クストリア

    - Kustria -

copyright 1997, Ingo Tschinke,
translated by Hans van Halteren.
翻訳・編集(c) 木村 圭祐/'たびのまどうし'しーちゃん ,1999 [1999.11.30].

  ラリオス、セイフェルスター地域に位置するクストリアに関しては研究続けられている。ブックレット"The Great World Tournament In the World"にはクストリアでの出来事と幾ばくかの歴史が記述されている。この記事はその建国に関してかなりの部分を加筆している。しかし注意していただきたいのは、ここに描写されているクストリアはST.1617年のものである、ということである。そのため"Rise of Ralios"の行われたST.1627年のクストリアとは若干異なっている。

描写

  クストリアはフェルスター湖の北東岸に位置し、ラリオス中部でもっとも重要な国の1つである。この王国はセイフェルスター地域で2番目に大きな都市国家であり、この国よりも大きな国はセンタノスだけである。クストリアは7,800平方kmの国土を有し、それは3つの伯爵領(クレット、フォレット、グランヴィーユ)と3つの男爵領(ルミージェ、ビューラン、ドォワ)からなっている。

  領内で特筆すべき規模を持つ都市は3つ存在する。クストリアはこの国の首都であり、他の都市に比べてかなり大きく、20,000人の人口を擁している。2番目に大きな都市はタニア川に面したトーラルであり、2,000人の人口を擁している。最後はもっとも小さく、湖から内陸に離れた場所に位置するグリエダウであり、およそ1,400人の人口を擁している。

  クストリアの総人口は270,000人である。人口の2/3は農夫階級に属し、国中に散在する小村に暮らしている。クストリアは地味が豊かであることと、広範囲に及ぶ交易を行っているおかげで豊かな国となっている。農業、貿易どちらも繁栄しており、そのことが長年にわたりクストリアに恩寵をもたらしている。

  比較的平和で防御的性格の強い立地条件から、フェルスター湖周辺の他の国家とは異なり、クストリアはその内外に関わらず戦争の経験が少ない。その結果として、首都にある商館群はラリオスでもっとも大規模なものである。国家の基盤が農業にあることから開発が進み、国内にはごく一部の森林地域が残されているだけである。その結果として、建築や造船に用いる木材をラリオスの他の国から輸入する必要が生じている。最も重要な貿易上のパートナーはティスコス、タラスダル、センタノスの各王国である。

  クストリアの国境線は、東はティナロス、北はホールト、南はタラスダル、西はユーロンと接している。この中でタラスダルだけがクストリアと友好関係を分かち合っている。他の隣国はクストリアを敵視している。この態度のために、クストリアの王たちは長年にわたって国境警備に力を注いでいる。クストリアの封建律法に従って、国内の男爵、伯爵は国境の要塞化と国家防衛の責任を負わねばならない。

  クストリアにはまた9つの修道院が存在し、そのすべてがロカール派信仰に属している。ロカール派は長きに渡りクストリアの公教であり続けている。この教派はクストリア司教に代表されるように、国家の重要な政治的地位を掌握している。教会はまたクストリア最大の土地所有者の1つである。合計すればおよそ400平方kmの土地を教会が治めている。教会の所有する土地では、王やその貴族もほとんど、ないしまったく影響力を持っていない。加えて教会は聖ロカール・クストリア聖騎士団を管轄下に置いており、その本部は首都のすぐ側に置かれている。この騎士団を通じて、教会は13ある国境の城塞のうち2つをその統制下に置いており、これら城塞の人員は騎士団の人員だけで構成されている。騎士団は500人からなる歩兵部隊、200人の騎士、20人の大騎士を召集することができる。騎士団の指揮官はリチャード・フィッツオズバーンである。


歴史

  ユリアヌス3世はセシュネラでもっとも偉大であった王の一人であり、1412年に"槌王"ベイリフェスが創始し、セシュネラを支配した王朝の一員である。ユリアヌス3世はみずからの軍旗の下にセシュネラのすべての伯爵、男爵を結集することに成功した。結集を果たした彼らはラリオスの大半を征服し、クストリア王国を建国した。ロカール派聖教会の信仰をラリオスに広めたという点では、ユリアヌスは"槌王"ベイリフェスその人に次ぐ人物である。彼の統治の下、クストリアはこの地域でもっとも強力な存在の1つとなったのである。

  彼の息子"競技会王"ヴィカードも父の理想に従おうとした。しかし彼は平和をもたらすクストリアの競技会の真なる本質を理解しておらず、戦いと競争の興奮に傾倒していたのである。彼は今までになく盛大で豪勢な競技会を開きたいという欲求から、税を過酷なまでに引き上げた。その結果は明らか、反乱である。ヴィカードが反乱を鎮圧しようとクストリアの軍勢を集結させたとき、彼に臣従していたラリオスの支配者たちは自分たちのチャンスを知り、彼らもまた反乱を起こした。王家に忠誠を誓う者たちは自分たちが突然祖国から切り離されたことを知ったのである。クストリアは混乱に直面した。この時頭角をあらわした者こそ現在の王ジェラド・デ・シャバリエの祖先にあたるヒューレウス・デ・ラ・レプレインである。みずからがセシュネラ支持派の指導者となることで、かれらはあらゆる攻撃を跳ね除けることに成功した。この際立った武勇こそ、クストリア競技会の長い鍛錬の成果である。

  クストリア建国当初には大きな権力闘争があった。当時クストリアは、セシュネラの勢力からは切り離されていたにもかかわらず、未だセシュネラの公爵領の地位にとどまっていた。ヒューレウスはクストリアの指導者として、またクストリアのチャンピオンとして、その任務の中には基本的に外部の敵に対するクストリア防衛の任に含まれており、彼はそれを撃退するためにみずからの騎士たちを率いていた。反乱と内部勢力による権力争いが正当な継承権者が公爵領の権力を握ることを妨げていた。その結果として発生した無政府状態に、クストリアの人々はひどく苛まれていた。クストリア内の伯爵たちによる長い権力闘争に愛想をつかしたヒューレウスは、彼らに矛先を向け、みずから玉座についたのである。

  単なる騎士であった彼は玉座に対して強い法的継承権を有しているわけではなかったが、彼は不敗のチャンピオンであり、国内随一の戦略家であった。クストリアを外敵から守り続けたことを除いても、彼は自分が玉座から支配者として統治することを国内の伯爵たちに受け入れさせることは可能であった。ヒューレウスはまたクストリアの競技会に法的な憲章を作成した(クストリア競技会の項を参照)。

  ヒューレウスはクストリアの王たちの系譜、トーナメント王王朝をうち立てた。彼はまた多くのロカール派修道院も建設した。長い間彼はセシュネラとの再統一を望んでいたが、数十年待ちつづけたにもかかわらず、彼の希望がかなえられることはなかった。セシュネラとの再統一の望みがないことが明白となったとき、ヒューレウスの孫、フレデル・デ・ラ・レプレインはみずからクストリアの王として戴冠したのである。

  長きに渡り、クストリアの王たちはロカール派の信仰を堅く守りつづけてきた。ジェラド・デ・シャバリエの父はロカール派をクストリアの公教の座から追いやり、みずからはダンガン教会に改宗した。この教会はより下位の神格への寛容を説いているため、彼は他の信仰がマルキオンの法を犯さない限りにおいて、クストリア国内の宗教の自由を宣言した。


クストリアの軍隊

  クストリアの軍隊は西ジェナーテラでは最良の軍の1つに数えられる。彼らが傑出していることには幾つかの要因が存在する。第一は単に必要性の問題である。クストリアは数百年もの間、敵に囲まれ続けており、度々訪れる北方、東方からの敵を撃退してきた。ホールトの野の乗り手の一団が歴史的に見てもっとも頻発した脅威であったが、ティナロスとも長い戦争状態にある。比較的小さな国土しか持たないクストリアは、王国の存亡に関わる重要事として、警戒態勢と熟練した軍隊を生み出してきたのである。

  非常に優れたクストリア軍の力はその騎士層を基盤としており、彼らは毎年行われる競技会でお互い競い合っている。競技会での勝利は政治的により高い地位とラリオス全土に轟く栄光をもたらす。この理由から、ラリオスそしてさらにはセシュネラの最良の騎士たちが、クストリアの戦旗のもと馬上槍試合を行うためにしばしば集うのである。

  王のエリート戦士たちはクストリアの騎士と呼ばれる。彼らは400人の騎士からなる分遣隊で構成されている。騎士に仕えるのは2,000の歩兵で、その大半はトーナメント用封土に住む農夫階級から徴兵される。国内の伯爵と男爵が合計400人の騎士と6,000人の歩兵を供給する。ロカール騎士団を含めれば、クストリアは20人の大騎士、1,000人の騎士、8,500人の歩兵を展開することができる。

  クストリアの軽装歩兵は大半が農夫階級から集められた弓兵と槍歩兵からなり、彼らはわずかな軍事訓練しか施されていない。国家防衛の中心は騎士階級の者で構成される重装騎兵が担っている。

  加えて、クストリアはフェルスター湖に浮かぶ6隻の戦闘用ガレー船も良く知られている。これらの戦闘用ガレー船の主要任務はクストリアの湖岸、商船、交易商人を守ることである。クストリアは以前湖の覇権を得ようとした事があったが、彼らの艦隊は1578年のホラダットの戦いで破壊された。それ以来、湖上に姿を見せる以上に艦隊を展開させた王はいない。ガレー船の乗員は会わせて480人である。


クストリアの競技会

  クストリアの競技会はラリオスの古の伝統である。多くのものが競技会のことを、セシュネラの王たちがこれを組織することで政治的、経済的に破滅した、大時代的なアナクロニズムであると考えている。他の者は競技会の高い理想を賞賛し、ラリオス最高の伝統の1つに数えている。クストリアの王は"トーナメント王"の称号を有している。彼らの王朝は無害な中立者を努めて果たしており、農夫や職人といった一般の者たちは時折勃発するラリオスの貴族同士の闘争から守られてきた。クストリアの大競技会をはじめたユリアヌス3世の時代以来、貴族間の争いが競技会で決着を付けてきたことが、この王朝の基本原理となっている。ユリアヌス3世はクストリア城とラリオスやセシュネラでは唯一の巨大な闘技場を建設した。さらに彼は毎年行われるこの催しのスポンサーとなるためだけの封土を指定した。憲章よれば、その地の目的は「ラリオスの領主と騎士との試しの場であり、騎士道精神にのっとり、文明的な方法で不一致を解決し、それによってかよわき農夫が痛みと恐怖を免れるように」とのことである。


クストリアの法

  クストリアは通常の封建律法に従って統治されている。たとえば人々は4つのカースト-農夫階級、騎士階級、司祭階級、領主階級-に分けられている。これはロカール派の聖なるシンボル、三角形によって表される。およそ200年の歴史を持つこの法は、あるカーストの構成員が他のカーストに移ることを禁止している。ここ30年の宗教的自由の中で、この法は多くの軋轢、さらには(特に農夫階級の間では)反乱まで引き起こすこととなった。多くの他の宗旨(たとえばアジロスやオトコリオンの単神教会)が人々がカーストを変えることのできる特別な制度を認めているためである。この軋轢は王国の統治構造に多くの負担を強いている。しかしながらジェラド・デ・シャヴァリエ王は、とりわけより強力な家門の者たちの一部がすでに他の信仰へと加わってしまったがために、彼の父が出した布告を取り消せないでいる。

  司祭階級は人口のおよそ15%を占めている。これには修道僧、大修道院長、修道女、助祭などが含まれる。司祭階級の者の大半は国内に散らばる修道院に居住している。

  人口の残りの5%は貴族階級である。貴族階級の中には明らかな階級分けが存在し、そこには単なる騎士から王その人までが含まれる。

  後継の権利は女系家族の相続が禁止され(もっともここにすら法の例外が正式に認められてはいる)、最年長の息子が領国、封土、称号を相続することが求められている。より年若の息子は何も受け取らず、単なる騎士として追い出されるが、氏族内で何らかの役割を担っている場合には重用される。

  王国内のすべての土地はクストリア王の個人的財産である。王はその一部を自分に"忠実な"家臣に封土として下賜する。しかしながら実際には、伯爵領は王ですらそれを所有する者たちから取り上げることが難しい世襲財産と考えられている。男爵領も原則的には世襲財産と見なされるが、男爵位は王の意志に多くを依存している。男爵領は王によって自由に下賜され、また男爵の忠誠に疑いがある場合には、自由に取り上げることができる。

   "10分の1税"と呼ばれる税は、農夫階級の貿易商、職人、農夫は皆払わねばならず、王、伯爵、男爵の間で均等に分配される。上位の貴族はこれらの税金を居城の維持と国境線の防衛に用いねばならない。他のすべての活動は王家の資金調達に依存している。

  王は教会の所有する土地に対して影響力を持たない。これらの土地は神学的にも王の所有物なのだが、王はこれらの土地を教会から取り上げることを認められていない。また王はこれらの土地に対して税を要求することもできない。そのかわりにここで集められた税は直接教会に納められる。


クストリアの宗教

  およそ30年前までは、セシュネラ起源のロカール派教会がクストリアで唯一支配的な霊的権力であった。他の宗旨はすべて異端と見なされ、その信徒は教会の騎士団によってしばしば迫害を受けていた。しかしながらクストリアはセシュネラとは異なり、国内ではロカール派による異端審問は行われなかった。セシュネラの異端審問はその激しさによって良く知られている。

  その内的混乱の時代にさえ、クストリアが他のラリオス諸国に対して比較的強い立場にあったのは、ロカール派教会の影響も1つの要因である。ロカール派教会は常にクストリアの社会構造を規定し、クストリアの社会をセシュネラ的様式の中に封じ込めてきた。それ故建国当初80年に渡り、支配的な一族が物産と国土とをロカール派教会に喜捨することを、敬虔で正しいことであると考えてたことも驚くに値しない。これによって教会は王に次ぐ土地所有者となった。王は教会の土地に対していかなる影響も持たないことが法によって宣言されているために、クストリア司教によって代表されるロカール派教会は、世俗的問題に対しても物質的、政治的影響力を有しているのである。

  修道院の修道僧と司祭は司祭階級の者の息女との結婚が認められている。しかしながらこうした結婚から女性が生まれることはまれであり、それ故にこうした状況がしばしば起こるわけではない。司祭や修道僧は通常農夫階級の娘との間に子をもうけるが、彼らは性交を行うものの、結婚はしない。彼らから男児が生まれた場合には、自動的に司祭階級として受け入れられる。女児の場合には農夫階級に組み入れられ、農奴として扱われる。教会領地の農奴における女性の割合が80%と偏っているのは、これが主たる要因である。

  ここしばらくクストリアでは、騎士や司祭によって古セシュネラから持ち込まれた、正当派フレストル教会に従う者の数が増加を続けている。正当フレストル派は騎士の振る舞いに重きを置いているため、それが多くのクストリア貴族の賞賛を集めている。これらはここ2,30年クストリア人の意識の中で軽視されてきた、クストリアの競技会の理想を理想化している。フレストル派教会もまたカースト間の移動を禁じており、あらゆるカーストの構成員をその位置にとどめているため、ロカール派教会との間に大きな軋轢は生じていない。しかしながらフレストル教会に所属する者の増加は、結果としてロカール派の政治的権力の減退を意味しており、ロカール派教会はあらゆる可能な手段を用いて、変節を阻止しようとしている。

  クストリアでは比較的少数の構成員しか持たないノミア教会でも同じことが言える。この教会はその存在の大部分がホールト伯爵領に限られており、この地はクストリアとの戦争状態を続けており、基本的に孤立主義に従っている。その結果としてノミア教会は敵の信仰と見なされており、クストリアの政治領域におけるその影響力はきわめて制限されている。

  それ以上にクストリア人は様々なアーカットのカルト、ボリスト派教会、さらにラリオスの様々な暗黒異端派、単神教派と衝突を繰り返している。後者は自由なカースト間移動とそれに伴う個人的意志の自由な発展を約束することで、最近クストリアの農民層に反乱を吹き込んだ。このことが現在のクストリアの構造への疑問を呼び起こし、クストリア貴族層の立場を危うくしたために、これらの教会の宣教師がきわめて厳しい制限下とはいえ認められることになった。彼らは農夫階級をその領主階級に反抗するように鼓舞する事を禁じられており、それに背いた場合死が与えられる。ロカール騎士団の騎士に言わせれば、異国の宣教師は口を開けばこの法を犯している、ということになる。


クストリアの重要なる家門

デ・ラ・レプレイン家

  クストリアがセシュネラから分かれ、独立国として成立した時から、この家系はデ・シャヴァリエ王朝に、統治者を送り込み続けている。それは1512年から1619年まで合計6人の王に及んでいる。本当の最初の統治者、この国の創設者はヒューレウス・デ・ラ・レプレインであった。公的には王朝最初の統治者はフレデル・デ・シャヴァリエであり、彼はみずから王として戴冠し、クストリア公爵領をクストリア王国へと変えたのである。("敬虔王"として知られる)サスディアル・デ・シャヴァリエはクストリア国内の信仰の自由を宣言し、ロカール派教会の特別な地位は終わりを迎えた。この時までロカール派はクストリアの公教であったのである。現在彼の息子であるジェラド・デ・シャヴァリエがクストリアを統治している。彼の生命を奪う試みが幾度となく行われてきたが、彼は生き残ってきた。彼は奇跡的とも思える状況下で何度も死を逃れている。しかし彼の息子の2人が、彼に対する暗殺の試みで命を落としている。そのためジェラドの現在の望みは、彼の最後の息子であるヤヌスに玉座を継がせることである。

  ジェラドの長男の死後すぐにジェラドの妻が無くなったために、しばらくは後継者不在の恐れがあったが、再婚したジェラドはさらに2人の息子を得た。デ・ラ・レプレイン家の者は一部がロカール派教徒、一部はダンガンの教会に属している。後者は多くの貴族から不適切、時には異端と考えられている。

ティレル家

  クストリアの名家の中では、ティレル家はもっとも歴史が浅いが、しかしもっとも大きな勢力を有している。この家門はドォワとビューランの2つの男爵領を支配下に置いている。現在の男爵はワルター・ティレルである。彼の高名な祖父、グリィーデウス・ティレルは一時期クストリアのチャンピオンであった。彼はその勇気と実力によって、老男爵オリニエール・デ・ドォワが後継者無く没した後に、ドォワ男爵の称号を手に入れたのである。グリィーデウス・ティレルが男爵になって遙か後、男爵領を手に入れた際の競技における不正行為と、競技会で老男爵の唯一の嫡男を故意に殺害したかどで告発された。しかしながらこの嫌疑は証明されなかったのである。にもかかわらず、それ以後レミエージュ家はドォワ男爵領に対する継承権を主張している。それはオリニエール・デ・ドォワの唯一の娘がトリデル・デ・レミエージュ男爵に嫁いでいるからである。しかしながら女系家族による称号継承の計画は、当時の王モワナンド・デ・シャヴァリエによって却下された。現在の王ジェラド・デ・シャヴァリエはティレル家に対して特に好意的である。ワルター・ティレルがロバーート・デ・ビューラン男爵の暗殺の企てを阻止するために働いたからである。彼は暗殺を行おうとした者を捕らえたが、暗殺者は首都の方へと逃れようとして殺された。その咎でデ・ビューラン家の者全員が投獄され、王宮の地下牢へと消えた。わずか5歳の嫡男アランディス・デ・ビューランと彼の姉だけがこの運命を逃れた。彼の逃亡以後、長年に渡り少年の居場所は秘密となっている。生き残った彼の姉は彼が逃亡した時にはすでにクレット伯の孫と結婚しており(といっても当時まだ12歳にすぎなかったが)、現在はその庇護下にある。

  みずからを暗殺から救ってくれた勇気に対する感謝として、ジェラド・デ・シャヴァリエ王はワルター・ティレルにビューレン男爵位を与え、自分の娘と結婚させた。彼女はワルターの子を10人以上生んだ。現在ワルターの5人の息子(ロバート卿、グリマルド卿、ヒエルレウス卿、オリナドール卿、ピエティト卿)はすでにクストリアで名を上げ、ティレル氏族は宮廷でもっとも有名、またあるいは悪名高い氏族となっている。ティレル家の者はみなロカール派に属している。彼らの領国内には国内最大規模の修道院のうち3つが存在している。ワルター・ティレルが極端に信心深いと知られている訳ではないものの、彼は封土の大半を教会へと寄進している。

デ・レミエージュ家

  デ・レミエージュはクストリアでは比較的新興の貴族である。彼らはその称号を、現在のロバート・デ・レミエージュ伯爵の曽祖父にあたるオズバート卿の時代に手に入れた。オズバート卿はラタックの戦いの際にクストリア騎士の指導者として名を挙げ、その戦いでティナロスの軍勢を打ち破った。その報いとして彼はジュリエットの手と、王からの言葉とレミエージュ老男爵の相続人たる娘を得て結婚した。当時のクストリアのチャンピオンであったデ・ビューラン男爵とオズバート卿が親しい友人であったため、それ以来デ・レミエージュ家とデ・ビューラン家は特別な関係にある。

  デ・レミエージュ家がドゥワ男爵領の継承権を主張したために、デ・レミエージュ家とティレル家の間には強い反目が存在している。これはドゥワ家の最後の娘であるクレア・デ・レミエージュが彼女の父親ドゥワ男爵の地位を次ぐべきであり、王が誤ってティレル家に下賜したためである。今日にいたるまでロバート・デ・レミエージュはドゥワ男爵領の継承権を主張している。宗教的にはレミエージュ家はばらばらである。ロバート男爵はロカール派教会の一員だが、彼の子供たちは正統フレストル派に改宗した。男爵夫人はダンガン教会の一員である。

デ・クレール家

  リチャード・デ・クレールはフォレット伯にしてデ・クレール家の当主である。彼はロバート・デ・グランヴィーユに次いでクストリアで2番目に裕福な伯爵であり、国内で最大の封土を有している。フォレットの伯爵たちは建国以来、クストリアの玉座をデ・ラ・レプレイン家の者たちと争い続けている。家門の創始者であるジェローム・デ・クレールは、ヒューレウス・デ・ラ・レプレインが実権を握ったときには最高位の貴族位を有しており、玉座に対して最も強い継承権を有していた。デ・クレール家の者たちは最高のロカール派原理主義者として描写される。"敬虔王"サスディアルによって信仰の自由が導入されて後、彼らは幾度となくロカール派の異端審問をクストリアに持ち込もうとした。デ・クレール家はクストリア司教サースタンを擁護している。

デ・プロワ家

  デ・プロワ家はクストリア西部のクレット伯爵領を支配している。この伯爵領にはクストリア王の競技会用の封土が含まれており、そこからの収入は競技会にのみ用いることができる。現在の伯爵はパスカル・デ・プロワである。彼はこの伯爵領を30年にわたって治めており、またデ・シャバリエ王家に対してもっとも忠実な家臣の一人である。彼の息子にして後継者はオズバート・デ・プロワであり、彼は失墜したビューラン家の娘を妻としている。パスカルはこのことを家門の大きな汚点と考えているが、彼の息子は妻を離縁することを拒み続けている。しかしながら20年前ビューラン一族が監察下に入ることとなったとき、パスカル自身も彼の義理の娘が幽閉されることには反対した。

  家門にはもう1人高名な者がおり、それはモルウィン・デ・プロワ、パスカルの弟にしてここ4年間クストリアのチャンピオンの称号を手にしている。デ・プロワ家の大半は正統フレストル派に改宗している。彼らはすでにクストリア最初のフレストル派修道院の設立を宣言している。

デ・グランヴィーユ家

  古い家系であるデ・グランヴィーユ家は行商人の集団にすぎないと常に非難されてきた。この家門は街にいくつもの商館の保有し、金融業と両替業に手を染めている。その結果として水軍全体がこの家門から融資を受けている。加えて彼らは24隻の商船を保有し、それらはフェルスター湖中で交易を行っている。彼らの国際的な交易関係から、家門はこの地域の他の国家と接触する機会も多い。数世代に渡り、王家は毎年開催される競技会のためにグランヴィーユ家から融資を受けている。それゆえ家門の長であるロバート伯爵が宮廷で侍従の地位を占めていることは驚くに値しない。

  最近家門はビューラン男爵による暗殺の試みへの共謀のかどで非難されている。これはロバート伯爵が男爵の義理の兄弟に当たるためである。しかしながらそれらの非難のうち証明できるたものは何一つなかった。伯爵の嫡子であるテュラン・デ・グランヴィーユは、王がみずからの債務を逃れるためにこの状況を利用しているのだと、公開の宮廷で非難し続けている。グランヴィーユ家の者たちは開明的ロカール派教徒という描写がもっとも適切である。しかしながら家門の中で特に信仰心が厚かったと知られる者は1人もいない。




  本テキストはIngo Tschinke氏が作成、Hans van Halteren氏が翻訳した作品を、Ingo Tschinke氏からの許可を得て木村 圭祐(しーちゃん)が翻訳したものです。
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