◇2003年8月号◇
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘周辺で撮影】
[見出し]
今月号の特集
ろう者のバイリンガリズム
だんじりは知恵の宝庫
坪野哲久歌集「櫻」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2003.8.1
ろう者のバイリンガリズム
月刊「言語」が8月号で、「バイリンガリズムとしての手話」という特集を組んでいます。
面白そうなのでさっそく読んでみました。
市田泰弘「ろう者のバイリンガリズム」
全国ろう児をもつ親の会「手話で教育を受けさせて」−言語権をもとめる戦いの報告−
武居渡「ろう児の第二言語習得」
金澤貴之「手話は聴者との間に対等な言語環境をもたらすか」
など、興味深いタイトルがならんでいます。
まずは、市田泰弘「ろう者のバイリンガリズム」。
「ろう者は手話と日本語のバイリンガル(二言語使用者)として生きることを
宿命づけられているといえる。」という基本認識のもとに、「ろう者のバイリンガリズムは、
どのようにして生み出され、どのような問題をはらみ、今後どのようになっていくのだろうか。」
という観点で、いわゆるろう教育の歴史がたどられている。
わたしも、1981年から1987までの6年間、ろう学校に勤務していたことがあり、
そのころのろう教育の状況を思い出しながら、ろう者にとっての手話というものの意味を
充分にくみ取ることができなかったことにたいして忸怩たる思いも抱いたのでした。
当時はキュードスピーチ全盛の時代で、その威力には目を見張らせるものがあったのです。
自分もまたキュードを仰ぎ見ていたという意味に置いて、手話を抑圧していたのかもしれないと
反省しきりなのです。この間のいきさつについては、以前にもこの「うずのしゅげ通信」で
とりあげたことがあります。
しかし、この特集を読んで、「ろう者のバイリンガル」という視点はすんなりと
納得することができたのです。
手話人形劇「手話の涙はつちにふる」は、ろう教育の中で手話が抑圧されてきた歴史を
人形劇に仕立てたものです。いまから振り返ると、ろう教育の歴史は、試行の繰り返しでした。
奈良のろう教育はそれらの試みに果敢に挑戦してきたといえると思います。
口話教育の一翼を担い、キュードスピーチにおいては他校に先駆け、
いままた手話教育でも先陣を切っている。
そして、さまざまな試みの末にいまようやく手話という本筋にもどったように思います。
そのことについて、またろう学校の存在について「ろう者のバイリンガリズム」では、
つぎのように言及されています。
「ろう教育における手話とろう学校の重要性が、ここ十年の間に、より深く認識されるように
なった」というのです。
現在障害児教育は、特別支援教育として再構築されつつあるのですが、
はたしてそれでうまくいくのでしょうか。教育的ニーズを要する子どものために個別指導計画をたて、
その計画に沿って特別支援教育を施していく、というのが大筋で、意味は分かるのですが、
それでうまく機能するのでしょうか。
私の危惧は子どもたちの集団がそこではどのように保障されていくのかというところにあります。
ろう者の教育においては、ろう学校という集団で手話を母語として獲得することの
重要性が言われています。では、知的障害をもった子どもたちの場合はどうなのでしょうか。
彼らにもまた、対等の集団が保障されなければならないのではないでしょうか。
「健常者」に混じってやっていくことの重要性も分かります。しかし、
どこかで対等の集団が保障されなければならないように思うのです。
籍のある学校では、みんなと交わってというのなら、
交流する養護学校で対等の集団を保障すればいい、というのでしょうか。それがだめなら、
放課後や休日の行事で、対等にけんかができる、
あるいは恋愛ができる集団が保障されればいい、ということなのでしょうか。
時期はいつというのではなく、
小学校においても、中学、高校においても対等の集団の重要性は変わらないのではないでしょうか。
その点がどうなっているのか、今回の特別支援教育ではまだまだ見えてきていないように思います。
すくなくとも、わたしには見えていないのです。どなたかご教示ください。
2003.8.1
だんじりは知恵の宝庫
今年、わたしは村の祭りの年行事というものに当たっているのです。
以前紹介したことがある「南河内ことば辞典 やいわれ!」で「年行事」を引いてみます。
「ねんぎょうじ 年行事
一年間の村の世話人。だんじりの係のことも指す。寺の年行事・村の年行事など
いくつかの種類があり輪番制でやる。上に役員があるが、こちらは任期がない。」
ここでいう「輪番制」の「だんじりの係」が、わたしの家にまわってきているのです。
それはすでに去年の祭りの宵宮からはじまっていたのです。祭提灯を持って神社に行ったのです。
さらに祭りの片づけも
新旧の年行事が共同であたったのです。
それが、今年いよいよ本番なのです。
7月25日は天神祭りですね。
わたしの住んでいる村にもかつては菅原天神社があったらしいのです。
それが明治45年ごろに現在氏神である神社に合祀されたらしいのです。
そこで、その天神社をまつっていたわたしの村では7月25日に祭り提灯を
神社に奉納することになっているのです。
重い祭り提灯を捧げて行って来たのです。
そして、その後一杯やりながら、ひとしきりだんじり談義。
「内のだんじりはバランスが悪い、舞台が前に出過ぎている。昔(30年くらい前)心棒が折れて、
みんなでかついで帰ってきた。それから、しばらくはだんじりを曳いていなかった。……
だれそれが、だんじりにひかれたことがあった。彼も酔っぱらってあの辻でひかれたが、
あそこであばれるのもむちゃだ。止めたのに無理に入っていったんやから仕方ない。……
昔は年行事が、だんじりに使う縄を夏から綯ったもんや。縛る藤蔓も山へ取りに行った。」
等々、話は尽きないのです。
それを聞きながら、「なるほど、だんじりは知恵の宝庫だった。」と思い当たったのです。
青年達は、だんじりにかかわることで、人間関係を学び、組織を学び、技術を学んでいたのか。
そのうえ、「にわか」を演じることで、文化を、そして性を学んでいたのです。
「にわか」というのは、「秋祭りにだんじりが氏神さんへ宮入りした時に、
その上でする(寸劇)」なのです。だんじりには、それようの舞台が前に張り出してあるのです。
その「にわか」が性を話題にすることが多いということで、性教育までしていたのですね。
まったくだんじり様々だったのです。
追伸
ちなみに、「南河内ことば辞典 やいわれ!」には、「にわか」は載っていなくて、
「にわかざらえ」(「にわか(寸劇)を村へ帰って村人達に再演すること。」)のみがあります。
「にわか」は、そのなかで「にわか(寸劇)」と解説してあるだけ。
また「宮入り」の項目はありません。「宮入り」というのは、
だんじりを、社殿に拝礼し、お祓いを受けたあと、境内で曳き回しあばれることをいいます。
2003.8.1
坪野哲久歌集「櫻」
いわゆる初版本とかにはまったく興味がありません。本は読めればいい、
要するに内容だと考えてきました。もっとも、最近はどんどん目が悪くなりつつあるので、
できるだけ活字の大きい本を求めることになります。昔の文庫本など活字が小さくて
読めなくなってきているのです。
手元に、宮沢賢治の「注文の多い料理店」の復刻版があります。
近代文学館の新選名著復刻全集の一冊のようです。これは賢治童話で生前唯一出版されたもので、
その手触りを知りたくて古本屋で手に入れたものです。なにしろこの復刻版、よくできていて、
本物はきっとこうであったろうという雰囲気があるのです。
(ちなみに、このホームページのメニュー画面の
写真は復刻版の写真ではなく、本物を写したもののコピーです。)
箱から復刻版を取り出してみます。偽物とはいえ大正のにおいがします。
総ルビの本文もそれらしい雰囲気を醸し出しています。で、中身を見てみます。
「序
わたしたちは、氷砂糖(こほりざとう)をほしいくらゐもたないでも、
きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光(につくわう)を
のむことができます。」
と、かな遣いに当時の空気が伝わってみます。読んでいるとうっとりしてくるくらいです。
ルビやかな遣いがとてもなつかしい感じを呼び起こしてくれます。
もう一冊、古い本を紹介します。
「注文の多い料理店」は復刻版の偽物でしたが、こちらは本物です。
坪野哲久の歌集「櫻」です。古本屋で見つけたときは、心臓が高鳴りました。
もう十数年前のことです。当時は腰の手術などもあって、入院をきっかけに
短歌などを作りはじめていて、
坪野哲久に凝っていたのです。坪野哲久は同人誌「火食鳥」の仲間である歌人、
国貞祐一さんの師といってもいい人です。国貞さんの影響もあるのかもしれませんが、
日本の歌人の中で唯一信頼している人でした。当時すでに
高齢で、病気入院をされていましたが、まだ存命でした。
国貞さんから「いちどお尋ねしましょう。」と誘われてもいたのです。
(それからまもなく病没されたこともあって、実現はしなかったのですが。)
だから、坪野哲久が戦中に出版した歌集「櫻」、そのものを古本屋で偶然見つけたときは
うれしいというより、驚いたのです。かなりの値段でしたが、ただちに買ってしまいました。
紙質はわるく、
外箱も痛んでいたのですが、戦中の手触りはまぎれもなかったのです。
幾首か引用してみます。
溢(はふ)れ咲く牡丹櫻の下をゆきこころもあやに妻らに湎(おぼ)る
わかわかしき友のふたりを婚(あは)さむと春さむき夜の大川わたる
このわれの生きざま狂ひゆくときも支へくれにきたわたわとして
(たわたわ 木の枝などのたわみしなうさま。)
冬星のとがり青める光もてひとりうたげすいのちとげしめ
きやつらは婪(むさぼ)るなきか若者の大いなる死を誰かつぐなふ
曼珠沙華のするどき象(かたち)夢にみしうちくだかれて秋ゆきぬべき
転向の傷心いやしがたく、自身の生き方を探りつつ妻と確かおでん屋を営んでいたころの哲久、
昭和十五年ごろのいきざまがそれこそまぎれもなく溢れています。今手にとっても古本屋で
偶然出くわしたときの心臓の高鳴りがよみがえってくるなつかしい歌集です。
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