パキッ
足元で起こったかすかな音にオーフェンは視線をおろした。鉄製のブーツが小枝を砕いたらしい。
小さな吐息を漏らすとオーフェンはさらに足を踏み出した。ぬかるんだ地面は手ごたえが全く無く、まるでスポンジの上を歩いているような気分だった。
深い森の中。
そう言い表しては単純すぎるような樹海の中をオーフェンは歩いていた。
湿気を帯びた空気が充満した森の中は決して散歩に適する場所ではない。地面は前述した通りぬかるんでおり少し油断しただけで足を取られそうだ。
「なんで俺はこんなとこにいるんだ?」
おもわずつぶやくオーフェンだったが誰も答えてはくれなかった。
周りに存在するのは木だけ。樹齢何年か想像もつかないほどの巨木が並んでいる。太陽の光を求め、空へ空へと伸びていった枝は地面から太陽の光を奪うまでに成長していた。
地面の中にはその木々のものと思われる根が張り巡らされていた。少しでも多くの水分を得るために伸びつづけた枝は地面のほとんどを支配してしまった。そして、彼らもまた土へと返る。それを裏付けるかのように地面の表面はやわらかい木のくずのような物で構成されていた。
所々から突き出す根には違った植物が生え、様々な小動物や昆虫が顔を出している。転がった木の実をリスのようなものが拾い、枯れ葉の中へと消えていく。地面に降り積もった落ち葉を掻き分けるかのように這い回るミミズ。どこからともなく生物達の鼓動が聞こえてくるのだ。
なんとなくオーフェンは自分の育った孤児院を思い出した。フェンリルの森に程近いためか多くの子供が森を遊び場としていた。もちろんオーフェン自身も遊びの時間のほとんどを森の中で過ごしていた。
(・・・覚えてないけど・・・きっとアザリーは好きだったんだろうなこういうとこが)
周りを見渡しても光はうっすらとしかなかった。空から降ってくるわずかな光と刃物の光だけ・・・
(・・・刃物の光!?)
とっさにオーフェンは身を引いた。
鼻先を鋭い刃が通り過ぎていく。
身を返さなかったら首を取られていただろう。
「冗談じゃねえ!」
そう言ってオーフェンは地面を蹴った。
地面がぬかるんでいて加速力はつけられなかったものの相手の射程圏外から逃れるには十分だったらしく追撃は無かった。
(来る・・・いや、俺の様子を見ているのか)
相手の動きは無かった。気配は先ほどオーフェンを襲った位置から変わっていない。
そして、見えない相手は足を踏み出した。
パシャッ・・・
水溜りを踏んだのだろうか水音が聞こえた。しかし、それを境に途絶える足音。気配は完全に断ち切られた。
(くそっ・・・暗い。視界が悪すぎる!)
そう心の中で毒づいた瞬間、殺気がオーフェンに突き刺さった。
今度は身体を横にさばいて刃をかわす。通り過ぎる刃物は薄くて鋭い両刃の長剣だった。ちょうどクリーオウの持つスレイクサーストと似た形状の剣。
殺気の主は突きを放ったまま剣を寝かせる。そして、そのまま横になぎ払った。
上体をそらしてなんとか斬撃をかわすオーフェン。前髪の一部を持っていかれたが目立った傷は無い。仕方なくそのまま手をつき、バク転のように大きく後方へと身体を押しやる。同時にオーフェンがいた場所を殺意の刃が通過した。
(こいつ――本気で俺を殺す気だ――)
冷たい汗を背中にかきながらオーフェンは意識を集中させた。
(何なんだ、こいつ・・・命を狙われる理由なんて、無いことは無いけど極端すぎる!)
オーフェンが一人になるのを狙ったかのようなタイミング。なんの予兆も無い襲撃。いくらここが《森》であってもドラゴン種族が動き出すには突然すぎる。第一、彼らは武器など使用しない。魔術を使うはずだ。
(だったら話しは早いぜ! 人間だったらいくらでも対処法ぐらいある!)
そしてオーフェンはゆっくりと身体の重心をずらした。得意の戦闘態勢。いつでも行動に移れるように呼吸を整える。
姿が見えないなら気配を見ればいい。気配を見たいなら相手の殺気を感じればいい。
すっとオーフェンは闇の奥を凝視した。何も見えないはずの空間。だが、確実にそこにあるはずのものに向かって意識を集中させる。
白紙から点へ。点から線へ。線から物へ・・・・・・・・・
オーフェンのなかで少しずつイメージが広がる。長年培った戦闘技能者としての本能を少しずつ甦らせる。
そして・・・
動いたのは同時だった。
地面の状態により踏み出す音は聞こえなかったが相手が自分のほうに向かって踏み出したことをオーフェンは確信していた。確実に、自分の首を取りに。
だが、オーフェンは踏み出した瞬間、すぐさま上半身を落とした。前かがみの状態になったのだ。
頭の上を通り過ぎていく刃。それを気配で感じながらオーフェンは背筋を使って改めて上半身を持ち上げる。
自分を襲った相手は攻撃をかわされたことに何の動揺も見せずまたオーフェンに向けて剣を振るった。
今度は左。しかし、そのときにはオーフェンの構成も出来上がっていた。
「我掲げるは降魔の剣!」
オーフェンの左手の中に現われた真空の刃が相手の剣と交わる。甲高い金属音と同時に相手の剣が宙を舞った。オーフェンがからめとるように自分の剣もろとも相手の剣を弾き飛ばしたのだ。
剣を失ってはさすがに反撃できないと踏んだのか襲撃者は体制を立て直そうと大きく後ろへ下がった。だが
「逃がすか!」
それを読んでいたかのようにオーフェンも大きく一歩前へと踏み出す。
相手の懐へともぐりこむ。そして、襲撃者のわき腹に手を当て呪文を叫んだ。
「我は呼ぶ破裂の姉妹!」
魔術によって生まれた衝撃は襲撃者の身体を貫き、そのまま近くの大木へと衝突させた。
衝突音とともにへたり込む襲撃者。動く気配が無いことを確認してからオーフェンは安堵のため息をついた。
「俺の勝ちだな。魔術無しで魔術士を殺せると思ってたら大間違いだぜ」
額の汗をぬぐながらオーフェンはゆっくりと暗殺者に近づいた。
(今のうちに明かりを作った方がいいな)
「我は生む小さき精霊」
生まれた光球はあたりの景色を照らし出した。
ぬかるんでいたとばかり思われていた地面には、さらにいくらかの木の根が突き出し引っかかれば転倒の危険性があったかもしれない。さらに周りの木々の中には凶悪なまでに尖った枝が突き出ているものもあった。
そして、浮かび上がった襲撃者の正体。
始めに目に入ったのは長い金髪だった。先ほどの魔術の衝撃で覆面が外れたらしく地面に向かって花のように広がっている。
肝心の顔はここからでは見えなかった。下をうつむいているので頭頂部しか見えない。後見えるのは癖のある髪。くるっとした巻き毛が二つほど見えるだけだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・! まさか!?」
オーフェンは駆け出した。足場が悪いせいか転びそうになるもののなんとかふんばって姿勢を崩さない。
そして、大きく飛び出た木の根を飛び越えその金髪の襲撃者の元へとたどり着いた。
恐る恐る襲撃者の顔を起こす。
「・・・クリーオウ・・・」
オーフェンの声に驚きととまどいが生まれた。
なぜこの少女が自分を襲ったのか。そんな疑問が生まれた。と・・・唐突にオーフェンはあることに気が付いた。
「おい! クリーオウ!! 目を覚ませ! おい!!」
身体を揺さぶる。そう、彼女の鼓動が感じられなかったのだ。
ふと彼女の背中を持っていた自分の右手を見る。真っ赤に染まった自らの右手が視界の中へと入った。
「な――!?」
オーフェンは急いで彼女の背中を見た。そして、絶句する。
背中に大きな穴があいていたのだ。なにか鋭い刃物で突き刺されたような大きな穴が。
オーフェンは顔を上げた。そして、彼女のぶつかった木を見る。
思ったとおりその木にはひときわ大きく、鋭い枝が突き出ていた。そして、そこを中心に、まるでペンキをぶちまけたかのように赤く染まる大木。
「我は癒す! 斜陽の傷痕!!」
急いでオーフェンは治療の魔術を放つ。
彼女の背中の傷は塞がった。だが、失った血液を戻すことは魔術でも出来ない。
オーフェンは彼女の胸に耳を当てた。心臓の鼓動を確認する。・・・だが
「嘘だろ・・・おい」
全く聞こえなかったのだ。生命の躍動を表す心音が。
ドサッ
クリーオウの身体は支えを失って地面へと倒れこんだ。オーフェンの手は力を失い、ただ身体に付いているだけの物と化してしまったのだ。
衝撃による死。大量出血による死。はたまた別の死因。
だが、そんなことはオーフェンに関係なかった。少女が死んでしまったのだ。
「・・・クリーオウが・・・・・・死んだ?」
一度だけ同じような事態があった。だがその時は酸素と似た怪物に取り付かれていたせいで仮死状態になっていただけだった。
だが、今度は違う。
出血があるから?
「違う!」
誰に聞かれたともなしにオーフェンは否定の言葉を叫んだ。
自分の目で彼女が死ぬ所を確認したから?
「違う違う!!」
死んだ原因がはっきりわかるから?
「違う違う違う!!! 違うんだ!!」
・・・・・・・・・殺したから?
「―――っ!?」
オーフェンは声にならない悲鳴を上げた
自分が殺したから?
「やめろ・・・」
自分が、自分の魔術が彼女を殺したから?
「やめろ!」
彼女、クリーオウを殺したのが・・・オーフェンだから?
「やめろ! やめてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
そして、オーフェンの悲しい絶叫は森の中でこだました。
「ちょっとオーフェン!! 大丈夫!?」
オーフェンはそんな声とともに飛び起きた。
肩で大きく息をする。体中に冷たい汗が流れ、シーツを濡らしていた。
まだ頭の中はもやがかかったようではっきりしない。焦点の合わない目は自分の開いた両手だけを見つめていた。
「どうしたのよオーフェン。うなされてると思ったら飛び起きて・・・って凄い汗じゃない!」
テーブルの上に置いてあったぞうきんでオーフェンの体の汗を吹き始めるクリーオウ。
そんな彼女をぼんやり見ながらオーフェンはやっと今までのことが夢だということに気が付いた。
(そうか・・・宿に入ってすぐ寝ちまったんだ・・・)
時間は昼前だろうか。あたりからスープのいい匂いが漂ってくる。どうやらクリーオウは食事の時間になったので呼びに来てくれたらしい。
「はい。・・・どうしたのよオーフェン。悪い夢でも見たの?」
不思議そうな目でこちらを覗きこんでくるクリーオウ。そんな彼女にオーフェンは曖昧な微笑を浮かべるしかなかった。まさか彼女を殺す夢を見たなんて言えない。
「まあな。で、何の用だ?」
「ご飯。ここの食堂って安いランチがすぐ品切れになるから送れるなよって言ったのはオーフェンじゃない」
ちょっとすねたような口調で答える。
「そうだったな。悪かった。すぐ行く」
「早くね。ロッテとマジクはもう食べてるみたいだけど」
「ああ・・・」
少しだけ心配そうな顔をしたクリーオウだったがこちらに背中を見せ部屋から出ようと歩き出した。
(・・・・・・・・・夢だよな。でも、あれが現実に起きないなんて断定できるのか? 俺が殺したんじゃなくても・・・)
突然不安が彼を襲った。
(どうなるかわからない。危険はいつでもやってくる。・・・違う。そうじゃない。)
何が不安なのか。簡単だった。簡単すぎた。でも認めるのは難しすぎた。
(俺があいつを壊してしまうかもしれない・・・)
そんな思いが胸を締め付ける。そして・・・
「お、オーフェン!?」
オーフェンは知らぬまに彼女を抱き寄せていた。
突然後ろから抱きしめられたクリーオウは驚きと恥じらいに声をあげる。だが、オーフェンはその手を緩めることは無かった。
「な、何? 今度は財布を持ってってないわよ!?」
「・・・違う」
そう呟いてからオーフェンは彼女の背中に自分の額を押し当てた。
「へっ?」
不思議そうな声をあげるクリーオウ。
「・・・悪い・・・悪いけど、このままでいさせてくれ・・・」
弱い、普段の彼からは想像も出来ない弱い声がオーフェンの口から漏れた。
「ど、どうしたの?」
戸惑いを含んだ疑問の声。背中に額を当てているため彼女顔は見えないが、きっと赤くなっているだろう。なにしろ彼自身もすでに紅潮してしまっているのだから。
「わからない。でも・・・すぐ戻る。すぐにいつもの俺に戻れる。だから、今はこのままで。このままにさせてくれ・・・頼む」
自分で言ってて情けないと実感した。だが、正直な気持ちだった。
不安でつぶれそうになる。失う怖さが夢になって襲ってくる。壊す危険が付きまとう。だからこそ、今だけは目の前に、そばにいて欲しい。それが正直な気持ちなのだ。
額から伝わる彼女の温もりが、オーフェンに安らぎを与えてくれた。
「よくわからないけど・・・いいよ。このままで」
そう言ってクリーオウは後ろから回されていたオーフェンの手に自分の手を重ねた。
ピクッとオーフェンが反応するが、それが拒絶の意味でないことに気付いたのか何も言わなかった。
そして、彼女もそれ以上何も言わなかった。彼を抱きしめることもしなかった。ただ彼に背中を預けただけだった。
(きっと、オーフェンは一人で闘ってるのよね。全部)
そして、その重圧に耐え切れなくなったのだろう。
そのときそのときは、彼の精神の強さが耐えている。でもその強さが仇となったのかもしれない。せき止められた悲しみの水はこころのダムを砕いてしまったのだ。
(私がパートナーってこと忘れちゃってるのかしら?)
悲しみも不安も分け合うこともパートナーの仕事だと彼女は思っている。だが、その仕事を彼はまわしてくれないようだ。
(でも、これでもいいのかな)
今、彼はその傷ついた心を癒す場所を自分の背中としてくれたのだ。それは彼の支えになっているのではないか?
(どうなんだろう・・・ただここにいたのが私だったから?)
そう考えると少しだけ悲しくなった。
と、クリーオウはオーフェンのある変化に気が付いた。
震えているのだ。彼が。
「どうしたの!? 寒いのオーフェン?」
「・・・・・・・・・・・・大丈夫だ。なんでもない」
そういったオーフェンだったが声がくぐもっていて聞き取りづらい。だが、それは彼女の背中に頭を押し当ててるせいだけではなかった。
(・・・泣いてる?)
一瞬、馬鹿馬鹿しい妄想かと思った。だが、事実、彼は泣いていたのだ。
声を出さない。出せないのだろう。
彼女の前にいた『オーフェン』は、決して誰かに負けるということは無かった。どんな絶望的な状況でも強さを見せ付けてきたのだ。それが物質的なものであれ精神的なものであれ、彼が何かに負けることは無かった。
だが、そんな彼が今、自分の背中で泣いているのだ。
誰にも見せなかった一面を自分に見せている。そんな事実がなによりクリーオウには嬉しかった。
「オーフェン・・・」
クリーオウは彼に当てていた手をそっと外し、振り返った。驚いたような表情の彼と目が合う。
そして、そのまま彼の背中に手を回し抱きしめようとして――
すり抜けられた。
「あれ?」
あるはずの感触が無く、クリーオウはベッドの上に倒れこんでしまった。なぜだかふかふかの布団がやけに腹立たしい。
「ちょ、ちょっとオーフェン! なんで逃げるのよ!!」
「ん? いやな、お前に抱きしめられたんじゃ背骨を粉砕されちまうからな」
そういってオーフェンは意地悪な笑みをクリーオウに浮かべた
「何よ! 人がせっかく抱きしめてあげようと・・・」
「そうか、そんなに抱きしめて欲しかったのか?」
「ち、違うわよ!!」
からかうような口調のオーフェンにクリーオウは顔を真っ赤にして反論した。だが、相変わらずの笑みを顔に浮かべながらオーフェンは椅子にかけてあったシャツを手にとる。
手早くそれを着ると上からジャケットを羽織り、首からペンダントをぶら下げた。そして、バンダナを頭に巻くとクリーオウのほうを振り返った。
「んじゃ、昼飯にでも食いに行くか」
「だましたわねぇ!!」
(戻るなら戻るって言いなさいよ!!)
心の中で不満を叫びながらクリーオウはオーフェンに恨みの眼差しを向けていた。
それを軽くかわすように出口で舌を出すオーフェン。だが・・・
「・・・ありがとな。お前でよかったよ」
彼女の視界から姿を消す寸前に彼はそうつぶやいた。
注意しないと聞こえないほど小さなつぶやきだったが彼女がそれを聞き逃すはずが無かった。
「へっ・・・最初のはわかるけど・・・後のって・・・」
頬を朱色に染めた少女は、しばらくの間そのままその部屋で首をひねっていたのだった。
余談では有るが、この後ランチを獲得できなかったクリーオウはオーフェンに対していくつかの大仕置きを行ったらしい。使用されたのは黒い悪魔の暗黒魔術であったことは言うまでもないだろう。