彼の手引きで、聖域に新しい集団が入り込んできた。中には、見知った顔も居る。
集団は少ない体力ながらも抜群の統率力をもって、着実に奥へ奥へと進軍していく。
途中で一人――と、一匹――が群れから離れた。誰も追う者はいない。そんな余裕がないのだろう。
彼はそのはぐれ者に見向きもしなかった。いや、ちらりと目は向けたようだったが、すぐに興味を失って他の事へ集中を向けた。
(……バカね)
彼女を取るに足らない存在だと判断したのだろう。
それは何よりの愚行だ。たぶん。
(だから貴方はあと一歩のところで裏をかかれるのよ)
今みたいに。
*****
一人聖域内をひた走る彼女は、迷うことなく先へ進む。途中で一匹と別れる時にはいくばくか躊躇したようだったが、諦めてさらに走り出す。そのスピードは落ちるどころか上がりつつある。
目指す先はきっと「ここ」。わたしと彼と、彼の級友だという人と、3人でただその時を待っている部屋。
正確に回廊を移動していくそれに、彼が気付いていないはずがない。彼女の目的は否が応でも理解しているはずなのだ。
だのに、やはり彼は何の反応も示さなかった。
本当に馬鹿なのだろうか?
(まあ、いいわ)
仮にも自分の元夫なのだ――憎むべき。
(そうしているといい。何もかもが思い通りに行くだなんて、そんなことはありえないのよ)
小さく笑って、ロッテーシャは彼女へと注意を移した。
クリーオウ。
クリーオウ・エバーラスティン。彼女の名前。
ひょんなことから出会った彼女は、正直に言えば変わった人間だった。
行動は全て大胆。なのに妙に細かい所へ気を配る。けれどその焦点はどこか外れている。
そんな彼女の気の遣い方は、お世辞にも両手を広げて歓迎できるものではなかった。だが、それが嬉しくないといえば嘘にもなる。これ一つと決められない、不思議な両面を持つ温かさ。
(うまく言えないわね)
思いは心に、おぼろげな形でしっかりと存在はしているのに。
(……そう、迷惑と言えば迷惑かもしれないけれど、でも突っぱねることもできない)
そうして過ごしていくうちに、それはいたく心地よいものに変化していった。
彼女の優しさは非常に不器用なカタチをしている。そのことに気付いたのは何時だったか。
(だからこそ、彼女には笑顔が必要だわ――)
そうしたら自分も少しは救われる気分になれるかもしれない。自分は心から、彼女を助けてあげたかった。
否、助けてあげたい。今すぐにでも。
(これはわたしの意思。あなたに支配された思いじゃない、紛れもないわたしの意志なのよ)
この小さな綻びに、彼はまだ気付かない。
*****
ディープ・ドラゴンと別れたというのに、彼女は道一つ違わず進んでいく。
それをもたらしているのは、クリーオウとレキ――人間種族とディープ・ドラゴン、両者の存在の同化に他ならない。
離れていても二人は一つ。自分には決して手にすることができない、羨むべき関係がそこにある。
けれど二人は互いを引き剥がすためにここに来た。
主たる彼女の思いに従って、従たる大陸最強の生物は動いている。自分の体を――彼女を動かしている。
(ある意味、わたしとクリーオウは同じなのかもしれない)
操られるもの。そして何かを操るもの。
自身が望んだ自覚なしに、思いは現実へ作用する。その経過や結果が、歓喜に満ちていようと残酷であろうとおかまいなしに。
「そうしている」という自覚がないから、止めようにも止められない。止めようとする何かを、勘違いした形でしか見ることができない。
と、そこで気付く。
(いいえ、違う……明らかに違っている、わたしたちは)
クリーオウはあくまでも主である。それに従うが故に、レキは彼女を操っている。
体だけでなく、心まで一体化した存在。濁ることも歪むこともなく、均等に混ざり合ったひとつの完成した形。
それが実現しているのは彼女たちの心が通じているからだ。
だが自分たちはどうだろう?
互いが互いを騙し合い、混ざることもできなければ、同じ方向を見ることすらままならない。心など通じようはずもない。
だって未だに自分は、彼の心なぞわかっていないのだから。
(伝えられても納得できないのは、わからないのと同じなのよ)
彼女が、最奥の扉へと辿り着いた。
そこまで来れた彼女ならあの扉を開けるのは訳ないことだった。
でもその先にある、「ここ」へと通じる扉は開けることができない――何故なら閉じているから――彼は、そう思っている。
(ああ……そういうこと)
今更思い当たった。何故気付かなかったのか。とうとう現れた彼女に、気を取られすぎていたのかもしれない。
彼はずっと自分と同質のものを見ていたのだ。
彼女に近づくべく、的確な道案内をしている者を、彼はずっと監視していたのだ。
あの無神経な魔術士を伴った、最接近領の領主を。
(結局、あなたもクリーオウを気にしていたの?)
この二人が追っているのがわかっていたから、彼女を止めようとはしなかったということだろうか。まさか、全てお見通しだったということなのか。
ちりちりとした焦燥を感じる。
(でも……でも、気付いてない)
綻びに。さっきよりも大きくなったそれに、彼は全く無頓着だ。大丈夫。
だって彼は――さっきから、自分を見ていない。
魔術士が彼女に手を伸ばした。
彼女を助けるのはきっと、あの魔術士の役割なのだ。自分ではない。
(それでも、あのひとよりもわたしが向いている場面だってある)
事の成り行きに集中する。タイミングを見計らって、彼に気付かれないように。
ここまできてもやはり魔術士は無神経なままだった。いちいち墓穴を掘るひと。何もわかっていない。
――彼と同じ。
領主に食ってかかった後、彼女は眼前の扉を開け放った。そのまま一直線に、こちらへ向かってくる。
さきほど開けたばかりの最後の扉へ。
*****
瞬間、彼女は泣いているのかと思った。直に見ると涙はまだこぼれていない。けれど、今にも泣きそうな顔で、きつく前方を見据えている。
その先に居るのは彼。元夫。エド。わたしを支配するひと。わたしが支配するひと。
そして――わたしを裏切り、わたしが裏切ろうとするひと。
もうあの笑顔が見れないことを悔やみながら、そっと彼女に伝える。
(わたしはあなたが好きだったわ、クリーオウ)
きっとそれは羨望と呼ぶべきもので。
そう在りたいと思ってやまなかったもので。
(だから――最後に、会えて良かった。仕返しの一部に組み込んでしまったことは謝るわ。ごめんなさい)
でも安心して。あのひとが来るまではわたしがあなたを守るから。
ロッテーシャが呟いた直後、領主――続いて彼女の救世主が、この地に降り立った。