「あのさ、オーフェン」
「ん?」
「ええと、たいしたことじゃないんだけど。聞きたいことがあって」
「なんだよ」
「その、わたしのこと……いつまで『恩人から預かってる子供』って紹介するつもりかってことなんだけど」
「さあな」
「……なによ、それ」
「別にそれ以上の意味なんかねえよ。お前、妙におとなしいと思えば、ンなこと考えてたのか?」
「ち・が・う・わ・よ! ――もういい。わたし、散歩してくるから」
「あんま遠くまで行くなよ」
「……まるでわたしが迷子にでもなりそうだとでも言いそうな口ぶりね、オーフェン」
「そうは言わんが、探しに行くほうの身にもなれってんだ」
「ふーんだ」
舌を出して、彼女はさっさと背を向けた。森の影に隠れて見えなくなる。
――数分経ってから、それが彼女の警報だと気づいた。
「……カッコ悪」
ぼそりとつぶやいて、クリーオウは首を横に振った。雫がきらきらとあたりに飛び散る。
川の水は、思っていた以上に冷たかった。全身びしょぬれになりながら、彼女はのろのろと川から這い出す。清水とそれとの違いをまざまざと思い知らされ、クリーオウは顔をしかめて咳き込んだ。少し飲んだかもしれない。
「ンなこと言っても、仕方ねえだろ」
抗議の声は、後方から飛んできた。
そちらを見やる。川のほぼ真ん中で立ちあがり、埃でも払うように濡れた身体を撫でつけている。渋面で彼は彼自身を見下ろし、そして上方を見上げた。
つられて見上げる。なにか底のように大切なものが抜けてしまった空が、からっと顔を見せていた。川の流れる音が聞こえてくることにやや新鮮な驚きを感じる。
そして、視界に入ってくることのない崖を無理に視界におさめた。正確には、谷間のようなものか。両脇にそびえるように立っている。山が地震かなにかで綺麗に割れたかのようにも見えた。
右側には手前にだけ木の柱があり、それにはたった今ちぎれたばかりの縄をくっつけている。二本たっていたはずの柱の片方は、途中でぼっきりと折れている――こともなく、根っこから引っこ抜けたらしく、そこらに転がっていた。
理解しがたいし理解したくなかったが、うまい具合に橋が落ちたようだった。左側に未練がましく垂れ下がっている。
(……よく死ななかったわよね)
ぼそりとそんなことを考える。
いくら下に川があろうが、死んでいただろう。それでも生きているのは、ひとえに今川の中央に突っ立っている男のおかげだった。
「生きてただけでも奇跡だな」
今日の空のような声音で、彼女のつぶやきと似たようなことを言ってくる。クリーオウは口を開いて座り込んだまま、こくりとうなずいた。
彼が魔術で重力制御――だかなんだが、とりあえずそんな感じの魔術を使ってくれなければ……と考えても、どこからも恐怖らしいものは襲ってくる気配はなかった。もっと現実的な冷たさ――寒さが、肝を冷やす。
(きっと、それだけじゃないんだわ……)
陰鬱にそんなことを考えながら、クリーオウはとりあえずたっぷりと濡れた髪をしぼった。ぼたぼたと水が落ちてくる。
はじめのつぶやきは、彼に向けたものではない。
こっそりと肩を落とし、クリーオウはどんよりと気分をかたむけた。
「……ごめんね」
ぼそりとつぶやく。
オーフェンは、彼女の言葉に殴られたように、目を見開いてこちらを捕らえてくる。
(そんなに驚くこともないんじゃない?)
むっとするが、突っかかっていく気力はさすがになかった。
彼から視線をはずし、綺麗に落ちた吊り橋を見やる。完全に倒壊し、彼女らが立っていたあたりは空白になっている。こんな橋をかけたまま注意書きもせずに放置していることに腹を立て、振り上げた拳を下ろすように消沈させる。注意書きも必要ないほどの古い橋を、普通は渡ろうと考える者もいないだろう。
ぽん、と頭にあたたかさを感じる。クリーオウは上目遣いで目の前に立っているオーフェンに視線を転じた。
「ちょっとここで待ってろ」
予想外の台詞に驚いて見やると、彼はすっとこちらから離れ、右側――彼女らが来た方向を見上げた。呪文を唱える。
「――待っ……」
思わず声をあげかけた。が、伸ばした手からするりと彼がすり抜けるように飛び上がったのを見て、押しとどめる。
中途半端に差し伸べた手が、ひどく滑稽に見える。クリーオウはゆっくりと自分の手を眼前まで下ろして広げ、まじまじと見つめた。口元に苦笑をはりつけ、その手をゆっくりと握りしめる。
胸元に押し当て、抱き込むように身体を小さく丸めた。
「ホント、なにしてるのかしら、わたしは……」
誰かが見れば、泣いているように見えるかもしれない。だがそんな気配は見せず、クリーオウはただ疲れたうめき声を発した。
いつのまにか早足になっている――
クリーオウはその事実に気づき、はっと大仰に反応して足を止めた。
ふう、と息をついてきょろきょろとあたりを見まわす。森の風景は変わり映えがないが、こう長い時間歩き回っていると、それなりにそこがどこなのか分かるようになってくる――ような気がする。まったくの気のせいかもしれないが。
「ここ、なんか見たことあるわね」
ということは、また同じところに出てきてしまったらしい。
頭の中に広げていた地図を、あてにならないと断念し、丸めて記憶のかなたに捨てる。
「……お前、散歩に出かけたんじゃなかったのか?」
おきれたような口調に、かなりぎょっとしてクリーオウはそちらを向いた。
「オ、オーフェン!?」
オーバーアクション気味に名を呼ぶ。特に意味はないが。
半眼で薪を抱え、オーフェンはなにをするでもなく立っている。こちらが近づいてきたことに気づいて立ちあがったのだろう。ぱんぱんと片手で埃を払っている。
ふと気づいて、クリーオウは真剣に顔に影を作って冷静に聞いた。
「もしかして、ついてきてたの?」
「なんでだ」
即座に切り捨てられる。
「お前がまたここに来たんだろ。用事があるかと思えば、しっかり道に迷ってやがるし」
「迷子にはなってないわよ」
「同じようなもんだろーが」
「ちがうわよ」
きっぱりと言い放つと、オーフェンはややたじろいで自信を失ったかのように上方に視線を移した。
首をかしげて聞いてくる。
「なんで?」
「とにかくちがうのよ」
「いや、それじゃ納得いかんから」
「いーじゃないオーフェンが納得しようがしまいがその通りなんだから仕方ないっていうかそれが自然の摂理っていうかその通りってことはそれしかないからその通りなんでその通りだからその通りなんだもの。そういうことで万事完了」
「なにを完了したかわからんし」
「決まってるでしょ。議論よ」
「それは勝手に完了したらいかんだろ、おい」
嘆息するように言ってくるが、適当に受け流す。
クリーオウはびしりと指をつきつけ、あいているほうの手を腰に当てた。
「とにかく、まだ散歩の途中なんだから。今度はついてこないでよね」
「一度もついてっとらんわ」
言い返してきたようだが、気にしない。
クリーオウはくるりと背を向けると、すたすたと歩きはじめた。
――そして、しばらくして身体ごと振り返る。
「ついてこないでって言ったでしょー!」
「こっちで野宿してんだから仕方ねえだろーが!?」
怒鳴り返してくる。
クリーオウはまったく頓着せずに、再び人差し指で彼を捕らえた。
「言い訳は見苦しいわよ、オーフェン!」
「なにが言い訳だ!?」
薪を抱えているため手をわななかせることはないが、そんな動作がしたそうな様子で叫んでくる。
はあ、と肩と息を落として、彼はのろのろと右手で真横を示した。提案してくる。
「ついてこられるのが嫌だったら、どっか別の方向に行けばいいだろ」
「――わかったわよ」
不満顔で受け入れ、クリーオウは斜め左前方に向かって歩き出した。無理矢理道を作って突き進む。
あきれた、というよりも、徒労したような声が後から追いかけてきた。
「……お前ってつくづくひねくれてるなぁ」
「よけーなお世話」
いーっと歯を見せて、足早に前に進む。意味はないが、意地があった。
しばらくして自分のものとは違う足音が聞こえてくるが、その方向は真っ直ぐ進んでいるようだった。だんだんと遠ざかる足音から注意を失い、クリーオウはぼんやりと物思いの海に沈み込んだ。
(なーんかね、気づいたら物をひっきりなしに動かしてたり貧乏ゆすりしてたりものすごく急いでたりしてるのよね。なんなのかしら、これ)
ふうむとうなって唇の下に人差し指を押し当てる。
(今も必要以上に突っかかっちゃったし。オーフェンといっしょに戻ったほうがよかったに決まってるのに)
歩くのは、息をするのと同じような動作だった。
右足を突き出して、地面に下ろし、バランスを取ってから左足を浮かす――などという手順を考えることもない。どこに進むかも考えなくても、歩みは刻みつけ続けられる。
(退屈してるって感じじゃないのよね。いらいらしてるっていうか……)
すとん、と肩を落とす。
(わがままなのかしら、わたし)
他人を支配できると思うことと、自分はひとりで生きられると信じること、そして今このとき以上の幸せを求めること、それらはすべて傲慢というものだ。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
(ええと、いつだったかしら。お父様がこの台詞言ったの――)
つまらない方向に向かいだした思考は、予想もしない形で打ち破られた。
「クリーオウ!」
「ひゃあ!?」
くん、と腕を引っ張られ、クリーオウは驚いて立ち止まった。
立ち止まったというよりも、後ろに思いきり引っ張られて仰向けに倒れかけ、後ろに立っていた人間にのしかかってなんとか立っているという状態だが。
ぐら、と簡単に揺れる足場に混乱する――が、それもすぐに驚愕に打って変わった。いきなり彼女らは吊り橋の上にいた。
(……いつのまにこんなところ通ってたの?)
驚きと恐怖に、声もあげられない。丸太の間から見下ろせる川が、ずいぶん離れて見える。高いところは特別苦手ではないが、突然こんな光景を見せられれば驚きもするだろう。
「お前な」
クリーオウの腕をつかんで、オーフェンが焦燥にかられたような表情で声をかけてくる。
「いくらなんでもこんないつ落ちるかわからんような橋渡るな。危ないだ……ろ……」
オーフェンが説教してくる――その語尾が切れ切れになることに、クリーオウは眉間にしわを作った。
聞こえてきたのは、ずるっとなにかが引きずられるような音と、ぶちっというなにかがちぎれていく音。
(…………)
さあっと血の気が下がる。
それらの音は、メトロノームをゆっくりと早めていくかのように鳴りつづけた。どうすることもできずに硬直している間に、最後の致命的な音がする。
ぶちぶちっ……ぶづん!
――とたんに襲ってくる浮遊感。
「ひっ――」
悲鳴は一度喉につまり、後から押し出されるように溢れた。
「きゃあああああああ!?」
橋とオーフェンといっしょに重力に誘われ、盛大な水飛沫を上げてクリーオウは水面にぶち当たった。
――それが、数分前のことだった。
(なんか……完璧に、あれよね)
なんとなく言葉にするのが嫌で、適当にごまかす。
オーフェンが拾ってきていた薪が川に浮かんで、ゆったりと流されていっているのが見えた。そのなかにはかなり太いものも混じっている。これは橋の一部だろう。
嘆息して、クリーオウは冷たい膝に濡れた頬を押しつけた。目を閉じる。
(『恩人から預かってる子供』だわ、わたし)
「……なにやってんだ? お前」
その声に心底驚き、クリーオウはばっと顔を上げた。
あきれたようなオーフェンが、太陽を背負って見下ろしてきている。シャツは着替えたようだったが、濡れたジャケットは左腕にかけていた。バンダナははずしたのだろう。見当たらない。
「こんなとこで、しかもそんな格好で寝るなよ」
「寝てないわよー」
抗議するが、受け流されてしまったらしい。持ってきたタオルと衣類を彼女の前に置き、オーフェンはぽんとそれを叩いて示した。
「ほら、これに着替えろ。俺はすぐあっちに行くから」
新しく拾ってきたらしく、薪を整えながら言ってくる。
クリーオウはごそごそとタオルの下にあった着替えを探り――ふと顔をしかめて、衣類のひとつをつかんで持ち上げる。
「……これ、スカートじゃない」
「適当にいちばん上にあったのを持ってきただけだからな」
「そりゃあ、さっきほつれを直したからいちばん上にあるだろうけど……もうちょっと選んで持ってきてくれてもいいんじゃない?」
呪文を唱えて火をつけ、ジャケットを乾かすため木の枝に引っかけて、オーフェンは呆れ顔でこちらを向いた。
「お前、注文多いな。いいじゃねえか、別に。今日はこれ以上進まねえんだし」
「全然よくないけど……まあ、いいわ」
肩をすくめて妥協する。
彼はあいた手で首にかけていたタオルをつかみ、がしがしと頭にこすりつける。からからと金属音のする荷物を持ったまま、オーフェンは倒壊した橋のほうに向かって歩き出した。それをまたいで、向こう側に行く。
クリーオウは髪などを念入りに拭いてから、彼がいるほうをじっくりと時間をかけて観察し、着替えをはじめた。湿った衣類は丁寧にたたんで、燃え移らないていどの距離を置いて火のそばに置いておく。
一段落ついて、クリーオウはオーフェンに声をかけようかと思ったが、ふと思いついてやめる。湿ったタオルも乾かし、することがないので体育座りで焚き火をぼんやりと眺めた。
冷たさは拭えても、寒さは残る。ふるえて、クリーオウはタオルの間に挟まっていたオーフェンのマントで身を包んだ。
ぱちぱちぱち……と燃える炎が、ひどく遠くに感じる。
(オーフェンの気持ち、分かるかもね)
ぽつりと独りごちる。
(誰かを巻き込んだりしたら、なんだかすごく嫌な気持ちになるわ)
もやもやとした黒い渦に、クリーオウは顔をしかめた。
彼も同じものを感じているかもしれない。それはパートナーだ、という言葉だけでは解消されるものではないのかもしれない。だがそれでも、こんな気持ちはありがたくない。
感じるのも、感じられるのも。
(でも……)
と。
「平気か?」
「…………」
目の前にカップとあたたかい芳香を差し出され、クリーオウはぱちくりとした。
たどたどしく受け取り、覗き込む。安物のコーヒーの湯気が、頬を撫でた。カップのふちに口をつけ、
「……ありがと」
ぼそりとつぶやく。
オーフェンは苦笑して、ポットを片手に隣に座った。自分の分は注がずに、荷物のなかをまさぐっている。
きょとんと見ていると、彼はちょいちょいと指を動かした。興味をそそられて顔を近づけると、彼はしかめっ面で無造作に告げる。
「足見せろ」
「……足? て、どっちの?」
「右足。ひねったんだろ、さっき」
「…………」
一瞬しらばっくれるという案が浮かんだが、即座に却下した。
素直に足を見せる。少し腫れているようにも見えたが、左足と比べなければよく分からない程度のものだった。それでも、歩けばかなり痛むだろうということは予想するまでもないが。
クリーオウの足を固定し、彼は取り出したテーピングで手際よくクリーオウの足を包みはじめた。手際のいい彼の手の動きを眺めつつ、ふとつぶやく。
「魔術で治してくれればいいのに」
「自然治癒力低下するぞ」
「……するの?」
「いや、知らんが」
適当に言っただけらしい。
クリーオウは肩の力を抜いて、小さく吐息した。拭ったはずなのに湿っている自分の足から、上空に視線を転じる。
雲はコーヒーのなかに入れるミルクのように、空に混じっていた。ぐるぐると渦巻いて、溶け込んで消えていく。川の独り言と、木々の囁き、鳥たちのつぶやきが聞こえてくる。橋が落ちたとは思えないほどの冷静さは、ある意味無情なのかもしれない。今まで長い間ある光景を作り上げてきたものがなくなっても、まったく頓着せずに存在しつづける。
「なんだかよく思い知った気がするわ」
「ほほう」
なんとなく漏れたつぶやきに、オーフェンが相槌を打ってくれた。
ありがたい気もする。独りごちるのはあまり好きではなかった。
目を閉じて、風景と一体になれないかと試みてみる。それは不可能ではなかったようで、自分という存在が希薄になることに恐怖を抱かなければ、心地よいものだった。
「気持ちって思ってたよりも複雑みたい」
ぬるま湯の心地よさにずっと浸っているつもりはない。クリーオウは惜しみながらもゆっくりと目を開いた。
うつむいて、こちらとは目を合わせようともしないオーフェンを見下ろす。せっせとテーピングをしてくれている彼が、よどみなく足を白く塗りつぶしていっていた。なんとなく慣れている理由は思い浮かぶ。クリーオウは反対の足を折って両手で抱えた。
「わたしはさ、今の状況が不服でも不満でもないけど……状況のほうがそうじゃないみたいで」
「うん?」
よくわからなかったらしく、聞き返してくる。
クリーオウは困って宙を見やった。どう言い直せばいいのか、まったく分からない。最良だと思っていた言葉はとうに言ってしまったし、それ以上に適した言葉は思いつかなかった。
視線を落とし、ふと気づく。彼女は自分のはいているスカートの端をちょこんとつかみ、それを見下ろして告げた。
「わたしってちょうど、山道のスカートみたいな感じかなって」
「ふうん」
「ふうんって、それだけ?」
不満に思い、唇をとがらせる。
焚き火を迂回してじりじりと彼ににじり寄りながら、テーピングがしにくいと抗議するような視線は無視して、びしりと彼に指を向けた。
「いくらなんでもそれってあんまりじゃない? 普通こんな場面でそんな相槌打たないわよ! もうちょっと気配りしないともてないんだからね」
「もてんでもいいわ」
「あ。それってわざわざ努力しなくても向こうから寄ってくるって意味? さいてー」
「なんでだ!?」
激しく聞き返してくるが、かまわずうんうんとうなずく。
得心しているこちらの指をつかみ、オーフェンは嘆息した。
「お前なー」
なにか文句をつけようと口を開き――ふとつぐむ。
ぱちくりと見ていると、接近しているため肩のあたりにからみつく濡れたクリーオウの髪から逃れるように身を引き、彼女の指を離してオーフェンは咳払いをした。
「――もういい。ほれ、終わったぞ」
「……え?」
見ると、オーフェンはテーピングの道具をしまいはじめている。
綺麗に巻かれた自分の足をきょとんと視界におさめ、クリーオウはそそくさと自分のほうに引き寄せた。
「あ、ありがと」
なんとなく勢いを失い、クリーオウは持っていたカップに視線を落とす。
正座を崩してひざの上にカップを乗せ、両手でそれを挟んだ。ふらふらと出て行く湯気が、カップから脱出してすぐ消え去る。それは自由になったということか、それとも――
言葉は浮かぶ前に薄まり、消えた。その隙間にすべりこむように、オーフェンの声が聞こえてくる。
「んで、お前はどうしたいんだよ」
「どうって……」
突然の問いかけに、クリーオウは言葉に詰まった。
小首をかしげて考え込み、じっとカップの中の液体を凝視する。
(……そういえば、そうよね)
暗雲の間から差し込む一筋の光、というよりは、晴れた空の中央にぽっかりと浮かぶ雲のように、単純な回答が生まれてくる。
(実はわたし、悩むのにはちょっと早いんじゃない?)
まだなにも決まっていないというのに。
なにを悩む必要があったというのだろう?
「そのままでいろなんて言わねえよ」
自分のカップにコーヒーを注ぎながら、オーフェンが言ってきた。
「悩まなくちゃ人は堕落するんだしな。けど、黙ってひとりで悩むな」
ややうつむいているため、目だけが前髪に隠れて見えない。わざとだとは思わないが、クリーオウはくすりと笑った。いたずらっぽく言う。
「オーフェンにだけは言われたくないわね、その台詞」
「…………」
「なんで黙るの?」
「いや、別に」
軽く頭を抱え、オーフェンは頭を左右に振った。
納得できないが、納得する。それはいうほど至難の業ではない。ようするに、別のことに関心を移せばいいということなのだから。
クリーオウは二度うなずき、口を開いた。
「わかったわ」
「なにが」
にっと笑いかける。
「ひとりでつらつら悩むの、やめる。ちっとも楽しくないしね」
ことり、とカップをわきに置いた。顔をあげ、きらきらと瞳を輝かせて胸の前で手を組む。
その姿勢だけでなにかを感じたのか、オーフェンは小さくうめき声をあげた。かまわずクリーオウはちょこんと首をかしげる。
「てことで、オーフェン。さっそくお願いがあるんだけど……」
それから。
「……なんて俺がお前を背負って戻らにゃならねえんだよ」
のろのろと木々をかきわけながら、オーフェンはぼやいた。
今まで気づかなかったが、野宿している場所までの道のりはゆるやかな坂になっている。
「なに言ってるの。わたし、足を怪我してるのよ」
彼のすぐ背後で、拳を振り上げてクリーオウが即座に言い返した。
「怪我した女の子を無理矢理歩かせようってわけ? それってすっごく残賊的残忍惨虐な行為だと思うわ」
「勝手に思っとけ」
「あー、そーゆうこと言う!?」
耳元で叫ぶのだけはなんとかしてもらいたいため、オーフェンは沈黙した。
それでも彼女はぎゃあぎゃあとなにかまくしたててくる――耳を押さえたくても手が足りない。ほとんど聞き流していると、急に彼女はおとなしくなった。ぺたり、とこちらにもたれかかってくる。同じに重さも増した。一歩がさらに重くなる。
「なんだか疲れたわ」
「俺のほうが疲れるわ」
お荷物をすべて抱え、嘆息するように切り返した。
荷物のひとつが、ぐるりとオーフェンの首に腕を巻きつける。
「ね、オーフェン」
「……なんだよ」
「眠ってもいい?」
「やめろ。重くなる」
「ひっどーい。普通、そーゆうことって思ってても言わないわよ絶対!」
こつん、と殴られる。
殴り返すことも睨みつけることもできずに、オーフェンはたまった感情を息とともに吐き出した。ゆったりと野宿場所に向かう。
――それから。
クリーオウは、ふと殊勝な口調で声をひそめる。
「あのさ、今日はなんかいろいろ言わなくちゃいけないけど……」
「別にいいさ」
「へ? なんで?」
きょとんと聞いてくる。
「もう知ってる」
「…………」
沈黙。
見えないが、クリーオウはありありと目を見開いているのだろう。息をとめ、動きをとめ、沈黙を体現している。
そして、しばらくしてから彼女は低い声音で言ってきた。
「なんだか今の、すっごく生意気だったわ」
「ええい、首を絞めるな! おろすぞ、ここでっ!」
「あ、ちょっと落ちるじゃない! おとなげないわよ、オーフェン!」
「生意気だとかおとなげないとか、お前俺をなんだと思ってるんだ!?」
「――!」
「――!」
それから。
ふたりは二方息が切れるまでその場で怒鳴りあった。