その夢の続き
〜1〜
「……わ……ぁ……」
古びた井戸から顔を出し、最初にあかねが呟いた言葉はそれだけだった。
耳につく都会の喧騒。
少しばかり蒸し暑い風。
くすんだ空の色。
京と比べると窮屈な空気が漂うその場所は、
やはり、自分の帰るべき場所であったと、強く強く感じていた。
そして、ふと振りかえると、
後から来た詩紋と天真、そしてランもまた、同じような表情をしていた。
そこでふと、あかねは訝しげに辺りを見まわした。
居ないのだ。
たしか、手を取り合い、共にその次元の狭間を通りぬけてきたはず。
あの異世界で、
あの夢の日々で、
想いを通じ、誓いを交わしたただ一人の相手。
生まれ育った地を捨て、共に来てくれる決断をしてくれた、その人が、
先程まで、すぐ隣にその存在を強く感じていたはず。
「…頼久さん?」
あかねは不安そうにその名を呼ぶ。
後ろに居た天真達もその声に気付き辺りをうかがっていた。
やはり、見当たらない。
不安でうろたえるあかねの肩に天真が思わず手をかけたその時。
「……お前達、ここで何をしている?」
声が、…聞きなれた声がした。
「…………頼久?」
天真は思わず訝しげに呟いた。
……顔、声、姿。
どれをとっても頼久その人。
だが、
その身には見なれぬ洋服をまとい、長く束ねていたはずの髪は、短く切りそろえられている。
「頼久…さん?」
あかねも、思わず呟いていた。
やはり、信じられないような顔をして。
「……何で、私の名前を知っているんだ?」
頼久はさも不思議そうにそう言った。
うろたえ、言葉を失っていた一同のなかで、ふいに詩紋が頼久に歩み寄る。
「……あの、あなたは本当に、源頼久さんなんですか?」
恐る恐る問うと、頼久はやはり不思議そうな顔をして、
「……みなもとの…? 私は、源 頼久と言う。 この近くに住んでいる者だ。 …おかしな音が聞こえて来てみたのだが…、結局、お前達はここで何をしていたんだ?」
さも当然の如く伸べる頼久に、あかねは頭がおかしくなりそうだった。
どこからどう見ても、頼久である。
見間違えるはずもないではないか。
それなのに、どうして…。
「あれ? もしかして、森村? あ、元宮も!」
離れたところから、見なれた制服姿の人影が叫んでいるのが聞こえてきた。
小走りでこちらへ来る、見覚えのある顔に、3人は反射的に少しだけ困った顔をした。
京に行ってから3ヶ月は過ぎている。
一体、どう弁解すればいいのやら、見当さえつかない。
それは、帰るにあたり、一番不安だったこと。
「森村、お前怪我大丈夫なのかよ」
「バイクで事故ったんだろ。 3ヶ月も入院してて、結構大騒ぎだったんだぜ」
「あかねー、どうだったアメリカは?」
「元宮が交換留学生に選ばれた時は驚いたよな〜」
「あ、君が流山君? 確か君もどこか外国に行ってたんでしょ、噂聞いたよ」
口々に言われる憶えの無い話に、3人は言葉を失っていた。
空白の3ヶ月。
その間の代替の事実が、そこには忽然と存在していた。
「……龍神の…力?」
後ろの方で、ランが静かに呟いた。
その言葉に、一同ははっとなる。
絶えず、不安だったこと。
長い間行方知れずとなって、一体どれほどの心配を、周囲にかけていたのか。
いざ戻れたとしても、一体、何と説明すれば良いことなのか。
ずっとずっと、頭を離れなかったこと。
…叶えよう、必ず、我を呼べ…
いつか聞いた声がよぎる。
心からの、望み。
これがその、答えだというのだろうか?
ぼんやりと考えながら、あかねははっとなって辺りを見まわした。
まだ訝しげな顔をしてこちらを見つめる、見なれぬ出で立ちの、だが見なれている、彼の姿。
そういえば、思ったことがある。
いつだったか、初めて頼久が、こちらの世界へと付いて来てくれると言ってくれた時の事。
この世界に来て、頼久はどうなるのだろうと。
家も無い、家族もない。 戸籍…、その存在の証すら、頼久には存在しないのだ。
そのような立場に彼を陥らせ、本当に良いのだろうかと、不安になった。
あかねは、切ない瞳を浮かべ、目の前の頼久を見つめる。
きょとんとした、良く分からないふうな顔。
あかねは、やっと納得出来た。
これが、その答えなのだろうと。
みなもとのよりひさではなく、みなもと よりひさ。
彼は、確かに、この世界の住人になっている。
訝しげな表情のまま、その場を去っていく頼久を、ふいに止めようとした天真の腕を、あかねは静かに掴んだ。
そして、俯いたまま、ぽつりと、
「ねぇ、あの人って、誰? このへんに住んでるの?」
明るく作った声は、少しだけ上ずっていた。
「あぁ、源さんね。 何か、最近学校の警備に雇われたらしいよ」
「そうそう、確か、そこの寄宿舎に住んでるんだよ」
「…あのルックスと体格でしょ。 結構ファンも多いんだけどさー、見てのとおりのぶあいそさんでね〜」
ケラケラと、制服姿の女子が笑いながら言った。
あかねは、一言も返さず、そのまましばらくは黙したままだった。
「…なるほどな。 …しかし何だって、あいつは俺達のことすっかり忘れてるんだよ」
「…それは、わかんないけど…」
しばらくして、とりあえず天真の家に集った一同は、少し沈んだ空気のもと、向かい合っていた。
「……でも、私だって、京では記憶を失っていたのよ」
「お前は特別だろう。 …それとも何か? 今度は頼久のヤローに、黒龍が取りついたとでも言うのか?」
ランがおずおずと呟くと、天真はいらだった口調で返した。
視界に入ってくる沈んだ表情のあかねに、天真は思わず舌を鳴らしていた。
「……ねぇ天真先輩、そんなにイライラしてたって仕方ないよ。 何がどうなったかはわからないけど、頼久さんが記憶を無くしていることには、変わりはないでしょう。 だったら、これからどうするかを考えなくちゃ」
暗く沈む一同に、詩紋は毅然と言った。
その言葉に、一同はふと我に帰る。
「………そう……だな…」
天真は、静かに呟いた。
「……でも、…どうすればいいのかな…」
あかねは、静かに呟く。
「…あ、こっちにも、心のかけらとかがあるのかな…、そうすれば、頼久さん、思い出してくれるのかな…」
「…あれはアクラムの仕業だろ。 関係無いと思うぜ」
「…じゃあ、どうすれば…」
言葉を失ったあかねに、天真はバツが悪そうに俯いた。
「大丈夫よ」
ふと、ランの発した言葉に、あかねは顔を上げた。
「あたしだって、こうしてちゃんと思い出してるんだから」
にっこりと言う彼女の言葉は、とても心強いものだった。
「ねっ」
ぽんと肩を叩かれ、あかねは小さく微笑みを洩らした。
少しだけ、勇気が沸いてきた。
大丈夫。
それはまだ弱い心だけと、少しだけ、そう思えた。
きっと、思い出してくれる。
自分が信じなくて、誰が彼を信じると言うのだろう。
あかねは慌てて滲んだ涙をふき取ると、
静かに、ランに微笑みを返していた。