◇2003年5月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘周辺で撮影】

[見出し]
今月号の特集

長田弘「あのときかもしれない(二)」

野生の力

黄花あふれ

「うずのしゅげ通信」バックナンバー


2003.5.1
長田弘「あのときかもしれない(二)」

長田弘に、こんな詩があります。散文詩です。

あのときかもしれない(二)

きみが生まれたとき、きみは自分で決めて生まれたんじゃなかった。 きみが生まれたときにはもう、きみの名も、きみの街も、きみの国も決まっていた。 きみが女の子じゃなくて、男の子だということも決まっていた。
一日は二十四時間で、朝と昼と夜とでできている。日曜は週に一どだ。十二の月で一年だ。 そういうこともぜんぶ、決まっていた。」
私はそこに、つぎのようなもしもの話を、ひそかに付け加えてみようと思うのです。
「養護学校に来ることも決まっていたのかもしれない。」と。
そして読み続けてみます。
「きみが生まれるまえに、そういうことは何もかも決まってしまっていたのだ。 きみがじぶんで決められることなんか、何ものこされていないみたいだった 。赤ちゃんのきみは眠るか、泣くかしかできなかった。手も足もでなかった。(中略) はるばるこの世にやってきたというのに、きみにはこの世で、することが何ひとつなかった。 ただおおきくなることしか、きみはできなかった。(中略)赤ちゃんのきみは何もできない じぶんがくやしかった。いつもちっちゃな二つの掌を二つの拳にして、固く握りしめていた。」

ここで転調します。いわゆる起承転結の転、序破急の破。

「ところが、きみが一人の赤ちゃんから一人の子どもになり、 立ちあがってじぶんで歩きだしたとき、そのきみを待ちぶせていたのは、 まるでおもいもかけないことだったのだ。きみがじぶんで決めなければ、 ほかにどうすることもできないようなことだった。きみはあわて、うろたえ、めんくらった。 何もかも決められていたはずじゃなかったのか。だが、そうおもいこんでいたきみは まちがっていた。」
何をじぶんで決めるしかなかったと思いますか?
そうです。
きみが一人の男の子として、はじめて自分で自分に決めなければならなかったこと。 それは、きみが一人で、ちゃんとおしっこにゆくということだった。
たしかにそうですね。だれも代わりにおしっこにいってはくれませんからね。
「つまり、きみのことは、きみがきめなければならないのだ。きみのほかには、 きみなんて人間はどこにもいない。きみは何が好きで、何がきらいか。きみは何をしないで、 何をするのか。どんな人間になってゆくのか。そういうきみについてのことが、 何もかも決まっているみたいにみえて、ほんとうは何一つ決められていなかったのだ。」
そして、最後に
「そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。」
と、結ばれています。

そこで、詩を読み終えて、ちょっと不安にとらわれたのです。
「ちゃんとおしっこにゆくということ」ができるように、 つまり「一人のおとな」になってゆくように、われわれ養護学校の教師は生徒に対している だろうかと、思わず立ち止まって考え込んでしまいました。
わたしの勤める養護学校には、中学の障害児学級を卒業した生徒たちが入学してきます。 教師の目の行き届いた少人数の学級、保護・被保護の友人関係から、 生徒たちは突然対等の関係の中に放り込まれます。対等のなによりの証拠は恋愛の可能性が あるということ。端的に言って愛されるかもしれないという期待にあります。教師の目を離れて、 対等の友人関係、男女関係の中で、さてどうするかを自分で決めなければなりません。 グループ授業ともなれば、つぎの授業がどの教室であるかは、自分で覚えるしかありません。 長田弘の詩にあるように、一人で「ちゃんとおしっこにゆくということ」を、 「はじめて自分で自分に決めなければならな」いのです。
そんな環境に放り込まれることで、親離れ、教師離れをして、「一人のおとな」に なってゆくのですね。
この詩自体は、人間存在のありようを書いているようですが、私はもう少し限定して、 養護学校に進学してきた生徒たちのことを思い浮かべてしまったのでした。

「長田弘詩集」(ハルキ文庫)が、あたらしく発売されました。 一度読んでみてください。


2003.5.1
野生の力

朝日新聞2003、3、24(月)朝刊で河合雅雄さんがつぎのようなことを 話しておられます。河合さんは「兵庫県内の子どもを26人、夏休みにボルネオのジャングルに 連れて行く『ジャングル体験スクール』を、98年から続けて」おられるそうです。
「わずか8日間だけれど、オランウータンに会ったり、ジャングルの中で文字通りの闇を 体験したりして、子どもたちは驚異的と言っていいほどに変わる。野生の力が出てくる。」 というのです。
そして、「総合的な学習のような試みには『学力が低下するんじゃないか』という 議論がつきものですが、学力だけ考えていていいのか、と言いたい。
学校というのは、一人前の社会人になるための基本的人格を養う場だと、僕は考えています。
昔の子どもはそれを、学校や家の外で、群れて遊ぶことで身につけていた。 今や子どもが群れて遊べる場は、学校だけでしょう。自立して生きる力を養うことを、 教育の中心に置かないと。(中略)子どもの机の引き出しを開けたら石がゴロゴロと出てきた。 さて、どうしますか?今の母親ならほとんど『こんな石ばかり集めて。勉強しなさい!』と しかるでしょうね。でも、石ばかり集めて『石っこケンさん』と言われたのは、 少年時代の宮沢賢治ですよ。」

賢治が「石っこケンさん」と呼ばれていたことは、どこかで読んだことがあります。
賢治の中で、この石っこは化石への興味につながり、化石といえば、銀河鉄道白鳥駅近くのプリオシン海岸の 化石にまで飛躍していきます。
つまり、賢治の想像力は降ってわいたものではなく、 その基盤には科学的なものの手触りがあるということなのです。
以前ろう学校で、生徒たちと、岩石プレパラートを作ったことがあります。 石を磨いて、薄く薄く、光が透過するほどの厚みにまで磨き上げるのです。 そして、偏光顕微鏡で覗いてみます。すると石の小さいつぶつぶがほんとうにきれいに 七色の輝きをおびて見えるのです。石を回転すると色が変化していきます。 その美しさは、万華鏡をしのいでいました。近頃は工夫を凝らした万華鏡が手に入りますが、 あれはやはり作り物めいた不自然さがあります。岩石プレパラートは自然の美しさです。
現在はどうも万華鏡全盛の時代で、ほんとうの自然の美しさがないがしろにされているように 思うのです。万華鏡からはそれ以上の想像力は生まれてこないが、岩石プレパラートの 美しさは「銀河鉄道の夜」の想像力につながっていくように思うのですが、どうでしょうか。
豊かな想像力を下支えしているのはどのようなものなのか、河合さんは、きっと 「それは自然そのものだ」と言いたかったのだろうと思うのです。


2003.5.1
黄花あふれ

4月の中頃、PLの塔が聳える公園にお花見にでかけました。 ソメイヨシノはすでに満開をすぎて散りはじめていたのですが、 八重の桜が咲き誇っていて、種類によってはまだ蕾をつけている樹もありました。 一面に雪と見まがうように桜の花びらが散り敷いている様子もどくとくの風情でした。
桜の向こうに一面に黄色い花を付けた樹がみえたのです。ミモザでした。 以前にわたしがろう学校に勤めていたとき、理科室から見える盲学校のグランドに ミモザの樹があって、歌にも詠んだことがあるのを思い出したのです。
家に帰って、探したのですが、ミモザの歌が見つかりません。 いくつか作ったことは確かなのですが、いいのができなくて捨てたのかもしれません。
そして、ちょうど今の季節に相応しいこんな歌を見つけたのです。 もう十数年前に作ったものです。(「火食鳥」季刊第4号1990・秋)

斑鳩の五百枝(いおえ)の河に黄花あふれ救世観音のくらきに溺る

「法隆寺のある斑鳩は、五百の枝のように河が網の目に流れていて 、いまの季節その河の堤には黄色い花が咲き誇っていてまぶしいくらいなのだが、 それと対照的に、一年にちょうどそのころ開帳されて見られる救世観音のなんと暗い中に たたずんでおられることか、その暗さに溺れるように魅入られてしまう。」
あえて、解釈すればそんな意味を込めた歌なのです。
ミモザの歌は見つけられませんでしたが、久しぶりにこの歌に出会ったのでした。
朱の唇(くち)に秘仏のおそれほの見えて救世観音はただものでなし

おなじ救世観音を詠んだこんな歌も見つけたのです。

それにしてもミモザの歌、どうなったのでしょうか。もう一度探して見ます。

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