建物と建物の間の、人一人が通れるかどうかの場所に身を潜め、辺りを伺う。動き回る人影を一瞥し、少年は、細い声で問いを投げた。
「どうするんですか? 一体」
「どうするって言ってもな。はっきり言って、手詰まりだ」
 問われた男は、舌打ちを零させると、少年の頭の上から外を見やる。
 眼前をうろつく人影は、一向に消える気配はない。むしろ、数が増しているようにすら見て取れた。
「訊いておいてなんですが。改めて言われると、哀しくなりますね」
 はーっと長い息を吐き、肩を気怠げに落させる。
「俺だってそうだ」
 苦み潰した顔で告げると、男は、無造作に頭をかきむしった。
 半眼となった双眸を僅かに空に向け、変らない青い色すら恨めしそうに眺めてから口にしたのは自問自答だった。
「そもそも、なんでこうなったんだ?」
「明らかに、原因は安易な発案をした」
「そうだよ、俺の所為だ。ちくしょうっ」
 逃げることには、多少なりと自信はあった。これまでの経験もさることながら、裏をかくことが得意な部類でもあったからだ。
 が、あくまでも、これは持論であり、少年に言わせれば、最後の最後の詰めが甘いのだという。ちなみに、指摘された直後、思わず拳を一つおみまいしたことは、彼の行動としてはよくあることだったりする。
「だがな、あんな所に居るだなんて思わねえだろ。普通は」
「けど、あの人達、普通じゃないですし」
「そうだ。そこを忘れていたのが敗因だ」
 やっぱり詰めが甘いんだ、と少年は、胸中で独りごちる。
 と、男は、頭を軽く振ると、いまだ前を行き交う人影を一瞥し呟いた。
「こうなったら、奥の手を使うしかないな」
「えっ…? あるんだったら、早く言って下さいよ」
 この期に及んで出し惜しみする意図を問おうとするよりも先に、男が、それらしきものを話し始める。
「いや、これは、ほんとーのほんっとーに最後の手段だったんだ。なぜなら、これの成功には、一つの尊い犠牲が必要となるからだ」
 紡がれた言葉に、背筋が凍り付く。頬を引き攣らせながら、少年は、男との間に距離を取ろうと後ずさりをした。
「………ちょ、ちょっと、待って下さい。もしかして、それって!?」
「すまん、マジク」
 脱兎の如く走ろうとした少年の首根っこを掴むと、男は、少年を人影目掛け投げたのであった。
 叫びとも悲鳴とも罵声とも取れる声が、段々と小さくなり、そして消えた。
「この人でなしーっ!」
「お前の犠牲、無駄にはしないぞっ」
 捨て科白宜しく走り出した男は、逆側の通りを一気に駆け抜け、建物の影に腰を下ろす。乱れた息を整えるように、大きく両肩を動かし、長々と息を吐き出した。
 ここまで来れば、暫く見つかりはしないだろう。呼吸を整えたら、また、全速力で走れば逃げ切れる。そう考え、男は、壁に背を預けた。
「相変わらず、酷いことしてるわねー。あー、えげつなーい」
「うるせえ。こっちだってなあ、人生掛って」
 自然と、掛けられた言葉に返事をしてしまい、驚き顔を上げ、更に驚きを増させる。
 光に照らし出された顔は、見知ったもので。固まった表情のまま、男は、その人物の名を口にしていた。
「……………クリー…オウ」
「久し振り、オーフェン。元気そうね」
 あっけらかんとした口調に、思わず、すんなりと普通の挨拶を続ける。
「おう。お前も、元気そうでって、和やかに挨拶してんなよ。なんで、お前がここに?」
「どっちかっていうと、なんでオーフェンがここにだと思うんだけど」
 尤もな言い分だった。
 ここは、彼女が居ても可笑しくはない、彼女の住む街。最初に彼女と出会った街であり、己が元々は住んでいた街だ。其処へ、別れて以来何の連絡もしていない己が、何の前触れもなしに舞い戻り、こうして突然の再会となっているのだから。
「そういやあ、そうか。あー、なんだ。どこから話しても長くなりそうだな」
 別れた時よりも、さして変わりもしていない彼女の顔と、少しだけ伸びている金髪に目をやってから、ゆっくりと立ち上がるオーフェン。彼女の胸元でもぞもぞと動いている黒い固まりに、こっちも元気そうだなと口許を緩める。
「別に説明しなくてもいいわよ。粗方、察しは付くから。どうせ、人の道踏み外した行為を行く先々でして追われて逃げる途中に、マジクを巻き込んだ挙げ句犠牲にして、自分はちゃっかり助かって万々歳ってとこでしょ?」
 彼の目を見て告げていたクリーオウは、下から上へと視線を外さずに告げる。下から見上げてくる彼女の頭に手を置き一撫でしてから、少し力を込め、鼻先に己のそれを付き合わせるように顔を近づけた。
「お前の俺に対する見解がよーく分かった」
「見つけたぞ、あそこだ!」
 後ろからの声に背筋をぴんと伸ばし、クリーオウの頭から手をはね除ける。
「ああっ! お前と立ち話なぞしてるから」
「なによ、わたしの所為だって言いたいわけ?」
「だぁーっ! ともかく、逃げるぞっ」
 言うが早く、オーフェンは片手でクリーオウを抱え上げた。
 まるで、荷物を持つかの如く、小脇に抱えられた格好に、目を白黒させるクリーオウ。
「え? ちょっ! な、なんで、わたしも一緒なのよっ」
「そりゃ、お前をあそこに置いたままにしておくとだな。追ってきた奴らに、無いことやら無いことやら無いことやら、色々といらんことを話してくれやがるからだ」
 走りながらに告げられ、クリーオウは、唇を尖らせた。そして、双眸を半眼とし。
「……オーフェンのわたしに対する見解がよーく分かったわ」
 そのまま、彼を見やり、低い声色で問いを投げ付ける。
「で、何処まで連れて行く気よ」
「あいつらをきっちり巻くまでな」
「ふーん。じゃ、それまでは、また一緒に行くことになるわけか」
 不服そうにも耳に届き、オーフェンは、つと視線を下げさせた。
 風になびく金髪を気にしながら、胸にある存在を抱き直していた彼女に向かって一言。
「厭……なのかよ」
 最中にも、走る足は一向に緩めはしない。
 黙ったままでいると、それから先の言葉を紡いでこないオーフェンに、クリーオウは、唇をそっと上向かせ。
「ここまで連れて来ておいて、厭もなにもないと思うんだけど」
 軽快な語尾に、オーフェンは、笑みを浮べさせた。
 もう片方の手で支えながらクリーオウの身体を起こさせ、今度は、膝裏を抱えるように持ち直す。そして、声を上げた。
「しっかり掴まってろ!」
「了解っ!」
 オーフェンの首に両腕を廻し、クリーオウは、高らかに叫ぶ。追いかけて来る連中に、舌を出して見せる彼女の頭には、胸元に先まで居た黒い存在が乗っていたのであった。

 

 

 流れる景色は、右から左ではなく、背後から現れ遠くへと消える。
 それをどれだけ眺めただろうか。短い時間なのかもしれないが、もういい頃合には間違いない。
 独り納得をし、クリーオウは呼び声を一つ。
「ねえ、オーフェン」
 しかし、返答はない。流れていく景色もそのままだ。
「オーフェン」
 己の意思によるものではない、他の者による移動は些か退屈なもので。彼女にしてみれば、もう限界の今。脱却には、自身の足となっている存在を止める事なのだが。
「オーフェンっ」
 聞こえていないはずは無い。真横にあるのは、間違いなく彼の耳。なのだが、三度の呼び声に、返答一つなかったのは確かな事実。
「オーフェンー」
 四度目は張上げて。だが、それでも何も返ってこない。
 業を煮やしたクリーオウは、力任せに彼の耳を引張り、中に向かって叫んだのであった。
「オーフェーン!」
「五月蝿いわっ」
 と、今度は、即座に返され、クリーオウは虚を突かれたかの如く、目をまるくする。
 勢いよく向けられた顔をまじまじと見つめ、双眸を瞬かせた。
「さっきから何度も何度も。いい加減怒るぞ、俺は」
「もう怒ってるじゃない。って、聞こえてるなら、最初から返事してよね」
 むうと頬を膨らませたクリーオウに、オーフェンは肩の張りを少し緩めさせる。ふっと重たげな息を一つ吐き。
「あー、悪かった悪かった」
「なによ、そのおざなりな態度は。大丈夫みたいだから降ろしてって言おうとしたのにっ」
「それならそうと早く言え」
「聞こうとしていなかったのは、誰よ」
「はいはい。俺です」
 オーフェンは、げんなりと表情を顰めた。
 応戦をしたいと思うも、彼女を抱きかかえたままの両腕は塞がってしまっており、何も出来ない。言葉の応酬に負けるつもりはないが、ここ数日の空腹により思考はまとまらない。となれば、草々に話題を切り替えるしかないだろうと、差し向かいの彼女から視線を逸らし。
「ここまで来れば、大丈夫だな」
「だから、そう言ってるじゃない」
 ふーと長々息を吐き出し、クリーオウを地面に降ろした。余韻を告げるように、鼻先を金髪が擽りながら過ぎてゆく。
 もぞもぞと彼女の腕の中で動く黒い塊を無視し、その軌跡を何とはなしに眺めていると、紺碧の双眸とかち合った。
「なによ」
 半眼での呟きに、胸中で舌打ちを零させながら。
「……なんでもねえ」
「そうは見えないんだけど」
 こちらを下から覗き込みながら背伸びをしてきたクリーオウの頭にぽんと手を置くと、知った感触が指先を絡め取る。
 砂埃混じりの風が、金髪を柔らかに遊ばせるさまを見やって、向けられている視線に己のそれを合わせようと態勢を僅かに落とさせた。
「あー……クリーオ」
「やぁっと見つ…け……たぁ」
 背後からの声に、身体を元に戻し肩越しに振り返れば、大きく肩で息をする少年の姿。
 このタイミングでかよ、と胸中で独りごちる。
「酷いですよ、オーフェンさん」
「早かったなー、マジク」
 枯れた声色での怨みに棒読みの如く返し、クリーオウの頭にある手を元に戻した。どこか引っ掛かるものを感じながら。
「そりゃ、死にたくないですから」
 声を常のものにするように息を大きく吸い込む彼を一瞥し、オーフェンは、両腕を組む。
 大袈裟とも取れる頷きを二つほどしつつ。
「これも修行の一環だ」
「何でも修行って言えばいいと思ってるでしょ。確実に、5回は死線を越えかけましたよ」
 上げられた反論に、今度はクリーオウが続ける。
「だらしないわね。それぐらい、ひょいっとこなしなさい」
 鼻息荒げに言い放つと、胸を逸らした。頬を撫でていた髪が背へと回され、波打ち揺らめく。
 いつの間にか彼女の頭に陣取った黒い塊も、彼女同様に顔を逸らせている。
「そうは言うけどさ、クリーオウ。相手が相手なんだ……し」
 下を向き答えていたマジクは言葉を切り、徐々に顔を上げた。
 無表情に近いもので彼女を見つめた後、瞬時に驚きの色に顔を塗り替え身を引くマジク。
「って、なんで君が此処に居るのさ」
「遅いわよ、気付くのが」
 嘆息混じりに告げ、ねー?と頭上の存在に話を振る。
「ノリ突っ込みが出来る余裕があるなら、もう7回は死線を超えかけれたんじゃねえのか?」
 皮肉げに歪められた口からの科白に、マジクは、小さく悲鳴を零させ。
「冗談止めてください! いや、だから、どうしてクリーオウが」
「オーフェンに拉致られたの」
「人聞きの悪いことを言うな」
 間髪いれずのクリーオウに、覆い被さったのはオーフェンの声。
 がっと噛み付かんばかりの大口を前しても、彼女は動揺一つ見せない。至極きっぱりとさらりと言ってのけた。
「本当のことじゃない」
「じゃあ、まさか、最初からそのつもりでトトカンタに」
「なわけあるか!」
 科白を双眸に乗せオーフェンを見やれば、即座に否定の激昂で返される。
 普段より増された兇悪面に、やはりこちらも動揺一つ見せもせずに続け。
「どうりで、父さんに金を借りようだなんて尤もらしい口実を」
「や、俺は、貰うつもりで」
「脅して強請ってたかる気だったのね」
 乾いた口調での科白には、非難めいたものも含まれており、オーフェンは弁解を始めるべく口を開いた。
「俺がそういうことをする人間に」
「見えます」
 出鼻を折ったのは、クリーオウではなくマジクの方で。オーフェンは、引き攣る頬を押さえながら、作り笑顔を彼に向ける。
 怖さを内包したそれを増徴させる低い声色は、地の底から這い上がってくる地響きに似ていた。
「マジク。俺が死線を越えさせてやろうか?」
 小気味良い音を立たせ指を鳴らす彼へ、マジクは真顔を向け。
「結構です。で、どういう経緯でなんですか?」
 先ほどの怒気を軽々と消し去らせ、ふっと感慨深げに視線を落とすオーフェン。
「……たまたま、クリーオウと話しているところを見られてな」
「ないことないこと言われないようにと。それは、賢明な判断ですね。悪化を未然に防ぐには、その根源たるものを接触させないことですから」 
「わたしが死線を越えさせてあげましょうか? マジク」
「ごめんなさい」
 じとりと睨めながらに告げられ、背筋をぴしりと伸ばし深々と頭を下げる。
 と、上げた瞳に写った彼女に、マジクは、口許を緩めた。
「なによ」
 思いもよらない表情に、クリーオウは怪訝そうに眉を潜めさせた。
 頭の上の黒い塊を胸に抱きかかえ、更に眉間に皺を刻み込ませる。
「うん。相変らずだなって。安心した」
「安心……? 安心……。そうなのかしら。わたしも、安心したのかも」
 マジクの科白に、なにやらぶつぶつと呟くクリーオウ。
 独り納得し頷くのを見、首を傾げ。
「どうかしたの? クリーオウ」
「ううん。なんでもない」
 曲線を描いた双眸に、再び首を傾げはしたが。マジクは、彼女への疑問よりも大きな疑問を口にした。
「で、こんな所までクリーオウを連れて来て、どうやって帰すんですか?」
 オーフェンに向き直り、問いを投げる。
「独りで戻れなんて言わないでしょうね。か弱い女の子を放り出すなんて、非人道的かつ凶悪極まりない行動よ」
 続けたクリーオウに、けっと呟き。
「何処にか弱い女の子が居るんだ、何処に」
「まあ、非人道的かつ凶悪極まりない行動はしてますけどね」
 這わされた視線に、マジクは身を引きながら。
「いえ。死線を越えかけるのは、もうまっぴらです」
 オーフェンは、嘆息を一つ落とさせ頭を掻きつつ。
「取り合えず、独りで大丈夫な所まで送るのが妥当だな。後は、独りで馬車にでも乗れば問題」
「あるわ。誰が馬車代払うわけ? わたし、一銭も持ってないわよ」
 自慢げにも聞こえるクリーオウの声に、彼女からマジクへ双眸を向けると、目の前に差し出されたのは彼の掌。心もとなげに乗るのは、簡単に数えられる硬貨たちだった。
「あの状況下で父さんから貰えた額なんて、たかが知れてるでしょう」
「今の空腹を満たすので精一杯か」
 乾いた笑みを浮かべながら、その小銭を受け取る。
「どれだけ食べてないのよ、二人とも」
「4日だったか?」
「6日目です。どうして5日を過ぎると毎回逆に数えるんですか」
 同意を求められたマジクは、深い嘆息混じりに答えた。
 どうやら、以前にも同じことがあったらしく、幾度目かになるやり取りにげんなりしているのだろう。
「現実から目を逸らしたくなるんだろうな」
「直視してください。どうするんですか? オーフェンさん」
「どうするのよ、オーフェン」
 間合いは詰めずとも、詰め寄られる声。
 これから先の問う二人に、彼は軽い口調にて。
「そうだな。腹が減ったままじゃあ、良い打開策も浮かばん。まずは、近くの町で腹ごしらえだ」
「また、そういう行き当たりばったりな」
 落胆の色を浮かべたマジクとは対照的に、クリーオウは明るく。
「わたし、ケーキが食べたいー」
 挙手しての意見に、オーフェンは彼女の頭に手を置きながら。
「今の話聞いてたんだろ? 遠慮しろよ、遠慮を」
「あら。糖分摂取は脳の活性化に繋がるんだから、必要不可欠だわ」
「お前の脳を活性化させて、打開策が浮かぶとは思えんが」
「ほんっと心が狭いわね。こういう時こそ、余裕を持っていくものじゃない」
「俺は、懐具合に余裕が欲しいけどな」
 ぽんぽんと頭を軽く叩きながら、柔らかに緩められた彼の双眸と口許。彼女は彼女で、頭の重みを気にも留めず、彼を見上げている。
 何気ない当たり前な、それでいて久し振りな光景。自然そのものの二人が、其処に居た。
「………相変らず……だ。うん」
 呟き、マジクは、そっと笑みを浮かべたのであった。

かずさ。さま、ありがとうございました!