収益力

(Oct. 27 ,2002)

 今の時代は昔と違って、何をするにもカネ、カネ、という時代になった、と言えます。

 今の時代をせちがらいと感じて、昔にノスタルジーを感じる、ということは、私にもあります。ただ昔のことを、手放しで、昔はよかった、もっと早く生まれていればよかった、と考えるのもどうかなという気がします。

 かなざわいっせいさんの「七転び八つ当たり」というエッセイ集の中で、数十年前のことですが、ある人が山を越えて歩いてお醤油を買いに行って、帰り道、途中で休憩しようと思って腰を下ろしたら、お醤油の一升瓶が地面にあった石にぶつかって割れてしまった、それで、3ヶ月ほど、お醤油のない生活をしなければならなかった、というエピソードが書いてありました。

 今の時代なら、こんなことはありません。昔と今とを比べると、ヒト、カネ、モノ、情報の流通量が圧倒的に増大したことによって、圧倒的にカネやモノが手に入りやすくなったということは事実でしょう。

 ヒト、カネ、モノ、情報が流通するようになると、カネやモノはそれまでのように分散するのではなく特定のところに集中するようになります。よりこれらを集中させようとして、社会の中では収益力が重視されるようになります。

 企業では、現在の資産がどのぐらいあるかということよりも、今後の収益力が重視されます。商業地では、土地の評価についても、その土地の歴史的ないわれなどよりも、その土地の収益をベースにして土地の価値を評価します。

 企業やモノだけでなく、ヒトの評価も、そのヒトの収益力で評価されるようになります。昔のように終身雇用制・年功序列という社会では、人の評価は長期的になされましたが、ヒトが動くようになると、評価は短期的なものになります。数字をあげることができるかどうか、ということがヒトを評価する基準になってしまいます。

 収益力がヒトの評価にもあてはまるようになった、というのは、ビジネスの社会だけでなく、文化・芸術の世界でも、収益力と力量が現在では一致しているといっていいかと思います。例えば囲碁や将棋の世界では、現在では、強いか弱いかというのは、スポンサーが付いて賞金が出る棋戦でどれだけ活躍するか、ということによって決まる場合が多いのではないかと思います。

 昔は、例えば囲碁の世界でいえば、雁金準一九段のように、瓊韻社を創立してどこの棋戦にも出てこないがとにかく強い、というタイプの棋士がいました。強さと獲得賞金額とは比例しなかったのです。今後は、このようなタイプの棋士は減っていくのではないかと思います。

 でも、そのように、収益力が重視される社会というのは、効率ばかりが重視され、思考や判断が画一化してしまう危険があると思います。

 収益力がなくても多様化した社会である方が、長い目で見ると発展するのではないかと思います。

 今シーズンで最優秀防御率のタイトルを獲得した桑田真澄投手が、数年前からシーズンオフに古武術の稽古をしていると報道されています。

 昔は、それぞれの土地で、伝統的に受け継がれてきた武術があったと思います。それが現在では、全国展開、あるいは世界展開した流派が、全日本大会や世界大会を開催して、さらに多くの道場生を集める、という流れがあります。人気のある流派では大会に多くの観客を集めたり大会がテレビで放映されたりビデオ化されたりする、多くの道場生が入門してくる、そのようにして多額の収益を上げることができます。一部の人気のある流派にヒトが集まる中、伝統ある流派に道場生が集まらなくなり廃業してしまう道場もでてきているものと思われます。そのことにより武術の多様性が失われていく側面があると思います。

 古武術というのは、武術の中でもなかなか大会を開いてたくさんの道場生を集めるということにはなじまないのではないかと思われますので、もし、桑田投手が、あと何十年、何百年遅く生まれていたとして、古武術の道場の門を叩こうとしても、道場がなくなっている、という可能性があります。

 そして、人気のある流派でも、もちろん、精神修養や基本的な動作を重視した稽古は行われているのでしょうが、大会で好成績をあげるための稽古に従前よりも重きをおかざるをえないと思います。囲碁や将棋で、トーナメントで好成績をあげるプロが一流のプロといわれるのと同様、武術でも、大会で好成績をあげる選手が一流の選手という評価を受けることになれば、稽古も大会に向けたものを重視せざるを得ないわけです。そのような流派に、野球で悩み、解決策を求めて入門するプロ野球選手が有益なものを得られるかどうか、ちょっと疑問を感じます。

 収益があがらないことがらについても、それが存続することで、結果的に収益力の増大に役立つことがあるわけです。むしろ日本中で収益力ばかりに目がいくと、逆に失ってしまうものの方が大きいのではないかと思います。

 収益力がないことがらについても、それが存続していけるようにするにはどうすればいいのでしょうか。

 1つの方向性としては、日本全体が今のような不況の世の中ではなく、経済が好転して国力があがること、いうなれば収益力をあげることです。日本全体の国力が上がれば、収益力がないことがらについてもそれを国全体で支えていくだけの余力が生まれるわけです。

 もう1つの方向としては、日本の不況がとことんまで悪くなること。悪くなって悪くなって、どこをどうやってもカネもモノもヒトも情報も回らない、ということになれば、収益力の悪いことがらばかり、ということになります。

 後者のような流れというのは、それこそ、お醤油のビンを割ってしまったら何ヶ月もお醤油抜き、という生活に逆転してしまうわけですから望ましい社会とはいえません。効率性を追い求めることが、非効率なことがらの存続につながる、というのは逆説的で、結論としてはちょっとどうかな、という気もします。