◇2003年10月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘周辺で撮影】

[見出し]
今月号の特集

女子鑑

ミミズの集団自殺、揚羽蝶の通り道

大阪芸術大学「河南文藝・文学篇」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー


2003.10.1
女子鑑

母が亡くなったのが平成5年でした。当時こんな歌を詠んでいます。 (「火食鳥」季刊第10号 1992年春・夏掲載)

 病棟に母さらぼえぬ 「節くれの骨を養う春の粥(かゆ)」

母も亡くなる前は痩せこけて骨と皮だけでした。心停止して、 心臓マッサージを受ける母に立ち会いながら、肋骨が折れないかと思ったほどでした。
ところで、久しぶりに「火食鳥」のバックナンバーを眺めていて愕然としました。 ここに引用されている俳句が誰の作だったのか思い当たらないのです。

 節くれの骨を養う春の粥

考えられるのは父の作品ということです。誰か他の人の俳句であるなら、 そのむね注釈をつけるにちがいないからです。で、父(浅田素由)唯一の句集 「万年青の実」を探してみたのですが、見当たりません。 どこかに投稿した俳句をたまたま目にして、引用したのでしょうか。 まったく記憶が抜け落ちています。父の俳句らな「節くれの骨」は父のことかもしれません。 もちろんよく病院に通っていた父が母のことを詠んだということも考えられます 。母は痩せこけていて、父が介助して口にする粥は、まるで母の骨を養うようにも 思えたのでしょうか。
その父も一昨年亡くなり、父の本棚を整理していると「女子鑑」という 紐とじの本が出てきました。「鑑」というのは「かがみ」で、お手本、模範の意味です。 つまり、女性のお手本となるような人の話を集めたものです。 昭和15年発行で、編集は「大阪府学務部」、 著作者は「大阪府教育会」、発行は修文館となっています。女学校の教師をしていた 母のものにちがいありません。女学校の修身の教科書だったのかもしれません。
最初に、神勅、教育ニ関スル勅語、戊申詔書、国民精神作興ニ関スル詔書、 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語……とあって、本文に入ります。
本文のまず最初は「昭憲皇太后の御盛徳」はらはじまって、「大楠公夫人」、 「瓜生 保の母……平泉澄」「父母に事ふる心得……下田歌子」、 「孝女つる……井上毅」、「浪速の五孝子……森鴎外」等々、 目次を見ただけで内容が推測できるような逸話がならんでいます。
どうせなら森鴎外のものを、と「浪速の五孝子」を読んでみました。 斬罪に決まった父の窮地を救おうと十六歳の長女いちがけなげに行動する話で、 読んでいるうちに以前にも読んだことがあるのを思い出しました。 いちはそれなりに個性的に描かれていますが、父の身代わりになろうなどという 考えはどうみても封建的なものです。
ざっと見ても、他の作品はもっと説教臭のつよいもののような気がします。
戦前の女学生は、こういう教科書で教育されたのかとあらためて考えさせられました。
追伸
短歌や俳句は日記のようなものですから、家族にとっては、一首の歌を読むことで、 その頃の気持ちを思い出すよすがになるといった効用もあるように思います。
このホームページのリンクにある「村川昇遺作短歌集」は、父親村川昇氏の短歌をご子息が 公開しておられるものです。もちろん「遺作」とありますから、村川昇氏は故人なのですが、 生前角川短歌賞を受賞されていて、おなじ短歌といってもわたしの自己流のものとは違います。 村川昇氏は養護学校の教師をされていて、学校での日常を詠んだ歌で賞を貰われたのです。 ご子息としては、その一首、一首に思い出があるのかもしれません。 おなじ養護学校に勤務しているということで、わたしもそれらの歌にいっそう 親近感を感じています。短歌に興味をお持ちの方、一度ご訪問ください。


2003.10.1
ミミズの集団自殺、揚羽蝶の通り道

みみずの集団自殺
散歩が趣味なのです。家内に言わせると、趣味というより、こだわりがあって、 中毒だというのですが、それはさておき、歩いていると不思議なことに 出くわすこともあるのです。そのひとつが、ミミズの集団自殺。 ある日、たとえば住宅街の中に土がむき出しの一角があって、 そのそばのアスファルトの道路におびただしいミミズが横切る方向でひからびているのを 目にすることがあるのです。他の一角でも同じことがみられます。これはどうした ことなのでしょうか。ミミズの集団自殺、それしか考えられません。 自然界には不思議なことがありますね。これはどういうふうに説明できるのでしょうか。 どなたか教えてください。
揚羽蝶の通り道
家の庭が揚羽蝶の通り道になっているようなのです。しょっちゅう揚羽蝶をみかけます。 もう二十年以上むかし日高敏隆さんの著書、たしか「蝶はなぜ飛ぶか」で、 揚羽蝶の通り道という話を読んだことを思い出しました。 いま手元に本がないので確認しようがなく、うろ覚えなのですが、 たしか揚羽蝶は、食用にする木を伝って通り道を作っているといった話だったと思います。 どんな木が食用なのか考えてみたのですが分かりません。庭に群生している三つ葉、 それともゆすら梅、紅梅、……アゲハチョウの好物は何なのでしょうか。これもご教示ください。


2003.10.1
大阪芸術大学「河南文藝・文学篇」

文学が輝きを失ったのは、いつごろからでしょうか。
わたしが高校生のころ、中央公論社の「日本の文学」が出始めました。 片田舎の書店で、確か最初の配本だった芥川龍之介の巻を手にしたときは胸がおどったものです。 紺色を基調にした装丁でした。二回目の配本は三島由紀夫か、夏目漱石。 三島由紀夫の巻に挟み込まれた冊子には、確か小林秀雄と三島由紀夫の対談が載っていました。 そのころは文学が輝いていました。生きる意味を与えるものとして権威をもっていました。 作家といわれる人たちは、立派な文を書くことに心血を注いでいたのです。
文学がその輝きを失ったのはいつの頃からでしょうか。指標になるかどうか分かりませんが、 芥川賞作品が掲載されている文芸春秋を買わなくなってもう十年以上、 いや、もしかすると十五年にもなろうとしています。 もちろんたまには作品に惹かれて買うことはあるのですが、そんなことはまれになりました。
そんな状況にたいして文学復権の狼煙があがろうとしています。 大阪芸術大学の文芸誌「河南文藝・文学篇」(2003年夏号)です。 ひさしぶりに励まされました。文学への志というものを見せられたからです。 同人誌の衰退が言われていますね。文学に志をもった若い人の参加がなくて、 必然的に同人の高齢化がすすみます。若い書き手は、文学賞を狙って、せっせと ワープロに向かっているにちがいありません。賞をとって認められることだけが目標、 そんなことでいいのでしょうか。売れるものだけがもてはやされるということに ならないのでしょうか。といって、インターネットのホームページによって 売れない小説を発表するといったマイナーなものを救い取っていくような 仕組みはまだできあがっていないように思います。
「河南文藝・文学篇」は、そんな状況に風穴をあける試みとして、わたしは受け取りました。 大学の文芸学科では、いまでもまだこのような志を語ることができるのだというのは、 新鮮な驚きでした。詳細に読んでいくと異論、反論はいろいろあるのですが、 それも含めて楽しませてもらいました。
次号に期待しています。

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