今日生まれた人、今日あった事、人に学び、歴史に思いをはせて、今のことを考えるのも悪いことじゃない。
暇な折に見ていただくと、きっと役に立つこともあるかもしれないな。
今日の ひと こと はこちらに引越し→隠居のつぶやき
六月十五日 | 1843年の今日、ノルウェーのベルゲンでエドヴァルド・グリーグが生まれている。組曲「ペール・ギュント」でおなじみの作曲家。 ピアニストの母からてほどきを受け、15歳の時に才能を認められ、ドイツのライプツィヒ音楽院に留学した。ここでドイツ式の作曲法と理論を学び、19歳で卒業。祖国ノルウェーへ帰りピアニスト・作曲家としてデビューする。 グリーグは24歳のとき、いとこのニーナ・ハーゲルプと結婚した。ニーナはグリーグの最愛の妻であり、すぐれた声楽家で、音楽的にもグリーグのよき伴侶となった。グリーグの歌曲は、北欧的抒情をたたえた優美な作品が多く、その中でも、有名なのが、ニーナと婚約した年に書かれた「君を愛す」。ニーナは夫の書いた歌曲をコンサートで歌い、その作品を広めていく大きな力のひとつとなった。 グリーグの代表的な劇音楽「ペール・ギュント」は、32歳の時イプセンの書いた劇のための付随音楽として作曲したもの。初演された時は、グリーグらしい美しい音楽で大成功だったといわれる。組曲「ペール・ギュント」はこの中から、グリーグが四曲ずつ選んで二つの組曲にしたもので、よく演奏会で取り上げられる。この他ピアノ協奏曲やピアノ抒情小曲集などの数々の美しい小品を残した。 ノルウェーの自然と民族音楽を心から愛し、国民音楽を確立した。グリーグは「誰でも人はまず人間であらねばならぬ。すべて真の芸術は人間にしかない人間らしさから生まれる」と言い、今なお国民に慕われ愛されている。グリーグ topへ戻る |
六月 十一 日 |
1864年の今日、ドイツの作曲家で指揮者でもあるリヒャルト・シュトラウスがミュンヘンで生まれた。父は宮廷楽団のホルン奏者、母はオペラ歌手という恵まれた音楽環境の中で育った。日本で言えば江戸末期の元治元年のこと。 四歳でピアノを習い、六歳の時には作曲をし、八歳からバイオリンを習う。ミュンヘン大学を卒業後、各地の宮廷管弦楽団や歌劇場の指揮者を務めた。また、作曲家としてワーグナーやリストの影響を強く受けた。 楽劇「エレクトラ」、「サロメ」、「ばらの騎士」、交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、「ドン・キホーテ」、「ツァラトゥストラはかく語りき」、「英雄の生涯」などが知られている。 奥さんが歌手であったこともあって、一五〇を越える歌曲も作っている。八五歳で亡くなる前の年にも、長い人生から生み出される豊かな感性を感じさせる歌曲を作った。 リヒャルト・シュトラウスは後期ドイツ・ロマン派最後の巨匠といわれる。しかし、1933年にドイツ音楽局総裁に就任して一時期ナチスに協力したということで嫌われた。 しかし、楽器を多彩に使いこなし、絢爛たるオーケストラの響きは今でも色褪せることはない。「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭部分は映画「二〇〇一年宇宙の旅」で使われている。この作曲家をより一層理解し、普及しようと、シュトラウス生誕120年の年に日本リヒャルト・シュトラウス協会が設立された。交響詩 「死と変容」 |
六月八日 | 1912年の今日、フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルの作曲によるバレエ音楽「ダフニスとクロエ」が初演された。一九〇八年に創設されたロシア・バレエ団のディアギレフから作曲を依頼されていたもの。内容はギリシャ神話によるダフニスとクロエのロマンスがテーマ。作曲を頼まれたラヴェルはバレエの台本が余り気に入らなかったが、作者のフォーキンと意見調整した上で二年前から曲作りをしていた。曲が完成すると、依頼したディアギレフは合唱が入っているのが気に入らず、上演をためらっていた。しかし、音譜出版社の取り計らいによって、今日シャトレ座で初演された。ダフニスはニジンスキー、クロエはカルサヴィナという豪華なキャスト。音楽的には「繰り返しが多く」余り評判は良くなかったようだ。初演から九十年以上過ぎた今では、ラヴェルの傑作の一つとされている。 最もよく知られる管弦楽曲「ボレロ」の初演がこの一六年後のこと。その個性は時とともに輝きを失うことはない。⇒ラヴェル ラヴェルはスイス人の父とスペイン人の母を持つ。スペイン国境に近いピレネー山のふもとで生まれた。生まれてすぐにパリに移り、生涯をパリで過ごし、彼の作品は「フランス音楽の華」として、たくさんの人々に愛されている。フランス人の血の流れていないラヴェルがフランスを代表する作曲家として後世に名を残しているのも、フランスそしてパリという街が芸術家や文化に深い理解と援助をおしまなかったからだろう。 |
五月十二日 | 平成14年の今日のこと、場所はチェコの首都プラハ・スメタナホールで「プラハの春」音楽祭が始まった。この音楽祭は毎年チェコの国民的音楽家であるスメタナの命日である五月十二日から開幕し、六月四日まで国内外の著名なアーティストを迎えて華やかに繰り広げられる。そのオープニングコンサートでは、スメタナの交響詩「我が祖国」が演奏される。この日は日曜日、午後八時、大統領夫妻が着席してチェコ国歌のあと、「我が祖国」の演奏が始まった。 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を前に、指揮台に立つのは「炎のコバケン」とか「炎のマエストロ」とあだ名される日本人指揮者の小林研一郎さん。これまで、この音楽祭の開幕コンサートはチェコ人による指揮が恒例となっており、外国人が指揮することはめったにない。小林研一郎さんは、東京芸術大学を卒業後、一九七二年に指揮者としてデビューし、一九七四年の第一回ブダペスト国際指揮者コンクールで優賞してから、ヨーロッパ各国の主なオーケストラをはじめ、日本国内のほとんどのオーケストラを指揮している。デビューしてちょうど三十年目につかんだ大きなチャンスに「私のキャリアのクライマックスです」と語った。 「高い城」、「モルダウ」、「シャルカ」、「ボヘミアの牧場と森から」、「ターボル」、「ブラニーク」の全六曲、一時間半近くの演奏が終わるとホールは大きな歓声に包まれ、会場の聴衆は総立ちになり、小林さんには大きな花束が次々と手渡された。それを各パートの首席演奏家に渡して労をねぎらうコバケンさん。このコンサートの模様は全世界に向け同時放送された。モルダウtopへ戻る |
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