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 方丈庵トップ中辺路のこと友人来訪と訃報 (6月16日

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友人来訪と訃報


 

 こちらは1年ぶりの更新である。


 
15年くらい前、毎日の様に飲み歩いた仲間四人組でこの紀南の地で出会う計画を立て連絡を取り合って居るうち、一人が入院中で退院を待ってる間に死亡通知があり結局三人で.の再会となった。

 一人(得意先の元幹部)は脳梗塞で左半身が軽度のマヒの上、肝臓癌に侵されている身で6時間以上も掛けて到着、もう一人は透析予備軍、残りの自分は腹部大動脈瘤のバクダンを抱えている始末。

 この様な者三人で夜の宴会、脳梗塞者はノンアルコールのビールで乾杯しながら昔話に花を咲かせていたが、何か落ち着かない気分を何故だろうと話していると、数週間前に無くなった一人が恨めしそうに何処かで眺めているのではないかと、口では馬鹿なことを言いながら心では念仏を唱えていたような事であった、ほんの十数年前まで馬鹿なことをしていた仲間が、もうこの世に存在しない現実を突きつけられ、改めて自分たちの年齢を思い知らされた次第でありながら夜中まで馬鹿話をしていた。


再会を祝しての記念撮影 夜中までの馬鹿話
 
 
 翌日は例の通り熊野古道の案内である、最初は方丈庵の下にある癌封じのお地蔵様(カク地蔵)にお参り自分たちで小さな袋に小石を入れお守りを作り持ち帰ったが、十数年前なら絶対に拒否したであろう者達が、素直に持ちかえる様はやはり年齢がさせることだろうか

相変わらず不真面目なお参り お地蔵さんの由来の説明を真剣に聞く二人


  翌日の行動計画の話し合いで、脳梗塞者が高野山那智の滝に行きたいと言い出し、不安を感じながらも急遽レンタカーを借り決行する事にした。

  
高野山は和歌山県の最北部那智の滝は最南端、どう考えても二日の行程である、高野山までは竜神スカイラインを利用すれば3時間くらいで行けるが、そこから那智の滝までは順調に行っても6時間はかかる、途中一泊覚悟で出発、昼過ぎに高野山に到着、奥の院までは約2Kmの歩き、左足を引きずりながらの参拝、さらに二重の数珠を買い求めるためお土産屋へ、早3時過ぎである、透析予備軍は所用ので帰省する為ケーブル駅に降ろし、夜の宿泊場所探し、高野山近辺は幸いに携帯電話が通じる、カーナビでルート決めして十津川村の村営の温泉ホテルを予約那智の滝は翌日午前中に済ませ昼の電車で名古屋へ帰れば夕方までには自宅へ帰り着くと言う強行軍であった。


 
カーナビ設定で山を下りだしてホテルまであと1時間の所で、通行止め、迂回支持通りに行くと山また山。結局千メートル級の峠を二つ越す羽目になった。

 紀伊半島は陸の孤島と言われていることを忘れていた、この地ではカーナビをあてにしては走れる所ではないことを。


 翌日無事帰着との知らせを受けて一安心したが、こちらの方が疲れが二日ほど抜けなかった

  

  この記事を入力し更新すべく用意していたところに、またまた訃報

 今の会社の創業時(二人きりの土木工事)から約30数年間、3年前に体調をくずし入退院を繰り返していた、片腕とも言うべき者の死亡通知である。

 熊野市から北山村へ抜ける道の途中に、「瀬戸」という小さな地区がある、そこが住まいで山仕事をしていたのを辞めて、40年前に伊丹に引っ越させて一緒に仕事をしていた。

 この者が居なければ今の自分も、会社も無かったろうと、自他共に認める存在であった、しかし、現在会社に居る息子や社員達は過去の人としか思わないようだ、親の有り難さは死んでから解るというが、世間の会社員達には創業者の苦労などは関係なく、現在しかない様に見受けられるがこれも戦後の教育に起因しているのだろうか、昔の教科書で「修身」など有ったが今はどうなったのだろうか。

 早い時期に機会を見つけ、社員達の今の生活があるのは先人達の苦労の賜物である事に感謝する事を解らせなければならいだろう。