ざわっ……
風が、木々の合間を縫って彼女の髪を撫でた。
クリーオウは片手で長い髪を押さえて、あいているほうの手でそばの木に触れる。かたくあたたかい感触をおぼえた。
風にまぎれて消えた彼女の声が、余韻としてその場に響く。とぎれた言葉はもどってこなかった。彼女が呼びかけた相手が眠っていることに気づいたから。
呼びかけられた青年は、ひときわ大きい木の下で、本を読んでいたらしい。そしてそのまま眠ってしまったのだろう。本は広げられたまま、彼のひざの上で表紙を見せている。
クリーオウはふっと微笑んで、頭の上で尻尾を振っていたディープ・ドラゴンの子供をおろした。
つたない動きで、レキは青年――オーフェンのほうに向かってゆく。そのあとを追うように、彼女もまた彼に近づいた。先に到着したレキ がオーフェンの腕に前足をかけ、首を傾げている。
そばで見下ろしても、反応しなかった。本当に寝てしまったらしい。
クリーオウはしばし黙考した。そろそろ夕食ができるので呼びにきたのだが、どうしたものだろう。こんなに気持ちよく眠っているのを見ると、起こすのはなんだかかわいそうな気がした。
結論は出さずに、クリーオウはちょこんと彼のかたわらに座り込んだ。
木に背を預けているオーフェンのひざから、本を取り上げる。
紐のしおりをそのページに挟み、クリーオウは本を閉じた。目に入ったのは、ワインレッドの無愛想な背表紙。それをさらにひっくり返すと、金の枠に囲まれた題名が顔を出した。
なんだか難しそうなその題名に、クリーオウは思わずうめく。
「こんなのばっかり読んでるから頭かたまっちゃうのよ。ね? レキ」
レキはあくびをしてそれに答えてくれた。
いつのまにかはいあがり、オーフェンのひざの上で丸くなっている。ちょうど本があった位置と同じだった。
クリーオウはきょとんとそれを眺め――くすりと笑った。
そして、本を開く。
しばらく目を通すと、クリーオウは眉間にしわを寄せた。ちらちらと木漏れ日が邪魔をして、読みにくい。もぞもぞと動き、なんとか本に光があたらない場所を探る。
とん、と肩になにかが当たり、びっくりしてそちらを向いた。
オーフェンの寝顔が見える。当たったのは、彼の肩らしい。息をとめて見つめるが、起きる気配はなかった。
安堵して息を吐き、クリーオウは本に目を落とした。ここならちょうど余計な光が当たらない。
ときどき吹く強い風以外は、心地よいものだった。
「あれ? オーフェンは?」
その声に、マジクは振り返った。
金髪の少女が、唇の近くに人差し指を置いて、きょとんと立っている。師がここにいるものと思っていたらしい。
「ここにはいないよ」
反射的に、見ればわかることを答える。
めずらしくデニムの上着を着ている少女が、それを聞いて口をへの字にした。
「そんなの見ればわかるわよー。どこに行ったか知らない?」
「知らないよ。さっき、そこにいたんだけど」
石段のあたりを指さす。そこには荷物が置いてあるだけで、だれもいなかった。
彼らは今、たまたま見つけた廃屋で休憩していた。なんのための建物かはわからないが、あちこちに苔が生えるほど放置されていたらしい。どういうわけか、ところどころ穴が開いていたりする。
休憩ということで、おのおの好きなように行動している。クリーオウは彼の後ろに、レキは彼女の頭上に、ロッテーシャは離れたところで稽古、そして師はいない。
マジクだけは食事当番のため、鍋の番をしていた。おたまを持ったまま振り返り、ざっとあたりを見渡す。
「クリーオウ、お師様といたんじゃないの?」
「ううん。ロッテの稽古、見てたの」
少し表情を暗くして、クリーオウが小さな声で答えてきた。
マジクも自然と自分の顔がしかめられてゆくのを感じながら、彼女がいるほうに視線をやる。
「……そろそろやめたほうがいいんじゃないかな? ずっと歩きづめだったじゃないか、今日。ロッテーシャさんだって疲れてるはずなの に」
「わたしもそう思ったわよ」
この様子だと、とめたようだが、聞き入れてくれなかったらしい。
と、クリーオウが顔を上げた。
「でも、彼女、あんなことがあったじゃない。不安定になるのも、しかたないと思うのよ」
「……うん」
おそらく三人ともがうすうす気づいていることだろうが、マジクは曖昧にうなずいた。
日差しが進入してくる、すみの大きな穴のあたりを見やる。ロッテーシャの姿は見えなかったが、そこからくらいしか向こう側を見ることができなかった。
「ご飯、できそう?」
よそ見をしていると、クリーオウが鍋のほうを見ながらそんなことを聞いてきた。
マジクは鍋に視線を戻してから、首肯する。
「うん。もうすぐできると思うよ」
「そっか……」
クリーオウの頭から、レキは彼女の肩に移動している。彼女がちょうど肩をすぼめて、ずるっとずり落ちそうになりつつもしがみつき、落下することは防いでいた。
「じゃあ、オーフェン呼んでこなくちゃいけないわよね」
どうも、口実がほしかったらしい。
マジクは首を傾げた。
「お師様、どこにいるかわかるの?」
「わかるわけないでしょ。探してもないのに」
レキの体勢を直してやりつつ、クリーオウは憮然と言ってきた。
くるっと踵を返しながら、ふわつと舞う金髪といっしょに、言葉も置いていく。
「探してくる」
「そう……」
「あ。そうだ」
身体の向きを変えようとしたとき、ぱんという音を聞いて、マジクは動作を止めた。クリーオウが手を打った姿勢のまま、振り返ってくる。
「ねえ、マジク。あんた、自分がなんでここにいるか、わかる?」
「……へ?」
わけがわからず、眉をしかめる。
クリーオウは上方を見上げて、人差し指をあごに当てながら、言いなおしてきた。
「だから、今ここにいる理由があるかってことよ」
「そんなこと急に聞かれても……」
口ごもり、クリーオウを盗み見する。彼女がどういった答えを期待しているのか――これを読み違えるとさまざまな災害に遭遇してしまう ため、真剣に観察するのだが、彼女の表情からは推し量れなかった。
けっきょくマジクは正直に白状する。
「わからないよ」
「そうよね……」
肩を落とし、クリーオウは斜め下に視線をやる。つられて同じ方向を見やるが、別に何もない。
「でも、ロッテはそうじゃないと思うのよね」
「…………」
なんとなく、マジクは彼女が言いたいことを理解した。
だが、当人は気づいていないらしい。よくわからないとでもいうように首を傾げ、しばらく考え込む。が、すぐにあきらめたようだった。もしくは、明確な答えを出すのを避けたか。
とにかくクリーオウは首を横に振って、ごまかすように明るく言ってくる。
「なんでもない。それじゃ、オーフェン探してくるね」
「……うん」
マジクはまたあやふやにうなずき、鍋に向き直った。
……それからしばらく経ったのだが。
「帰ってこないなぁ」
ぽつりとつぶやく。それはそれでもいいのだが。
このまま料理ができあがったりすると、彼がロッテーシャを呼びにいかなければならないのだろうか、と陰鬱にそんな可能性を予期していた。
風が吹いた。
ロッテーシャは、木剣を振る手をとめて振り返った。
見てみるが、背後には何もない。誰もいない。さっきまでそばにクリーオウがいたのだが、どこにか行ってしまったらしい。そういえば声をかけてもらったような気もするが、気を配っていなかったため定かではない。彼女は肩をすくめ、再び前を向いた。
それらひととおりの動作を終えると――出てきたのは、混乱だった。
ただ風が吹いただけだった。だというのに、なぜ自分は手をとめたりしたのだ……?
そんなつもりは少しもなかった。つまりは、とめようという意識は。できるだけ、途切れることなく続けようと思っていた。
なぜ自分は手をとめた? なぜ自分は手をとめた?
深く目を閉じて、かぶりを振る。
(なにをあせっているの? わたしは……)
身体は限界を告げていた。一時の休止を両手を広げて喜んでいる。
だが、それを許す気はなかった。
ロッテーシャは再び、木剣を振り始める。何度も、何度も、とめることなく。
……あたたかくやわらかい、それは陽だまりだと思った。
ぬるま湯のような温度が、肩にある。それに呼び起こされたわけではない。ただふっと目を覚ましただけだった。
目を開き、オーフェンはその陽だまりの正体に気づいた。
「……クリーオウ?」
ぽかんと、彼女の名前を口にする。
彼女の横顔から、真剣さがふっと失われた。かわりに、やけに近いいつもの彼女の顔が、こちらを向く。
「あ、起きたの?」
曖昧にうなずいて、オーフェンはよくわからずに彼女を見返した。
露骨にならないようにあたりを見渡すと、そこは彼が読書をしていた場所だった。どうもそのまま眠りこけてしまったらしい。なぜクリーオウがいるのかわからないが、寝ている間に現れたのだろう。彼のひざでは、レキが眠っている。
答えを求めるように、オーフェンは空を見上げた。だが、葉がすべて裏側を向いてこちらの視線をさえぎる。そのあいだから漏れてくる光 は、葉にかたちどられながらも彼らのもとに届いてきていた。ひときわ輝く太陽すらも、障害物を透過してまでこちらに向かってくる気はない らしい。だが、太陽の光にはさまれている葉は、ひどくか細く、弱々しく見えた。太陽が強いわけではない――葉が弱いわけではない。
「何かを知れば、何かができなくなる。だが、何も知らないでいるよりも、何かを知りながらできなくなった何かができれば、それは確実 な一歩――“勇気”となる……」
突然の言葉に驚いて、オーフェンはクリーオウを見やった。
聞き覚えがあった。どこで聞いたかはよく覚えていないが。
クリーオウは、笑って手元を示した。彼女の手には、彼が読んでいた本がある。読んでいたらしい。
「オーフェンて、いつもこんなの読んでるの?」
「いや、別に……」
自分でもよくわからない返事をして、オーフェンは微妙に彼女から視線を逸らした。
なんとなく咳払いしながら、
「そんなことよりクリーオウ、なんでお前がこんなところにいるんだ?」
「ん。呼びにきたの。ご飯、そろそろできるから」
「いつ」
「わたしが二十七ページ読むくらいの時間かしら」
「……起こせよ」
「えー。だって、気持ちよさそうに寝てたんだもの」
本を抱え、不満そうに抗弁してくる。
ころっとクリーオウは表情を変え、こちらのひざから眠っているレキを慎重に取り上げた。かわりに本を手渡して、そのまま立ち上がり、見下ろしてくる。
「さ。ご飯冷めちゃったら嫌だし、はやく行きましょ。マジクも待ってるし」
「……そーいやロッテーシャとふたりか、あいつ」
「マジク、あんまりロッテと話したことないもんね」
いろいろと感じたことはあるが口には出さず、オーフェンは大樹に手をついて立ちあがった。
こちらの動作を黙ってみていたクリーオウが、急に口を開く。
「あのさ、ヘンなこと聞くけど……オーフェンは今、なんでここにいると思う?」
「え?」
微笑んで、クリーオウは首を傾げた。彼女の金髪も揺れる。
「わたし、なんとなく答え見つけたような気がするの」
小さく、彼女は囁いた。
「“勇気”を手に入れるためなんじゃないかって」
「…………」
風が訪れ、木々がそれを祝福するかのようにざわめいた。歓迎を表すように舞っているクリーオウの髪を見つめながら、思い出すことがあった。
先刻の、気にとめることのなかった、本の一節。
『何かを知れば、何かができなくなる。
だが、何も知らないでいるより、何かを知りながら、できなくなった何かができれば、それは確実な一歩となる。
その一歩は、もっとも単純で、もっとも理解されていない単語――“勇気”そのものになる……』
乱れる髪を押さえているクリーオウを眺めながら、オーフェンは独りごちた。
(こいつには、気づかされることが多いな)
苦笑する。
「今俺がここにいるのは、それまで出会ってきた人たちのおかげだって、誰かから聞かされたことがある。そして今俺がここで生きなきゃいけねえのは、それまで出会ってきた人たちのためだとも」
ふらふらと揺れる木漏れ日のなか、口から知らない言葉がすべりだしてゆく。
「俺……お前に出会えてよかったよ」
すると。
クリーオウは、にやりと笑った。
ものすごくからかいがいのある話題を見つけたように。あるいは、叩きがいのある標的を見つけたように。……どちらも似たようなものだが。
「オーフェン。ひとつだけ忠告しておいてあげるわ」
くるっと踵を返して、クリーオウはつづける。
「それ、告白よ」
「ばっ――」
オーフェンは言葉を詰まらせ――その事実に、さらに言葉をなくし、そっぽを向いた。
今さらというような気がしたが、つぶやく。
「……馬鹿言え」
聞いているものは誰もいないようだった。
なにも言わずにというよりなにも言えずに声を上げて笑っているクリーオウが、手をしなやかにひらひらと振りながら、先に歩いていく。 彼が来た道とは違う――おそらく、ロッテーシャに声をかけに行ったのだろう。
どん、と背中に衝撃が走る。背後の木にぶつかったためだった。風も吹いていないのになんだと、気が葉をこすり合わせて講義してくる。
額のあたりを押さえ、オーフェンは無性に笑いたくなっている自分に気づいた。
「ホント、あいつにゃかなわねえよ」
実は、それは当たり前のことだったのかもしれない。
オーフェンは目を閉じて、しばらく涼んでから行こうと決めた。