オーフェンの硬直は、まぁ彼にとっては当たり前だった。
クリーオウの硬直は、迅速な彼女にしてはその後の行動に対する対応がやや遅かったかもしれない。
二人はしばし見つめあっていた。1ミリほども動かずに。まるで色つきの精巧な石像とでもいうように。彼等の身体を流れるものは冷や汗だろうか、あるいは全く違う緊張の汗だろうか。
二人の距離は離れている。互いの顔が確認出来ないほど、ではないが、場所が場所だけに表情がわからなかった。
どちらが早く動くのか。それが問題ではない。……いや、それが今後の運命を決めかねないことかもしれない。オーフェンの未来。クリーオウの動き。それら全てがその場の光景を一変させるものになろう。
別に誰が悪いわけでも、何が気まずい雰囲気にさせようが、ここが責任をとることはない。
むしろ、彼等の不注意だった。
湯煙に巻かれて全身を確認出来ないが、そこには間違いなく彼女がいるだろう。しかも『温泉につかる寸前の彼女』が。
オーフェンは腰にタオルを巻いたままの姿で自我を保ちつつ、やっと動こうとした。
だが、どう動けばいい? 何をすればこの場の危機を回避出来る? おそらく人生で最大級のピンチだ。本気で命を落とすような状況だ。彼女が叫べば後は無い。思えば暗い人生だった……。
(じゃなく!!)
首を左右に振りながらオーフェンはやっと口を開いた。魔術付きで。
「すまんクリーオウ! 混浴だとは知らなかった!!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
クリーオウはバッと頭の上のレキを持ち上げ、悲鳴を上げていた。
──だが、その時だった。さらに最悪の場面が訪れるのは──いや、ある意味幸運かも知れないが──
はらりと、何かが舞い落ちた……。
オーフェンとクリーオウの視線が一カ所に集まる。クリーオウの目線は真下へ、オーフェンは真っ直ぐに向けられたまま全てが真っ白になりつつ……。
クリーオウはレキを持つ腕を上げたまま、オーフェンは防御魔術を展開させるために両腕を前へ突きだしたまま……。
落ちたのは、バスタオルだった。
レキの目が光った。……どことなく怒りマークがレキの頭に浮いている気がする──錯覚なんだろうが──死という言葉を眼前にして、オーフェンはようやく我を取り戻した。
しかし、時既に遅し──
「光輪のよろ……え、お、おいこらちょっと待……ぎゃあぁぁぁぁっ!?」
「だから泊まるのはやめようって言ったんですよ。こうなることは目に見えてわかっていたんですから」
呆れたような、諦めたような、そんな複雑な表情を作りながら彼、マジクはぼやいた。
「うるせ」
ベットで横になりながらオーフェンは毒づいた。ちなみに彼は全身包帯だらけのひどい格好である。最大級の防御魔術を展開しても、『最大級』の暗黒魔術の前には手も足もでず、ただひれ伏すしかなかったのだ。
オーフェン達が泊まった宿屋は、特別に格安だった。なにせオーフェン達が別個の部屋で泊まることができたのだから、その安さを知ることができるだろう。しかも露天温泉付き。これ以上望むことがあるだろうか? と思いたくなるほどだ。実際これ以上彼等は望まなかった。オーフェンなんか特に、これだけでも何か裏があるんじゃないかと疑ったほどだ。
「お師様は貧乏性ですからねぇ」と勇気ある発言をしてくれたマジクがしばき倒されたのはつい先程である。
宿屋は安い。部屋は別。いつでも入れる温泉付き。
これはもう最高だ。
ただし、問題が一つだけあった。
そう、たった一つだけ……。
「くそ、混浴だなんて聞いてねぇぞ。看板もねぇし……」
「看板が古くなったから取り替えてる最中だなんて、普通思いませんもんね」
ここの女将さんに風呂はどこだと聞いたら『ああ、お連れさんと入るんですね。だったらこちらですよ』と妙ににこやかに応えてくれた。だが、そのぐらいで普通疑問に思うだろうか。お連れというのもてっきりマジクかと思っていたし……。オーフェンは迷わず服を脱いでタオルを腰に巻いて入ったのだ。
しかし……、そこにいたのがクリーオウだったのだ。今思うと彼女は裸だったのかもしれない。そう考えるとオーフェンは一瞬硬直し、頭を思い切り左右に振った。むしろ先程のタオルが落ちた瞬間のイメージが浮かんでは消え、どうにも思考がまとまらない。
その後は先ほどの通り。今はベットに伏している。
あとこの宿屋、妙なことに客が少ないのだ。オーフェン達以外の客はちらほらと見当たるが、こんな好条件のところが混まないはずがない。そう、何か特別なことがない限り。
「飯が不味いんじゃないですか?」
弟子に、自分が考えたことを言うと、あっさりと答えが返ってきた。
「そんなもんなのか? まぁいいや、その飯を食いに行くぞ。お前も来るだろ?」
「動けるんですか?」
「歩く程度ならな。あまり速くは動けないが……」
立ち上がるのに一苦労したが、食堂ぐらいには行けるだろう。
気楽に行こうとしたのだが、そこに彼女が待ちかまえているなど微塵も考えていなかった。一つのテーブルを陣取るように椅子に座っている彼女が、来たばかりのこちらに気付く。
「ぐぉっ、クリーオウ……!」
一歩引きながらオーフェンが呻くと、彼女はじろりと睨んで来た。
「……」
ガタッ、と席を立ち上がり、彼女は何も言わずに食堂を出ていこうとすると、慌ててウェイトレスが呼び止める。
「あの、お客さん? ご注文をお運びしたんですが……?」
「部屋で食べるから持ってきて。代金はあそこにいるオーフェンから受け取ってちょーだい」
「待てこら!」
叫ぶために前のめりになったが、それが引き金となり全身に激痛が走り、椅子にへたりこむ。
しかし、そんなオーフェンの抗議の叫びを無視して、彼女はさっさと借部屋へと戻っていった。
「ったく……、なんだってんだ、あいつは」
なるべく身体だけは動かさないようにして、オーフェンは呻いた。
「そりゃ怒りますよ。僕の時は本気で殺されかかったんですよ。お師様はまだいいほうです」
「お前の場合は故意にやったんだろーが。俺は事故だぞ事故」
オーフェンは仕方なく座って注文した。飯も格安だった。
味は……、まぁそれなりだった。
「午後10以降鍵は絶対にちゃんと閉めてください。お願いします」
夕飯を食べ終え、一息ついたところで、いきなりそう言われた。ウェイトレス(服装が見たこと無い服装なので、そう言っていいのかわからなかったが)は注文を書き記した紙を持ってレジへと歩いていった。
「……なんだか、管理だけはしっかりしているようですね」
「だな……」
あの女性から感じた笑顔の奥に潜んだ鬼気迫る迫力が、ただの管理だけなのかどうかは彼等にはわからなかったが、とりあえず気にする必要はないだろう。
「ンじゃぁ、俺は身体の節々が痛いから寝る。お前は?」
「今日は講義ないんですね」
「師匠が怪我で寝たいといっているのを、弟子は気遣うもんだろうが。え?」
「僕がいくらヘバっていても気にもしないくせに……」
「弟子なんてそんなもんだ。諦めろ」
「うう……」
オーフェンはやっとのことで部屋に戻ると、すぐベットへ横になった。バタンと倒れた時の衝撃で鈍い痛みを感じたが大したことはない。
それに疲れている。レキに魔術で吹き飛ばされたからだ。
そんなわけで、彼はゆっくりと眠りについた……。明日、どうやってクリーオウの機嫌をとろうかを夢うつつに考えながら……。
「きゃぁぁぁッッ!?」
ッヅドゴォォォォォォォン!!
突然の悲鳴。そしてとてつもない大音量の爆発音。オーフェンは目を覚まし、慌てて飛び起きた!
隣の部屋からだ。かなり大きい。何かあったのだろうか!?
(隣……っていうと、クリーオウじゃねぇか!)
そう判断した彼は、身体が痛むのを無視して駆けだした! 急に起きたのでまだ身体がだるいが(むしろ痛いが)、そうも言ってられない! すでに昼間のもやもやは、すっかり頭の中から消え失せていた。
いきなりの甲高い悲鳴だ。客が少ないホテルとはいえ、少しはざわめく気配が生まれる。
部屋を飛び出してから、すぐにクリーオウの部屋まで行く。鍵のかかっていない扉を蹴破って中に飛び込むと、そこには床にへたりこんでいるクリーオウが呆然としながらオーフェンを見上げていた。
「どうしたんだ、クリーオウ!」
「い、今……、変な男がいたの。それで悲鳴を上げてレキの魔術で吹き飛ばしたんだけど……」
「何もされなかったか?」
「ちょうど目を覚ましたところで入ってきたから、何もされてないわよ」
オーフェンは安堵の溜息をつく。彼が振り向いた先の窓を見ると、見事にぶち破られている。どうやら衝撃波か何かで吹き飛ばされたらしい。オーフェンはちょっとだけ相手に同情したい気分になった。
「鍵はかけてなかったのか?」
「うん……、なんかめんどくさくて」
「お前なぁ……」
……と、そこでオーフェンは初めて気付いた。今のクリーオウの格好に。
「……う」
一応彼女はパジャマの代わりに浴衣姿だった。……が、寝相が悪かったのか、際どい格好になっている。片肌と太股ががちらりと見えているほどだ。浴衣の紐がほどけているのかどうか、さすがにそれは確認出来なかったが……。艶やかな、年頃の少女が見せる肩と足に、オーフェンは思わず硬直した。
幸い部屋が暗かったので顔色は見えていないはずだ。見えていたらそれこそ恐ろしい。
(お、恐ろしいって……、何に対してだよ。俺は別に何もしてねーだろ!)
今日一日なんだかおかしい思考を正常に戻そうとするが、それでも胸の中の鼓動は収まりそうもなかった。それはなぜだろう?
──クリーオウが色っぽく見えた?
「く、クリーオウ。今度はちゃんと鍵をかけて寝ろよ。いーな!」
彼女に悟られる前に、逃げるようにさっさと部屋を出ていくオーフェンであった。途中マジクに出会ったが、すぐさま部屋に戻るよう言って聞かせたのは言うまでもない。
「……なんなんだ、今日は……」
なんだか恥ずかしい気分になって、オーフェンは頭をかきむしった。
そしてその晩、彼が眠りについたのは結構時間が経ってからだった。
寝ることが出来ない……。いや、一応は寝たか。
半眼になりつつも、呆然とそんなことを考えながらオーフェンはシャツを着て、食堂へと向かった。
朝早く起きてしまったオーフェンは、昨夜のことを一部始終女将に話した。すると彼女はあまり驚いた様子もなく、平然とこう言ってのけたのだ。
「ああ、出たんですね。この辺りそういった野党が多くて。鍵さえかけてればまず部屋に入らないんですが、もしそうでなかった場合、観光客はかっこうの獲物になりますからねぇ。だからうちは客が少ないんです。……あら、今朝はあのお連れのお嬢さんと一緒にお風呂に入らないんですか?」
「昨日はそれで殺されかけたんで……」
オーフェンの皮肉も混じったその言葉を冗談と受け取ったのか、彼女は「ほほほ」と笑って奥へ引っ込んでいった。
「ったくよ……、自警団か何かいないのか、ここは? なんでそう簡単に野党が入ってこれるんだよ……」
よくよく考えたら怖い話だ。
ぶつくさと文句を言うオーフェンだったが、食堂の出入り口で気配を感じ、そちらに首だけを向ける。
「あ、オーフェン、おはよー」
「え、あ、ああ……」
ちょうど食堂に来たクリーオウが元気に挨拶を交わしてきた。昨日の険悪さはどこに消えたのか、すっかり元に戻っている。
「ねぇ、今日はあの森へ出掛けない? いいでしょ!?」
この宿屋の側には広大な森が広がっていた。それは来る途中見てきたので存在は知っていたが……、正直朝からそんなところへ行こうと思う気にはなれない。クリーオウがその時から興味津々だったのは傍目でわかったが、それでも今は身体が痛くて行こうという気力がわかない。
「お前な、俺達は遠足に来ているわけじゃないんだぞ? わかってるのか?」
「似たよーなもんよ」
「似てないわい!」
「じゃぁ、同じ」
「ことさら違う!!」
「いーきーたーい~! 昨日、窓から覗いたらすっごい綺麗だったのよ! 行かなきゃ損だって絶対というわけでこれはもう行くこと決定よね! じゃぁご飯食べたら早速GO!」
「めちゃくちゃな理論で勝手に決めるなぁぁぁぁっ! ったく、行くなら1人で行け。俺は行かない。というか行けないんだよ」
「なんで?」
「……本っ気で聞いてるんだろうな、それは?」
「もちろん」
何の悪気もなく、彼女は頷いた。オーフェンは頭を抱えたくなる衝動にかられたが、あくまでそれを抑えてから、
「……身体中が痛ぇんだよ。行くなら1人で行けよ。マジで動けないんだ」
「あ、そう……。仕方ないわね。それじゃ私だけで行くわよ。レキも置いてくから」
「待て、なんで置いていくんだ?」
「オーフェンが1人で美味しい物を食べないようにするための見張り番よ。決まってるじゃない」
「決まっとらんわ!」
バン! とテーブルを叩いて叫んだが、机を叩いたことが災いして、その衝撃が身体中に走る。彼は痛みに呻きながらテーブルに突っ伏した。
その間に朝食をさっさと食べ終えたクリーオウは、まだ痛みの余波で呻くオーフェンの肩を叩いて(それがまた身体に響く)から、パタパタ手を振って出ていった。
「それじゃ行ってくるね~!」
クリーオウが出ていってからおよそ10分後、ようやく激痛から逃れることに成功したオーフェンは、注文した料理を口に運んでいたところでいきなり女将に声をかけられた。クリーオウが出ていった先に視線を向けてから、少しの間考えるようにして、オーフェンに視線を戻す。
「あらまぁ、あの娘、1人であの森に行ってしまわれたんですか?」
困ったような表情をして、女将はそう言った。
「なんで? 何かあるのか?」
「あそこ、野党の巣窟ですよ」
『ああ、蟻の巣があるんですよ』みたいな感覚であっさりと言ってのける。
「……」
たっぷり3秒間ほど考えてから……、
「……なんで止めなかったんですかっ!」
「いやまぁ、冗談かと思ってねぇ」
困ったような笑みを浮かべながら、女将。オーフェンはつい怒鳴っていた。
「どこからどう見たらあれが冗談に見えるんだ!?」
「ふぅ……、これも若さ故の過ちってものね。私も困ったものだわ」
途端に浮かんだ「どう見ても40歳は越えてるだろ、あんた」という台詞だけは胸の奥にしまって、オーフェンはこれ以上この人と言い争っていても色んな意味で時間の無駄だと思い、すぐに駆けだした。しっかりとパンだけは口にくわえながら。
クリーオウに何かあったら、全員ただでいかしてやるわけにはいかねぇな、と頭の中で無意識にそう考えていたのだが、それがどういう意味を含んでいるのか、彼はそこまで考えてなかった。
「まったく……、私がせぇーっかく誘ってあげたのにオーフェンてばあんな態度とるんだから」
凛と静まり返った森の中で、人が通る分だけ舗装された道をクリーオウは1人で歩く。ほどよい湿気と冷たさに、目の覚める心地よさだ。今までオーフェンに対してもやもやしていた気分の悪さを一掃してくれるような、そんな場所でもあった。とにかく気持ちいい。
でもなぜか誰もいない。これなら朝の散歩にはもってこいのはずなのだが……。それが気になる。 バッグの中身は水筒と汗を拭くためのタオル(しかも大きめがいいと勝手に判断し、バスタオルなのだが)、そして少々のお金であった。クリーオウがその気になるほどの散歩道に、誰もいない。
「ま、いっか」
深く考えないことにしよう。
これ以上考えているとまたオーフェンを思い出してしまう。今だけは彼のことを忘れて、たった1人でこの道を歩くことだけ楽しもう。そう思っていたのだが……。
「……あれ?」
彼女の足がふいに止まった。
確かこの通りは地図で見た限り、一本道のはずだった。ぐるりと山の中を一周するだけで、およそ1時間ほどで回れる散歩コースだという記憶もある。だから迷うはずもないし、それだからこそ彼女もここを歩こうと思っていたのだが……。
では、この横に通っている1人分だけ通れるような小道はなんだろう?
「……?」
怪訝に思いながら、そちらをじっと見つめる。
奥の方でなにやら煙みたいなものが立ちこめているようにも見える。が、よくわからない。何しろここら辺は煙り臭くないので、あれが煙だという証拠がどこにもない。
「人間って探求心は必要だと思うのよ」
……ここで行かなければいいのだが、たったそれだけでも彼女の好奇心をくすぐるには十分だった。
彼女はちょっとだけ足早に歩を進めながら、奥まで行ってみる。
奥はひらけた場所だった。そして、顔を覆うほどの熱気。思わず呻き声がでてしまう。
「臭い……?」
腕で顔を隠していたが、すぐに慣れて腕を降ろす。
そこは、温泉だった。いや、温泉が湧き出ているのだ。煙だと思っていたのもが実は湯気だったのだ。腐った卵の匂いもこれで納得がいく。地面が濡れているので注意してお湯のところまで歩いていった。
「こんなところが……」
岩で囲まれたお湯に手を突っ込んでみる。少し熱めのほどよい温度加減だ。これは絶対に気持ちがいい。
「入ってみよっかなー。でも誰かが来るとヤバいよね」
う~ん、と頭を悩ませる。一応誰もいないとは思う。確信こそ無いが。この温泉が誰かの所有しているもの……というわけでもなさそうだ。天然だろうし、なにしろ身体中が少し汗を掻いていた。シャツが肌にべっとりとくっつくので、あまり気分が良くない。
(よし)
彼女は一つ頷くと、入ることを決心した。幸いタオルは持ってきている。
服を脱ごうと手をかけたところで……。
突然背後で気配を感じた。
「だれ!?」
慌てて振り返る、とそこには数人の見掛けない人間が、温泉で彼女を挟むようにして取り囲んでいたのだった。
「……へっへ、なんだ、こんな可愛いお嬢さんが来てくれるとは思ってなかったぜ」
下品な声で喋る中年の男。いかにも悪そうな雰囲気と服装だ。どこまでも嫌な予感がする。
「どうする? 折角来たんだし、温泉にでもつかせてやるか?」
「そうだな、ちょうど入ろうとしていたところだったみたいだし」
男の目つきが不気味に曲がる。どこまでも下心丸出しの目だ。クリーオウはムっとして、つい怒鳴る。
「なによあんたたち! 覗こうとしてるわけ!? 女の子の温泉覗くなんて変態じゃないの! ていうか変態というより狂った変質者って感じだわ! 人間として最低よ最低!」
「なっ……!」
ビビっているのだろうと思っていた女の子から、これほど威勢のいい罵声が飛んできたので、男達は一歩たじろんだ。
「さらに女の子を数人で囲んで、何する気だったのよ! これじゃ変態どころか蛮族未満ていうより生きてる価値無しってところよね!」
「こ、この……! 言わせておきゃぁ……!」
じりじりと男達が躙り寄ってきた。クリーオウも後ろに下がる。が、いきなし片足に熱を感じ、慌てて引っ込める。
(温泉……!?)
後ろは温泉だった。そこを突っ切って逃げればいいだけなのだが、服が濡れるのはなるべく避けたい。そんなことは言ってられないのが今の現状なのだが。
それになにより、囲まれている彼女に逃げ場がなかった。
「そこまで言っちまったんだ。覚悟は出来ているんだろーなぁ……?」
ひょろりと伸びた男の舌が、自分の唇をねろりと舐めた。かなり気持ち悪い。彼女も思わず青くなるほどに。
「そういやこの女、昨日俺が忍び込んだ部屋にいたやつじゃねぇですかい?」
「おお、そうなのか。昨夜は邪魔が入ったからな。つーことはなにか、今日はリベンジってわけか。くく、いいだろう。野郎共! 身ぐるみひっぺがせ!」
細長い男が命令すると、男共が一斉に襲いかかろうとし……
「我は流す天使の息!」
ゴゥッ!
為す術もなく、何十キロもあり武装までしている男達の身体を、いきなりの突風が吹き飛ばしていった。地面を転がり、頭を打って声にならない声を上げ続ける。突風に巻き込まれ、クリーオウも温泉へと落とされてしまうが、彼女はすぐさま立ち上がった。シャツが濡れてしまったので多少肌が透けて見えているが。
「ンな!?」
仲間に何が起こったのか理解する前に、男共が慌てて振り返る!
「オーフェン!」
「ったく……、いつもいつも手間掛けさせやがって。ほれ、黒い毛玉持ってきてやったぞ」
オーフェンが痛みを堪えつつも何気なく歩いてレキをクリーオウの頭に乗せる。レキはやっと自分の場所が戻って嬉しいのか、クリーオウの頭の上で自分の頭をこすりつけた。
「さてっと……、久しぶりに暴れることが出来るからな。手加減無しでいかせてもらうぜ!」
オーフェンは凶悪に微笑むとさっと右腕を前方にかざした!
「我は放つ光の白刃!」
垂直に伸びる光の道筋が、1人の男を撃ち、そのまま地面に突き刺さって爆発する!
「まずは1人!」
間髪入れず、今度は二人で固まっているところを薙ぎ払う!
「げげ、楽しんでますよ! あのヤクザ!」
「ぬ、ぬぅ……! どうやら人をいたぶることに快感を覚えているらしいな」
「覚えるかぁぁぁぁぁぁっっ!!」
なにやらぼそぼそ呟いていた二人を最大級の魔術で黙らせ、オーフェンは振り返った。
「快感を覚えるっていうのはだな、問答無用で相手が有無を言わせないぐらいの破壊力で黙らせてにやにやしている奴のことを言うんだよ! わかったか!!」
「てか、正にその通りじゃないか、あんた……」
最後の力を振り絞って指摘してきた男の言葉を、オーフェンは汗を一筋流しながら聞き流した。
「さて、残るはてめぇ1人だけだぜ」
にやりと笑いながら、ひょろりと長い舌を出す男に向け、魔術を放とうとするが……。
男の口端が不気味に吊り上がった。
オーフェンは危険を感じ……、相手の『構成』を見て取ると慌てて防御に切り替える!
「我は紡ぐ光輪の鎧!」
「硫黄の剣を!」
わずかにオーフェンのほうが早かった。
魔術同時がぶつかりあい、光が捻れ、爆発が起こる!
「ちっ……!」
その爆発が収まらぬうちにオーフェンは相手の懐まで入り込もうと駆けだして、煙の奥から見えるぼんやりとした姿を確認すると、そのままブーツで顔面を蹴り飛ばそうとする!
しかし、相手の反応の良さを見誤っていた。なんと、しゃがんであっさりと避けたのだ。もちろんオーフェン自身の身体が痛んで多少動きが鈍くなっているとはいえ……。
「なっ!」
オーフェンは驚愕に目を見開かせた!
「まさか……!」
「へ、なんでぇ、度肝でも抜かれたか!?」
男が抜き出したナイフを垂直につきだしてくる。最も単調で、この距離なら最も逃げにくいナイフの攻撃だ。しかし、オーフェンはいたって冷静に、半歩だけ横にずれ、身体を捻ってやり過ごすと相手の溝に自分の右手を軽く触れさせる。
いや、触れたと思ったのは見間違いだ。
ズガン!
地を割るような音。
突如、凄まじい力が腹部に溜まり、爆発的なものと化して男を1メートルほど後ろへ吹っ飛ばした。男はもんどりうって地面を転がり、仰向けになって倒れる。
「てめぇ!」
オーフェンは怒りマークを頭に浮かべながら、男に詰め寄った。
「やられ役のくせしやがってなんでこんなに強ぇんだ! さっさとやられればこちとら楽だっていうのに、わかってやがんのかコラ!!」
「知るかぁ……っ!」
呻くようなツッコミを入れる男。
「よし、そんじゃぁこいつら縛り上げてさっさと警察にでも何にでもしょっぴいちまおうぜ。これで一件落着ってな」
「ダメよオーフェン! まだ後ろ!」
「……!」
クリーオウが叫んでいた。オーフェンが振り返る!
今倒したと思った男が立ち上がり、右腕を振りかざして何かを叫んでいる!
「温泉卵の熱さを!」
この不意打ちに対し、オーフェンは何かをしようにもわずかに反応が遅すぎた! いつものように身体が動かなかったのだ!
だが……!
「レキ! お願い!」
緑色の光が視界を覆う! 埋め尽くす!
絶対的な力は、人間の魔術が敵うものではない! 上手くいけば助かるはずだった。上手く行けば。
問題は、ほんのちょっとだけ目標からズレていたことだろうか。
「どぁぁぁぁっっ!!」
男の足下の岩が砕け散り、人間の赤ん坊ほどもある石がオーフェンの頭部に直撃した!
オーフェンはその一撃で気を失い、崩れ落ちる。
「ディ、ディープ・ドラゴン……ッ!」
背筋が凍る思いだろう、男はぞっとしながらもそう呻いた。
「オーフェン! 大丈夫!?」
クリーオウがオーフェンの元へ駆け寄る! オーフェンはぐったりと伸びていた。頭部を抱えると、彼女の手の平にべっとりと生ぬるい液体が張り付いた。頭から何か赤い液体……それは血だ、血が流れ出している。とめどもなく。そして、生々しく。
「……オーフェン!」
「へ、へっへ、だ、だけどな、この湯煙の中じゃディープ・ドラゴンとはいえ、視界に制限かかっちまうらしいな。だったら音声魔術のほうが有利ってわけだ……」
なぜレキが攻撃を外したのかすぐに理解した男は、いくばくか冷静さを取り戻したようだ。
「少しばかし遠いから、そいつの魔術はあてにならんぜ。さぁて、どうやっていたぶってやろうかな!」
最後の大声を媒体に、閃光を放つ! それはクリーオウをかすめ、後方で火柱を上げた。
「……オーフェンは、私が守る!」
その魔術に怯むことなく、クリーオウは叫んだ。
もちろんオーフェンをこんな状態にしたのが自分だということは、すでに頭の中から消え去っている。
クリーオウはオーフェンの膝と首の後ろに腕を回して持ち上げる。つまりオーフェンを抱っこすると、そのまま森の中へ向かって駆けだした!
湯気から脱出しようとしたのだ。それに気付いた男は慌てて魔術を展開し、叫ぶ!
「湯冷めの寒さよ!」
男からクリーオウまで、湯気を裂き目に見えない何かが凄まじいスピードで彼女を襲う!
突如、突風とも冷気ともつかない中途半端な風が、クリーオウの足を止める。ぐったりと気絶しているオーフェンを抱きかかえているので、もう一度走るのは、すぐには無理だった。
むしろ、突風でバランスを崩したことにより、クリーオウが温泉の中へ突っ込んでしまった。温泉から慌てて顔を出して、視界の先にぼんやりと浮かぶ男を凝視する。それから自分の着ている物へ目を動かした。
「ああ、服が濡れちゃったじゃないの!」
そんなことを言っている場合ではないのだが……。
「小娘、少し手こずらせてくれたが、これで覚悟は出来ているだろーな!」
「くぅ……! レキ!」
レキの両目が淡く輝き、爆発を起こす! ……が、目標の手前で爆発が起こったため、男は防御魔術を展開させるだけでやすやすとやり過ごせた。
「無駄無駄! これでちょっと痛い目にあってもらおうかな! 硫黄のつる……!」
「我は放つ光の白刃!!!!」
ッゴゥッ!
男が両手を振りかざす直前、凛とした声が場を制した! そして目を灼くような純白の光が男を巻き込んで地面に突き刺さり、大爆発を起こす!
「……よぉ、ちょっと危険だったかな……」
「オーフェン! 大丈夫だった!?」
「ま、なんとかな……怪我は魔術で治せるからいいが……」
不意に、彼は目を逸らした。
温泉につかってしまった彼女のシャツがどうなっているかは、ここで書かずともよいだろう。
(やくと……ちっっっっがぁぁぁう!! なぜ顔が赤くなる俺!? 相手はクリーオウだっての! ああああくそ思い通りにならねぇ! 顔も鼓動も!)
オーフェンはもう一度ちらりとクリーオウを見る。目を付けた場所が悪かったのか、クリーオウの目線も下へと落ちていき……。
『……あ』
同時にハモった。
「っきゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
こうして、彼は二日連続で暗黒魔術を味わうという、まことに貴重な体験をしたのだった。
彼があの重傷の中、生きていたのは正に奇跡と呼んで間違いないだろう。
「ったく……、ふざけるなっての……」
宿屋に戻り、オーフェンはもう一度ちゃんと温泉に浸かろうと思い、女将に「誰も入れないようお願いします」と念を押してから、身体中でその暖かさを感じていた。暖かさというより熱さなのだが。
身体中の筋肉の痛みを和らげる効力もあるらしい。今のオーフェンにとってそれは最も重要なことだった。
ちなみにあそこにいた盗賊は、この宿屋を脅かしていた連中だったのだが……、規模がそれほど大きいというわけでもなく、それほど大きな被害も出ていないので普段から手の空いていない警察は奴らを後回しにしていたらしい。宿屋へ盗みに入るのも、本当に偶にらしく、女将が大袈裟に注意をしていたということらしいが、それは宿屋の管理人として当然だろう。だが、裏目に出て逆に人が来なくなったのもまた事実である。
盗賊達が守っていた温泉は、彼等が発見し、自分達だけで使っていたのだが……これであそこに温泉宿が出来るのは時間の問題だ。
オーフェンとクリーオウによって一網打尽にされた奴らは後日警察へとしょっぴかれた。今頃警察に絞られている頃だろう。
「ふぅ、疲れた……、たくよ、厄日以外なにものでもねぇな、今日は……」
一応誰かが入ってきたとき用に海水パンツははいてある。
もっとも今は『清掃中』のはずだから誰かが入ってくるなんてあり得るはずがないのだが……。
「オーフェン!」
「ごぶがッ!?」
聞き覚えのある声に、オーフェンは思わず温泉の中で滑り落ちた。
「く、クリーオウか!?」
慌てて姿を探す! 意外なことにすぐ側にいた。ワンピースの水着を着ているらしい。
「1人で入るなんて寂しいんじゃないの! 誘ってくれればいいのに!」
「ば、バカ言え!」
「顔真っ赤よ、どうしたの?」
「やかましい! もう来るな! あっち行け!」
パタパタと手を振って、彼女を追い返そうとするオーフェン。
クリーオウはイタズラっぽく笑い、オーフェンの背中に抱きついた。
「あまり私を邪険にすると、酷いことしちゃうからね!」
「あ、あのなぁ……!」
ここで、言葉が止まる。
別に何事でもなかったのだ。ただ真正面から目が合っただけ。それ以外何もない。
だが、二人の動きが止まった。
「……ええっと、あの……オーフェン、助けてくれてありがとね」
「あ、ああ……」
クリーオウの言葉で、ようやく呪縛から解放されたオーフェンはさっと目を逸らす。
クリーオウは微笑んで……、オーフェンの頬に何かが触れた。
「……!!??」
「じゃ、私先に上がってるからね!」
彼女の頬が火照っている。それがどんな理由からかわからずじまいだったが……。
オーフェンが逆上せて、温泉から助け出されるハメになるのは、これから30分後の話だった。