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私の名前は、水島。


悪いが、下の名前は聞かないで欲しい。



性別は女、年齢25歳。

ごく普通の、出世願望も、結婚願望もない、本当に普通のOL。


普通のOLが送る生活とは言えない・・・ていうか、思いっきりファンタジーな生活を送っている。

呪われて、ややこしい同性に好かれやすくなってしまったばかりか、死んでしまう呪いである。


その他・・・余計な力も目覚めた。


普通の人には見えないモノが見えるのだ。

・・・幽霊とか妖怪の類なら、まだメジャーな小説道を歩めただろうが、私が見えるモノは、人間同士の”縁”である。


縁・・・つまりは、人間関係を操作する事が出来るようになったが、人嫌いが他人の縁を操るなど、なんという皮肉な力だろうか。

特に便利という訳でもないが・・・使いようによっては、使い道がある力ではある。



ああ、そうそう。

使い道、と言えば。


「長ねぎの青み部分・・・ざっくり切った生姜の皮・・・にんにくは包丁の腹で潰して・・・後はラード・・・。

ラードが完全に溶けたら、野菜が焦げ付かないように中火にする、と。」


にんにくはともかく、長ネギと生姜の有効活用だ。

長ネギの大部分は鍋用に切ったり、細かく刻んでタッパーに入れて保存。生姜の大部分は今夜のジンジャーティーにでも使おう。


トントンとリズム良く野菜を切る。

無心でいられる。余計な事を考えなくて済む。

深めのフライパンにラードを入れ、溶けきったら野菜を入れる。

私は、あまり外食をしないが、時々ジャンクフードが無性に食べたくなる。

人が多い店に入って、周囲が皆女性だった時のリスクを考えると、とても出来ない。

だから、こうして出来る限り自分で作って、満足を得るのだ。


呪われる前は、こんな事考えずに店に入る事も、無心で料理を作る時間ももっと多かった気がするのに・・・。


(変わっちゃったなァ・・・私の生活。)


レンタルDVDを再生しながら、台所に立つ。

菜箸でネギをつついて、油から沸き立つ泡を見ている。

台所には香味野菜特有の香りが広がる。


「うん、いい香りが出てきた。」


・・・いや、解ってるんだ。ホントは、こんな事している場合じゃないって事くらい。


DVDのドラマの内容はほとんど頭に入って来ない。

私は、ただこのドラマのOPとED、主人公がピンチを迎えた時の音楽が好きなのだ。


音楽って不思議だ。

ピンチでも、あのテーマソングがかかっただけで、乗り切れそうな気がするからだ。

・・・ま、現実そうはいかないが。


エプロンのポケットに入れていた電話が震えて着信を告げる。

私は肩と耳で携帯を挟み、電話に出た。


「・・・はい。水島です。」

『アタシ。何してる?話せる?』


単刀直入で誰なのか大変解りやすい第一声、本当にありがとうございます。


「ああ、火鳥さんですか。ネギ油を作ってるんです。折角のお休みなので。」

『つまり、暇なのね?』


「暇じゃありません。焦げないように見なきゃいけないし、火から離れても危ないんですから。」

『手間のかかる油なんか、こさえて何になるのよ?』


あーあ、解ってないなぁ。こういうモノを自分でこさえるから良いんじゃないか。

…なんて、誇らしげに語ったら『それはそれは、充実しきった休日で良かったわねぇ(笑)』と皮肉られるに決まっているので言わない。


「ラーメンとか野菜炒めが美味しくなりますけど。」


油の使い道を素直に答えると、予想通り火鳥から溜息が漏れた。


『はあ・・・ま、それはいいわ。元・加藤フーズ夫人から連絡は?』

「いえ、本は見つからない上に、今は離婚協議で忙しいらしいです。協議、サクサク進んでるみたいですよ。」


加藤フーズの後妻さんは、ウキウキと私に電話を掛けてきては、私を絶望させた。


報告は以下の通りだ。


やはり本は見つからない。

あのクソパーティーの日、誰かが持ち去った可能性が高い。その誰かはわからない。

そして、離婚協議は進みまくっていて、全て終わったらマンションを買うから一緒に住まないか?


・・・と具体的かつ関係のない提案をされ、私はすぐに着信拒否に設定した。



『で、肝心の本を持ち去った女は?』

「・・・それも全く進展無しです。」


『アタシ達の他に、あの本を持ち出すんなら・・・やっぱり・・・あの4人が怪しいわね。』


火鳥の言う、四人とは。

私の女難チームに属している・・・花崎課長、阪野さん、海お嬢様、忍さん・・・の四人。

呪いを解こうとしている私達の邪魔をするつもりならば、可能性はある。


「その可能性も考えましたけど・・・。」


忍さん以外の人間に対し、私と火鳥は、あの”恥ずかしい呪い”の事は伏せてある。

問題は、彼女達が、呪いを解くと私への気持ちが消えてしまうという事を知り、呪いを解く事を阻止しようとする・・・かもしれない点だ。


『疑った方がいいわよ?・・・いや、むしろやるとしたら、アイツらしかいないでしょ。』


・・・確かに、そうなんだけどねと私は心の中で相槌を打った。


『他人、ましてや女難だってわかりきっている他人なんか、アタシ達の害でしかないんだからね。

いつまでもヤツラが”女難止まり”でいると思ったら大間違いよ?』


それはどういう意味だ、と聞き返そうとしたが先に火鳥が喋り出した。


『あ、待って。絶対に、絶対に絶対に!絶対に!一人で行動しないでね?本と引き換えに、もしアンタに何かあったら・・・』


それは、フリですか?と聞き返そうと思ったが、後者の台詞がひっかかった。


「え゛?」

『アンタに何かあったら万が一の時、儀式の相手がいなくなるから。お願いだから、処女は保っていて頂戴ね。』


火鳥のとんでもない発言に、私は大声で言い返した。


「ばっ!?馬鹿な事言わないで下さいよ!」

『あら、処女じゃなかったの?』


「そっちは認めますけどね!!いや、そうじゃなくて!問題なのは”儀式の相手”の所!万が一でも、私は絶対嫌ですからね!!」


まだ貴女は懲りてないんですか!と言わんばかりに断固、馬鹿儀式禁止を唱える私。

いや、相手が誰であってもお断りだ!!

性行為だの、愛し合うだの・・・他人と肉体的、精神的に少しも混ざり合えないし、自分の領域に誰かを招き入れる事なんか出来ない!

信用して、自分の最深部に招き入れでもしたら、勝手のわからない他人はゴチャゴチャと弄くりまわす。

私という領域のカーペットに修復不可能な傷とペンキを撒き散らす。そんなのゴメンだ。


「忘れたんですか!?中途半端に焼け石に水みたいな馬鹿儀式やっても祟り神がいる限り、私達は枕を高くして眠れない!

また呪われるんじゃないかってビクついて、石のお守りを身につけて、女の一挙一動を観察しながら過ごすつもりなんですか!?」


『・・・・・・。』


火鳥は沈黙した。・・・キツく言い過ぎたか?


「ん?もしもぉし?」

『はぁ・・・アンタってホント・・・いや、ある意味アンタはそれで安定してるし。アンタのままだってのが強みね。』


呆れられながら褒め台詞を言われても、また皮肉を言われてるとしか思えなかった私は、ムッとしながら聞き返した。


「どういう意味です?」

『思春期・青年期にありがちな”本当の自分探し”なんてアンタには不必要だって事よ。良かったわね。』


なんのこっちゃ。


「・・・話、飛びすぎてよく解らないんですけど。」

『解らなくていいの。アンタは、そのままの方がお似合いよ。水島さん。』


「あーそーですか…じゃ。」



火鳥は私の返事に、満足そうに鼻で笑って電話を勝手に切った。


「本当の自分探し、か・・・。」



 ”本当の自分”。



よく聞く、この単語が今更引っ掛かっていた。


”本当”の自分って?

偽物の自分がいるって事?(以前、私の偽物が出た時は、火鳥が私に化けてたって話だったけど。)

偽物って、ドッペルゲンガーとかオカルト系の話か?


本当の自分。飾らない、他人の前では決して晒さない素の自分。

他人の前でキャラクターを演じたり、自分の気持ちを偽ったりしてるのが・・・偽物の自分って事?


ならば、私は随分と前から本当の自分を封印している事になる。


少なくとも、今の自分は・・・本当の私なんかじゃない、と思う。

そもそも、本当も偽物も使いこなさないと、この世の中スムーズに生きていけない。


「・・・よし、ネギ油の出来上がり。」


ネギ油が出来上がると同時に私はDVDの再生を止めた。

100均ショップで買った瓶に油を移して、冷ます。


丁度、地上波ではニュースが放送されていた。



『続いては特集です。日本が誇る女性格闘家、岬 マリアさんが帰国しました。

知る人ぞ知る・・・女性版・総合格闘技大会『VENUS WAR』の日本代表、岬マリア。

厳しいトーナメントを勝ち抜き、世界一強い女を決める大会の出場者です!』


「うへえ・・・」


女、と聞いて私は表情を崩した。


強い女かァ・・・。

強くても弱くても女性の話題は、もう結構です・・・。


格闘技やってる女性というと、相当ゴツイんだろうな〜と思って、TV画面を見ると意外や意外。


そこには、セミロングの黒髪を一つに束ねている若い女性が映っていた。

顔は小さい上に、目が大きく、鼻も高い。唇は少しぷっくりとして、その唇の下からは白い歯が見えていた。

爽やかなスポーツウーマンらしい清涼感漂う笑顔。

ノーメイクでここまで美人なのも珍しい程、整った美人。

しかも、腹筋は見事に割れている上、二の腕の筋肉は曲げるとすぐに、はちきれんばかりの筋肉が浮かび上がる。



スパーリングらしき練習風景の映像が流れ始めた。

岬マリアの腕が、私の動体視力ですら追い付けないほどのスピードで動き、ミットを叩く。


(この美人が顔を叩いたり、叩かれたりするのか・・・。)


強く美しい、と表現されてはいるが、私の目からは”暴力行為を仕事としている怖い美人”としか映らなかった。

一般人の視点からは、岬マリアの目は大きく魅力的だと言われるのだろうが・・・

私から言わせれば、ミットを叩く彼女の目は、しょこたんがオタク話でテンションMAXになった時の目、もしくは、ギラギラと飢えた獣のソレである。




『女性の総合格闘技とあって、敬遠する人も多く・・・認知度は、まだまだ低い大会。

しかし、今・・・VENUS WARのスター選手である、岬マリアの活躍に注目が集まっています!

今回の取材で、素顔の彼女…いいえ、誰も知らない”本当の岬マリア”に迫りますッ!!』




「・・・本当の・・・」



他人と関わる以上、仮面を被り続けなければならないのが人間だ。

仮面を被り、対処するのは悪い事じゃない。

だから、わざわざ本当の姿をTVに晒す事に何の意味があるのか疑問だ。


そんなの自分が解っていれば十分だ。



だが、その言葉を心の中で呟いて、気付く。




「私もよく知らないや。他人の事も・・・自分の事も。」



本当の自分。


そんな単語を聞くんじゃなかった。

お陰で、その瞬間から、私の”本当の自分探し”が始まってしまったのだから。






 [ 水島さんは苦悩中。 ]





(ああ、終わった〜)


心の中で安堵しながら、私は椅子に座ったまま上半身を伸ばした。

今日は定時までに仕事を終える事が出来たし、真っ直ぐ帰れる。


女子更衣室で素早く着替え、廊下から早歩きで非常階段まで移動する。

階段のスペースで少し準備体操をして、階段を降りる。

その頃には、程よく体は温まる。


「うーい。水島ちゃん、お疲れちゃ〜ん♪」

「あ、今岡さん、お疲れ様です!」


相変わらず緩い警備体勢の警備員・今岡さんに見送られ、私は裏口から会社を出る。


「あい〜今日はBコースだぁ〜」

「はいッ!」


今岡さんの指示に従い、壁に埋まっている白い扉の方へと走る。

「ほい。」と今岡さんがカードリーダーを使って開け、私はその扉の向こう側に走り出す。


「ありがとうございます!お疲れ様でした!」

「う〜い、お疲れ〜。」


薄暗く狭い通路を走りぬけ、青い扉を開けると・・・地下鉄の駅に出る。


実は、城沢の裏口も色々あるのだ。

他にも駐車場を経由して出るタイプ、非常口用の裏口、別の地下通路に通じているモノなど。

こんな多種多様な逃走経路に不安を覚えた私は、”城沢のお偉いさんは、もしかしてとてもマズイ事しているんじゃないか”と勘繰った程である。



地下鉄の階段を上がり、外に出て街に出て、本来向かうべき駅を目指す。

とんでもない遠回りなのだが、全ては女難回避の為である。


電車に乗ってもいいのだが、最近週3で私は自宅まで走って帰っている。

公共機関を利用すると、どうしても閉じ込められてしまい、女難に遭った時対処が遅れるのだ。

最後に信じられるのは、己の肉体である、とは悲しい話だ。


「ふっ・・・ふっ・・・ふっ・・・」


スーツにジョギング用のシューズで街を抜け、住宅街へ入る。。

タバコの本数より、ジョギングの距離が増えてきている。健康的だな、と自分でも可笑しく思う。

呼吸も安定しているし、体力は前よりついた。20代の女性の平均的体力なら、多分私は上の方だ。


(よし、今日は公園を通ろうっと。)


こんな事態に見舞われていなかったら、自分の地域の道という道をこんなに詳しく知る機会は無かっただろう。

私の頭には、この街の道のデータが入っている。もっともカーナビ様には負けるが、逃走経路ナビなら負けない。


もうすぐ、小清水公園だ。この公園は大きな池があり、休日にはその周りをランニングする人が多い。

もっとも・・・平日の冬に好き好んで走っている奴なんか私くらいなものだ。


そして、この公園には野良猫が多い。


「よし、ここらで少し休もう。」


ベンチに座ってドリンクを飲んでいると・・・


『にゃぁ〜』『うにゃ〜』


・・・猫が寄ってくるのだ・・・(悦)



「よしよし・・・餌も持ってこないのに、よく来てくれるね?」


私がベンチに座っていると決まって、白に黒ぶちの猫と茶色の猫の2匹が寄ってくるのだ。

野良猫にむやみに餌を与えてはいけないのだが、この二匹はいつもいつもやって来る。

顎の下だけじゃなく、お腹も撫でさせてくれる太っ腹なアニマルだ。


「ココ?ココがいいの?う〜!うへへへぇ〜い!」

※注 夜の公園で、成人女性一人(人嫌い)が猫をデレデレしながら撫でている、寂しい図をご想像下さい。


しかし、一匹が私の膝の上でお腹を見せた時、ハッとした。

この猫・・・メスだ、と。

もしかして、ともう一匹の猫を持ち上げると・・・メスだ。


(・・・・・・メスにしか、好かれないのね・・・。)


いや、それでも構わん。メスゴリラ、牝馬よりは、害は無い。

害は・・・。


そこで気付く。



(・・・私・・・いつから、害の有る無しでモノを判断するようになったんだろう・・・)




動物は好きだ。犬も猫も雄雌関係なく、噛まれた事は今まで無かった。

料理も、保存食を作る事だって、別に嫌いじゃない・・・。


害が有るか無いか。


トラブルを常に回避する事を頭に置いて、私は行動を決めている。

生物としては生きる為に”マトモな思考”なのだろう。

だが、人間の社会生活で、命にかかわるトラブルなんてそうそうありはしない。

余裕を持って生きる事を楽しむ遊び心、というモノが、現在の私には欠落している。


…なんて損な考え方だろうか。


警戒心の強い猫が、目の前でじゃれてくれるのは貴重と言って良い。

私の指に気持ち良さそうに目を閉じて、私を受け入れてくれる猫が目の前にいるのに。

次の瞬間、私は害があるか無いかを考えている。


女難の女に生き物が寄って来てくれるという、この幸福な時間を素直に受け取れないのだ。


「・・・ごめんね。」


私は猫に向かって笑って謝っていた。

猫はやはり私の手に自分の体を擦り付けて、気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしていた。



好きか、嫌いか・・・楽しいか、楽しくないか・・・。


(もっと簡単に考えていいんじゃないかな・・・私。)



私は立ち上がった。


「帰ろう。」


猫は、くるくると私の足元にまとわりついたかと思うと、やがて何かを察したように茂みに入って行った。

私は冷えてしまった体を、再び準備体操で温めると走り出した。

いつもより少しスピードを上げて、頭の中を空っぽにするつもりで足を上げた。


「良い走り!」


後ろから声を掛けられ、私はふっと横を見た。


「え?」


ポニーテールの女性が白い歯を見せながら私を見ていた。

よく見ると通販で見かけたサウナスーツを着ていた。実際に着ている人を見たのは初めてだった。


「すごい良い走り!何かスポーツやってるの?」


通りすがりのスポーツウーマンに褒められた。

スポーツやっている人に大体多いのだが、すごく態度がフランクな上、積極的なのだ。


「あ、どうも・・・いやいや、これは単に・・・」

ただの帰宅です、と言い掛けた時、後ろから男性の声がした。


「マリア・・・ッ!ロードワーク中に・・・雑談は・・・!」

後ろの男性は息切れしている。へろへろだ。喋らない方がいい。


「何よ、邦彦が無理矢理、私のロードワークについてくるって言ったんでしょ?私、まだまだ走れるし、こういうのは楽しい方が好きなの!!」


そう言って、マリアと呼ばれた女性は楽しそうに笑った。


「あ、あのねぇ・・・!コレ、練習だよ・・・!?笑うとか・・・もっと真剣に・・・ま、待って・・・!」


クニヒコと呼ばれた男性は息切れしながらも、一応”真面目に走れ”と言いたそうに走ってくるが、徐々に距離が離れていく。



「努力が苦しみしか無いなんて、誰が決めたのよ!じゃあね!・・・行きましょ?」


前者はクニヒコに対して、後者の行きましょ?は私に対してだ。


「え?行きましょって・・・!?」


見ず知らずの女をロードワークに誘うつもりか?


「まだ持て余してるんでしょ?私、あと3周するの。競争してくれない?並走でもいいわ。」


持て余してるって、今さっき走り出したばかりだ。

しかし、マリアと言う名の女性は瞳を輝かせて『走ろう!』と誘う。散歩をおねだりする犬のようだ。

私は、走りながらも目の前の女性の指を見た。

まずは女難チェック。・・・マリアさんの縁の紐はついているが・・・紐は後ろに向かっている。

後ろを見ると、へろへろになりながらもまだついて行こうとするクニヒコが見えた。


「あの・・・後ろの方は大丈夫ですか?」

「え?ああ、邦彦はいいのよ。運動不足なんだから。」


そう言って、マリアさんは苦笑した。

どうやら、邦彦さんはマリアさんの”彼氏”らしい。

私が後ろを気にしているのを見たマリアさんは、後ろに向かって叫んだ。


「私、彼女と走るわ!お願いだから、倒れる前に休んでて!未来の旦那様ーッ!」


訂正せねばなるまい。後ろの方は彼氏ではなく”婚約者”だ。

未来の旦那様は苦笑しながら、右手を挙げてベンチにどっかりと座り込んだ。

彼氏持ち、しかも婚約者ならば・・・彼女は女難ではない!相手がいるのだから!!



―― THE・安全!!



安全を確信すると、私の中の闘争心がムクムクと起き上がってきた。

毎日走り回って、体力には多少の自信があったからだ。


「さ、行きましょ?勝負よ!」


何故だろう。ワクワクする。

少しでも前を走られたくはない、負けたくない、と思う。


インドア派の女が、こんな勝負をした所で一体何の得があるというのか、前の私ならすぐに考えただろう。

しかし、今までの私は…何度もアホらしく何の得にもならない戦いを乗り越えざるを得なかった。

この勝負には、私にも選択権がある。


受けるか、否か。


「・・・はい!」


私は、勝負を受けた。

理由は至極簡単。楽しそうだったからだ。

損得で考えていた自分と少しだけさよならをして、素直に勝負をし、楽しむ。

両足が歓んだ。跳ねたら、飛べそうだ。


「ホント、良い走りするね!さっきより、もっとイイ!」


マリアという女性は笑って私を褒めてくれたが、目は闘争心でいっぱいである事に私は気付いた。


「ど、どうも!」


彼女は、私という挑戦者と競える事に喜び、そして勝つ気でいる。


”競争心”なんて普段の私には無い。ナンバーワンに対する執着も二番じゃダメなのか?という問いにも興味は微塵も無い。

今まで、私が他人と競う事で発生したのは、私以外の人間が盛り上がる現象だけだ。

勝てだの、自分を信じろだの、ベストを尽くさなかったら後悔するぞ、といった半ば脅しに近い応援をされる。

…そのせいか、私の感情はさーっと引いた。終わってからも、私本人の喜びも満足感もそこには無かった。

私の勝負ではなく、周囲を盛り上げる為の勝負になっていたからだ。


だが、今は…その余計な雑音が無い。私のやる気も幸い、ある。

しかも、今、私と競争したがっている女性は、女難ではない上に知り合いではない。


走り終わったら、再び会う事は難しいだろう。だったら、遠慮をする事は無い。


「よーし!負けないわよ…!」


挑戦的なその目には、見覚えがあった。

どこだったか…会社…違う。通勤途中…いや、広告か?いや、多分違う…似ているけど…


うーん…思い出せない、思い出すのも面倒臭い。

今はいいや!走ろう!!


私は加速した。

逃げる為ではなく、ただ隣の人と競争する、という純粋な楽しみの為に。


公園の池を3周。指定された距離は、直線にして約3km。

それが、アッという間に3周目。

会話は無く、呼吸音と地面を蹴る音だけ。

勝つか負けるか、細かい駆け引きは無し。ただ、全力で走った。



(ああ、ただ走る事って…楽しくて気持ちいい事だったんだ…!)



いつも必死に逃げる手段としか思っていなかった、走るという行為。


(皇居ランナーの事、ちょっとやりすぎって思ってたけど、こういう気分なのかも…。)


ランナーズハイにでもなったのだろうか、しかし、少しだけ私の見方を変えて踏み出す事で、こんなにも変わる…!



後ろを確認しなくてもいい。

安全なルートを頭の中で検索しなくていい。

真っ直ぐ前を見て、ただ走るだけ!



私と彼女は、ほぼ同時に邦彦さんが休んでいるベンチの前でレースを終えた。

呼吸を整えつつ、私とマリアさんは顔を見合わせた。


満足。


それがお互いの表情に出ていたと思う。


「いい・・・!すっごく、良かった!」


マリアさんは、声に出して満足した事を教えてくれた。

私は声も出さずに頷いた。

私も満足、というか出せるものは全て出し切った。


「私について…いいえ、私を脅かす走りをしてくれたのは、貴女くらいよ!」

「……いや…んな事は…」


やっとそれだけの言葉が出た。これが、実力の差というモノだろう。

3周という距離が決められていなければ、私はあと何メートルかで抜かされていたと思う。

自信があったのに、こんなに差が出るなんて、と私は内心ショックだった。

かろうじて同着にこぎつけた、という感じだ。


「謙遜しないで!ホンット!貴女みたいな人、なかなかいないわ!」

「いや……ホント…ゲッホゲホッ!」


そんな事は無い、って言葉もつなげられない。体は酸素を欲し、喋るなと言わんばかりに疲労を訴える。


「こんなになっても、まだ自分は不本意ですって顔してるわ。」

「・・・・・・。」

それは、ちょっと図星だ。まだ何か改善すれば、勝てる要素はあったんじゃないか、と言い訳のような事を考えていた。

ここまで実力を見せ付けられても、だ。


しかし、彼女はそれを感じ取った上でも私を失礼な奴とは言わずに褒めた。


「…正直者ね。ホント、私の周りにはいないタイプだわ。」


そう言ったマリアさんの表情は、少しだけ寂しそうに見えた。

実力も体力も出し切った私は、息を整えることで精一杯で喋れずにいた。



「マリア、いくらなんでも素人は素人なんだ。プロのロードワークに素人をノリで巻き込むとこういう災難になるんだよ。」


邦彦さんが冷静にそう言って、マリアさんにドリンクの容器を差し出した。


「彼女ほど走れなかったクセによく言うわよ。」


マリアさんは口を尖らせて、言い返した。…その口ぶりからすると、もう体力が回復したのか?


「あ、良かったら、私の飲みかけでよければ、飲まない?」


マリアさんは、ドリンクを差し出した。

私はとりあえず上体だけを起こし、断ろうかと思い、乾燥しきった口を開いた。


「いや…「ほい。」…んぐ!?」


そこに上手い事、マリアさんがドリンクのストローを差し入れ、私はごくりとドリンクを飲み込んだ。


「…ほうら、たぁんとお飲み♪」


マリアさんはぐっと指でドリンクの容器の中央部を押した。途端にストローからドリンクが口の中にみるみる溢れていく。


「んぐんぐんぐ・・・スッ!ストップ!!」


口をストローから離し、両手で”結構です”のポーズを取って、彼女を見た。


「あっはっははは!飲みっぷりも良いわ!」


――― 思い出した。


彼女の、してやったりのこの笑顔。


 『日本が誇る女性格闘家、岬 マリアさんが帰国しました。

 知る人ぞ知る・・・女性版・総合格闘技大会『VENUS WAR』の日本代表、岬マリア。』


あ・・・!


「もしかして…み、岬…マリア!?」


まさか、今更、気が付いたのか!と言いたげにマリアさんと邦彦さんは驚き、フッと笑った。



「「その通りです。」」



プロの格闘家と走ったら…そりゃ、敵いませんって。と私はやっと納得した。



「良いロードワークになったわ。ありがとう。」


そう言って、スポーツマンシップに溢れた手を差し出し、私の手を掴むと握手をした。

力強い握手だった。


「じゃあね!」

岬マリアは、走って去っていった。

風のように、とは古い表現だが、しかしそれがしっくりくるような人物だった。



残された私は、とりあえず頭を下げ、本来通るべき道を歩き始めた。

Yシャツの下にジワリと汗が滲んでいるのが解る。体を冷やさない内に、家に帰った方が良さそうだ。


(体育会系と相容れないわ、と思っていたけど、結構…)


周囲が騒ぐだけでスポーツなんか興味も無かったけれど、こんな風に楽しむのはアリだ。

スポーツは良いもんだな、と私は思いながらも…いつの間にか、また走っていた。


(あ…折角だから、サイン貰っておけば良かったかも…。)





 ― 次の日 ―





朝のニュースを聞き流しながら、私は朝食を作っていた。

私は、通勤に使う電車が止まるとか、事件が遭って通行出来ない等の情報しか求めていない。

どの俳優が今夜のドラマの見所を喋ったり、アルバムの曲紹介や、俳優女優のスキャンダルなんか興味は無い。


『さあさあ!今度は、岬マリアさんの続報ですよ!では、VTR・ぎゅっとして☆』


(しねーよ。)


・・・女子アナがぶりっ子して言うフレーズ程、耳に残りイラつくモノは無い。

女子アナが内心言いたくないのに仕事だから、と思っていれば良いのだが、こういう台詞こそ自分じゃないと言えない、と勘違いしていたら目も当てられない。


(あ、マリアさんだ。)


画面の中の岬マリアは、やはりギラギラとした目で戦っていた。

走っている時のマリアさんとは、また違って見える。楽しさよりも勝負に対する執念のようなものが見える。

実際会って話したせいだろうか、それとも彼女の”何か”に気付けたせいだろうか…。

ただ、殴りあう事が仕事の女性、とは見えなくなっていた。




画面に映るマリアさんのハイキックを見ながら、その表情を私は観察していた。

相手の隙を捉えた瞬間、体が反応し、そして当たると同時に表情が綻んでいる。

この人は、根っからの戦う事が好きな人なのだろう。


『もう一度、ご覧下さい!男性顔負けの、このキック!!』


男女は関係ない。彼女が、ただ強いのだ。

まるで、男性と渡り合っている普通じゃない女がココにいますよ!とでも言われているみたいだ。


『しかし、そんな岬マリア選手の意外な素顔が…』


その後、TVから流れてくる情報は彼女の戦いのスタイルより、マリアさんの美貌やファッションスタイル、何を食べたらそのスタイル維持できますか?等(運動してるからに決まってるだろうに)

それでいて、彼氏がいて尻に敷いているといった…そういう私生活の情報ばかりだった。


彼女の出る大会を盛り上げる為には必要な事なのだろうが…なんだか、本当に格闘技が好きな人にはうざったい情報ばかりだ。

格闘技の選手なのに、格闘技そっちのけの表面的な情報ばかりで、彼女の魅力というより素人が1日会って彼女の生活を見たまま、まとめただけ、と言った印象を受けた。


一緒に走った素人の私ですら、彼女のスタミナや脚力には驚かされた位なのに。何故そこを取材しない?

岬マリアがどれだけのロードワークをこなし続け、その肉体を維持し、センスを磨き、技を繰り出すのかをどうして…

いや…それは、それこそ素人の浅知恵だろう。


マスコミのプロがやってるんだし、アレはアレで意味があるんだろう、多分。

単に私が考えすぎなだけだ。


ジャムを塗りながら考えている間に、彼女の私生活を映したVTRが別のVTRに切り替わろうとしていた。


『・・・さあ、そんな岬マリアさんの対戦相手が、とうとう決定しました!!』


食パンを齧って、コーンスープを口に運ぼうとした瞬間。

私は口を開けたまま、テレビの前で静止した。


小柄な体型で、金髪。胸に堂々と”アイラブ野武士”と書かれたダサいTシャツ。


それらには、見覚えがあった。


『私、ジャスミンでーす!』


陽気にマスコミのカメラに手を振っていたのは、なんと・・・私の妹(非公認)だった・・・!

チョロチョロとたまに出てきただけのクセに!!


「な、何やってんだ!?アイツ!!」


妹(非公認)は岬マリアと張り合えそうな逞しい腕を取材陣に見せた。

前に会った時、妹(非公認)の腕は長袖で隠れていたのだ。


『日本で一番強い奴に会いに来ま〜した!尋常に勝負〜!』


しかも、めちゃめちゃ日本語上達してる…!アグネ○チャンですら、まだカタコトなのに…!!


『…ええっと…後は…』


進行役の女性の声が少し戸惑っていた。

そりゃ、そうだ…と思っていたが、妹(非公認)の他にも大問題が控えていた。


「・・・あれ?なんだ?アレ・・・!」


妹(非公認)の隣に…ドンキ○ーテのビニール袋をかぶった…”エプロン姿のオバサン”がいるのだ。


何?アレ…!不審者?あんな堂々と!?

あの存在は無視しようとしても、なかなか出来るもんじゃない。

そこの袋を被っている人は関係者ですか?って話を振るのも勇気がいる。


『あ、ソーリー!はいッ!自己紹介!』


妹(非公認)が無駄に元気よく、自分が持っていたマイクを隣のド○キ袋を被ったオバさんに渡した。

すると、ガサガサ音をさせながらオバサンは喋った。

よく見れば二枚も被ってる…空気穴も空いてる…だったら最初から被らなきゃ良いじゃない!それこそドン○でマスク買って来いよッ!!



『(ガサガサ)…そして私が(ガサガサ)ジャスミンの(ガサガサ)トレーナーの”ゴッドマザー水島”です!』



「・・・ッ!!」



その声を聞いて、私は確信した。


あれは・・・




「お・・・お母さああああああああああん!?!?!?」





パンを皿に置いて、私はテレビに向かって叫んだ。

実母がついにテレビ出演…!

父との離婚を考え直し、実家に帰ったんじゃないのか!?父と実家はどうなっているのか…!?


(や、やっぱり…一回実家に帰っておけば良かった…!!)


開いた口が塞がらないまま、私はオロオロした。


ゴッドマザー水島って…!ドン○の袋を被ってゴッドって…!ほとんどガサガサ音だし!!しかも、本名混じってるじゃんッ!!!!


そして、袋を被ったままの母からマイクを強奪したのは…


『え…えーと…広報担当の火鳥です。では、質問はジャスミン選手と試合に関する事のみとし、手短にお願いいたします。』


「火鳥…!」


・・・ねえ・・・世間って、どれだけ狭いの・・・?

私は、自分自身の人間関係を呪いたくなってきた・・・あ、既に呪われてるんだった!


『え、えーと…読めきれん新聞の田所です。あの、岬マリア選手との対戦にあたって、何か特別なトレーニングは?』

『トレーニング?今まで、ゴッドマザーと一緒に全国武者修行をしてきましたー!!』


ま、まさか…お母さんが実家を出て、行方不明になった理由って…ソレ!?


『はい…フリーダムTVの北島です。あの、じゃあ…具体的にどんなトレーニングを…出来れば、トレーナーのゴッドマザー?さんにお聞きしたいのですが…』


ふ、振ったー!あの袋オバサンに話を振ったーッ!やっぱり気になるんだ!!

やだああァ!!ウチのお母さんを見ないで!袋被ったお母さんを見ないで!!お願い見ないでえええええ!!!


『(ガサガサ)えー…(ガサガサ)まず、全国の秘宝館で…』

『はいはいはい!すみません!会見は以上とさせていただきます!!』



火鳥が手をパンパン叩きながら、会見を打ち切った。

ナイス!ナイスだ!火鳥!!ナイスッ!!でも、秘宝館で何したんだ!?あのババア!!



『ちょっと!短すぎるでしょ!』『質問させてくださーい!!』

『今後、取材は広報のワタシを通してください!』


火鳥は強い口調でマスコミを押しのけ、強引に会見は終了させた。

私は、火鳥の仕事に対する技量を心の底から賛美した。(…しかし、火鳥は何の仕事してるんだろうか…。)


『…とまあ、対戦相手のジャスミン選手と隣のゴッドマザー水沼さんに関しては、謎に包まれたままなのですが、一体どんな試合になるのか!?期待は高まる一方ですね!』


(私は気が気じゃなくなった…!)


『続いては、ゾヴィ夫人の一日体験のコーナーです!今日は、秋葉原のメイド喫茶を体験してくれます!』

『アタクシ、あの〜…メイドを雇う方だからァ…あら、コレなあに?オムライスにケチャップで絵を?嫌だわァこんなにケチャップかけたらしょっぱいじゃなァい!あァた!』



もうテレビのワンコーナーすら、耳に入らない…!

どうする…!?テレビのイベントに母が関わっている…!

止めるべきか…!?いや、今すぐ止めるべきだろう!!


火鳥に連絡を取らなくては…そして母を説得しよう!説得できないなら、せめてちゃんとしたマスクを被らせよう…!!

携帯を取り出し、火鳥に電話をかけたが全く繋がらなかった。仕方が無いので時間を置いて、またかけるしかない。


もう家を出なければ、と思いリモコンを持ち上げた瞬間。


『えーここで訂正です。

先程お伝えしました特集の中で、トレーナーのゴッドマザー水沼さん、とご紹介しましたが、正しくはゴッドマザー水島さんでした。

訂正して、お詫びいたします。』



「どおおおおおおおおでもいいいいいいいいいいいいいいいいいいわああああああああああああ!!」




その後、私は会社に着くまで、ずっと母をどう止めるかを考え続けていた。



会社に着くまで、一体何回溜息をついただろうか…。

○ンキの袋を被った母親。母親のあんな姿を公共電波で…地デジで見る羽目になるとは…!!


悶々としながら正面玄関を通過し、エスカレーターに乗る。


すると、前にいるスーツ姿の男達の楽しそうな会話が聞こえた。


「あ、そうだ。おい、聞いたか?ウチ、岬マリアのスポンサーなんだとさ。」

「あァーだから最近、妙にお得意様に岬マリアのグッズ配らされるの、そのせいなんだァ。」

「自分用に一つはとって置けよ?後でネットオークションで高値つくかもしれないぜ。」

「何言ってるんだ。試合の日は、俺達はせっせとお仕事だぜ。」


岬マリアの話を聞くと、自動的に母のドン○袋が目に浮かんだ。

やめてくれ…その話題は、今はやめてくれ…!


「女の殴り合いに興味はねぇ〜よ。日頃から、言葉で殴り合ってるじゃねえか。」

「言えてる言えてる。そういう女と関わるのはゴメンだって黙ってたら”草食男子はこれだからダメよね”って言うんだぜ?」

「それは雑食女の台詞だろ。それが俺達の財産、精神、人生設計を喰ってくんだよ。俺達はその財産をせっせと稼ぐだ〜け〜。」

「あ〜あ俺の彼女もリングで戦ってリングマネーで回らない寿司奢ってくれねーかなァ!!」


会話を聞いているだけで、私の心中は天地がひっくり返ったような大騒ぎだった。

私の頭の中にあるのは、女がファイトマネーとか、草食男と雑食女の戦いとか、そんなものよりも…ド○キの袋を被った実母だ!!

今、ド○キより私の頭の方がジャングルなのだ…ってくだらない事言ってる場合じゃないんだよッ!!



「・・・さん?水…さん。…水島先輩!」

「はっ!?」


門倉さんに肩を掴まれ、私はハッと気付き止まった。


「更衣室スルーして、どこ行くんですか?もうすぐ始業ですよ!」


心配そうな顔で私を見てくる門倉さんに、私はやっとの思いで答えた。


「あ、すみません…ちょっと考え事してて…」

「…何か、あったんですか?」


何も知らない門倉さんは、真剣な表情で聞いてくる。

愚痴として吐けてしまえるのなら、一瞬は楽になるだろう。だが、吐いた後の事に自分が耐えられそうも無い。


何かあったなんてもんじゃないんだ。


実の母が謎の妹を引き連れて、ドンキ○ーテの黄色い袋を被ってゴッドマザー水島と称し、格闘技界に進出しようとしている、だなんて言えるものか!!



「…いえ、別に…。何かあったというか…もう失ってしまった、というか…いや、やっぱりなんでもないです。すみません!」


「あ…水島さん!」


パートに行くギリギリまで家で待ち、必ず私を出迎えてくれたあの優しい母は…いなくなってしまったのだ…!別の意味で!


着替えてからも私は上の空だった。


制服のボタンは掛け違え、らしくもないミスで仕事は進まなかった。

頭の隅にちらつくのは、ド○キの歌だ。


私は書類をコピーしようと席を立った。コピー機の傍には門倉さんがいた。


「あ、水島先輩…使います?」

「いえ、お先にどうぞ。急ぎませんから。」


順番は守る主義だ。


「ありがとうございます。じゃあ………あれ?」

門倉さんがスイッチを押すが、コピー機は”ピピピピピ”と警告音しか鳴らさない。

「あれ?紙切れ…でも無いし…。」

私が隣からコピー機のパネルを覗き込むと”印刷エラー”と表示されていた。


「どうしよう!私、壊しちゃったんですかね?…業者さん呼ばないと…ああ、でもそうなるとまた…!」


門倉さんは覚えていた。

以前、コピー機が”ピピピピピ”としか鳴かなくなり、動かなくなった。

男性社員がアレやコレやと弄繰り回した挙句、”ピピピピピ”とも鳴かなくなり沈黙した頃、業者が到着した。

仕事が進まず、別の課のコピー機を借り、こんな事になったのは誰のせいかと犯人をネチネチ愚痴り、事務課の空気は最悪なモノになった挙句・・・。

そのコピー機は二度と起動する事なく…新しいコピー機に変わっていたのだった。


社員が定時を迎え帰っていく中、私は相変わらず先輩から仕事を押し付けられ残り、事務課には業者のおじさんと私だけになった。

私は業者さんにお茶を出した。コピー機は直りそうも無い、と業者は溜息をついて苦笑いを浮かべていた。

興味があったので、そもそも動かなくなった原因は?と聞いてみた。


業者のおじさんは”女性なのに聞きたいの?”と言った。機械が苦手な女性が聞いても意味がないと言いたげに。

だから、私は答えた。

また同じような事があった時、対処するのも仕事だと思うので、と。


「いや、業者さんを呼ぶ前に…確かめたい事があります。」


一応、中を見てみようと私がコピー機の中を見ていると、いつの間にか、後ろに先輩OLが立っていた。



「ちょっと、何してんの?」

「あ、すみません!涌谷先輩!なんか、コピー機が動かなくって…」


門倉さんが咄嗟に謝る。

コピー機から熱を感じない。彼女が使う前からコピー機はこうなっていた筈だ。


「あーいいのいいの。前もあったじゃない。門倉ちゃん、こういうのはさァ前みたいに下手な奴がぐちゃぐちゃ弄るより、業者に任せた方が早いって。」


門倉さんに話しかけているようでいて、私に対しての警告もしている。

ふと、私は、コピー機の奥に紙切れが挟まっているのを見つけた。


やはり原因はコレだろうな、と思い、指を伸ばす。


「あのさ、水島さァん?業者呼ぶからさ、下手にいじらないでくれる?アンタだと壊しちゃうからァ!」


相変わらず、キツイ物言いだな、と私は思った。

それにしても、人をこき下ろすにしては火鳥よりボキャブラリーが少ない。

「…あ、はい。」


私は返事をしながら、指で紙きれを挟んだ。

とりあえず、これを抜いてみてコピー出来れば万々歳だが…。


「…返事しておいて、いつまで頭突っ込んでんのよ!いじるなって言ってるでしょ!?」


先輩OLがイライラの頂点に達したのか、ぺしっと私の背中を叩いた。

新入社員の頃は、このスピード噴火が怖かった。

ミスを見つけられたら噴火、謝ったら大噴火、何をしても噴火。

噴火から大噴火に発展するまでの時間が短いのだ。故に、会話をしたら噴火を覚悟しておく必要があった。


「あ、あの…涌谷先輩…水島先輩、もしかしたら機械強いのかも…。」

「はァ?」

「あ…」

無理はしないでいい、門倉さん。勝手に噴火するんだから。


「…あのさァ、素人がコピー機弄くりまくって壊したの忘れたァ?水島ァ!」


私は、それでも紙切れをグイグイ引っ張った。

業者を呼ぶ、とは簡単に言うが…素人でも出来る確認すらしないで業者を呼ぶなんて、ただの面倒臭がりだ。

呼ばれたら行くのも業者の仕事でありサービスだ、と言ってしまえばそれで終わりなのだが、私はそんな事したくなかった。

だって、コレが取れたら直るかもしれないのだし。


「・・・だから!話聞けよッ!」


先程より強く背中を叩かれた。


しかし、背中を叩かれた瞬間、コピー機に挟まった紙の一部が千切れた。

残ったままの紙を指でくいっと引っ張ると、ボソボソとなった紙がボロボロと取れた。

一体何の紙が詰まっていたのか見ると、さっきまで使用していた人物がコピーしていたであろう…”グルメ雑誌の記事”の一部分が印刷されていた。



(・・・どいつもこいつも・・・!)


「あの、コレが中に挟まって…」


コピー機の不調の原因である紙を二人に見せるや否や、先輩OLは私の肩を小突いた。


「そんなの聞いてないから。ていうか、余計な真似するなって言ったよね?」


貴女の言う事を聞いてコピー機が直るとは思えない、とは言わずに、私はこう言ってみた。


「でも、これで直るかもしれませんし…」


コピー機のスイッチを押そうとした私の手をパシンと払って、先輩OLは怒った。



「そんな事どうでもいいの!私は、アンタに余計な事をするなって言ってるのよ!

わっかんねえ奴だなァ!だから、いつまでたってもオメーはダメなんだよッ!」




その瞬間、私の中の何かが切れた。

コピー機と何の関係があるのかわからないが、私は社内で”ダメ”と思われていたのか。


”いつまでもダメだと?何も知らない、わからない、知ろうともしない、赤の他人が好き勝手言いやがって。”


冷静な時の私なら、そういう考え方や対応をする他人がいるのは当たり前だと思っていた。


「涌谷先輩!や、やめてくだ…」


しかし、今の私は…冷静な私じゃなかった。

ダメだと言われて、真っ先に思い浮かんだのは、あんな馬鹿な真似をしている母親を止められなかった…ダメな娘の私だったのだ。


「わっかんねえのはテメエだろうが!」




「「!!」」


「紙が挟まってんだよッ!詰まってんだよ!さっきコピー機を使った奴がそのままにしてたんだろうがッ!

取れば動くかもしれないじゃない!業者呼ぶにも手間と金がかかるんだよ!

少しは自分でなんとかしようと思えよ!わかんないなら、理解しようとしろよ!

ホラ、見て下さいよ!紙切れだよ!この紙切れが挟まってたの!

見て御覧なさいよ!コレ!誰がさっきコピーしたのかが分かるわ!

”美味しくて綺麗になれるコラーゲングルメ”!この雑誌を印刷しようとした奴だよッ!私的利用だよ!

ホラ!見ろよッ!怒るならッ!叩くならッ!ソイツにしろよッ!!!」


私が一気にまくしたて、バンッとコピー機を叩いた瞬間、コピー機はウィーンと動き出した。


先輩OLは黙って私を見ていた。

私は先輩OLを睨み返した。



断っておくが、先輩OLは決して、普段滅多に怒らない私に恐怖を感じた訳ではない。



そんなアニメみたいな事、現実では怒らないのだ。怒ってみたからと言って、他人に恐怖を植え付けるのは難しい。

普通の人が怒っても所詮は”普通”なのだ。


「……お前、ココで仕事出来ないようにしてやるから…!」


先輩OLは私を睨みつけると、巣へ戻り、私の暴言を仲間に知らせた。

私はコピー機に向き直り、さっき自分が叩いた場所を撫でた。


(…あーあ…機械に当たるようになったら、最低よね…。)


殴るべきは、先輩OLだったな、と思った。

いや、やったらきっと…キーキー叫んで警察を呼ばれるだろう。


「み、水島先輩…!」

「門倉さん」



”マズイですよ”とでも言いたそうなテンションで話しかけてくる門倉さんに向かって私は言った。


「使えますよ、コピー機。」


「なんか…いつもの水島先輩じゃないみたい、ですね…。」

「…そうですか?」


イラついているのに加えて、喧嘩を売られたのだ。

それに以前の私は、他人と言い争ったりはしなかったし、それが正しいと思っていた。


「いつもの水島先輩は…やり返してもいいのに、あえて先輩達に立ち向かわないで、事を収めちゃうじゃないですか…。」


私はやんわりと否定した。


「…それは、違いますよ。やり返さなかったんじゃないです。やり返せなかったんです。ただ、気が弱かったんです。

時には、ハッキリ言わなければならない事があるのと同じように。

他人に対して、攻撃をしなくてはならない時だってあるんです。」


「…いいえ。いいえ!本来の水島先輩なら…”攻撃しなくてはならない”なんて言いませんよ…ッ!どうしちゃったんですか!?」


”本来の私”だって?

私は、思わず聞いた。


「・・・貴女が、私の何を知ってるんです?」


そう言い終った後、私はハッとした。

好意を向けてくれている味方に対して言うべき言葉じゃない、と。


気付いた時には、もう既に遅く・・・。


門倉さんは、目にいっぱい涙を溜めていた。


「なんか、私・・・余計な事・・・ご、ごめん・・・なさい・・・ッ!」



そして、私が声を掛ける前に走って行った。



事務課のオフィスからは、門倉さんを見た先輩OLが”ホラね?あたしの言ったとおりだったでしょ?”と叫び、正義はこちらにある、と宣言した。

これで完全に…事務課の悪者は私になった。


(もう、どうでもいいや。好きにしろ!)


心の中で悪態をついて、私は…すごく虚しくなった。


その日、刺すような視線の中で私は仕事をした。

最近言われなくなった、聞こえるような陰口をバンバン聞いた。




『ちょっと!聞いて聞いて!水島さん、涌谷さんを口汚く罵ったらしいわよ!』

『”コピー機くらい直せるだろ!”って言ったらしいわよ!あの根暗!ブチ切れ!』

『いや、ぶっちゃけ無理よね〜?コミュ障女だから、機械とお話出来るんでしょ?一緒にしないで欲しいわ。』

『かわいそうに、門倉ちゃんまで水島に泣かされてさぁ。あの子、水島の事、よくかばってやってたのにね。』

『やっぱり見ての通りよ。性格悪いから、友達いないし、一人ぼっちなのよ。』

『何が楽しみで生きてんだろね?人と関わりたくないならさ、山の中に篭ってろよって感じ。関わってやってるコッチがいい迷惑だわ。』

『”人嫌い”なんて格好つけてるつもりでも、ただの人と関われない奴の言い訳だもんね〜。』

『大体、ダッサいのよ。25歳にもなって、スーツにスニーカーよ?ランナーかって感じ。』



私を見る、あの目、あの笑い、あの悪態…いつ見ても嫌なものだ。

女難とはまた違う…嫌なものだ。



お母さんがドン・キ○ーテの袋被って、私の妹を名乗る怪しい外国人と一緒にTVに出ていた。

コピー機を直していたら、会社のよく怒る先輩に怒られた。

事務課の女子社員全員からの攻撃が、しばらく沈静化していた私への攻撃が・・・再び開始された。


(とにかく、もう・・・仕事を終わらせたら、火鳥と連絡を・・・)


相変わらず、火鳥は電話に出ない。

考え事をしていると、”ドン”っと背中に何かがぶつかった。

机の上、机の周りに書類やファイルが散らばる。

処理済み、未処理のモノ、全て・・・ごちゃ混ぜだ。

私が振り向くと、涌谷さんが私の目の前で、持っていたファイルをぱっと手放し、私の足先に落とした。


「あ、ごめんねー。あと、コレ、貴女の仕事だから。」


―― 喧嘩を売られている。


だけど、買ったら負けだ。

立ち上がって目の前の女を見る。

口を開いたら、すぐにでも罵詈雑言を吐いてしまいそうだった。



「・・・わ、かりました・・・。」


耐えた。

なんとか、耐えた。


なんで、こんなに体が熱い?

腹が立っているだけか?


どうにもこうにも、目の前の人間を張り倒したくて仕方が無い。

何も知らない、この別次元を生きる女に知らしめてやりたい。


例えば・・・。



・・・コイツの人間関係の縁を全て切ってしまうのは・・・どうだろう?

私は目に力を入れる。

涌谷先輩の人間関係がクッキリと見えた。友達…細くて弱い繋がりだけど、数だけは多い。

強いのは2本くらい、かな…緑色だから…家族、かも。

赤い紐も何本かあるけど…細いし、黒くなりかけてる…多分、モメてるなぁ…



(・・・・・・コレ、全部・・・切っちゃおうかなぁ…)



明日から、コイツは強制的に一人ぼっちにしてやれば、少しは私の・・・



(・・・待て。落ち着け。)


私の理性が、私の中に溢れ出ている感情に呼びかけ、止める。



 そんな事をして、そんなモノを知ったとして、目の前の人間が、私の気持ちを察する事は無い。

 他人同士、簡単に理解し合えるものではない。


 大体、この人には・・・入社直後から私をいびり倒してきた、この人には・・・




 コイツには、私を知って欲しくも無い…ッ!




最近、私に優しくしてくれる人や私への好意を示してくれる人との関わりが多すぎたのだ。

こんなに敵意と悪意丸出しの人間に対して、こんなにもムキになって、流せないなんて…!

前の私だったら、もっと上手く…かわせてた…!


私はしゃがみ、落ちたファイルに手を伸ばす。

すると、ダンッと足がファイルを踏んづけた。


「…ホンット、アンタって…暗いし、使えないし、笑いもしない。入社当時から、まるで変わってない。社会人失格よね。自分でも思わない?」

「・・・・・・」


私は無言で踏まれたままのファイルをぐっと引っ張る。

足で踏まれたままのファイルは動かない。


「…足をどけて下さい…。」

私がそう言うと、涌谷先輩は声を張り上げて言った。


「あぁ?声小さくって聞こえませ〜ん。」


クスクスという笑い声が聞こえた。

ああ、なんか・・・どっかで見た事あるような典型的なイジメの風景だなぁ…と私は他人事のように考えていた。



「どうしたら、アンタみたいなのに…企画課の女課長や秘書課のお人形や会長の孫が寄ってくるのかしらね?

そういえばぁ・・・あの3人、レズかもしれないって噂聞いたんだけどさぁ・・・。」


涌谷先輩はしゃがんで私に小さく言った。




「ねえ・・・もしかして、アンタが”女を教えた”んじゃないの?そんなに良いモンなの?女同士の擬似恋愛と擬似セックスって。」




嘲笑が混じったその言葉に、私は思わず言葉を発した人物を睨みつけると同時に、こう思った。




 ―――― あ、ダメだ。我慢できない。




そう思った瞬間、私は紐を掴んでいた。

とりあえず、今掴んでいる縁の紐を切れば、先輩の事務課での人間関係は無茶苦茶に出来る。


コレ、全部引き千切って…

引っ張ると、ギチギチという音が聞こえた。


更に力を込めれば、そろそろ切れ・・・




「あ、あのッ!私ッ手伝いますねッ!!」




門倉さんが私の隣にしゃがみ、ファイルを拾い始めた。

彼女が必死にこの場を取り繕おうとしているのが、丸分かりで…。

私は、思わず紐から手を離した。



「・・・ありがとう、ございます・・・。」


「どれ、僕も手伝おうかな…。」


その言葉と共に、にゅっと血色の悪い手が伸びてきた。


「「た、高橋課長!?」」

「うん、僕だよ。」


そう言って、”事務課の仙人”こと、高橋課長はファイルを拾った。

ま、また気配が・・・まるで感じられなかった!


「うん、あとねぇ…社会人なんだから…悪気があったにせよ、なかったにせよだね…もう少し考えて、人にモノを言うべきだよ?」


高橋課長の言葉に、涌谷先輩は答えず、自分も散らばった書類を集め出した。

さすがに目上の人を見下ろすのは失礼だと気が付いたようだ。


書類を集め終わると、涌谷先輩は書類を当然のように、私の机にドンっと置いた。

・・・今日も残業確定か、と思った瞬間。


「水島君、今日は早めに上がりなさい。顔色が悪い。」

高橋課長はそう言って、書類を持ち上げた。


「・・・え?」

私は思わず高橋課長を見た。


「今日は空気も悪い。急ぎの処理は無いのは分かっているんだ、定時であがりたまえ。」


それは、まるで…私を事務課から隔離する、という意味に聞こえた。

そうじゃなければ、定時で帰れなんて言われる訳が無い。

空気を悪くしたのは、私で…もう少し考えて人にモノを言うべき人間も・・・私って事?


「え・・・いや・・・でも!」

「水島君、事務課の人間は、君一人だけじゃないんだよ?」


決定打だ。

私一人いなくても、事務課は成り立つ…と。


「あ・・・はい・・・。」


私は素直に引っ込んだ。


「疲れは、早めに取っておくに限る。今日は、ゆっくり休むんだ。」


別に疲れてなんかいない。

必要ないって言われているみたいで、私は正直へこんだ。




5時になり、ロッカーで着替えながら、私は今日一日の反省をした。


(らしくない…らしくないぞ…。)


動揺している上、落ち着いている訳でもなかった私は、会社の人に向かって感情を出してしまった。

いつもなら流せる出来事に、私は反応してしまった。


しかも・・・顔見知りの縁を、自分の感情で変えようとしたのだ・・・。

自分の腹いせの為に他人の縁を・・・呪われてもいない、健全な縁を切ろうとしたのだ・・・ッ!



正直、そんな自分自身に呆れ、落ち込んだ。



更衣室のロッカーの前にゴミ箱とゴミを撒き散らされ、ロッカーのネームプレートは割られていた。


(やる事が…陰湿かつ小さい…。)


だが、やられる方に微妙なダメージと苛立ちを与える。

これを連日やられると、段々自分が本当に悪かったんじゃないか、と思い始める。


(そんな事は無い、と言ってくれる味方は・・・いない、だろうな・・・。)




「・・・・・・ああ・・・走りてぇ・・・・・・。」





独り言を呟いて、私は退社した。




火鳥に電話するよりも先に・・・頭の中を空っぽにしたい。

そう願うように、私は走り始めた。


やるせない気持ちを払拭させるべく、私は走った。

ただ、ただ、スッキリしたくて。走っている時、頭の中が空っぽになれる気がして。

これもある意味、逃避なのだろう。




「どうも!今日は、すごく早いわね!」



「あ・・・!?」



いつの間にか、岬マリアさんが横にいた。

私は、またあの公園の中を走っていたのか、と気付いた。

すぐに私は、後ろを振り向いたが、今日は邦彦さんがいない。


「…あ、邦彦?筋肉痛だってさ〜。」


茶化すようにマリアさんは言った。

相変わらず、目を輝かせながら走っている所は犬みたいだ。


「そう、ですか…。」


今の私には、眩しい存在。


「有名人なんだから、一人で走るなって言われてるんだけどねぇ〜…ダメよ。こうやって走らないと、一日が締まらないんだもの。

で、貴女なら走ってるかもって期待して来てみたら…」


そう言って、私を見てニッコリ笑った。


「…ええ、いました。確かに。」


つられて私も笑った。


「ねえ、何か、あったでしょ?」



マリアさんが突然、そんな事を聞いてきた。



「……ええ、色々ありましたし、色々失くしました!!」



質問の答えは驚く位スラッと私の口から出た。


「…そう、そんな日もあるわよッ!」



シンプルかつ、適当な発言にも聞こえるが…シンプルだからこそ、受け取り手の考え込みやすい私には、物凄く深くまでその言葉は入っていったのだ。


そして、マリアさんは、それ以上…私に何かあったのか聞かなかった。




・・・それが、とてもありがたかった。




「ねえ!思いっきり走ろう?イケるでしょ?」とマリアさんは爽やかに誘い、私はその誘いに乗った。




その頃、私のバッグの中にある携帯電話に留守番電話メッセージが入っていた。




 『もしもし、アタシ。昼間…随分電話くれたみたいだけど、忙しかったのよ。…どっかの馬鹿家族のせいでね!

 だから、アンタの用件は分かってるわ。それより…気を付けなさいよ?

 アンタ…岬マリアと一緒にいるでしょ?そいつ…』




留守番電話サービスの録音時間は、もう少し長くすべきだ。大事な話の起承転結は秒単位で収まるものじゃない。私は、つくづくそう思う。




留守番メッセージを聞く事無く、私は岬マリアと走っていた。


無言で夜の公園を疾走する女二人。

まだ冬の寒さが残る季節のせいか、公園には人の影は無い。


先日のランニングでは、岬マリアは楽しそうに笑って喋りながら走っていたのに、今日は無言だった。

もしかして、本気で走っているのかも、と私は思った。


やはり、岬マリアの足は速かった。

しかし、今日の私には”走りたい”という欲求があった。あるのと無いのとじゃ、全く違う。

私は今、それを実感していた。


走らなければいけない、という義務感が無いだけなのに、足は軽々と上がり、隣の格闘技の選手に喰らいつく勢いで走りこめるのだ。



『あのさ、水島さァん?業者呼ぶからさ、下手にいじらないでくれる?アンタだと壊しちゃうからァ!』


『そんな事どうでもいいの!私は、アンタに余計な事をするなって言ってるのよ!

わっかんねえ奴だなァ!だから、いつまでたってもオメーはダメなんだよッ!』


『……お前、ココで仕事出来ないようにしてやるから…!』




『…ホンット、アンタって…暗いし、使えないし、笑いもしない。入社当時から、まるで変わってない。社会人失格よね。自分でも思わない?』


入社した時から、あの先輩は事あるごとに私に突っかかってきたんだ。

涌谷…涌谷…下の名前、なんだったっけ?まあ、いいや。

あの人は、私のやる事なす事、全部気に入らないらしく自分の目の前に私がいたらとりあえず、ダメとかなんとか言い出して何かと絡んで来た。

うざったいなと内心思いつつ、私は黙って耐えていた。

ああいう相手と戦う事になれば、きっとどちらかが潰れるまでやり合わなければならない、と私は分かっているからだ。

しかし、今日のはさすがに頭に来た。



『どうしたら、アンタみたいなのに…企画課の女課長や秘書課のお人形や会長の孫が寄ってくるのかしらね?

そういえばぁ・・・あの3人、レズかもしれないって噂聞いたんだけどさぁ・・・。』



『ねえ・・・もしかして、アンタが”女を教えた”んじゃないの?そんなに良いモンなの?女同士の擬似恋愛と擬似セックスって。』




(だけど・・・だからって・・・私も・・・)



縁の力を使って、あの人の人間関係をズタズタにしてやろうって最悪な事を考えた。


(くっそ・・・!)


会社で色々あった鬱憤が今の私の原動力だ。

私は怒りに任せて走っていた。


昨日よりペースは早いし、岬マリアを気遣ってペースを落とそうなんて微塵も考えていない。


それでもスピードは互角。

いや、まだ岬マリアが手加減している可能性もある。

私は更にスピードを上げる。いつも、この位のスピードで体力を温存しつつ女難を振り切ってきた速度だ。

ルート選択などを考えなくて良いので、集中して走れる。それに今日は、特に何も考えたく無い気分だったし。



「っ…!今日は……凄いね…!」



岬さんがそれだけ言って私に笑いかけた後、真剣な横顔に戻った。


隣から僅かな対抗心のようなものを感じた。

女性から向けられる感情で良いモノなんか数少ないと感じる私にとって、それは良い方に分類されるものだった。


もしも彼女が彼氏がいない状態で、尚且つ私の女難になってしまったら…私は彼女から逃げ切れない上、瞬時に下に組み敷かれていただろう。

かといって、あの事務課のお局先輩よりずっと…ネチネチしてないし!妙な因縁つけないし!私に迫らないし!性格も素行も申し分ない良い人だ!



(ああ、今一緒にいる女性が岬マリアで良かったッ☆)



私の足は地面を踏む度に、軽くなっていくようだった。

顔のラインに沿って汗が二筋ほど流れた頃、私達はラストスパートをかけた。


”負けたくない”、というよりも”全力を尽くしたい”、という気持ちの方がが強かった。

私は、昔からそうだ。

勝ち負けを決めるとかチームへの貢献を考えるより、この結果で自分の気が済むか済まないか、の自己中心的な結果を求めているのだ。

そこに第3者の意見や批判、アドバイスなど一切を求めてはいないのだ。


結果は、またしても同着だったが、そこはどうでも良かった。

ただ、いつもより早く走れたような気がして、それが嬉しかった。

だからって勿論、腹の足しにもならないのだが、満足だった。


終わった瞬間に、私と岬さんは息を切らせながら笑っていた。



「いや〜今日はよく走ったわ!満足!ていうか、キツかった!」

「…私も…足、ガクガクです…!」


そう言いながらも、両者共に口元は笑ったままだ。


「今日の貴女…何か吹っ切りたいって感じしたけど?」


岬さんの勘は鋭い。しかし、台詞の中に”何かあったのか話してみて”という意味は無く、心底安心した。

先輩OLとのイザコザは今に始まった事ではない。今、愚痴を零したらきっと止まらない気がしたのだ。


「はは…。」

私は思わず苦笑してしまった。


「そっか。途中から吹っ切れた感じしてたね。抱えてる問題も解決が近いんじゃない?」

「そういうの、走り慣れているとわかるもんなんですか?」


「ん?あー…それは、どうだろう?でも、さっきの貴女の力強い走りなら出来そうじゃない?少なくとも、私はそう思うよ。」


岬さんはそう言うとまた笑った。

赤の他人からの解決する為のありがたい一言など無くていいのだ。

私には、問題解決のヒントや希望の道を少しだけ照らす光のようなキッカケで十分なのだ。



「貴女って、凄く意思が強そうだもの。」


褒められて悪い気はしないが、私は素直に喜べずにいた。

凄く意思が強かったら、今頃、呪いを解いているか、女難一人は片付けている筈だからだ。


「それは…買いかぶりすぎです。岬さんだって、人と真っ向から殴りあうとか色々強くなきゃ出来ないじゃないですか。」


私には出来ない。

殴る事はできても、殴り返される事を考えるとどうしてもソレを繰り返し行い、相手を叩き伏せて勝とうだなんて思えないのだ。


「それこそ、買いかぶりってもんだわ。人って案外弱いのよ。だから、強くなろうと鍛えるの。でも・・・ココは、鍛えようが無い。」


岬さんはそう言って、胸を指差した。

ああ、”心”は鍛えようが無いって事か。

でも、岬さんはそれも十分強いような気がする。


「そうなんですか?」

「強そうに見える?」

「・・・はい、すごく。」


私の答えに、岬さんは”そっか”と呟き少しだけ寂しそうに笑った。


「…そういえば、名前聞いてなかったわね。」


話を切り替え、岬さんはそう言った。

私は”そうでしたね”と言う代わりに、一回だけ頷いた。


「私は、水島です。」


くれぐれも下の名前は聞かないでくれよ、と思ったが岬さんはあっさりと了解してくれた。


「そう、じゃあ改めて…ヨロシクね!水島さん!」

「あ、よろしく。」


別に公園を一緒に二度走っただけで、これ以上何も無いって分かっているのに”よろしくお願いします”と社交辞令をかましあう辺り、私達は日本人だなと思う。


「ねえ、水島さん・・・良かったら・・・また、一緒に走ってくれる?

もうすぐ試合だからって、なんか私以外の人すごくピリピリしててさ…。」


そう・・・そういうものなのだ。

渦中の本人は、周囲程パニックを起こしている事はあまり無く、結構、あっけらかんとしている。

本人の抱えている問題や挑戦に対し、周囲が過剰反応する事ほど鬱陶しいモノは無い。


クリアの為の努力、苦痛及び苦労、そして結果は勿論本人のモノだ。そうであるべきだ。

それをただ応援するだけなら分かるが、それを”同じ日本人として、同じ女として応援すべきだ!”と過剰に騒ぎ立て、言い出しっぺの称号を得ようとする輩がいる。

今まで見向きもしないし、関心もなかったのに、急に”こうした方が良い”と口を出してくる輩も出てくる。

本人しか分かりえない世界、本人にしか立ち向かえない壁、それらを立ち向かえない他人は見守るしか出来ないのだ。



 要は ”放っておけ!引っ込んでろ!部外者!” だ。



しかし、岬さんみたいにメディアに顔が出てしまう有名人となってしまうと、迂闊な事は言えないだろう。

女優俳優、そういった個人ならばまだ世間に叩かれて終わるが、彼女の場合…自分の所属する女性格闘技界のイメージに関わるのだ。

安易に思った事を言ったり、大口を叩くパフォーマンスなんてやっても、ある程度好感度のある毒舌キャラじゃなければ、今の日本じゃ叩かれるだけだ。


単なるちょっとした一言に対し、只のツッコミだからという意識の下、悪口雑言が投げつけられる。

言われる方の気持ちを想像出来ない人間が、世の中にはいるのだ。

そう。それは、私が先輩OLにあーだこーだ言われるみたいにボコボコにされるのだ。


なんだか岬さんも周囲の人間関係に困っているようだ。

私は、岬さんの申し出を受け入れた。


「私で良ければ。あ、でも…仕事で遅くなる事がありますので、その時は…」

「あ、ううん!気にしないで!私、一緒に走ってくれるって言ってくれただけで嬉しいわ!」


そう言うと彼女は敬意を込めてなのか、なんなのかよくわからないが、私をしっかりと抱きしめた。


「うぇ!?」

「ちょっとだけ、こうさせて。」


アメリカのドラマでよく見る”ハグ”みたいな感じ。

驚く私を岬さんはぎゅーっと抱きしめ続ける。

その腕の力は強いというよりも、人恋しくて仕方が無かったようにも思えた。

今日は、邦彦さんがいなかったからかもしれない。

案外寂しがりやな所があるのか、と私は一人納得していた。


「…なんか、人の体温を久々に感じた…こんなにあったかいもんなのね。」

「え?」


小声で呟いていた岬さんに私が聞き返すと、岬さんはパッと離れた。

何故、今ハグを?という顔の私に向かって、岬さんはニコッと笑って言った。


「身体を近づけるのを日本人は極端に嫌がるけど、私は好き。」


「はあ…。」

(ああ、そうですか…)と心の中で思いながらも、岬さんの爽やか過ぎる笑顔にどうしてもツッコめなかった。

リアクションしにくい話題に私は、やはり苦笑いしか浮かべられなかった。

ホント体育会系の人って、口より身体が先に動くんだなぁ。

 ※注 偏見ですよ。



しかし。



その苦笑いが翌日・・・引きつり笑いに変わる事になろうとは、思いも寄らなかった私である・・・。







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 あとがき

次回もボリュームいっぱいでお送りします。