「ついにコロナか?」と頭をよぎる。が、ただの風邪と考えて矛盾のない症状だし、結局風邪薬で症状を緩和しながら自然治癒するのを待つ以外にはないので、検査する理由もない。
元々人嫌いなので人に会う機会は多くなかったのが、コロナ以後は職場の会議などもオンラインが増えたこともあって、対面で唾の飛ぶ距離で人と話をすることはかなり少なくなった。今度の風邪も、潜伏期間を考えると、移動中の電車くらいしか心当たりがない。他に学内の会議が一件あったが、大会議室に小人数で、かなり距離を保っていた。滅多に人に会わなくても感染するときはするものだ、と思う。
2月1日(土)
久しぶりの微熱と頭痛。無為に一日を過ごしてしまう。
1月31日(金)
疲労で免疫力が落ちていたのか、風邪を引いてしまう。論文が終わるまで保っただけ良かったと言うべきか。