そよ風が吹く。
 癖があるとはいえ、見事な金色の長髪をした少女は、彼女の身体よりも十倍は太い、古い大木の幹に凭れるようにして座り込んでいた。艶やかな髪の先を指先で弄び、微笑を洩らしながら天を仰いだ。
 かつん、と硬い音がした。見れば庭の先、池の一角にある猪落としが水に濡れ滴っている。先が石に当たり軽快な音を発していた。客人が来る時間帯では休む暇もない働き者だったが、そろそろガタが訪れてきていた。人だろうと物だろうと、年には勝てない。秋の口とはいえまだまだ強い太陽の真下、それはひんやりとした雰囲気を漂わせているものだから、せめて冬の長い休みまではと、彼女はもっと頑張って欲しいと心から願った。
 白い衣装に赤い袴。
 彼女が召しているのは、それだった。俗に言う巫女衣装というものだが、その長い金色の髪に巫女衣装とはやや変わった光景である。まだ娘と呼べる彼女自身の動きは緩慢でありどこにも不自然さが伺えない。幼い頃から着慣れているのだろう。彼女は立ち上がり、幹と地面に触れていた部分を軽く手で払う。先程やり残した仕事をさっさと完了させてしまおうと、古木に立て掛けてあった箒を手に取り、境内へ向かった。とろりとした微睡みを含む熱気は境内に居座り、清閑な大木の下から出てきた少女を軽く圧迫する。
 ここの境内は閑散としており、お参りに来る人の数は一日を総計して指折り程度、これがまた寂しい。古来よりの由来が原因であるというが、彼女はそのことについて一向に興味を示さなかった。しかし、故にこの神社は、神社自体か又はその人自身に何かしらの事情が無い限り、観光参りの行き来はさほどないのである。
 物静かな境内を掃く、箒の音。
 塵らしい塵といえば、それこそ余分に散った木の葉程度しかない。希にふもとの子供達が神社へ迷い込み、空き缶やら忘れていった玩具やらを散らかしていくが、それですら些細なことだ。
「クリーオウ、掃除は終わった?」
 と、声を掛けてきたのは姉のマリアベルだった。クリーオウと呼ばれた少女とは違い、マリアベルの巫女衣装は大人らしい雰囲気を醸し出している。
「別に、さぼってなんかないわよ」
「そうかしら? 掛かった時間に比べ、やや埃があるようだけど」
 わざとらしく演技の下手な小姑の役をして、マリアベルは穏やかに笑った。汚れていない指先を袖で拭く。──いじわる、クリーオウは姉の指を見やる。
「たった今埃がついたのよ」
 クリーオウは嘯いてから、しまったと顔を歪めた。
「どうしたの?」
「あ、な、なんでもないの、なんでもー!」
 ぱたぱたと駈けていく妹を見ながら、マリアベルは首を傾げた。
 その時だった。
 クリーオウが駆けていった先から、耳を疑うような轟音が響いてきた。音だけではなく、振動として地も揺さぶられる。晴天の下、鳥と風の音色だけだった境内に突如として襲いかかる、身体の芯にずしんと来る轟音。太鼓の音ならば清々しい、まさに清涼で小気味の良い音だったろうがこの音は違う。その後は数回にわたる振動の後、再び静寂が辺りを支配した。マリアベルはしばらくの間耳を澄ませていたが、鳥の声はしない。ただ、我関せずという顔をした風だけが、小さく声を鳴らしていた。
「あらあら。あれで隠しているつもりかしら」
 くすりと笑う。
 よくもまぁ、とは思う。クリーオウは自分でも気付かず、なかなかに気に入っているようだった──あの男のことを。
 ──それはそれで、問題なんだけど……。
 太鼓よりもさらに景気の良い音を立てる猪落としが、ようやく自分の音が風に乗ってくれることを確認したかのように「カツーン」と一層大きな音を響かせた。



「オーォォォフェン!」
 こういう時、巫女衣装というものは走り辛いものだと思わざるをえない。木々が遮るさらに先には、ぽっかりと口の開いた広場がある。元々ここにこんな広場はない。人工的に作られたのだ。
「オーフェン! また広くした!」
「なにをだ」
 クリーオウの記憶に間違いがなければ、煙が薄れてきた先に昨日までなかった穴がしっかりと存在していた。
「あれよあれ! ウチの土地、荒らさないでくれる!」
「荒らすつもりも何もねぇんだけどな。てゆか、それならコレをなんとかしてくれ」
 全身から煙が吹き出している黒ずくめの男の足元に、一匹の黒い犬が小さく座り込んでいた。何を警戒するわけでも興味を持つわけでもなく、ただ座ったままオーフェンと、そして今し方駆けてきたクリーオウを交互に見渡していた。
「ウチの狛犬兼ペットのレキに、文句言わないでよ!」
「訳わからんぞそれ! そもそも狛犬ってのはペットじゃないんだが……まぁ、それをいったら黒い狛犬というのが、前例のないことだけどな」
「ふぅん、そうなんだ」
「……って、自分のとこの狛犬を知らないのかよ。こんな爆発させやがって」
 狛犬としては脅威の破壊力に、オーフェンはぞっとする。
 そもそも狛犬とは誰もが記憶の定かではない程の太古、神社の犬石像が突如として動き出したことから由来する。石像が動き出したという事態が考えられないことなのだが、現在活動をしている狛犬は須く超常現象を引き起こすことが可能であった。一説では、その力を持ち、地上と神を繋ぐことが可能とされる唯一の神社を警護する役目があるのだとか、また別の説に置いては、地上の魔術士と呼ばれる特殊能力の使い手達と神が戦争をしたときの名残だとも云われている。細かい事を述べれば各種争論が行われているのだが、ごく一般的にはこの二者が知られていた。神主といえど、この狛犬の本当の由来を知る術はない。
 そして、狛犬は死なないとされている。神聖なる者であるが故に誰も触れること叶わないとされている為でもあるが──本来生物になら必ず来る焉わりというものが狛犬にはない。寿命とはとんと縁がないのだ。これを不必死と呼ぶ。この事についてもいくつかの論争が行われ、クリーオウが風の噂で聞いた話によれば「太古の戦争によって遺伝子操作されたのが狛犬なのだ」という。どこぞの小説を読んでそれを現実と錯誤した与太話に過ぎないとクリーオウが口にしたら、オーフェンはしばし考えるふりをした。
「俺は今、この馬鹿犬に殺されかけたところだから、狛犬に関する話をするとムカつくんだが」
 そんな前置きをいれてくる。
「神社に伝わる神様ってのを信じないなら、案外それは間違っちゃいない。昔はとにかく技術が発達していた。それこそ今と比べると笑ってしまうぐらいに、な。実際、太古の戦争について書かれた候古事記によれば、人間の遺伝子を改造って強化した兵士もいたというぐらいだ」
 候古事記とは各諸侯がそれぞれの治める地の歴史について書き収めた書物である。一般的に出回っている物はこれらを写したもので、本物は今も口が厳密に保管してあるという。諸侯によってある程度改竄されている歴史があるだろうという話だが、候古事記は原則としてそのままの歴史を記すことになっていた。記録する者も厳選された人物であり、時の主上から抜擢された人物のみしか、歴史を記すことはできないとされた。
「それだったら犬を改造する意味なんてないじゃない」
 オーフェンはため息をついた。
「そうとも言えない。犬ってのは訓練すればある意味でマシンガン(この場合のマシンガンは連発で矢を打ち出す道具をさす)を持った人間なんかより遙かに脅威だ。鼻が効き、動きが素早く、頭がいい。状況によっては──そうだな、暗闇の中、夜中の森の中だっていい。銃を持った人間よりも匂いで居場所を感知し、夜目の利く犬の方が遙かに怖い。訓練された犬には人間なんかがそうそう勝てるもんじゃねぇんだよ。つまりだな、そんな便利な犬を遺伝子操作で強化すりゃ十分兵力として期待できるってわけさ」
「そんなもんなのかなぁ」
 クリーオウは口をとんがらせた。腕に抱え上げた、どう見てもただのペットとしか思えないこの黒い子犬がそんな凄い犬だなんて、想像もつかない。
「俺からいわせてもらえりゃ、石像から動き出したってほうが眉唾モンだ」
 一息入れてから「で、だ」とオーフェンは言葉を続けた。
「なんで黒いのが珍しいかっていうと」
 狛犬は本来、白い色しか存在しない。その白は神社の清潔を証明しているとさえされている。だからこそ白色の犬という決まりがあるのだ。毛は短く、毛並みは世間で番犬として飼われている柴犬を思い出させる。しかし柴犬と決定的に違うところはその毛の質と、目の色。毛は油でも塗ったのかと思えるぐらいしっとりとしているのだ。だが、その油が手に付くことはなく、手放したあと掌に残る不快感は無い。瞬時に乾くのか、そもそも手に付かないのか。目は宝玉のように綺麗な緑色をしており、辺りが暗闇になるとその両目がうっすらと輝いているのがわかる。
 レキは見た目は子犬ではあったが、とても柴に似ているとはいえなかった。
 黒い、というのは何かと不吉な色である。良いことなど起こった試しがない。
「だからこそ、俺が被害を受けてんだよ」
「それは日頃の行いじゃないの」
「るっせぇ。祀りの一つもできない巫女に何もいわれたかない」
「なによ! できなくて悪かったわね!」
「ああ悪いね。だからその馬鹿犬が黒いんだろ」
「あー! またレキを馬鹿にしたぁ! レキ、やっちゃ……」
「まてまて! それだけはよせ!」
 オーフェンは慌ててクリーオウの口を両手で塞いだ。
「ったく……せっかく例のモノ持ってきてやったってのに」
「え、ほんと!」
 ころころと表情を変える少女に、内心で苦笑しながらオーフェンは一枚の紙を二つの指で弄んだ。クリーオウはそれをかっさらうかのように受け取ると、すぐに開いてみせる。
「ほーら、やっぱり」
「なにがだ」
 ため息混じりに質問してみると、クリーオウはしてやったりという表情をしていた。
「この間さー。マジクがいかにも自分の成績はいいみたいな顔して言うモンだからさぁ。なんだかとっても悔しくってホントに成績良かったのか調べてやろうって」
 ──つまり、クリーオウの成績が悪くて、マジクの野郎はうっかりしてそこを突いてしまったのか。
 ため息が深くなるのを実感する。
「……そんで、そんなのどうするつもりだ」
「コピーして学校の校舎に張りまくるの。二百枚ぐらいコピーして廊下やトイレに張っていけばみんなわかるよね。あ、でもそれだけじゃインパクト弱いかな」
 いや十分だろ、という言葉を飲み込んだ。何かを言えば何かが返ってくる。実体験としてそれを知っているオーフェンは興味の対象が自分ではない場合、流れを読んで押し黙ることにしていた。
「なんかイタズラ書きしてからコピーすることにして……っと。オーフェン、手伝って!」
「なんでだ。ちゅーかなんでわざわざ自分の弟子を無意味に追い込むマネしなきゃいけないんだ」
「いーじゃん。どうせ今暇なんでしょ?」
「突然忙しくなったから却下。というわけで」
「突然暇になってもいいじゃない! あ、じゃあさ、私にもアレ教えてアレ。いいでしょ?」
「……」
 目を輝かせる少女を前にし、オーフェンは頭を振った。
「無理だ。あれはそうそう教えられるもんじゃない」
「でもマジクには教えてるじゃない」
「つーかな、お前には教えられないんだよ」
「えー、なんで?」
「清くあらねばならない巫女に、そういうのは教えられないんだよ。俺が使うのは魔術だ。魔術を行使する場合、精神、身体のどこかが必ず蝕まれる。言うほど酷いもんじゃないし、ペース配分を間違えなければ特に影響がでるものじゃない。だけどな、巫女は違う。神聖なる存在として確固たる使命がある巫女は僅かな穢れですら致命的となる。そもそも巫女は世界を支える存在とされるのに、どうしてお前はこう……。いや、それはいいんだが」
 ごほん、と咳払いをする。
「魔術は己の身体を守る術であり、戦闘能力ではずば抜けている。世界でも貴重な存在である巫女がこれを覚えないのは確かに不安だ。魔術士相手に抵抗する術がないんだからな」
「ねぇ、なんで魔術士が狙うなんて決めつけているの?」
「んー、まぁ、決めつけるのはよくねぇな。狙っているのは魔術士だけじゃない。巫女という存在を狙うヤツはそれなりにいるもんだ」
「ふーん、そうなんだ。実感無いけどね」
 オーフェンはくつくつと意地悪く笑った。
「そりゃそうだ。なんのために狛犬がいる?」
「……あ」
「お前に来る障害は、その馬鹿犬が全部取り除いてるんだよ。人間の魔術士程度じゃ到底、話にもならない。特にそこの馬鹿犬は他の狛犬に比べて力を持っている」
 狛犬は巫女を生涯に渡り護る。もともと不必死という存在であるが故に、それは永遠に続く。もし仮に死が訪れたとしても、数年後には転生を終え新たな狛犬として巫女を護るともいわれているが、狛犬が死んだという事例は候古事記にすら記されていない。
「まぁ、なんていうか」
 頭を掻きながら、オーフェンは結論づける。
「凶暴な番犬ってところだな。ただの番犬さ」
 狛犬は巫女の潔白を護る為に敢えて陰に隠れ身を守るとされる。普段こそ姿を晒しているが、いざ異常起これば、密やかに異常を排除する。狛犬に足音はなく、さらには声を上げることもない。特にクリーオウがレキと呼ぶ狛犬は全身が黒く、あたかも暗殺者のように見えた。
「まぁ、つっても、魔術ってのがそもそも何なのかがよくわかってないんだが」
 クリーオウに抱かれているレキを一瞥する。
「とりあえず、そろそろ戻れよ。魔術士である俺と長く話すのは問題だからな」
「そうだね。お姉ちゃんにバレたら怒っちゃうもんね」
「……?」
「それじゃオーフェン、またねー。今度料理作ってきてあげるからー」
 ──死刑宣告だった。
 地に生える草を踏む喧しい足音を立てながら、クリーオウは境内へ戻っていた。クリーオウの姿が見えなくなるのを確認すると、オーフェンはくるりと振り返り、先ほど爆発が起きたさらにその先の茂みを掻き分ける。
 数人の男が倒れていた。
「これに懲りたら、妙なちょっかい出すんじゃねぇぞ」



 急いで境内に戻らなければならない。
 姉が笑顔で待っているはずだった。──掃除をしろと。
 日課になっている境内の掃除をするのはあくまでクリーオウの役目だった。巫女とはいえ神社の中での位は低く、権力としては母親が最も強かったので、母の命には逆らえないことになっている。
 逆らうことはないが、忘れることはあった。
「だって、メンドウなことって忘れやすいじゃない……」
 草を踏みしめる音が鬱陶しい。木の葉の隙間から漏れる光は強い。森の中は湿気があり、時折吹きすさぶ風が湿気を取り除いてくれることもあった。風は決して冷たくはない。かといって暑くもない。熱は木と土が吸収し、代わりに程よい温度を森の中にもたらしていた。
「そうですな。メンドウ事は忘れやすいのです」
 枝からぶらさがった紳士を横目に観ながら、クリーオウはしばし呆然と足を止める。
 森の中は、つまり山の中である。山に挟まれるようにして栄える町の建物の屋上からならば神社を一望することができる。背の低い滑らかな山の中に神社を建てたのがおよそ数百年前。この年数は定かではない。候古事記にすら正確な年数が載っていなかった。神社の当主だけが読むことを許されている諸著本になら、神社の由来が記されているのかもしれないが、クリーオウはそんなに興味を持っているわけではない。山があり木があり川がある。それと神社があるのとで、どれ程の差があるだろうか。自然発生したものだろうが人工的なものであろうが、結局のところクリーオウが生まれる前から存在していたものであるし、それ以上以下ではない。
「なんてったってアイドルですからな。いえアイドルではないなんて、そんな嘘は通じませんよ。アイドルじゃなかったら、なんつーか、コスプレになりますからな」
 クリーオウが母親を絶対の存在とするのも、同様に生まれる以前から決められていたことである。クリーオウがそれに納得しているかは、また別の問題であるが。
 しばし──物思いに耽ってしまった。
「コスプレは良いものですコスプレは。私も執事の仕事を本業としながら実はコスプレだっていう噂があるとかないとかですしコスプレに関しては諸説色々とあるのです。奥が深いですね。というわけで、あなたもレーッツチャレンジ!」──と、男が誘うように右手を差し出した。
「変態よレキやっちゃって!」
 間髪置かずに爆発が起こる。
 腐りかけ土と一体化しようとしている葉を地面から抉り、木々はその破壊力に身を震わせる。数えるのも苦労する程の鳥が一斉に空へと逃げていった。
 爆発は決してクリーオウを傷つけることはなかった。レキが護っているのだろう。クリーオウの視界は煙で覆われ、男がぶら下がっていた木の枝が重そうな音を立てて地へ落ちた。一度だけ僅かに跳ね返ったあと、その太い枝は一切動かなくなる。
 風が吹いた。煙が一掃される。
 煙の中から現れた男は、差し出した手のままに立っていた。タキシードからは何条もの細い煙を吹き出させていたが、その銀髪には一切の乱れがない。
「何をするんです?」
「きゃー! まだ生き残ってるわよ! レキ、トドメよろしく!」
「いやだから何をなさるのです」
 レキが放つ爆発をことごとく身体に食らいながら(それでも立ち上がるということは、避けているのかもしれない)クリーオウに迫る男──。
「何をなさるのですとかじゃないだろうがこのボケ!」
 全力で蹴った。あるいは蹴られた。タキシードの男が横から突き出された鉄製のブーツに顔を抉られたかのように、クリーオウには見えた。男は勢いに流されるまま顔面から地面を滑っていく。
「おやこれは黒魔術士殿」
 顔を地面に埋もれさせたまま、何の感情も含むことなく男は名を呼ぶ。オーフェンは息を荒くしながら、その男の足を掴んで引っ張りあげた。
「おいこらキース」
 とりあえず立たせ、襟首を掴み、オーフェンは睨んだ。
「なんですかポンユウ?」
 無言で殴る。だが、キースは器用に首だけを動かしその一撃を避けた。
「またまた貴方も何をなさるんですか?」
「やかましい! 大体だな、なんでテメェがここにいるんだよ! コギーが旅行とかなんとかで一緒についてってんじゃなかったのか!」
「あっはっは。まさかぁ」
「なんでだよ!」
「だって、別に温泉とか行きたくないし」
 頭が痛くなってきた──オーフェンはこめかみを右の親指で押す。何がなんだかわからないといった顔をしている少女は、それでも油断無くレキをキースの方へ向けていた。
「まぁ、まっくろ術士様」
「その言い方は底からむかつくのでやめろ──って、おわ」
 一瞬で視界から消え、背後に回ったキースに声を上げて驚いていると、キースは口端を歪めた。
「温泉なんかより、少々、黒魔術士様の生活に刺激を与えたほうが良いかと」
「なにを言っ──」
 オーフェンが訊ねるよりも早く、キースの白い手袋に包まれた両手が彼の背中を強く押す。同時に、オーフェンの右足を自身の足に引っかけ、転びやすいようにしていた。
「うわ」
 短く声を上げる。
 この土の上に倒れることは、言うなれば問題はない。しかし怪我は負わなくてもその後が問題である。キースという男は、オーフェンが知る限り何をしでかすかわからない。現に、どうして面識のないクリーオウの前に現れたのかが理解できずにいるのだ。土に転がったオーフェンをどうしようとしているのか、それを察する時間を与えてくれるだろうか。
 ──だが、それすらも問題ではなかった。
「え?」
 クリーオウの目が見開かれる。
「え、え、え、え?」
 あがらいようはない。
 ──オーフェンは、最悪の状況を刹那に想像した。



 マリアベルが、遅い、と呟いてクリーオウの消えた先を見据えたのは、陽射しも斜にさしかかった頃だった。
 小一時間は経つだろう。自分の仕事を放って遊び呆けるなど、巫女としてあってはならないことだ。それがいくら遊び盛りの年頃だとしても。
 ──いや。マリアベルは小さく首を振る。
 遊び盛りだからこそ自身を制御する術を学ばねばならない。欲望と理性は常に一つとしてある二つだったが、それでも理性が上回っていなければならないのだ。クリーオウはどうしてもその辺が理解できていない。
 マリアベルはクリーオウが消えた先に行ってみることにした。森の中に入るのは実に数年ぶりである。巫女衣装はこういった場所に適さないが、この場合は仕方のないことであろう。袖と袴が枝に引っかかるので、どうしても歩みが遅くなってしまう。
 歩いて数分経ってから、爆発音がした。
 爆発自体は特に珍しいものではない。狛犬が外敵を排除したのか、クリーオウが無茶な命令をしたのかはわからないが、よく起こる現象である。本来、ここまで爆発が起こる神社周りなどあってはならないことであり、そもそもあるはずがないのだ。だが、どれ程否定しようが、爆発は頓に起こる。
 ──今日は少々、数が多いのでは?
 マリアベルは首を傾げた。何か良くないことでも起きているのではないか。ただでさえ黒い狛犬。街の人達からは不吉を呼ぶのではないかと囁かれている。──マリアベルでさえそう思ったことがあった。それを裏付けるように起こる爆発。クリーオウがレキを授かった時より爆発は明らかに多くなっている。
「……代々伝わる狛犬を、あの子ったら……」
 一度、母に説教してもらったほうが良いのかもしれない。そうしないと不吉が離れることはないだろう。
 その時、クリーオウらしき金の長髪が視界に入る。
「あ、クリーオ……」
 そこで、言葉が止まった。
 ついでにマリアベルの時も止まった。
 不吉はあったのだ。そこに。どうしようもない理不尽さと目の前で起こっている現実。
 辱めにあっている──と、マリアベルは本気で考えた後、否定した。それは自分がそうなって欲しいと思った事じゃないのか。それならば最低限の事実は護られる。そして最悪の事態は避けられる。しかし、陵辱は世界にとって最悪だ。本人にとっても。──私にとって最悪なの?
 そうじゃない。
 不意の事故か。
 そうじゃない……かもしれない。
「えっと……」
 全員の呼吸が停止していた。心臓だけが激しく波打つ。息を吸おうと肺が藻掻く。落ちる木の葉は妙に焦げていて、その焦げた匂いだけは時を止めることを拒否していた。──空気は吸えている。だが、実感はない。
 黒ずくめの男の手が、妹の衣にかかっていた。奇妙な体勢だったが、それでも男の体重と手の力によって、衣がずれ落とされたことは間違いがない。マリアベルにとってそれが全てであり、一部始終でもあった。
 片方の小さめなふくらみが、はっきりと目に入る。一緒に風呂に入ればいつも目にする、今更気にもしないそのふくらみ。だが、今は違う。
「いやあのその……」
 衣を剥ごうとした(ように、マリアベルには見える)男はどこまでも困惑している様子だった。現場を押さえられたからだろうか。それとも。
「……あ」
 その呟きはマリアベルか、それともクリーオウか。
 マリアベルは見た。
 妹の両目に、はっきりと涙が溜まっていることを。
 ──そうなの?
 そう問いかけることもなかった。クリーオウはレキを向けた。男の目が恐怖に彩られる。違う、誤解だ。俺は何もしていない。全ては運が悪かったんだ。
 慈悲は、どこにもなかった。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ! オーフェンのばか────!」



 男は吹き飛んでいった。
 黒い色は晴れた空の中、意外にも目立つことがわかった。オーフェン以外にもう一人、誰か知らない人が巻き込まれていたような気がしたのだが。
「おそらく、気のせいよね」
 マリアベルは振り返り、クリーオウの衣装を簡単に直した。まだ涙目のクリーオウの頭を優しく撫でる。
「ほら、行きましょう。ああいう不逞の輩はレキが排除してくれますから」
 うん、と頷いてクリーオウは立ち上がった。もう泣いてはいなかった。
 やっぱり、芯は強い子なのよね、とマリアベルは心の中だけで呟く。
 ──それにしても。
 あの時のオーフェンを思い出すと、マリアベルは怒りと共に、もう一つもやもやした正体不明の感情が浮かんできた。
「……どうせなら、私を襲えばいいのに」
「え、何かいった?」
「なんでもありませんよ。さぁ、行きましょう。まだ掃除が残っているんですから」
 えー、と不満を漏らすが、そんなことは言ってられない。姉妹は自分たちの神社に戻っていった。



continue...

あとがき : ヒラさま
おはこんばんちは。
いえ、挨拶に深い意味は無いです(笑)
とゆわけで、ヒラです
今度ゆかなかさんのHPで行われるリレーチャットの題材が「クリーオウの巫女化」というすンばらしい内容のモノで、恐れながら私がその前書きを書かせていただくことになりました。
っていうと、何かしら妙な気がしますね。
言い出しっぺは私です。ええ私です。だってクリーオウに巫女ですよ? 他に何を望むのです? マリアベルとのツーショット、観たくないですか? もちろん巫女姿で! でも小説は文字なので絵ではないのです。絵師募集中ですッ(爆)
前書きのほうでオーフェンがやたら偉そうに喋っていますが、設定は妙に細かくしたつもりです。ここまで細かくする必要は無かったんですが、どうせパラレルなんだからいっそ深く作り込んでみるかぁ、という意味不明な意気込みをみせてしまった結果です。激しく後悔(ぉ

前書き話の内容に関しては……えっと、もっとキチンと話を書けばよかったなぁ……と。あまりにもおざなりな気がして……。まぁ、クリーオウ脱がしたからいっか(※問題発言)

これを読んでリレーチャットに参加したくなった方は、遠慮せずにどんどん参加してくださると嬉しいなぁと思います。何も考えずに参加すべしです。いやほんと。
いくら設定細かくても、一応読まなくても問題は無いようにしてあるつもりです(笑) つーかあれ、私の趣味です(爆) そゆわけで、参加をよろしくお願いします!

というわけで、ではでは!
ヒラさま、ありがとうございました!