「 妃殿下見てくれているかい? 」
人間一生懸命何かにぶつかれば、出来ない事だらけで、自信を失って当然だ。イチロー選手が前人未到の9年連続の200本安打を達成したお祝いの、新春対談で、3回三冠王に輝いた落合監督に、「みんな私たちを凄いと言うけれど、やろうとして出来た事は、100回の内3回も無かったですよね」と話しかけ、落合監督は一瞬戸惑いを見せたが「確かにそうだよね、俺らは、ダメでも諦めなかったから、やれただけかもしれないね」と結ばれた。
自分も生徒からは、自信満々の偉そうな奴と思われていたが、教師が自信を失っては、正しいと思う事を子供たちには伝えられないと信じていた。不幸にして、教員採用試験合格の通知と一緒にプロポーズしたらあっさり断られたけれど、自分の心には一切の欲を持たない妃殿下と言う見本がいるので、何か決断する時、自分の損得では無く、妃殿下ならどうするだろう」と内省していた。
ある日の午後、うだるような暑さの中、5時間目理科の授業開始早々、F君が、挨拶して着席した途端、机の上に、給食を吐き出してしまった。周りの子が、「うわっ」と逃げ腰になった。
「騒ぐんじゃない」「Fが一番辛いんだ」と言って、掃除ロッカーからバケツを取り出し、素手をスクレーバーの変わりに、ゲボをかき集め、トイレに捨てて手を洗い、生徒机を濡れ雑巾と乾拭きで吹き上げて、「吐いたら気分は治ったか」とF君に聞き、「じゃ始めようかと黒板をむいた。
いつもに似合わず、みんなしーんとしている。後ろを向いていたって、皆の目が点になっていることなど手に取るようにわかる。
実は、コンコンは高校時代、初恋の女性「あだ名は妃殿下」にこれをやられた。クラスの皆と、巣鴨の町を歩いている時、アーケードに寄りかかって寝ている酔っ払いが「うっ」と吐きそうになった。後ろを歩いていた自分は飛びのいたのに、通り過ぎて前を歩いていた妃殿下が、さっと戻り、胸元に差し出した両手にゲボを吐いた。そのまま駅の流しに行って手を洗い、済ました顔で、みんなに合流した。
驚いたのなんのって、クラス1の美人で皆の憧れの的の彼女が、赤の他人のゲボを素手で?と考えただけで、地球がひっくり返ってしまった。
後で聞いたら「だって、あれ2800円もするのよ」と言う。
これで判ったらあなたも凄い。
だって、あの人は酔っ払っているから、吐いたらシミになるでしょう。クリーニング代が2800円かかるの。私の手はタダだから。とニコニコしながら言う。自分の目が点に成った事は一生忘れない。
当然、生徒のゲボにあって、ひるんだり、汚いと思う心が働いたら生きていけない。瞬間的にそう思った。
やり終わった時のこの清清しさはなんだ?。手が汚れたんだぞ、匂いがついたんだぞって、それこそ教師の勲章じゃないか。今この教室で自分の背中だけを見つめて、生き方について何かを考えている生徒に、教科書では絶対に教えられない生き方の授業をしているのだから。その日の授業は興奮して何を話したか、全く覚えていないが、あの手の感触は、教師としての自分の誇りである。
振られた妃殿下と今も信頼できる友人として交流できるのも、本当に美しいものは、見掛けでなく、心の中にあると教えてくれた妃殿下に出逢えたからだと感謝している。