鬼、と呼ばれし者
〜5〜
「アクラム!?」
一瞬前まで沈黙が支配していた部屋で、あかねの声が甲高く響き渡った。
静まり返っていた、鬼の一族の隠れ家。
早々と帰ってきたアクラム以外、他の鬼はまだどこにもいないようだった。
「……っく…」
歯噛みの音と共に、カラン…という無機質な音が、室内に響いた。
仮面を落し、あらわになったその顔は、苦痛に歪み、
アクラムは、ただ一心に、肩口を抑えつづけている。
肩に当てた手に、うっすらと浮かんだ血を目にして、あかねは思わず血相を変えた。
「…ひどい怪我…!」
反射的に、患部の手当てを始めようとするあかねに、アクラムは思わず呆然としていた。
隣りにうずくまるアクラムを、張り巡らされた結界の中から限界まで身を乗り出し、
「……こんなに抑えちゃ駄目だよ…、あ、…血で服と傷口がくっついてる…早くとらなきゃ…」
息を切らしながら、アクラムの衣の肩口を剥ぎ取ったかと思うと、手際良く自らの服の裾あたりを裂き、血を拭い、止血し、患部より上部をきつく縛り上げる。
あかねの知る、最大限の応急処置方。
黙ってそれを受け、アクラムは不思議そうに、あかねを見つめた。
よくよく見ると、あかねの状態はひどいものだった。
疲労の滲んだ顔、やつれた体、すでに薄汚れ、着乱れた服。
一通りの手当てを終え、結界の中で、あかねはうずくまるように肩をついた。
どうやら、座っているだけでも、困難な状態らしい。
…だったら、尚のこと…、
「何故、こんなことをする?」
アクラムは、静かに問いかけた。
あかねは、さきほどの行動に疲れたのか、息を弾ませながら、弱々しい視線を向ける。
「だって、…目の前で怪我してる人…ほっとけないよ…」
蚊の鳴くような声で、あかねは言った。
「……愚かな…、この傷、先ほどお前の仲間を傷つけた時の返り討ちによるものと知ってか?」
あざ笑うように、アクラムは言った。
しかし、
あかねは、そんなアクラムを見つめ、微笑さえ見せながら、
「…分かってる、そんなこと…。 でもやっぱり…ほっとけない…」
意思の強い口調で、あかねは静かに言った。
あかねのそんな反応に、アクラムは戸惑いを隠せなかった。
…何故、
自分の仲間を傷つけた者と知りながら…、
今、自分の置かれた立場を知りながら…
何故この少女は、
こんなことをするのか、
こんな顔をするのか、
そして何故、
こんなにも、この少女に、心がかき乱されるのか。
気がつくと、アクラムのもう片方の手は、あかねの肩を触れていた。
「…何故だ…、何故、そんな顔でいられるのだ…、何故、この状況下で、私に情けをかける…」
途切れ途切れに、言うアクラムに、あかねはそっと瞳を向け、
「情けなんかかけてない…、私は、やりたいようにやってるだけ…」
弱々しい口調、しかしきっぱりと、あかねは言った。
「…私は…鬼…なのだぞ…」
蒼い瞳が、冷ややかにあかねを見据える。
「ちがう…、あなたは、人間だよ…」
ゆっくりと、そう言ったあかねに、アクラムの中で何かがはじけた。
「…えっ…?」
あかねの驚く声と共に、ドサッ…という物音が、静かに響き渡った。
「…お前は、何故、こうも私を惑わせる…、お前の何が、そうさせるのだ…」
突然覆い被さった大きな人影、目前に迫った、彫りの深い整った顔。
あかねは思わず呆然と硬直していると、
「……!?」
声を出すことも出来ぬまま、その口は、アクラムの唇によって塞がれていた。
突然のことに、あかねは思わず抗おうとするが、
元々、極限まで衰弱した体、怪我を負った相手でさえ、まるで抵抗が出来ない。
いや、それどころか、…抵抗しようともがくほど、ただでさえほころびた服がはだけていく。
顔をしかめ、それでも必死に抗うなか、あかねは何か不思議な感覚を味わっていた。
…始めてと言う気がしないのだ、アクラムに、こうされていることが…。
そう、いつだったか、夢うつつで、これに似た感触を覚えている。
あれは、確か…。
あかねの思考が、それた一瞬。
その瞬間だった。
轟音が、轟く。
今まで、壁があった場所から、風邪が吹き付けてくるのが分かる。
そして、
「神子殿!!」
同時に響いた声。
今まで、一度たりとも忘れたことは無い。
毎日のように夢に見た、その声。
そして、次から次へと、聞きなれた声が響く。
くる日もくる日も願いつづけた光景。
だが、
今だ離されぬ、唇。
両腕の拘束。
恐る恐る向けた瞳が交差した瞬間、
それは絶望へと変わった。
しばらくの間、
そこにいる八葉達は、皆、その事態を理解できなかった。
立ちすくみ、沈黙だけが続くなか、
アクラムは、ゆっくりと、あかねから、その唇を離した。
八葉一同…、いや、特に頼久は、
その光景に、愕然としていた。
ゆっくりと、身を起こす、鬼の首領。
はだけた服を静かに整えるその下には、
あまりにも、変わり果てた姿。
淡い桃色の髪は、すすけた灰のように艶を失い、
疲労が滲み、やつれきった顔、身体。
痛々しいまでに、ほころび、乱れた衣装。
そして何より、
今さっきの光景、
合わされた唇。
胸元までもあらわになっている、はだけた衣装。
そして、
彼女の、うつろな瞳。
全てが、信じられない、
いや、信じたくなかった。
小刻みに身を震わせる頼久に、あかねは愕然とした。
…何故?
その思いで、頭はいっぱいだった。
一番、見られたくはなかった人。
彼のそんな顔も、見たくはなかった。
瞬間的に、あかねは悟った。
頼久が、…いや、そこにいる八葉全員が、
今の自分を見て、想像したこと。
あかねを見る目が、痛々しさを増して行く。
…確かに、捕らえられ、色々つらい思いもした、
だけど。
今、皆が思うようなことは…。
あかねは、涙が出そうだった。
…そんな目で見ないで…。
反論したくても、声が出ない。
何故、こんなことになったのかも、まるでわからない。
大体どうして、アクラムは、自分にあんなことをしたのか…、
思考をめぐらせるなか、
あかねの意識は、次第に闇に落ちていった。
目を覚ますと、
そこは、見なれた光景だった。
すだれがかかり、びょうぶが置かれ、広々とした部屋からは、美しい庭が望める。
「…あ、…お目覚めですか? 神子様…」
聞きなれた、声がした。
ゆっくりと顔を向けると、
顔色が悪い、心配そうな表情の藤姫が、恐る恐るこちらを見つめていた。
「…ふじ…ひめ……? あれ…あたし……」
ゆっくりと、身を起こしながら、あかねは呟いた。
「…あれ? 八葉の皆は…」
「……あ……、その…、屋敷の警護にあたってますわ…」
目をそらし、藤姫はバツが悪そうに呟いた。
周囲を見渡すと、見えるのは女官ばかり。
なんとなく、あかねは分かった。
気を使われている。
そして、やはり、勘違いをされている…と。
ふと、あの時のことを思い出す。
「そういえば…アクラムは…」
その言葉に、一瞬、周りの空気が張り詰める。
「…申し訳ありません。 取り逃がした、とのことですわ…」
早口で述べ、藤姫は顔をそらした。
「そっか…」
呟きながら、ふと、唇に手をやる。
何も考えられぬまま、
涙がこぼれた。
どうして、こんなことになったのか。
…まだ、頼久さんとも、したことなかったな…。
あかねは、ふと、うつむく。
…ファースト…キス…か…
静かに思いながら、次々と涙が落ちた。
蘇る記憶は。
口中を蠢く異物感。
愕然とした、頼久の眼差し。
「神子様!」
藤姫の声が耳につく。
気がつくと、
あかねの意識は、そのまま闇へと落ちて行った。
「おい、あかね…どうした!」
「あかねちゃん…」
「神子…」
「神子殿…」
意識を失ったあかねの元に、次々と、八葉の面々が駆けつけていた。
どうやら、女官たちに言われ、隣室に控えていたらしい。
「気を失われただけですわ…。 無理もありません…この状態では…」
ほころび、乱れた衣装をまとい、やつれたあかねを見つめ、言葉を失う一同に、藤姫は静かに語った。
「…尋常では無いほどの穢れ…、それを、おそらく始終浴びつづけられていたのでしょう…。 それに、この様子では、お食事もご満足には…」
痛々しい表情を浮かべる藤姫の頭を、沈痛な面持ちで、友雅はぽんと撫でていた。
「後様態は安定されたので、御衣裳を変えて差し上げたいと思います。 恐れ入りますが、しばし退室を…」
しばらく、あかねの様態を説明した後、藤姫の言葉で、八葉は散り散りにその場を後にした。
再び、瞳を開けると、すでにあたりは闇に包まれていた。
閉じられた障子の向こう側に、かすかに行灯の灯りが揺れている。
あかねは、何度か瞬きを繰り返し、
ゆっくりと、身を起こした。
そして、
そのまま、あかねは膝を抱え、しばらくの間うずくまり、
頭の中で、今までのことを思い出していた。
思い出すのは、救出に皆が訪れた、あの瞬間。
そしてふと、
先ほど目覚めたときの、藤姫の対応、そして、八葉の表情を思い浮かべる。
「……ん…?」
思考をめぐらせるなか、ふと、あかねは障子の外側の、人影に気がついた。
「…あ、…気付かれちまったか…」
あかねの声に、気のない、天真の声が答えた。
「天真くん? …どうしたの、何か用なら、こっちへ…」
「…あ、いや…、今は、お前もあんまし野郎のツラなんて、見たくねーと思ってさ…。 具合、どうなんだ?」
わざとらしく、天真は言った。
そんな態度に、あかねはふぅと肩を付く。
「大丈夫だよ…、身体は…さずがにまいってるけど…それに、天真くんたちが思っているようなことは…」
「…いいって、無理に話さなくても…」
あかねの言葉を、天真は、急いで突き放した。
そんな天真の態度に、あかねはため息をもらし、
とりあえず、反論は信じてもらえなさそう、と肩を落した。
「それで、天真くんは、結局、何の用なの?」
「…あ、あぁ…それが、さ…」
いいずらそうに、天真は口篭もり、
「頼久の野郎が…」
「え…!?」
その名前に、あかねは思わず声を上げる。
そして、
助けに来た時の、彼の顔が、一瞬よぎり、あかねは一瞬身を震わせた。
「頼久さん…どんな状態なの…」
静かに、恐る恐る問うと、天真は、深いため息を漏らし、
「…ひでーもんさ。 …お前連れて帰ってからは、ほとんど半狂乱でさ…。 さっきやっと、友雅と泰明が抑えつけて、眠ったとこだ」
天真は、力なく言った。
その言葉に、あかねは思わず、自分の両腕を抱え込んだ。
「あいつ…、その、お前が…あんな目に合ってたの…、みんな自分のせいだって思ってるんだ。 …だから…」
そこまで言って、天真は静かに、障子の向こうで立ちあがった。
「…ごめんな…こんな時…お前も、つらいのにな……でも、悪いのは承知だ。 …あいつを、頼久を助けてやって欲しいんだ。 …お前じゃなきゃ、出来ないんだよ…」
天真の真剣な口調に、あかねは顔を上げた。
「……俺、あいつのあんな姿…、見てるだけで辛いんだ…」
ぽつりと言った天真の言葉は、後半は聞き取れぬほどかすれていた。
以前、頼久に聞いた、彼の過去が、思い出される。
守りたいものを守りきれなかった、その話を。
その思いを、
そんなつらい思いを、彼に、また、させてしまったのだろうか…。
あかねは、胸が締め付けられる思いだった。
「とりあえず、明日の朝まではぐっすりだって、泰明が言ってたから、……その、…頼む…」
そう言って天真は再び、その場に座り込んだ。
「…あ、俺のことは気にすんなよ、ただの見張り当番だからな」
静かに言い、
「…夜中に悪かった。 お前も早く寝ろよ…」
一言呟くと、天真はそれから、じっと沈黙した。
「…頼久さん…」
沈黙が落ちしばらくして、呟いたあかねの声は、静かに闇に溶けていった。
アンジェの某シリーズを書こうとしていたら、何故かガンガン書き進めていた、鬼シリーズ第五話です(爆)
…題して、「オオカミアクラム君と勘違い八葉の巻」
飛躍して思いこんだ八葉一同が、空回りしてる様が、書いてて何故かハマったりしてました。(笑)
ちなみに、最後のほうで天真が言ってる、(頼久を)友雅と泰明が抑えつけて…、というのは、実のところ、力で黙らせたが正解です(爆)
半狂乱頼久を止められるのって、あの二人くらいかなぁ、とか(笑)
ちなみに、頼久は今後も苦労の絶えない予定です(苦笑)