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「津久井瑛子さんの事、取り急ぎ調べましたけど…あまり気分の良いものではありませんですわね。お嬢様。」

「…犀島が絡んでいるかもしれないってだけで、おおよその予想はついていたわ。」


「ですわね。蒼ちゃんに知らせますか?ご学友にとっては…きっと、誰にも知られたくはない秘密でしょうから、私は反対です。」

「蒼が知りたいと言えば、教えてやったらいいわ。」

「しかし、お嬢様…。」

「受け入れるか受け入れられないかは、蒼が判断すれば良い。失う物なんて何も無いわ。

他人の秘密を知り、ソレに対し何をどう考えて対処すべきか、学ぶチャンスだと思えば良いのよ。」


「蒼ちゃんはそれで済むでしょうけれど…ご学友にとっては…。」



女二人は険しい顔でモニターを見つめる。

モニターは小さい女の子が無邪気に笑っている画で止まっている。

この女二人は、モニターの女の子がこの後どうなるのかを知っている。


「こんなの酷すぎますわ…。」



「その”酷い事”で、阿呆みたいに興奮を覚える輩がいるのは事実よ。…それも沢山。

自分の知らない人間の記憶に残り続ける苦しみは…想像もしたくないわね。」



・・・ひとつ。昔話をしてやろう。

黄色が好きだった、とある女の子の話を。



彼女は昔から可愛いと言われていた。

歌を歌えば、その声は可愛らしく、人々の耳を癒した。間違いなく才能はあった。

何よりも女の子の容姿は子供らしく、可愛らしかった。

大人達は声より、女の子の天使のような容姿に真っ先に目を奪われた。


…子供は天使、なんてよく言ったものだ。


事実、小さくか弱い生き物を、人間の半数は『可愛い』と思うらしい。

小さく力も無く、背も足りないから背伸びをして、大人に近付こう、大人に好かれようとする健気な女の子だったんだ。

ああ、まるで天使じゃないか。自分以外の誰かの笑顔の為に、利益の為に…”自分の身を犠牲にする”その様は、まさに自己犠牲の極みだ。


でも、彼女は人間なんだ。天使のような笑顔を持った、ただの人間だ。

あの小さな心には、沢山の大人達の欲望を叶える責務は重すぎた。

それらを理解した上で大人達は、賞味期限が迫る彼女を喰い荒らした。


繰り返すが、女の子は、ただ好かれたかったんだ。

大好きな黄色いライトの中で、最後まで女の子は自分を好きだと言っている人間を、自分が好かれているから求められているのだと、信じていたんだ。

信じた結果は…というとだ。

場末の古本屋の隅っこに置かれた、黄ばんだヘタクソなエロ本の最後みたいなお粗末で救いの無い結末を迎えた。


そして、彼女は黄色が大嫌いになりましたとさ。

そんなに嫌いなら、私にくれたらいいのにね。


「君江さん、カーテン閉めてくれる?なんだか、外が煩いわ。」





[ フルカラ 黄色。 中編 ]





勉強は今の所、好きでも嫌いでもない。

こうやって、沢山の同世代の女の子達と一緒に授業なんて、私には新鮮以外の何物でもなかったから。

”珍しさで保っていられるのは今の内よ”、なんてお姉ちゃんは言っていた。

結構、授業展開は早くて、既について行くのに少々焦りを感じていたりする。



「よし、今日はここまでだ。今日やった所は重要だぞ。帰ってから、参考書をもう一度読んで置くように。」


一度眺めただけで、復習になるとは思えないけれど、私はノートの右端に”もう一度読む”と簡単なメモ書きを残した。




「ふ、ああああ…。」

全ての授業が終わって、大あくびしながら佐泉さんが鞄を持って立ち上がった。

「あ、ホームルーム…」という私の言葉に佐泉さんは反応すらしなかった。

(私とは合わないって思われてるのかなぁ…。)

続いて琴も、無言で鞄を持って立ち上がる。

「あ、琴…」

私の呼び止める言葉を遮るように「お先。」と短く答えて、教室を出て行く。

(まだ、怒ってる、のかなぁ…。)

少し琴の言動を咎めるような物言いをしてしまったせいかもしれない。本心ではあるけれど、言い方が悪かったなら謝った方がいいかも。


入学式の時とは違って、佐泉さんも琴も一緒に行動しようとはしない。


「あーあ…問題児軍団は早くも空中分解か。」と誰かがクスクスと無責任に笑った。


私は、ぽつんと教室に残されたけれど、そこは問題としていなかった。

ホームルームは淡々と進む。授業みたいに要点だけを伝えられ、あっけなく終わった。

その間、私が考えていたのはエーコちゃんの事だ。


(エーコちゃん…どうして、犀島さんの名前であんなに怯えたんだろう…。)


…犀島さんに何かされたのは間違いないんだろうけれど…。


エーコちゃんの尋常ではない怯え方を思い返すたび、私は気になってしまう。

私も犀島さんに傷つけられそうになったからだ。


(私は助かったけれど、エーコちゃんは…もしかして…)


そこまで考えて嫌な想像しか浮かんでこなかったので、それらを振り払って、私も家に帰ろうと立ち上がる。

知りもしない人の事をアレコレと言わなくても、色々憶測だけを飛ばすのだってなんだか無責任さでは同じような気がして、私は考えないように早歩きで階段を下りる。

そうだ、お姉ちゃんが犀島さんについて調べてくれる筈だし。




学校の玄関を出て、バス停を目指そうとしている私の足がビタッと止まった。

止まらざるを得ない出来事が起きた。

私の目の前、校門の外に黒い車が停まっている。問題は、その車の近くにいる人物だ。

黒い車の後部座席の扉を開けっ放しにして外に立ったまま、車の屋根に肘を置いて、こちらを見ている女性。

その女性は、驚きで固まっている私に気付いた。


「…あら、ようやくご登場ね?」


それは、忘れる筈も無い。

皮肉にも、彼女の思い描いた通り、くっきりと深い火傷のように記憶に残っている人間。


「さ…い、じま…!」


・・・犀島晴海だった。



犀島晴海は、私を見るとニッコリと不気味に笑った。

(嘘…嘘でしょ!?)

犀島に名乗った覚えは無いし、まさか昼間の学校まで来るなんて予想もしなかった…!

(どうしよう…!嘘…どうしよう…!!)

何をしにきたのか、何をするつもりなのか、動揺が即座に心臓に伝わり、全身が緊張し出す。

それを知ってか知らずか、犀島はどんどんこちらに歩いて近付いてくる。

(一体、何しに来たの?あの時の仕返し?)

偽ミラージュを捕まえる為に、たまたま出会ったのが犀島だった。


犀島晴海は、茶髪を後ろで留め、淵無しの眼鏡をかけていて、スーツスカート姿だった。

あの店で出会った時と同じ格好だ。あの薄暗い場所で見た犀島と今、日の光の下で見る犀島に、何も差は無かった。


場所が違えば、犀島の印象は違って見えるかもなんて思っていたけれど、人間、そうそう変わらないようだ。

特に犀島の眼。あの眼が…私からみると、深くて怖くてたまらない。


犀島は、あの夜、私と篠原先輩に襲い掛かり、そこに助けに入った火鳥お姉ちゃんをまるで知っていたかのように声を掛けていた。


けれど、お姉ちゃんは”覚えていない”と一蹴した。

その途端、犀島が物凄い形相で睨んで”許さない”と呟いていたのを今でも覚えている。

もしかして…許さない対象は…私も、なの…?


今、一人で犀島に立ち向かうなんて出来ない。

私は即座にスマートフォンを取り出し、君江さんに電話をかけながら、後ろに後退した。


「あらぁ、連絡しちゃうのォ?折角、貴女のお友達の事を教えてあげようと思ったのに。」


犀島は、楽しそうにやや大声で叫んだ。

そうして、私に見せつけるように、開きっぱなしの車のドアから横にずれた。


「…え?」

車の中から見えたのは、私と同じ制服、同じ色のリボン。


「ねえ、蒼ちゃん。”お友達と一緒に”帰りましょうよー。」


犀島が開いたドアの奥にいたのは、エーコちゃんだった。


「どう、して…?」


数時間も前に学校を出たはずのエーコちゃんが。

犀島、という名前を聞いただけで、震えていたエーコちゃんが。


(…どうして、犀島の車に乗っているの…!?)


エーコちゃんの目は虚ろで、私の方も見ていない。


(どうしよう。助けなきゃ。でも、どうやって…!?)


スマートフォンを指で1タップすれば、君江さんにすぐに電話がかかる。

私が上手く時間を稼げば、きっと…君江さんが、お姉ちゃんが何とかしてくれる…!


しかし、犀島はそれを読んでいたように、また大声で私に呼びかけた。


「まあ、そうするわよねー?連絡すれば良いわよー。私はこの子と、あと20秒で消えるわー。」

「20…!?」


それは、あと20秒でエーコちゃんが連れ去られるという事だ。

このまま君江さんに連絡をしたとして、エーコちゃんを無事に助けられるかどうかの保障は出来ない。

動揺に包み込まれている私に追い討ちをかけるように犀島が言った。


「気にする事はないわよ?お友達なんか、”また作ればいい”んだもの。」


そう言って、犀島はドアの取っ手に指をかけた。

閉める気だ…!と思った瞬間に、私は叫んだ。


「ま、待ってッ!!」


その瞬間、犀島が浮かべた笑みを私は、また記憶に焼き付けてしまった。

それだけ、その女が浮かべた笑みは、嵌まっていく私を心底嘲笑しているモノだった。

私は車に向かって歩いていった。緊張と動揺で唇を噛み締めると乾燥していた唇の皮がピリッと破れ、鉄の味が少しした。

改めて、犀島の傍に立つとお姉ちゃんより少しだけ背が高い事に気付く。


大きな瞳で私を捉えると、犀島の唇は弧を描き、あの夜を呼び起こすような声で静かに「どうぞ」と言った。


「その前に…エーコちゃんを車から降ろして下さい。」


私は車のドアに手をかけたまま、そう言った。無理矢理乗せられそうになっても、少しは抵抗できる位置を確保した。


犀島は少し感心したように、手をぱちんと叩いた。

「あら!交渉する気?…無謀ねぇ。私の狙いが貴女だけだと思ったの?交渉相手の狙いも解らないまま、交換条件を提示するなんて愚の骨頂よ。」

犀島の余裕の笑みは変わらずだったけれど、私は精一杯、犀島を睨みつけて言った。

「あ、貴女は、エーコちゃんに酷い事をするつもり、ですよね?記憶に焼付けたい、から…!それだけの為に…友達を傷つけるなんて、そんなの許せないッ!!」


その言葉を聞いた犀島の目から笑みがスッと消え、私はゾクッと震えた。

「…あら、嬉しいわ…。それは覚えていてくれたのね。でも、違うわよ。」

犀島の眼の奥から、ビリビリと飛んでくるのは憎悪のような負の感情。

単に、この人が何をしたいのか、何を考えているのか解らないから、こんなに怖いのだ、と理由を付けて私は自分を奮い立たせる。


「じゃあ…」

やっぱり、あの夜出来なかった事…私の事を犯すつもりだろうか…。もしかして、エーコちゃんの目の前でやる事で、より私の記憶に焼き付ける、って事…?


「彩は、もう私を忘れる事は無いわ。」


あや、と呼ばれたエーコちゃんは、びくんっと反応した。

犀島は、怯えるエーコちゃんの横顔を満足そうにチラリと一瞥して、私に勝ち誇ったような笑みをみせた。


「彩?瑛子じゃ…」


もう一つの名前が出てきて、私はいよいよ混乱してきた。

エーコちゃんは、エーコって呼ばれて今朝あんなに喜んでいたのに…彩って名前もあるの?

私の混乱を見透かすように、犀島は私にこう言った。


「何にせよ、貴女は、この車に乗るのよ。エーコちゃんの秘密も火鳥お姉ちゃんの秘密も、私が持っているのだもの。」

「…お姉ちゃんの秘密?」

「ええ。私と貴女のお姉ちゃんしか知らない秘密。」


知りたくない、と言えばウソになる。

この人から聞かされる事ではない事も十分に解っている。

でも…私はあまりにも、知らなさ過ぎる。犀島の事も。エーコちゃんの事も。お姉ちゃんの事も。


「乗るわよね?蒼ちゃん。スマホは持っていて構わないわよ。」


私は黙って車に乗り込んだ。

今は、お姉ちゃんの秘密より、エーコちゃんと一緒に犀島から逃れる方法を考えなくちゃ。


即座にドアは閉められ、犀島は助手席に座った。


「出して。」

運転席に座っているのは、女性…だろうか、肩幅が大きくないので、あくまでも予想だ。こちらからは顔も見えない。

車は走り出した。お姉ちゃんの運転より、幾分か静かで丁寧だった。


「エーコちゃん。」

私は小声で話しかけたが、エーコちゃんは私を見ても何も言わなかった。


「エーコちゃん…大丈夫だよ。大丈夫だからね。」

私が手を握って、エーコちゃんに再度呼びかけた時、エーコちゃんの目は沈んだ深い悲しみの色に見えた。

「エーコ、ちゃん…?」

「…何が…?」

その様子から察するに、エーコちゃんに犀島に一体何をされたのかを聞かない方がいいと直感で思った。


「何が、大丈夫なの…?無責任な事、言わないでよ…!何も知らない、子供のクセに…!!」


エーコちゃんの鋭利な一言が突き刺さった。

確かに保障も何も無い。現時点、大丈夫な所なんてものも無い。

口から咄嗟に出た安易で気休めな言葉なんか、今何も役には立たないのは解ってはいるつもり、だ。

ああ、それでも私だって必死に、エーコちゃんを助けたくて、自分でも不安なのを打ち消したい気持ちでいっぱいなのよ、と言いたかった。

そんな私の心に ”何も知らない子供のクセに” という言葉が容赦なく突き刺さる。

今の私に実にぴたりと突き刺さる言葉。


「ちょっとぉ?喧嘩しないでぇ?仲良くしなさいよぉ~」

助手席から犀島が制止する気も無いのに、笑ってからかうようにそう言った。


「…同じ運命を辿るかもしれないのよぉ?彩。」

「やめて…。」

「安心するでしょう?もう、独りじゃないわよ。彩。」

「やめて…やめてやめてやめてやめてやめてぇッ!!彩って呼ばないでぇッ!!」

耳を塞いでエーコちゃんは叫び、犀島は声高らかに笑った。


(エーコちゃん…彩って呼ばれるの、そんなに嫌なんだ…!)

何があったのかは知らないけれど、私は、思い切り助手席を蹴って抗議の声を上げた。


「ちょっと!!やめてって言ってるんだからやめてよッ!!」

「ふふっ…元気いっぱいねぇ?そんなに動いて心臓の方は大丈夫なのかなぁ?せっかく、お姉ちゃんに助けてもらったんでしょう?」

もう、そこまで調べがついているのか、と思うとまたゾッとした。

「どこまで、私の事情を知ってるか知りませんけど…!知ってるだけで偉そうにしないでッ!!」

どうにか犀島に弱みを見られないように必死に虚勢を張るが、犀島の余裕は変わらない。


「そう、知っているだけでは何にもならない。でもねぇ、”無知は罪”なの。知らなかったじゃ済まされない。

それを…身を持って、貴女は学んだわよね?彩。」

「・・・・・。」


彩とまた呼ばれたエーコちゃんは黙ったまま、俯いた。


「貴女ときたら、純粋とは聞こえがいいけれど…まるで少女アニメのようなキラキラとした世界しか見えていなかった女の子の成れの果て…まるで大人達の玩具だったわねぇ。」


それは、どこからどう聞いてもエーコちゃんを馬鹿にしているとしか思えない言葉の羅列だった。


「そうよ…私は、信じる人を間違えたのよ…!だから、もう誰も…信じない…!」

誰も、信じないって…人間不信って事?まるで、お姉ちゃんみたい…。

でも…エーコちゃんの人を信じないって、お姉ちゃんや水島のお姉ちゃんと決定的に違う点がある。

「あっはっは…それは結構。信じる信じないは、自由よ。でも、貴女には落ち度があった…”無知”だったという事。」

「…認めるわ。」


エーコちゃんは身体を抱きしめたまま、そう言うと、それを聞いた犀島は満足そうに笑った。


(何よ…それ…!)


「エーコちゃんに、何をしたのか知らないけど!!エーコちゃんに、これ以上酷い言わないで!!」


私は、そう叫んだ。

正しい事を叫んだつもりだった。

だけど、ぼそっと呟くようにエーコちゃんは、私の勢いを削いだ。


「…ねえ、黙っててよ。うるさい。」

「え…?」


「くっ…!あっはっはっは…!彩…そんな言い方は無いじゃない?貴女の事をよく知らないお友達が、こんなに心配してくれたんだから。

本当の貴女の色を知ったら、彼女はそんな風に庇ってくれるかしら?」

自暴自棄のように、座席に倒れこむエーコちゃんは放り投げるように言った。


「そんなに…言いたいなら、言えば?私の事…。」

「エーコちゃん…?」

エーコちゃんの声が明らかに涙声に聞こえてきて、私は思わず手を伸ばしかけたけれど、またエーコちゃんは自分の身を守るように、ぐっと両腕で自分の肩を抱いた。

まるで、誰にも触られたくないみたいに硬く身体を閉じるように。


「ああ、本当に…無知は罪よねぇ。知らないって幸せなことであり、不幸せでもあるわ。」


うっとりと語る犀島の言葉と車の外を流れていく全く知らない景色に囲まれて、私は思った。

間違いなく、今、私は不幸の中にいるのだ、と。



「そう…この世界は、貴女達子供にとっては広すぎて、深すぎる…。だから、知らない事があっても、わからない事があっても、気付かない事があっても…それは仕方が無い事…。

でも、ね…仕方が無いってだけで、許される訳ではないのよ。知らない事は罪…その罰を受けて、身を持って人は学び、そして本当の意味で知る事が出来るの。」


一体、何を知っているんだろう?この大人は。

率直に、そう思った。


この世界は、確かに広くて深い。

私は病院という檻を出てから、毎日が色とりどりで眩しくて、新鮮でたまらない。今だってそう。


友達が出来て、優しい先輩もいて、一緒にお昼を食べて…

でも、この現実が楽しい事ばかりじゃないのは知っているつもりだった。

現に、桜井先輩は死んでしまっていて、篠原先輩は深い悲しみを背負っている。

私は…桜井先輩の事をよくは知らない。どうして死んでしまったのかも、篠原先輩がどれだけ深く傷ついたかも。


そして、今…エーコちゃんがどうして名前を呼んだだけで喜ぶのか、犀島に何をされてしまったのかも、知らない。


私は、私の知らない所で、誰かが誰かに傷つけられているかもしれないのに、気付かない。

無知は罪。

私が知らずにいる事で、きっと私は後悔したり、誰かを傷つけたり、傷つけられたりするのだろう。


(だからって…このままでいちゃいけない気がするのに…どうしたらいいんだろう…!)


こんな時、お姉ちゃんならどうする?


昼休みに篠原先輩と話した事をふと思い出した。


『…これはね、あくまで私の考え方よ?

私は美雪を理解しきれはしなかったけれど、私は、私の事や私の考え方を理解しない人を出来る限り許していこうと思うの。』


『許す?』


『知らなくても、知らなかったんだから許す。理解されなくても、理解できなかったんだから許す。』


許す。

無知が罪だとしても、それを許す。


『そしたら、貴女みたいにちゃんと話を聞いてくれて、この部屋の良さも理解してくれる人が一人は現れる。

例え、多くの賛同を得られなくても、ね。その僅かな人がいる事こそ、私にとって大事な事だから。

でも、他の人にとっては、果てしなくどうでもいい事かもしれない。

だから、私は自分や周囲への理解を他人に押し付けはしない。押し付けてまで理解されても、きっとそれは理解じゃない。』


篠原先輩は、そう言っていた。

聞いた当初はそういう考え方もあるんだ、と思っていたけれど…今の私はいつになく、許す事に違和感を感じていた。


エーコちゃんの事をまるで知らない私は、確かに”無知”かもしれない。

だけど、私の心は感じた。無知をそのまま嘲笑ったり、罵るのは…私は許せないのだと。


自分が無知である事が…許…せない。

この犀島も…許せ、ない。


今、この時、この状況を…簡単に許してはいけない気がした。


(でも、どうしたらいい?お姉ちゃん…私、どうしたら、この許せない状況をなんとか出来るの…!?)


必死に考えた。

走行中の車からの脱出は無理だ。

目的地に到着してからの脱出、もしくは場所を誰かに知らせる事が出来れば…あるいは…!


「…ところで、どこまで行くの…?」

私がそう聞くと、犀島は鼻歌混じりに答えた。

「もうすぐよ。この先に、古くて少し大きめの社…村社があるの。」


社って…神社って事かな…?

犀島の口から”村社”と聞いたエーコちゃんは、強く自分の身体を抱きしめるように身を屈めた。


「エーコちゃん…!?ねえ…どうしたの?」

「うるさいッ放っておいてッ!」

小刻みに震えている身体をみて、放っておける訳が無い。

「放っておける訳無い!私…貴女の友達だもん!」

私の言葉を鼻で笑ってから、エーコちゃんは本気で怒ったように言った。

「友達?出会って数日しか経ってないし、私の事、何も知らないクセに、友達!?馬っ鹿じゃないのっ!?」

「…っ!」


真っ直ぐ突き刺さってくる言葉のナイフを受け止めても、私は負けずにエーコちゃんに呼びかける。

この車内で、助けたいのはエーコちゃんだし、味方は私とエーコちゃんだけだからだ。


「ばっ…馬鹿かもしれないけどッ!知らないのは事実だけど!だったら!教えてッ!エーコちゃんの口から教えて!

何があったのかは言わなくてもいい!でも、どうして…エーコちゃんは名前を呼んだだけで、あんなに喜んでくれたの?」


瑛子という名前があっても皆、彼女をエーコとは呼ばないし、彩って名前はなんなのかも私は知らない…。

でも、名前を呼んだだけであんなに嬉しがってくれた人に出会えたのは初めてだったのだ。


「そ…そんなの今聞いてどうするのよ!?」


確かに、今はそんな場合じゃない。

逃げる手段は必要だけれど、私の目の前で苦しんでいるのは、私が高校生活を始めて、私の為に入学式をやり直してくれた”友達”だ。

大体、今朝からずっと気になっていた事だったし、このまま私がエーコちゃんの事を知らなさ過ぎるのは嫌だった。


でも、そんな尤もらしい理由なんて口にするよりもシンプルに表現するならば・・・


「貴女を、知りたいからッ!」


本当に、只それだけだ。

知りたいから。それを知っているのは、紛れも無く犀島ではなく、エーコちゃんだけだ。だから、教えて欲しい。


「興味本位じゃない。私は、エーコちゃんをほんの少しでもいい、知りたいの!」


エーコちゃんは口を少し開いたけれど、言葉を出さなかった。

揺れる瞳がしっかりと私を見て、唇が震え、それを殺すようにエーコちゃんは唇をぐっと噛み締めた。

ぐっぐっと込み上げてくる涙を堪えながら、エーコちゃんは搾り出すように言った。


「そ、んなの…知らなくていいのよッ!知らなくても…それは罪でもなんでもないわよッ!」

見ていてこちらも辛くなってしまった。

まだ彼女の口から聞いてもいないのに、知りもしないのに、エーコちゃんの辛そうな表情を見ているだけで感情だけは伝わってきてしまう。


「無知が罪だから知りたい訳じゃないッ!無知な自分を良く見せたくて知りたいんじゃない!

貴女を知りたいから!エーコちゃんの事を教えて欲しいの!人を知るって…そういう事じゃないの!?

理解したいから!その人を知りたいと思うのは、罪なんかじゃ…間違いなんかじゃないッ!!」


ぼたぼたと涙が落ちた。

エーコちゃんは、泣きながら首を横に振り、私に頼むように言った。


「お願い…知らないで…お願いだから知らないでいて…知るのは、表面のエーコだけで良いから…!」

「…どうして…!?」


苦しそうなエーコちゃんの表情をみて、思わず手を伸ばす。


「知られたくないの…!私、蒼ちゃんが思ってるような…人間じゃない…ッ!」


エーコちゃんが私の手を握り返した。

それはとても弱々しい力で指先まで震えていたけれど、涙で揺れる眼は、どれだけ必死な思いで私に言葉を伝えているのかが痛いほど伝わってくるものだった。



「ふふふっ…蒼ちゃんって、ホント可愛いわねぇ…彩もそう思うでしょう?」


助手席から笑い声と一緒に、犀島の横顔が見えた。

眼は完全に私を嘲笑っていて、”ガキ丸出し”と言いたげだった。


「彼女は見ての通り、聞いての通り…”真っ白”なのよ。だから、しっかりと教えてあげて?そしたら彼女、何色に変わるかしらね?」


(また…白って言った…!)

白は…私の嫌な色。何物にも成り得ていない、未熟な色。

それを犀島は、わかっていて言っているのだ。


「た、確かに…知らないよ…私、知らない事だらけで真っ白で…馬鹿みたいかも、しれないけど!」


犀島に向かって言葉を口に出そうとすると、足が恐怖で震える。

犀島が何を考えているのか、次の瞬間私に何をするのか、わからなくて怖い。

それでも私は立ち向かわなきゃ。ここで負けたくないし、終わりたくも無いし…何色にも変わらない。



「わ、私は…私は、簡単に何物にも染まらないッ!!自分の色は、自分で決めるわッ!!」



「・・・へえ・・・。」


犀島から、また笑みが消えた。

それと同時に犀島の眼に憎悪が宿ったように鋭さが見えた。


(ヤバい…!)


突然”ヴィーン”という、バイブ音と共にポケットから振動が伝わった。

犀島から見えないように座席にそっとスマホを落として、ちらりと下目で画面を見た。


着信相手は『火鳥お姉ちゃん』だった。


(やった…!)

これで助かる、と私は安心した。

そっと通話ボタンをスライドさせようとすると…犀島が口を開いた。


「電話、出ても良いわよ、蒼ちゃん。」

やっぱりバレてた、と内心焦ったけれど、私は開き直ってスマホを耳にあてた。


「も、もしもし。」

『…蒼?』


「お姉ちゃん…!あのっ!今、エーコちゃんと一緒で、犀島に…!」

『犀島?…ああ、そう…。』

お姉ちゃんの声は普段通りで、冷静そのものだった。

買い物から帰ってきた後、そういえば一つ買い忘れた物があったね、くらいの何でもない感じのテンション。

事の重大さが伝わっているのかどうか心配になった私は、まくし立てるように言った。


「お願い、助けて!場所は…今、走っていて、どこかわからないけれど…!」

車の窓の外に眼を向けて、必死に情報を伝えようとするけれど、お姉ちゃんは私の言葉を遮った。


『蒼、黙って、聞きなさい。』

「でもっ」

『二度も言わせないで。黙って聞きなさい。』

二回目は強い口調だった。私は素直に「…はい。」と答えて黙った。


『犀島の狙いは、アタシよ。』

「え・・・?」

私じゃないの?


『元はと言えば、桐生社長のせいなんだけど…まあ、それはいいわ…。

蒼、アンタはとにかく時間を稼ぎなさい。それだけでいい。犀島を負かそう、倒そうなんて考えない事ね。』


(そんなの最初からやろうと思っても難しいよ。)

残念ながら、こんなにも私は無力だ。


「わ、わかった…。」

『それから……これから、アンタは…津久井瑛子の見られたくないモノを見る事になる。』

(え・・・?)

『他人の痛みの記憶を見ても、決して揺らがない事。それは、ソイツの”過去”よ。

今、アンタが揺らいだら、助けようとしている津久井瑛子共々、犀島の手に落ちる事になるわ。

揺らぐ事無く、目的を果たす事に集中する覚悟を決めなさい。』


「…そ、そんなの…急に…!」

(覚悟って…!)

痛みの記憶って…エーコちゃんの事?そんな事、急に言われても覚悟なんて…!

チラリとエーコちゃんを見ると、不安げに私を見ていた。


『…あまり例として出したくは無いけれど、水島の事覚えてる?』

「うん…。」


『水島は、自分を通す為なら諦めるという事を選択しなかった女よ。まあ、諦めだけは悪かったわね。

でも、ゴキブリみたいなしぶとさと諦めの悪さでトラブルを乗り越えてきたのは事実よ。』


(これ、水島のお姉ちゃんの事、褒めて、ないけど…とりあえず、諦めるなって言いたいんだよね、コレ。)

「わかった。」


私がそう返事をすると、お姉ちゃんはゆっくりとこう言った。


『蒼…これから、アタシはアンタを迎えに行く。それまで、やれるわね?』


”助けに行く”、って言葉を使わないのは、実にお姉ちゃんらしいなと思う。

”絶対”なんて言葉がつかなくても、私はお姉ちゃんなら信じられる。


「…うん…!」


スマホを耳に当てながら、私は真っ直ぐ前を見た。

助手席から、横目でこちらを睨んでいる犀島と目が合ったが、不思議なことに、もう怖くなかった。


「…ねえ、電話、代わってくれる?」と犀島が手を差し出した。


それと同時に『じゃあ、切るわね。』とお姉ちゃんはさっさと電話を切ってしまった。


「切れました。」

私は、着信終了の画面を犀島に見せた。

それを見て、犀島の顔が少し引きつったようにも見えたが、すぐに犀島は表情を作り直した。


「…お姉ちゃんが助けに来てくれるって?良かったでちゅね~?ふふふっ」


からかうように犀島が笑った。

しかし、私の心は落ち着きを取り戻していて、すらりと言葉が出てきた。


「いえ、”迎えに来てくれる”って。エーコちゃん、一緒に帰ろう。」

「…蒼、ちゃん…。」


「一緒に帰るんだよ。私達、一緒に。」


私はもう一度、エーコちゃんの手を握って言った。


「私、諦めないから。エーコちゃんを知る事も、一緒に帰る事も、絶対諦めないから。」

「・・・・・。」


エーコちゃんは何も言わずに涙を流し、それを隠すように俯いた。




「西方…車の速度を上げなさい。」


西方と呼ばれた人は黙ってアクセルを踏み込んだ。

途端に後ろにぐっと倒れた私とエーコちゃんだったが、私は真っ直ぐに前を見ていた。


やがて車が止まり、西方が運転席から降りて、後部座席のエーコちゃんの腕を掴んだ。

私のいる方の後部座席のドアも開き、犀島が私を見下ろすように立っていた。


「降りなさい。」


私は素直に車を降りて、周囲を見た。

周囲は木しかなくて、しかも日光を遮るくらい高い木ばかりで、薄暗い。不気味な森だった。

森の真ん中に道が通っていて、ぽつぽつとお地蔵様が立っていた。


(この街に、こんな場所、あったんだ…。)


「こっちよ。」

犀島がスタスタと歩いていき、西方と呼ばれたスーツ姿の人がエーコちゃんの腕をしっかりと掴んだまま、犀島の後ろを歩いていく。

私は、その後ろをついていく。

エーコちゃんの足がどんどん重くなっていくのが、後ろから見ていてもわかる。

西方は「…しっかり歩きなさい。」と静かに命令して、エーコちゃんの背中を押した。

少し歩いていくと遠くに小屋みたいな物が見えた。


(これが…村社…?)


その社は、茶色というよりも、焦げ茶色の古い木で作られていた。

けれど、色とりどりの長方形の紙が、社の壁や扉などにびっしりと貼り付けられているのが余計に不気味だった。

お賽銭箱らしき箱は文字が消え、蓋もなく、只の木の枠。

階段の木はギシギシ音がしたけれど、壊れる様子はなかった。扉には穴が空いていて、中から木と埃のニオイがした。

社の近くまで行くと、長方形の紙が折り紙の短冊である事がわかった。


(あ、コレ…”イロガミ様”だ…。)


それは私の小さい頃、流行ったおまじないのようなモノだった。

折り紙に願い事を書いて、神社に貼り付けると願いが叶うというおまじない。

色によって叶う願い事は決まっていて、尚且つ、その色に対応したイロガミ様がいる神社は違っているから、なかなか願いは叶わないというモノだった。

(確か…緑は友達とか人間関係の願い事で…ピンクは恋愛だったっけ?あれ?あと、何色があったっけ…?)

本当に、小さい頃にうっすらとしか聞いた事がないせいか、私はすっかり忘れてしまっていた。


(確か…黄色…黄色は…)


「ああ、イロガミ様ね。私の学生時代も、こんなの本気で信じている奴がいたっけ。」


犀島が、吐き捨てるようにそう言った。



「西方もやってた?こういうの。」

「はい。」

犀島が、それを聞いて”へえ、アンタもやるんだ?”と笑いながら社の中に入っていった。



「…黄色って…」

思わず、私が呟いた言葉に西方という人は振り向いて言った。



「黄色は…”今ある状況から助けて欲しい事”を願う時に使うのです。」



それは、今、この状況こそ相応しいな、と私は思った。




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