◇2003年4月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘周辺で撮影】

[見出し]
今月号の特集

手話人形劇「手話のなみだはつちにふる」

サラサガムテープ(続)

河内の狐火

「うずのしゅげ通信」バックナンバー


【お願い】
「うずのしゅげ通信」アンソロジーに新たに「障害児教育」「手話」「詩歌」 「ショートショート」の4編を付け加えました。
ホームページに長い文章は禁物、読んでもらえない、と自戒してはいるのですが、 バックナンバーからテーマにそった記事を集めるとかなり膨大なものになってしまいました。 自分に関心のある内容だけを拾い読みする、といったふうに利用していただけたらと思います。

2003.4.1
手話人形劇「手話のなみだはつちにふる」

手話人形劇「手話のなみだはつちにふる」を上梓しました。 手話人形劇と銘うっていますが、実際は日本語で書かれているわけで、 手話に翻訳したうえでの上演を想定した劇というふうにご理解いただきたいと思います。 ここで、手話というのは日本語に対応した手話ではなく、ろう者の手話のことです。 一読していただければお分かりのようにまさにそのろう者の手話がテーマになっていて、 劇の仕掛けは、手話での上演を想定した形にしつらえてあります。 とにかくまずはちょっと走り読みでもしていただいた上でないと分かりにくいかと思います。
手話については、以前から興味をもっていました。ろう学校にいたとき、 手話をろう者の母語として充分評価できなかったという自己反省もあります。
わたしがろう学校に勤務していたのは、1980年代でした。 そのころのろう学校はキュードスピーチの全盛時代だったように思います。 幼稚部からキュードスピーチで育った世代が中学部に進級して来て、 彼らの日本語能力は純粋な口話世代とちがって目を見張らせるものがあったのです。
中高部の授業は手話で行われていましたが、小学部ではキュードスピーチが主流で、 発音指導もありました。
ろう学校でありながら、手話はどこでも認められてはいなかったのです。 わたし自身を振り返っても、キュードスピーチの威力に目が眩んで、 ろう者における手話の意味をつきつめて考えるところまではできませんでした。 80年代の終わり頃になってやっと校長の話に手話通訳をつけるといった状況だったのです。
ろう教育の中で、手話は、1930年代から6、70年も影の存在に押しやられてきたのです。 まわりはすべて日本語だからという理由で、口話による教育がなされてきたのです。 相手の言うことは唇から読みとる(これがいかに困難なことであるかは想像できます)、 自分のことばは声に出してしゃべる(耳からのフィードバックがかからないために 発音がどうしても不明瞭になってしまうのです)、そんなことを強制されてきたのです。
しかし、手話は、教育現場ではそうであっても、実生活の場では使われてきました。 それを禁止することは、それこそ不可能なことですから。
そして、最近やっと手話がろう教育の中でろう者の言語として 理解されるようになってきたようです。
そういった手話の歴史を踏まえた劇を書いてみたいと前々から考えていたのですが、 やっとその念願がかなったのです。
手話がろう教育から追いやられていった経緯を調べて歴史劇に仕立てることも できたかもしれませんが、今回その方法は採用しませんでした。
手話を禁止されることをろう学校の授業中は手にミトンの手袋をはめることを 強制されるという設定にして、そのミトンをはめた手で手話のセリフをしゃべり 、また指人形劇を操作するという手話指人形劇にしたのです。
そんなことが可能なのかどうか、少々こころもとないところもあるのですが、 作者としては、手話を使いにくいところは、手話を禁止されている状況を象徴的に あらわしているのだから、なんとかのりこえて演じられないかと考えているのです。
指人形劇のあらすじは「よだかの星」そのものです。いのちを養うにいのちを もってしなければならないというよだかの苦悩に、ことばを奪われた苦悩を重ね合わせています。 どちらがより苦しいということではなく、二つながら深いところに根ざした 苦しみにちがいないからです。
これで、賢治先生シリーズも11作品が揃ったことになりますが、 珠玉の作品集とはとてもいきませんね。せめて玉石混淆と言っていただけるでしょうか。
手話については、つぎの本を参考にしました。
米川明彦「手話ということば−もう一つの日本の言語−」(PHP新書)
斉藤道雄「もうひとつの手話−ろう者の豊かな世界−」(晶文社)

【追伸】
この脚本の中に宮沢賢治の詩「春と修羅」のパロディー、 劇の題名にもなっている「手話のなみだはつちにふる」を朗読する場面があります。
原詩は、難解ですが、とてもすばらしいものです。すべて引用すると長くなるので割愛しますが、 一度読んでいただきたいと思います。
その一節につぎのような個所があります。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)


また、つぎのような一節。

まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ


これらの一節を、わたしは愛唱しているのです。

そして最終節のひとつ手前に

(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)


という括弧書きがあります。
この一節を、手話を奪われた悲しみをあらわすことばとして、 パロディー化して使わせてもらったのです。
蛇足を付け加えれば、この朗読を手話の歌にできないか、という思いがあります。 一応は、朗読という形で完稿にしたのですが、どちらがいいかをじっくり考えてみたいのです。 もちろん、曲をつけるとなると、詩そのものも書き換えなければならないでしょうが。


2003.4.1
サラサガムテープ(続)

先日、NHK教育の「にんげんゆうゆう」にサラサガムテープが出演していました。
サラサガムテープについては、うずのしゅげ通信の初期の頃書いたことがあります。 かしわ哲さん率いるロックバンドです。メンバーは施設の入所者が中心です。 彼らによる「フライドチキン」の演奏など、とてもよかったのです。
歌詞は
「フライドチキン、フライドチキン、フライドチキン……」と繰り返し、 「1本目」、また「フライドチキン、フライドチキン、フライドチキン……」「2本目」、 これが延々と続きます。
バンドの名前はガムテープ太鼓から来ているそうです。
「フライドチキン」のライブ演奏で会場が盛り上がっているようすも出ていましたが、 ほんとうにあんな演奏会があったら、生徒たちがきっとすばらしく楽しむだろうなと 思わずにはおれませんでした。
バリアフリーロックともいっていましたから、障害者もそうでない人もいっしょなんですね。
かしわ哲さんも「音楽はたのしむこと」という主義の持ち主なのでした。
奈良県でもいろんなバンド活動がはじまっていますね。音楽や演劇などの活動がもっと 活溌になればいいなと願うのみです。
こういった楽しい活動にはつい声援をおくりたくなるのですね。


2003.4.1
河内の狐火

蕪村句集を読んでいて、つぎのような句を見つけました。

狐火やいづこ河内の麦畠

狐火はどこだ、このあたりは河内の麦畠。
河内に住まいするものとして、見過ごすわけにはいきません。
蕪村のころ、いやその以前から、河内の狐火というのは、 名だたるものとして知れ渡っていたのでしょう。
この句を読んで、なつかしい風景が浮かんできたのです。家の近くの山裾を縫う道に 「こしょれ」と呼ばれるところがあり、そこに、道から逸れてほん1メートルくらい 登った山肌にお地蔵さんがまつられていました。「こしょれ」というのは、 「腰折れ」のことであり、「こしょれのお地蔵さん」というのは、 「腰折れ地蔵」のことなのでしょう。腰折れが場所をあらわしていて、 そこにあるので腰折れ地蔵なのか、それとも、腰折れ地蔵があったから 腰折れと呼ばれていたのか、そこのところはわかりません。
しかし、その腰折れのあたりは人家からも遠く、いつもまっくらな一帯だったのです。 昔駅から歩いて帰る人がそのあたりでよく狐火を見たといいます。それも一つではなくて、 連なって動いていくのです。
わたしも、幼い頃、実は見たような、話を聞いて見たような気になっているのか あいまいなのですが、それらしい遠火を見た記憶があるのです。それはいくつか 連なってこしょれの辺りを動いて行きました。
まさに河内の狐火。蕪村の句を読んでそんなことを思い出したのです。
そして、いま、わたしは毎日その腰折れのお地蔵さまの前を通って帰るのです。 さすがに今では狐火などとんと見ることはできませんが。
ここで拙作を一句。

狐火の失せてただなりこしょれ道

狐火が失せた今となってはこしょれ道もただの道。河内野に狐火があること千年、 狐火が失せて七、八十年といったところでしょうか。それにしても遠くの闇に ちらちらと動く狐火のなつかしさ。

【追伸】
蕪村句集にこんな句もありました。

むし啼(なく)や河内通ひの小でうちん

奈良から河内へ越える峠道を小さい提灯を掲げて行くと、虫がさかんに啼いている、 といったところでしょうか。夜が厳然と暗かった時代の秋の風物です。 そういえば生駒山を越える暗峠(くらがりとうげ)もあります。 夜が暗かったからこそ狐火も見えたのですね。

「うずのしゅげ通信」にもどる

メニューにもどる