昔からのダチが「町田の隠居」だから「町隠(チョウイン)」と綽名を付けてくれた。これってチョーインでないかいと、一人面白がっている。 |
「町田の緑地を守ろう」には掲示板があるので、町田の自然を守りたいと願う「隠居」の呟きを聞いて、何か情報があったらほしいものだ。よろしく。 |
隠居の住む町田には緑地保全基金条例があり、「緑地」が整備されてきている。 そうして整備された緑地ばかりではなく、農地や山林が存在していることが自然豊かな街と言えるのではないか。 そんな町田の自然が、相続税の支払いで次々と消えていっている。日本の税制のなせる業だ。 何とかしないと農地はこの町から消えてしまうだろう。 |
隠居の繰り言を聞いてくれ。 ワシの住む町内の一角に、湧き水があり、そこの池で子供たちがザリガニを捕ったりしていた。その辺りを整備して、蛍が棲めるような「水辺」として整備してほしいと考え、町内会で話し合い、早速市に要望書を提出したのが去年の6月初めのことだった。 しかし、ある人が亡くなり、相続税の支払いのため、広い土地が宅地に変わった。50戸以上の家が建つということで、宅地造成と併せて、道路が取り付けられることとなった。その道路が、湧き水の出ているところを完全に塞ぐ形で付けられることになった。しかも市有地を使わせて。 ワシらが要望書を提出するまえに、既に市は宅地造成と道路取り付けを許可していたようだ。ワシらは急ぎ、道路の取り付け場所を変更するように市に掛け合った。最初は「住民のご意見を聞いて適切に業者を指導する」と文書で回答してきた。 その後、市有地を使わせる権限がどこにあるのか、具体的な水辺の整備のイメージなど、数度に亘るワシらの質問や要望には誠意ある回答はなされず、工事は進んでいった。市は一度出した許可であり、一部の住民の意見を聞いて設計変更しろという行政指導をするには至らなかった。 結局、9月に入ってから経過説明と称して担当の3部長が話し合いたいといってきた。その席で3部長は「市として対応が拙かった」と陳謝した。その話し合いの中で、市は業者から出された許可申請は、法令・条例に沿っていれば認めるもので、行政がストップをかけると訴訟を起こされるので、業者の言いなりになるなどのことがわかった。しかも「部分」でしか判断しないので、周辺への配慮がされることはないことも分かった。結局、陳謝されても「水辺」は既に埋められ、元には戻らない。 ご近所でまたお一人あの世へ行かれた。ワシより少し年上で、80歳を越えておられるということだが、また相続が発生することになる。 そして、また緑が消えていく。 |
過疎化の進む中国山脈の山里では、一人暮らしの老人が増え、その老人が居なくなると、家は空き家のままになる。そして休耕田は藪になり、山が里に下りて来るということが実感できるようになってきた。人が減ると、村が村として機能できなくなり、さらに人が減るという悪循環になっている。団塊の世代には、農業をしたり田舎暮らしをしたいという人が結構いるようだが…。 |
雑誌「新潮」2月号に「団塊世代が農業に挑むとき」という記事があった。農業に携わることは遊びの気分や、自分が快適に生活したいと言うだけでは済まないことが多い。お天道様と付き合い、集落の人との付き合い、相手しだいで思うようにはならないことが多いものだ。 耕作放棄地が増え、数が多いだけに団塊の世代に帰農してもらい「農村再生」に期待を持っている自治体が多いようだが、60歳過ぎてからの農作業のきつさは経験してみないと分からないことが多いものだ。 閉鎖的な集落の人達に受け入れてもらえなければ寂しい思いをすることになる。このように否定的なことを挙げると数え切れないほどだ。 年金があるから何とかなるという気持ちで、「楽な生活」を農村でおくりたいと考えるなら、それは「夢と希望」としてお持ちになれば良い。生活する厳しさはどこにでも「コンビニ」があるわけではない農村に住んでみるとよく分かる。 団塊の人達が挙って農村に住みたいと思うなら、私心を半分捨てて移住して欲しいものだ。 極端な言い方をすれば、新たに農業をするために農村に移住しようという人は、海外に住むくらいの気持ちで行かないといけないな。 それくらい習慣も違えば、その土地なりの歴史ある風習があるものだ。topへ戻る |
40ん年前は海賊だった。高二の南高祭・仮装行列の写真。○嶋がサングラスをかけている。当時珍しかったカラーで○嶋がプリントしてくれた写真だ。 序にこんなものも。 |