ゆとり教育

(Aug. 07 ,2002)

 文部省の打ち出した「ゆとり教育」に対して、賛否両論の意見が出ています。その意見は、教育内容の削減と授業時間の削減についてどのように考えるか、ということについてのものです。

 教育内容や授業時間をどのようにするかはもちろん大事なことですが、私の感覚では、もっと大事なことがあると思います。

1 先生の質の向上

 1つは、先生の質の向上です。現在、子供を小学校や中学校から私学に進学させる親の心理としては、進学に有利だからとか、大学付属の学校であれば入試がないから、というものがあるのでしょうが、それ以外に、私学では、幅広い教養を身につけた先生方がいるのではないか、ということもあると思います。

 私にとって、日本史や世界史というのは、高校の時の山川の教科書を丸暗記する、という科目でした。友人と旅行し、史跡に行ったりした時、友人が、歴史の生き生きとした姿を話すことがあります。何人かで旅行に行くと、私を除く全員が、歴史について語り合っている、なんていうこともあります。

 私の場合には、教科書をただなぞるだけの授業を受けて、テストではどれだけ丸暗記したかが問われる、これが歴史だ、と思っていました。でも、他の学校では、授業のやり方が違うところもあるわけです。中学や高校では、生徒が自力で専門書を読んで研究するということはないでしょうから、残念ながら、先生が、幅広いバックグラウンドを持っているかそうでないかで、生徒の理解度は違ってきてしまうわけです。

 残念ながら私は、歴史についての生き生きとした姿というのは全く習ったことがありません。今、爆笑問題の「爆笑問題の日本史原論グレート」(幻冬社)を読んでいますが、こんな本を中学や高校時代に読んでいれば、と思います。それにしても、教えるプロである中学や高校の先生方よりも、爆笑問題やこの本の解説を担当している田中聡氏(フリーライター)の方が、生き生きとした歴史の姿を描いているというのは、本当に不思議です。

 中学や高校では、先生が1科目ずつ担当するわけです。それでもそういう状態です。これが、1人の先生がほとんどの科目を担当する小学校になると、もっと問題が出てきます。

 小学校の時、何を習ったかということはいちいち覚えていません。でも例えば、小学校3年生ぐらいの理科の時間に、

 水には空気が含まれています。魚はえらを使って水中の空気をとりいれています。水中の空気の量は、温度によって違います。水をお鍋に入れて熱を加えると、あぶくが出てくるのは、水中の空気が、熱されることによって上に上がってくるのです。

と習ったことがあります。もちろんこれは間違え。水をお鍋に入れて熱を加えてあぶくが出るのは、水が熱せられて水蒸気になるから。水蒸気というのは、要するに気体なので、液体である水よりも軽いから上に上がってくるわけです。

 こんなトンデモ授業を受けていたのでは、理科についてまともな理解ができるわけがありません。

 誰かから何かを教えてもらう時には、そのことを分かっている人から教わる必要があります。分かっていない人から何かを教わっても理解できません。

 そして、分かっていない人がいくら一生懸命予習をして授業に臨んでも、残念ながらだめなのではないかと思います。予習をして身につけた一時的な理解では、生徒に理解させることはできない。そうではなく、身に染みついた幅広い教養があれば、予習なんかしないで授業に臨んでもいいのではないかと思います。教科書どおりに授業が進まなくても、生徒に理解させることはできるんじゃないかと思います。

 そういった、幅広い教養を身につけた人に先生になってもらう、とか、先生に幅広い教養を身につけてもらうとかの必要があるんじゃないかと思います。具体的には、先生という仕事は、午前8時ごろには学校に来ているし、帰りは遅いし、持ち帰る仕事もあるしというので、忙しすぎるのではないかと思います。もっと先生の数を増やして1人あたりの先生の授業の受け持ちコマ数を減らしたり、先生以外のスタッフに任せられることは任せるなどして、先生方が幅広い教養を身につけられるようにする必要があるんじゃないかと思います。

2 先生の欠席時のフォロー

 もう1つは、先生の欠席対策です。先生が休むのがよくない、というのではありません。先生も体調を崩すこともあるでしょうし、家庭の事情もあるでしょう。休んだ時のフォローをしっかりするべき、ということです。

 私の中学3年の時の数学の先生が、とにかくよく休んでいました。2学期は特によく休み、2週間や3週間連続して休むこともありました。2学期だけでいうと、半分ぐらい休んでいたのではないかと思います。

 先生が休むと自習になります。ほかの科目の先生が来て、今日は自習、と告げ、その先生は教卓に座って、自分の授業の準備をしたり、自分の授業の小テストの採点をしたりしています。たまに別の数学の先生が来ても、授業をするわけではなく、やはり自分の授業の準備とかをしています。

 先生が休んだ時には、授業は行われないわけです。自習、といっても、中学生ですから、自分で勉強できることには限りがあります。高校受験にとって一番大事な時期に、授業を半分ぐらいしか受けていないのですから、数学の成績はさんざんでした。

 中学3年次に公開テストなんかを受けると、英語・国語の2科目と、数学との間には、歴然たる成績の差が出てしまいました。また、高校に入っても数学が分からず、はやばやと、高校1年の2学期か3学期ごろには、数学の授業で先生の言っていることがまったく理解できず、数学は完全にギブアップしてしまいました。

 もし、先生が休んだ時に、別の先生が来て授業を行うなどのシステムができていれば、高校入試や大学入試での方向は違っていたのかもしれません。

 先生も人間だから休みます。休んだ時に、自習ではなく、別の方法をとることができるか、その点について、国際的に調査するなどのことは、おそらく行われていないと思います。

 私の感覚では、指導要領云々とか、授業時間云々というよりも、上述のように、先生の質の向上と、欠席対策の方がはるかに大事なものだと思います。

3 読み書きそろばん

 また、中学・高校の教育に関する意見の中には、今こそ、漢字などの読み書きや、計算能力に力を入れるべき、という意見があります。江戸時代の寺子屋での読み書きそろばんを見習え、ということなんでしょうね。

 でも、これはおかしな話です。漢字などの読み書きや、計算練習というのは、小学生や中学生が、自分でできる作業です。自分でできなければ親がつきっきりになってみてやればいい。それもできなければ、公文式等の教室に通えばいいわけです。

 もちろん私も読み書きや計算能力が必要であることには異論がありません。今以上にどんどん徹底的にやってもらいたい。インドでは、九九どころか、19×19まで教えているということですので、そこまでできるんなら教えた方がいいのでしょう。

 読み書きや計算能力というのは、勉強以前の作業に過ぎないのではないかと思います。私が大学受験で浪人した時には、予備校の授業の休み時間に漢字練習ドリルを解いていました。1年間、休み時間に漢字練習ドリルを解いていたら、漢字の書き取り問題や読みの問題で間違えることはほとんどなくなりました。家で漢字の勉強をすることは全くありませんでした。こんなすきま時間にできる程度の作業が教育の重点課題であるととらえるのは誤っているのではないかと思います。