「 第二バスケット部 」
以下本文ですが、内容紹介のテキスト文なので、画像が正しい位置に入りません。PDFでご覧いただければ幸いです。
中学時代の思い出と言えば、岡長先生との出会いを忘れることが出来ない。
小さい頃から恵まれない食生活であった晃少年には、中学校でやりたい夢があった。それはバスケットボール部に入って背が高くなることだ。
入学式の翌日、意気揚揚と入部希望に行った。
名前は覚えていないが、当時のキャプテンが、入部したいと言う新入生に聞いた言葉は「お前何センチ」と言うのだ。
「124センチです」と答えると、「あっそうダメ」の一言。会話はそれだけ。
泣きたくても泣けない侮しさだ。我慢していると凄い顔をしていたのだろう、兄の担任の岡長先生が声をかけて訳を聴いてくれた。
「馬鹿野郎、お前そんな情け無い部活に入る必要ないじゃないか」と言って、ゴムのボールを1個買ってくれた。これを元手に外コートで仲間を集めて、自分で練習しろと言うのだ。
第ニバスケット部と名づけて始めると、他の部にあぶれた奴などなんやかやで50人程になった。審判もいない指導者も居ない、勿論ルールなどあろう筈も無い。見よう見真似で、ドリブル・シュートは覚えたが、25対25だ、ドリブルしていれば何本も手が出る。ファールなど勿詮無い。必然的にパスすることを休が覚えた。
入の心の裏をかくフェイントが身に付いた。
3年の夏には、都大会でベスト4になった正規のバスケット部員と勝負して僅差とはいえ見事に勝った。
一人の先生がくれた一言と、たった1個のボールが、大きな自信を生み出した。
岡長先生の正規科目は社会科だったそうだが、熊先生にとっては英語の先生だ。「デスイザペン」と発音する。山形訛りの英語だそうだ。いつも、左手をポケットに入れて、大きなお腹をゆすって歩くので、ラジポン先生と呼ばれていた。ラージポンポンの略である。熊先生が田中角栄を憎めないのは、どこか岡長先生に似ているからであろう。
岡長先生に進められて、近郊のグランドハイツにはよく行った。駐留米軍の家族の住居である。
散歩している青い目のお母さんに、習ったばかりの「アイ アム ア ボーイ」と言ってみる。「ハーッ?」と変な顔をする。全く通じない。アクセントをいろいろ変えて言ってみるがやはり通じない。やけになって「アイ ボーイ]と略して言うと、突然意味が判ったんだろう「オーッ ペラペーラ」と話し始める。勿論意味など判らない「サンキューサンキュー」と言って逃げてくる。
こんな事でも、自分は英語が得意だ英語が大好きだという自信になった。英語はアクセントではなく抑揚だ。これにつきる。
岡長先生は山形人なのに、絶対に江戸っ子に見えた。口が早い。答えが明快だ。
ある授業で、格好良く発音してやろうと思って「彼は私の兄です」と言うのを「ヒー イズ マイ ブラジャー」と言ってしまって、クラス中の笑いものになった。真っ赤な顔をして下を向いていると。
「お前らが、誰も手を上げないから、自分がやらねばと一生懸命やった奴を何で笑えるんだ」「人を笑うのは、自分が遣ってからにせい」と鬼の顔をされた。
この人が本当の先生だ。俺は先生になりたい。この日から晃少年は熊先生に成った。
岡長先生との思い出は尽きない。臨海学校へ行った時、二日目の昼食はカレーであった、みんなが、ふざけてティシュなど落とし、汚い話をしていると、岡長先生がバンと立って大声一番「クソ喰ってる時カレーの話なんかすんな!!」一瞬シーンとなったが、続いて大爆笑。
もう御飯どころではなくなった。
それでも、誰も文句をいえない威厳と風格がある。 これが本当の先生だ。
だって、つい3日前、持ち物の説明の時「ピンツのパンク何か、履いて来るんじゃないぞ」と言って、みんなを煙に巻いたばかりである。誰だってピンクのパンツなんて履かない時代の事である。
「ここにカレーのイラスト」
……
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