彼女が部屋を訪ねてきたのはそう遅くない時間だったように思う。
 正確な数字は確認していなかったが、それは夕食後の、各人がめいめいの過ごし方をする時間だった。
 ある者は鍛錬を。ある者は風呂を。ある者は早い就寝を。アーバンラマの夜は様々だ。
 自分はといえば、宿の部屋でベッドに座りつらつらと考え事をしていた。食休みとも言えなくはない。
 そうして寝静まった弟子と一人でいたところに、一人でやってきた彼女を迎え入れ、当り障りのない会話をした。
 ここ数日で彼女の体調はほぼ回復しており、それは他の者も同じだった。弟子も剣術競技者も非合法員も、彼女の友達も。そして自分も含めて、態勢は整いつつあった。
 自力歩行に問題がなく、身体的にも精神的にも――傍目には――正常に見えることを確認して、明後日あたりに出発するかと提案してみた。
 陰りがちな笑みをのぞかせて、彼女はうんと頷いた。

 やがて、途切れた会話を嫌うかのように立ち上がったのも、彼女だった。
 わたしも寝るわ、と隅のベッドで眠る弟子に視線を向ける。それがこちらの視線を避けたように思えたのは気のせいに違いない。どうもおかしな主観が入り込んでいるようだ。
 妙に頼りなさげに見えた背中――まだ自分だけ、回復していないのかもしれない――に就寝の挨拶を投げる。振り返らずに返事が戻った。
(……ん?)
 ドアが半開きのままで止まっている。ドアノブを掴んだ少女が、そこに立ち止まっていたからだ。
 とりあえず、待つ。彼女のしたいようにすればいい――彼女が回復するのなら、何でも。
「オーフェン」
「何だ?」
 ノブを握ったまま体を反転させた彼女の、金髪がさらりと流れていく。やや強張った表情で、ゆっくりと口が開かれた。
「わたし、神様はいないと思うの」
「……?」
 唐突といえば唐突で、いつもどおりといえばいつもどおり。彼女らしいといえば彼女らしいが、その表情だけはどうにもそぐわない。ちぐはぐな印象を受ける。
 こちらの無言を相槌と取ったのか、何の脈絡もない話題が継続される。
「ライアンが言ってた……神はいないって。だから奇跡は起きないって」
「ああ」
 思い出した。
 きっとこの少女に一番伝えたかったのであろう、末期の言葉。
 もしかしたら、あの男はさほど未練を残さなかったのかもしれない。愚鈍な推測だろうが。
「わたし、奇跡が起きればいいって思った」
 ばたん、とドアが閉まる。彼女の手はノブから外れ、力なく垂らされていた。
「神がいないって思うのに、それに頼ろうとして……そこに「ない」ものから、自立してないのよ、わたしたち」
 気が付くと一人称が複数形になっている。
 複数の括りはおそらく、ここにいる人員をさすのではなく、人間種族全体をさすのではないか、と推測した。そして、それは間違っていなかったらしい。
 通常、この大陸では「神」は信じられていない。信じているのは一部の地域――最北の教会くらいだった。
「今みたいに奇跡が起きないことがわかったのが「絶望」だって、……オーフェンは、「絶望」する?」
「……俺は」
 一拍置いて発した声は掠れていた。
 単に喉がつまっていたことに気付かなかっただけだが、これではまるで返答に窮しているように見える。そんなことは……ない、はずだ。
 彼女がそれをどう取ったのかはわからなかった。ただ、咳払いをしようとするより、彼女の二の句の方が早かった。
「わたしは、「絶望」しない」
 彼女はきっぱりと、けれど震える声で断言した。
 それは自分へ向けての宣言なのか、あの男への手向けの言葉なのか、揺れる瞳からは判別できない。
「……そうしたくない、から」
 本当に小さく、理由が付け加えられる。
 咳払いを忘れて言葉を探していると更に、それにさ、と続いた。
「人がみんな、「絶望」するわけじゃないわよね? 今はこのことを知らない人が多いから人は「絶望」してないけど、でもみんな知ったからって人が全部「絶望」するわけじゃない」
 気が付くと彼女の頬は紅潮していた。声色がやけに熱っぽく、勢いそのままに言葉が紡がれているようにも思えた。
 多分、そうなのだろう。
「だから、「絶望」は絶対じゃないの。みんながみんな、「希望」を捨てるわけじゃない」
 ようやく彼女は言葉を止めた。息継ぎもせず喋ったからか、呼吸を荒く繰り返す。
 ゆっくりと収まってゆく息遣い。それが元に戻っても声が発せられないのは、自分の意見を待っているからだと気付いた。
 揺れていた瞳は一点を見つめている。他でもない、自分を。
「……ああ。そうだな」
 負けじと見つめ返す。碧の瞳はいつものような、揺るぎない何かを灯し始めたように思えた。
「お前がそう思うんなら、誰もが「絶望」するわけじゃないんだろう、きっと」
 「絶望」の第一人者のような男から。
 その存在全てをもって、「絶望」をその身に教えられたお前が言うのなら。
「そうしたくないんなら、そうすればいい。……お前ならできるさ」
 これは、嘘偽りない本心だった。心の底からそう思い、そう信じていた。
 自分の真摯さがどこまで伝わったかは、やはりわからなかった。同情や慰めといった優しい嘘だと思われたかもしれない。
 やがて彼女は、言った。
「うん。ありがと、オーフェン」

 その顔には、小さな笑みが確認できた。



*****



(思ったより早かった……か?)
 何がといえば、立ち去った少女の回復具合である。
 少し考えて、しかるべき比較対照――基準が見当たらないことに気付いた。だいたい、早いか遅いかわかったところで、どうということもない。
 彼女は自分なぞが助言しなくてもきちんと道を進める人間だ。今回は単に、「石橋を叩いて渡る」、そういうことだろう。
 あの事件はそれだけ、彼女すら迷わせる重きものだったのだ。
 それもよく考えれば当然のことだ。良家の子女として普通に過ごしていたなら、あのような事件に遭遇することもなかったのだから。「良家の子女」が彼女を的確に表現するのかは別としても。
 彼女の人生において、完全なるイレギュラー。
 だからこそ迷わない瞳が戸惑いを見せて、自分のところまで確認を取りに来たのだ。
(……見事にやってくれたもんだ)
 あの少女は誰にも陥落できない難攻不落の城だったのだ。それをいともあっさりと、自分の目の前で。
 決めたのに、何もできなかった、自分の前で。
(もう二度と、そんなことはやらせない。同じ失敗を二度繰り返すほど、俺は愚かじゃない)



 反省と悔恨と再度の決意をないまぜにして、オーフェンは大きく息を吐き出した。