みやび出産  
 
 
 
 

98年5月21日午後3:50分頃帝王切開開始となる。
看護婦さんや先生があわただしくオペ室に入ってくる。お腹を触ってみるとさっきまであんなに出ていたお腹が
ぺったんこになっている。
赤ちゃんはどこに行っちゃったの??とすごく不安になった。脊椎に麻酔の注射をする。
そのとき前かがみになった時にお腹が突っかかってまるまることができない。「あっ赤ちゃんだ!!」
やっとまだお腹にいたんだと安心ができました。その次に思ったことは脊椎注射痛いんだろうな―だった。
しかし、お腹の痛みの方が強かったせいかあまり痛たくはありませんでした。
その後「痛みはありませんね?」とつねられて「痛いです」と答えたのですがなんとオペが始まってしまいました。
なんとも気持悪いというか痛いというかメスを入れているのがわかるんです。
わからないって言っていたのにおかしいなーと思いました。
私は体質的に麻酔が効きにくいんです。以前手を3針縫ったときも麻酔が効かずすごく痛かったのを覚えています。
なのでどこを切っているのかがわかるし、痛いしでもしかして麻酔の効きが悪いのでは?と思いました。
お腹を開いたはずなのになかなか赤ちゃんが出てきません。そしていきなり引っ張りはじめました。
ものすごい痛みが走り悲鳴をあげてしましました。
看護婦さんは「赤ちゃんががんばっているんだからがんばって!」といいます。
が、痛いものは痛い!!かなりの勢いでグイグイ引っ張りやっと出てきました。しかし産声がしない・・・。
あれっ!?赤ちゃんの声がしない?「赤ちゃんは??」急に周りがドタバタし始めました。
先生が何やら慌てて赤ちゃんを連れてどこかにいってしまい、他所の病院の先生が私の出産後の処理をしていた。
「なに?どうしたの?」聞いても「赤ちゃん出たわよ。大丈夫」としか言わない。「男の子?女の子?」と聞くと
「どっちだったかしら?」という答え。何かあったんだ!!と直感しました。
その後オペが終わってから病室に連れて行かれたが、赤ちゃんがなかなか来ない。
すると救急車の音が近づいてきた。ピタッと止まった。私の母子手帳は何処だと聞く。何か変だぞ!?
「私の赤ちゃんどうかしたの!?」「救急車・・私の赤ちゃんが乗るんじゃないの!?」
母に問い詰めても救急車で運ばれるのは私の赤ちゃんじゃないと答える。じゃー母子手帳は何に使うの!?
問い詰めていると、弟のお嫁さんがやってきて「あっこちゃんの赤ちゃん、
元気がないから2.3日大きい病院で診てもらうんだって」と言う。
「2.3日で戻って来れるの?」と聞くと「そうみたいだよ」と言うので不安に思いながらも信じようと思いました。

その夜、私は眠ろうとすると呼吸が止まりそうになるという状態になり、眠れなかった。酸素マスクを使った一日でした。
翌朝、パパのお母さんからTELが入った。パパのお母さんは赤ちゃんと一緒に救急車に乗って行ってくれたのだった。
「赤ちゃんどうだった!?」と聞くと「NICUに入っていて点滴やら何やらいっぱい管が付けられていてかわいそうだった。」
「先生がおばあちゃんは最後になるかもしれないのでよく見てください」と言われたというのだ。
「赤ちゃん死んじゃうの?」と聞くと
「大丈夫、2.3日で帰ってくるって信じよう」と言われたものの心配は消えない。
翌朝11時頃パパが東京から飛んできた。「赤ちゃんの所に行った??」パパは心配で私のところに
まずは飛んできたらしい・・。
パパには帝王切開になると4時ごろTELが入ったきり夜中の11:30頃まで何の連絡もなかったらしく,私の状況は何も
伝わっていなかったらしくとても心配で朝一番の飛行機で飛んで来てくれたらしい。
午後からパパは赤ちゃんのいる病院へ向かった。なかなか帰ってこない。
やっぱり赤ちゃんに何かあったんだと不安は大きくなる。

パパが病院から戻ってきた。「赤ちゃんは??」と聞くと「点滴がいっぱい付いていて呼吸がうまくいかないから
人工呼吸器が付いているんだって」
「えっ!?人工呼吸器!?大丈夫なの?死んだりしない?」パパも会えなかったらしい。
「すぐどうのこうのっていうのはないらしいし、死んじゃったりはないだろうって」と話だした。
今日は先生がいなかったから詳しいことは
わからないんだけどね。また明日聞いてみるよ」それを聞いてちょっとだけ安心した。
赤ちゃんの写真を撮って来てもらうようにパパに頼んだ。

次の日パパがなかなか病院から戻って来ない。赤ちゃんに何かあったんじゃないかとまた不安がよぎる。
パパが戻ってきたが何となく目が赤い。「赤ちゃんの写真撮って来てくれた?」
「うん。撮ってきたよ」「かわいかった?どっちに似てるの?」
「うーんわからない」なんだそりゃー??って感じでこの人は赤ちゃんが嬉しくないのかナー?なんて思っていた。
するとパパが「赤ちゃんね、脳が腫れてるんだって、それでその腫れを引くために水引っていって
必要最低限以外の水分はあげられないんだって」
「えっ!?ミルクも?お腹がすくじゃない!!」「でも、しょうがないんだって」
「それでもしかすると障害が残るかもしれないって・・・」
「障害って??どの程度?」「普通の子とかわらないくらいになるかもしれないし、一生寝たきりかもしれないし、今の段階じゃ
わからないんだって・・」目の前が真っ暗になった。
でも、すぐ口にでた言葉は「死なないよね?死なないなら生きてくれさえすればいい」だった。
そのときは後のことなんて考えられなかった。なぜなら自分がお腹を痛めて産んだ子なのにまだ声も聞いていないし、
見てもいないのだから・・。
とにかく生きてさえ」いてくれればいいと真剣に神様にお願いした。
そして数日後はじめて我が子の写真を見る日がきた。凄くドキドキして早くみたい!!と思っていた。
パパは「びっくりするなよ」と一言。私は写真を手にした。その瞬間声が出ず、涙しか出なかった。
こんなに小さいのにこんなにたくさんの管がついていてかわいそう・・・ごめんね。ごめんね・・・。
ちゃんと元気に産んであげられなかったことを悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。
子供一人もまともに産めないなんて・・。ショックでした。
先生になんでこうなったのか問い詰めても「たまにいるんですよ」と言う答え!血が逆流した!
促進剤を勝手に使ったのが原因なのに!!
後から看護婦さんに調べてもらったところ極まれに薬が合わなくて副作用で私のようになる人がいると
文献には載っているが、見たのは初めてだったそうです。
先生は赤ちゃんが運ばれた病院の先生に事情を説明していなかったらしく、処置が遅れたそうです。
みやびを取り出した後血中濃度を調べたところ正常だったので保育器でOKでしょうと言うことだったらしいのですが、
その保育器が壊れていて酸素が流れていなくて余計低酸素の原因になったようです。

13日後私は退院し、みやびの待つ病院へ向かった。
ドキドキと不安とが入り混じる中早く会いたいと言う気持でいっぱいでした。
まず、NICUに入るのに専用の薬液と付けて腕まで洗い予防着を着て入っていった。
周りには小さい赤ちゃんがいっぱいでどの子も
保育器に入っている。みやびはどこ??見まわすとひときわ白くて大きい赤ちゃんが入っている保育器があった。
パパが「こっちだよ」やっぱり。その大きな赤ちゃんがみやびだった。
人工呼吸器がついていて点滴もいっぱいあり目も開けない眠っているみやびの姿をみたとたん涙が止まらなかった・・。
「触ってあげな」パパが言う。私は恐る恐る手を入れ触ってみる。涙が滝のように出てきて止まらない。
「ごめんね・・・ごめんね・・苦しかったよね・・ごめんね・・」ごめんねしかでてこない。
看護婦さんがやって来て「お母さん、泣いてたらみやびちゃんが心配するよ。伝わるんだよ。」といって肩を抱いてきた。
すると目を開けたことが事がほとんどないみやびが目を開けた。
するとパパが「母親ってすごいんだなー」としみじみ言っていた。
次からは泣かないようにしようと心に決めながらも一週間は泣きながら触っていましたね―。

結局、みやびはお腹の中であの事が原因で苦しくてぐるぐる回ってしまいへそのをを2−3回巻きつけてしまい、
低酸素脳症となってしまい、大きな障害を背負うことになってしまいました。

裁判に賭けてやろうとも思いましたが、そうしたからといってみやびが元に戻るわけじゃないし、関わりたくないということと
そんなことに時間やお金を賭けるならみやびのために時間を費やした方が良いと思いやめました。
それははらわたが煮え返るほど悔しいです。でも、みやびが生きているのだからそれだけでも良かったかな。
出産がこんなに大変なものだと思い知らされました。しかし、こんなことがあっても私はみやびに兄弟がほしいと思っています。
たしかに障害児を持つということは一言で言ってしまえば大変です。でも、どんな子だって生きる資格があるんです!!
障害者に暖かな心を持ってくれたらとても嬉しく思います♪

長々と読んでくださってありがとうございます。
リンクのところにパパのHPもありますので遊びに行ってやってください♪

みやびのママでした。