変りようの無いものが、この世にあったとしたら、それは何なのだろう。
人は変る。それが意識のうちでも無意識でも、いずれは微妙に変っていってしまう。
街も変る。築き上げていたものが壊され、そしてまた新たなものを築き上げたりする。
変りようの無いものなど、この世にあるのだろうか。
(空は、ずっと蒼いのかも知れねぇな)
オーフェンはふとそんな事を思いついて苦笑した。
黒髪、黒い瞳、黒ずくめ。胸から下がる一本足のドラゴンが剣に絡みつく様を象った銀のペンダント。ポケットに手を入れようとして、そう言えば自分がいつも着ている革のジャケットは、溶けてしまったのだと思い出す。
(ちっ・・・新しいもの買う余裕はねぇってのに)
グローブも、先ほどこの街で起こった騒動で無くなってしまった。オーフェンは知らず知らずの内に嘆息していた。
幅の狭い、木製の廊下。木製に見えるのは表面だけであって、実はその裏にコンクリートで補強してあるのだろうが――先程から何人かとすれ違っていた。
消毒液の匂いに眉を寄せる。どうも医学系の匂いは好かない。というのも、医学系の思い出に思い出したい思い出が無いからだが。
ふと、窓の外を見やる。建物の丁度正面玄関の前のベンチが見える。そこに座ってぼんやりとした視線を空に投げている小柄な少女も視界に入った。離れていても、その金の光を一本一本見分ける事が出来る金髪と、空の色と同じ色をした瞳。
見慣れた少女。だが、いつもよりは数段、小さくも見える。
オーフェンは立ち止まると、1つの扉を開けた。少し古臭いカーテンの匂いがしてくる。
四つ並んだベッドのひとつに、彼の目的の少年が上半身だけ起こして座っていた。
「お師様!」
金髪碧眼。自分とは正反対の愛嬌のある顔立ち。少年が嬉しそうにこちらを向いた。
「よお、マジク。怪我の具合はどうだ?」
「はぁ・・・何か死にかけた割には軽傷だと思うんですけど・・・」
マジクは困ったように自分の体をぺたぺたと触ってみせた。オーフェンはベッドの脇に腰掛ける。
(まぁ、あの白魔術士が癒したからなんだけどな)
胸中で呟く。
「あれ? クリーオウは?」
「ああ。お前を迎えに行くだけだったからな。外で待ってるよ」
「そうですか・・・何か顔合わせ辛いですね」
マジクが、複雑な表情をして、俯いた。その視線を追って、オーフェンもベッドのシーツに視線を移す。
「まぁ、普通どおりにしてりゃあいいんだ」
「いえ・・・そうじゃなくって」
どうもこの弟子は考えすぎな事があるようだと、オーフェンは最近思うようになっていた。
考えるのはいいことだ。考えもせずに模範解答ばかり欲しがる者は、どんな才能を持っていたとしても結局はそれを生かしきれず、長生きはしない。以前、皮肉げな何処かの死の教師――今はもう死の教師ではないが――がそれと同じような事を言っていた。
だが、考えるうちにどんどんと下降していくのがこの少年の癖らしい。
「結局、僕は何も出来なかったから・・・」
やっぱり――何となく胸中で苦笑いして、オーフェンは嘆息した。
「俺がお前に教えたのはまだ生き延びる事だけだ。それを成しただけでも――そうだな、まぁ誉れに値するとは言えねぇけど、正直良くやったと思ってる」
「・・・・・・でも」
マジクは勢い良く顔を上げてきた。その緑がかった深い青の瞳に、今にも涙が溢れそうな気配を宿している。
「お師様なら――何とかできたでしょう? 僕はいつも迷うんです。何をすれば良いか、何をすべきなのかを! 僕は迷う。そして結果、何も出来ないんです。僕は――無力だ」
「別に誰しもが迷わないなんて事は無いと思うぞ? まぁ、クリーオウのやつは迷いが在るのか無いのかイマイチ解らんが、俺だって迷う事もある」
オーフェンは言いながらふと、頭では別の事を考えていた。泣きそうな顔をした――それを必死に悟られぬよう気丈に振舞う、少女の事。彼女に何を言えば良いのか、先程は少しだけ迷った。
「ただ俺は決めたから。守りたいものは自分で守るってな」
そう言って、オーフェンは少しずつ思考を目の前にいる少年に移した。少年の蒼い瞳をはっきりと見据える。
「どうせ帰っても同じような安宿だ。明日迎えに来るから、今日はここにいろ。迷ってもいいから――明日はクリーオウと会ってやってくれ」
自分でも妙な事を言ったかと、少々訝ったがマジクが弱々しくも微笑んで頷いたのでオーフェンは黙って部屋を出た。
「マジクは?」
「ああ。一晩泊まるってさ」
「そう」
クリーオウは微笑んで、それから少しだけ俯いた。膝の上にいるレキの背中を丁寧に撫でている。オーフェンは彼女の隣に腰を下ろすと、また浅い溜息を吐き出した。背中をベンチに預けて、空を見上げる。
「ねぇ、オーフェン」
クリーオウも空を見上げているのだと、見るともなしに解った。
「あん?」
「オーフェンって、迷った事ある?」
思わずこけそうになる。人が考える事は考え方は別として根本的なものは結局同じようなものなのかも知れない、と思った。
「私、自分にした事に迷った事って余り無いのよね。でも、今回ばかりは正直、迷っちゃうわ」
笑いながら、クリーオウが言った。本当は泣き声を噛殺すための笑いだと、オーフェンには解っていたが。
「・・・迷った事ぐらいは誰にだって在るだろ。迷ったってしょうがない所で、人は迷うからな」
クリーオウは空を見るのをやめて、オーフェンの方に視線を送った。それを返すように体制はそのまま横目で彼女の顔を見て、オーフェンは続けた。
「マジクは自分が迷うって事に迷ってる。お前は自分のした事に迷ってる」
苦笑して、手を伸ばす。いつもの事。クリーオウの金髪に手を置いた。
「迷わないって方が可笑しいんだ。迷っていい。迷って、そんでもってどうしようもないって解ったら、取り合えず進むしかねぇんだ。結局、人間に残された道ってのは少なくて、立ち止まるか、進む事しか出来ないんだよ。後ろに歩き出す事は、出来ない。」
だからこそ迷う。だからこそ立ち止まる。だからこそ、後ろに歩きたいと願う。
それが叶わない事だと知っていながら――知っているからこそ。
「・・・・・・何かオーフェンってたまには良い事言うわよね。ちょっと年寄り臭いけど」
「やぁかましいわ!」
「冗談だってば」
クリーオウはからからと笑って見せてから、そのまま微笑んだ。
「ありがと」
儚く、消え去りそうなその微笑みを見返して、オーフェンも微笑んだ。
(大丈夫だ。きっと。どうなるかは本人次第。それは解ってるさ。変っていっても、それがどうなるかは本人次第だからな)
掌の温もり。変っていってしまう物。でも、ずっと変らずに傍にいて欲しいと願うもの。
(俺は、自分の守りたいものは、守るから)
守る対象になるものが、どう思っているかは解らない。だが、少なくともそれが成されるまでは、どうにかして、守っていかなければならないのだと、彼は知っていた――