「 思い出の日光旅行 」
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熊先生を語るのに、あの日光旅行抜きにしてはならないだろう。熊先生の名前は晃という。父親が東照宮で有名な日光出身であったために付けられた名前だ。
その夏休みに、父親が栃木県今市市の友人宅に旅行に連れて行ってくれることになっていた。小学校2年生のことであった。
しかし、あろうことかその6月、親戚のものに騙され、当時で三千万、今の3億円ほどに当たろうか、父は信じられない借金を背負い会社を失った。
当然、旅行どころではない。 しかし、意地っ張りな子供には、大人の都合など理解できるわけも無く、大人はみんな嘘つきだと決め込んだ。
連れて行ってくれないのなら、自分一人で行く。単純な発想。
しかし、この子には信じられない実行力があった。
時刻表を調べ、駅員に相談した。東武東上線から今市市までは、池袋で山手線に、上野駅では徒歩で5分ほど離れた、東式日光線に乗り換えなければならない。列車の時刻は勿論、ホームの位置、駅の地図を描いた。行程を詳しく調べて親に提出した。困った父親は、担任の神谷先生に相談した。
この先生に出会えたことが、彼の人生を根本から変えた。
普通なら、8歳の子供が、「そんな長距離」無理な話に決まっている。しかし、8歳が自発的にここまで調べられることも、また異常なことだ。「試しにやらせてみたらどうか]と言ってくれた。江戸っ子気質の母親がこれに乗った。8人兄弟の末っ子であった。
いざ実行の段になると、駅員に教えられすっかり頭の中に入っているとはいえ、はじめて見る上野の人込み、8歳の子供には、大人の雑踏はビルの谷間と同じ密林であった。「迷ったら負けだ」と心の中で言い続けた。何度か駅員に道を聞きながら、日光線上野駅に着いた時は、安心感で全身の力が抜けた。
今市駅には、父の友人の「ほし」おばさんが迎えに来てくれていた。
窓を開ければ隣の家の壁という東京下町に住んでいた彼には、道路と家の間に小川があり、橋を渡って入る家は、信じられない豪邸に見えた。実は融雪のための排水溝であったろうが、小さな子供の目線では、立派な川であった。
その家には、裏庭が有り、本物の小川に粉引きの水車小屋が架かっていた。
「やったー」と言う思いを心の中で握り締めた。
しかし、順調なのはここまで、やはり小学2年生の計画には無理があった。その後2週間の滞在期間の予定を何も組んではいなかったのだ。観光のための費用も無く、知っている子供もいない環境では、虫を取りにいくイコール道に迷うであるから、裏庭をぶらぶらする以外何もすることが無い。ほしおばさんも仕事があり、構って貰える訳もなし。監獄に閉じ込められた囚人であった。
明日は帰ると言う日に、バスガイドをしているおばさんの娘が見かねて、観光バス旅行に招待してくれた。五十里湖と書いて「いかりこ」と読むダムの名前を鮮明に覚えている。
帰郷した彼を待ち受けていたのは、大人たちの賛嘆と、子供ながら友人のありがたさであった。誉められながら彼の心は暗かった。大人には大人で居る訳がある。
意地を張って出切ることもあるが、意地だけでは何も出来ないことを、8歳にして思い知らされた夏であった。
神谷先生がここまで見抜いておられたか、今では知るヨシも無い。
少年にとって、先生は神様になった。一人目の先生である。
……
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