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横断歩道の向こう側に、彼女はいた。


青信号は点滅を開始し、私は疲れきった足に更に力を入れ、速度を上げて横断歩道に突っ込んでいった。



「しの…ッ」


横断歩道を渡り終えようとしている彼女の背中に声をかけるが、息切れして声が出ない。

掠れ切れそうな声を張り上げて、私は彼女の名前を叫んだ。



「忍さん!!」




私が名前を呼ぶと、彼女は両肩をぴょんと跳ね上げた。


そして、ゆっくりと私の方を見た。




(どうか…!)




唇が動く。



「・・・あ。」




どうか、彼女が私の名前を呼んでくれますように…!



私の事を、忘れていませんように…!!



逸る気持ちに突き動かされるように私は、忍さんの両腕を掴んでいた。


「忍さんッ!!」



自分がどんなに変態的な格好をして、表情が崩れまくっているのかも十分過ぎるほど知っている。

私がこうして、彼女を掴み、引き止める事で、どんなに彼女を困惑させ、迷惑をかけるのだとしても。

それを、隠して、押し殺してまで、忍さんを思いやれる程心の余裕が無い。

彼女が私を受け入れてくれるのを期待して、甘え続けるのは、ここまでだ。



だって。


彼女の名前を呼び、彼女をこちらに振り向かせなければ、彼女は…私を、忘れてしまうのだ。



「貴女・・・。」



「忍さんッ!…私ですッ!!」




私を、忘れないで欲しいから。


こんな私でも、貴女の視界の外に置かないで欲しい。




「まだ…覚えて、ますか…ッ!?」



息切れを起こしながらも、私は忍さんの目を見て話しかける。



忍さんは不思議そうに私の顔をまじまじと見ると、一言。



「誰?」






「――!!!」




呼吸が止まった。

ショックで止まった。


覚えてない…!?



終―了―。のホイッスルが脳内に響いた。


嗚呼、やはり私の好感度なんて、所詮この程度なのだ!

女難の呪いの効果で繋がれていただけで…



「…なんて事、今更言わないわよ。水島さん。」


そう言うと、忍さんは少女のように無邪気に笑った。


私は、ぽかんと開いた口をゆっくり閉じてから、非難の声を上げた。



「ンもうッッ!!ここまで来て、そういう冗談はやめて下さいよッ!!!」


あら、そう?という表情で忍さんは私の服を指差しながら言った。



「…冗談っぽいのは、水島さんの格好の方だと思うんだけど。」

「あ。」


ジャケットで隠れてはいるが、完全に痴女スタイルの私はハッと我に返った。


「あの、コレ(ジャケット)返しに来たんです…ていうか、先にウヌクロ行かせて下さい。」


小声で着替えの時間を要求するも、忍さんは冷静に言い返した。


「こんな早朝から開いてるとは思わないけど。」

「あ・・・あぁ・・・!」


絶望に打ちひしがれる私に忍さんは”困った人ね”と言いたげな表情で笑いながら言った。


「ねえ…少し先に車を停めてあるんだけど、乗る?」

「え。」


「私に話があるんでしょう?…私もあるから。」

「はい。」



忍さんは、後ろを歩こうとする私の手をそっと引いた。


黙って手を引かれたまま、子供のようについていく私。

忍さんの背中を見つめながら、この人が今どんな表情で私の手を握っているのかを考える。

ヒールからカツンカツンと音を鳴らしながら、朝の道路をゆっくりと進む忍さん。


私の指先を軽く握る彼女は、黙って歩いていた。


何も喋らないって事は、やっぱり私に対し怒っているのだろうか。

私から何か喋った方がいいだろうか。



『忍さん、全部、終わらせてきました。』という報告からしようか。


…しかし、その一言の後、一体私は忍さんに何を話す?

話した所で、その後どうする?


彼女にあんなに迷惑をかけ、泣かせて…。



(でも・・・)



彼女に会えてホッとしている自分がいる。

忘れられていなかった事にもホッとしている。


駐車場の奥から2番目の場所に忍さんの車が見えた。

以前はどこからどう見てもゴリゴリの高級車だったのに、彼女は今、白い軽自動車に乗っている。

確か、中古で買ったって言っていたっけ。

忍さんは、助手席のドアを開くと私に乗るように促した。


「どうぞ。」

「失礼します。」


車内は中古にしては綺麗で、タバコのニオイもしなかった。

すんすんとニオイを嗅ぐ私に、喫煙者の忍さんはクスクス笑いながら言った。


「私も一応ニオイは気にしてるのよ?車内でタバコは極力吸わないようにしてるの。」

「あ、し、失礼しました…。」


いいのよ、と忍さんはドアを閉めると運転席の方に回った。



・・・。


(なんでだろ…。)


落ち着かない。


忍さんの車には何度も乗った事はあるのに、妙にソワソワしてしまうのだろう。

癖、なのだろうか。

私の意識の底では、女性と一緒の空間にいるとロクでもない事になるってまだ思っているのか。



もう、忍さんは私の女難ではないのに。


それに祟り神は、この手で…。



「水島さん。」

「あ、はい!」


運転席に座った忍さんは、真剣な顔を向けた。

思わず私も表情を硬くして見つめ返してしまった。


私の目をジッと見ていた忍さんは、やがてふっと力を抜くように笑った。


「・・・なんだか、貴女を見てるとホント力が抜けちゃう。」



それは、どういう意味でしょうか。

意味合いによっては、私ツッコミ入れますけれども。


おそらく、そう言いたげな顔をしていたのだろう、忍さんは私の顔を見て、またクスクスと笑った。



「あ、変な意味に捉えないでね?でも、ホント貴女見てるとなんだか安心しちゃって。」



安心?

こんなに不安定な私を見て?

しかも、テープでT.M.●.の格好してますけど?


複雑な心境な私に向かって、忍さんは紙袋を私に差し出した。

中には、Tシャツが入っていた。


広げると、毛筆で 
”女殺し。” と書かれていた。


(忍さん・・・やっぱり怒ってるんじゃ・・・。)


それとなく悪意を感じるチョイスだ。


「あ、ごめんなさい。さっき●ンキホーテで買ってみたんだけど…ダメだったかしら?

実は、もう一枚あるんだけど…」


「はあ…。」


もう一枚には 
”一人大奥。”と書かれていた。


『一人大奥って、どういう意味だよ!』とツッコミを入れたい所なのだが

二枚とも微妙に自分に当てはまってるんじゃないか、という錯覚に包まれた私は、ツッコめないでいた。


(忍さん…これワザと選んでるか、Tシャツ選びのセンスが壊滅的に悪いか、どちらかだな…。)


「一枚はイマイチだけど、私、もう一枚の方が好きだわ。貴女にイメージぴったりだし。」

そう言って忍さんはニッコリ笑って二択を出してきた。


(・・・ああ、さては、後者だったか。ていうか、どっちか私のイメージで買ったって…。)


実に心外ではあるが、●.M.Rよりはマシだと思って、着るしかない。



2枚のTシャツを目の前に、私は・・・




 → 「女殺し」を選んで着た。


 → 「一人大奥」を選んで着た。