◇2003年11月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘周辺で撮影】

[見出し]
今月号の特集

自立

文学の復権

ショートショート「受容」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー


2003.11.1
自立

わたしの勤務する養護学校の校歌に「社会自立を目標に」という歌詞があります。 「社会自立」というのは、どのようなことを指しているのでしょうか?
また「自立」とは、何をもって自立というのでしょうか?
これまでも校内でそのような問いかけがなされることもあったのです。
就労して、たとえ最低賃金を割る額であっても給料をもらって、せめて自分の 食べる分くらいは稼ぐ、それが社会自立であり、そのために作業能力を磨くと いったことが教育の指針とされてきたように思います。
しかし、ほんとうにそれでいいのか?という疑問が出されることも多くありました。
「障害者の自立とは何か。二四時間介助を受けても、自立していると言えるのか? 自立生活運動が生んだ『自立』の概念は、それまでの近代個人主義的な『自立』の 考え方−だれにも迷惑をかけずに、ひとりで生きていくこと−に、大きなパラダイム 転換をもたらした。」(筆者注:パラダイム転換というのは考える枠組みの転換と いったことでしょうか。)
「ふつう私たちは『自立』というと、他人の世話にならずに単独で生きていくことを 想定する。だがそのような自立は幻想にすぎない。どの人も自分以外の他人によって ニーズを満たしてもらわなければ生きていくことができない。社会は自立した個人の 集まりから成り立っているようで見えて、その実、相互依存する人々の集まりから 成り立っている。」
「介護保険は成立三年後の見直しの過程で、初めは家事支援と呼ばれたサービスを、 生活支援と呼びかえるようになった。(中略)『自分のニーズは自分で決める』ことが できているかぎり、そのニーズを満たすために他人の助けを借りなければならないから といって、『自立』していないとは言えない。」
また、こんな定義もあります。
「『自立』とは何か?
自立生活とは、どんな重度な障害をもっていても、介助などの支援を得たうえで、 自己選択、自己決定にもとづいて地域で生活することと定義できる。」
ここでは、周到に「介助」ということばが使われていますが、「介助」と「介護」も 区別されています。
「『介助』とは、当事者の主体性を尊重しておこなわれる、英語で言うpersonal  assistance のことをさしており、高齢者や障害者を客体として 保護や世話の対象とする介護 care という用語と区別している。」
また、こんなふうな比較もなされています。
「介護保険ではサービスを利用しないことが『自立』の目標、支援費制度では、 サービス利用を前提とした『自立』の達成、と『自立』の概念が根本的に異なる。
介護保険では排泄の自立といったADL(日常生活動作)レベルでの自立が定義されるが、 障害者にとっては、排泄介助が必要なことは『自立』と少しも抵触しない。 トイレ介助を受けながら、自分のやりたいことを自分で決める自己選択、 自己決定を実現することはいくらでも可能である。」
障害者の「自立」をそんなふうに考えることができるとすれば、学校の教育もまた変わって いかなければならなくなるのではないでしょうか。
引用はすべて中西正司・上野千鶴子著「当事者主権」(岩波新書)から。
「自立生活運動を中心に、当事者主権の確立の歩みを、歴史を追って」 取り上げられています。最後には「当事者運動年表」まで掲げられていて、 「1964年アメリカで公民権法成立」から、「2003年支援費制度開始」まで、 当事者運動の歴史を振り返ることができます。
「社会自立を目標に」掲げる養護学校に勤めながら、 当事者運動というもの知らないままに過ごしてきたかを痛感させられました。 もっとも知的障害者の場合は、育成会の研究部会に「本人部会」があり、 またピープルファーストの運動など断片的な情報はあり、どういう方向に 動いていきつつあるのかはうすうすは感じながらも、それらがどういう 潮流をなしていくのかは考えないで来たように思います。また、軽度の知的障害者の場合、 支援費をどのように使っていくのかなど、この本を読んで考えなければならないことを 多く発見させられました。
多くの点で啓発をうけました。
それは認めつつも、少々の危惧もいだかざるをえませんでした。 財政危機がいわれている現在、これだけの手厚い介護は持続可能なのでしょうか。 そのことがひいては、当事者運動というものを危うくする一因にならないでしょうか。 当事者運動が、当事者であるがゆえに批判の聖域をもつことになり、それが原因で退廃して いく、そんな例がどこかで過去にもあったように思うのです。そうならないための 安全装置をいかに組み込んでいくかということが、これからの問題で あるようにも思います。
とにかく、自分なりの興味、観点によるかってな紹介になってしまいました。 いや、たんに断片を引用しただけで、紹介にさえもなっていないかもしれないのですが、 それは許していただくとして、とにかく、この本が、障害者教育にかかわるものに、 たいへんラジカルな提言をしていることは確かです。ぜひご一読をお勧めします。


2003.11.1
文学の復権

文学というか芸術といってもいいのですが、とにかく、その文学の力を借りて、 生徒を揺さぶりたい、ずーとそんなふうに考えてきました。
同僚の教師から聞いた話。
彼が肢体不自由の養護学校に勤務していたころのことです。
文化祭で劇をやったそうです。どんな劇かしりませんが、とにかく彼は 劇を演出したのです。そして、本番のときビデオで劇を写していました。 するとふだん立ち上がれなかった生徒が、なんと劇の中で立ち上がったというのです。 彼はビデオを写しながら涙が止まらなかったということです。
これぞ、文学の力と言えないでしょうか。
ふだんみんなの前で大きな声が出せない生徒が芸術の場というか懐を借りて、 何とか大きく叫んでくれないか。自閉的な生徒がことばのやりとりを楽しんでくれないか。 そんなことを考えて劇を書いたりしてきたのです。
文学の力を信じて。
しかし、最近文学の力が衰弱してきたように思われます。先月号で紹介した 大阪芸術大学の「河南文芸」などは、さしずめ文学を活性化する試みの 一つと考えられます。
それにしても沈滞ムードは打ち払いがたいと 考えざるをえないのです。
そんな気持ちでいたところ、心強い身方を見つけたのです。
詩人の荒川洋治さんです。彼の著書「忘れられる過去」について、 朝日の読書欄で高橋源一郎さんが紹介記事を書かれていて、 おもしろそうなのでさっそく読んでみました。中に、ありました、 ありました、心強い一文があったのです。それは「文学は実学である」という 文章です。
短い文章なので、ほんとうはまるごと引用したいのですが(と、高橋さんも書いています。)、 それはできない相談。ずばり、こころを刺し貫かれた一節を引用します。
「文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように『実学』なのである。 社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、 もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと『実』の面を強調しなければならない。
漱石、鴎外ではありふれているというなら、田山花袋『田舎教師』…… (と、有名な文学作品を列挙)……と、なんでもいいが、こうした作品を知ることと、 知らないこととでは人生がまるきりちがったものになる。それくらいの激しい力が 文学にはある。読む人の現実を生活を一変させるのだ。文学は現実的なもの、 強力な『実』の世界なのだ」
さすがは、荒川洋治さん。わたしは大いに励まされたのです。


2003.11.1
ショートショート「受容」

「こんな劇、やってられへんわ。」
太郎が脚本を床に打ちつけて、軽作業室を飛び出した。
K先生は、太郎を見送って、そのまま文化祭の劇の演出を続けた。生徒たちも、 太郎が飛び出していくのには慣れっこになっていて、動揺はなかった。
三場の練習が一段落して、休憩に入ってから、K先生は教室に行ってみた。 太郎は手持ちぶさたに窓から外を眺めていたが、K先生に気づくと、 ちょっと身構える素振りを見せた。
いま学年で取り組んでいるのは「ぼくたちはざしきぼっこ」という 狂言仕立ての劇なのです。とある家にざしきぼっこがいて、そこの息子が座敷で エレキバンドの練習をするのがうるさいというので、そこの家から出ていく。 するとその家はたちまち没落する。ざしきぼっこは実は地球を脱出しようと 企んでいるのです。環境汚染がすすんだ地球に愛想を尽かしたのです。 かつて教鞭をとっていたことがある宮沢賢治が養護学校に帰ってくるというので、 賢治先生に頼んで、銀河鉄道に載せてもらって地球脱出を図ろうというのです。 ざしきぼっこは、養護学校にやってきます。しかし、ざしきぼっこに地球から去られては、 地球が没落してしまいます。生徒たちは知恵を集めて、ざしきぼっこを 賢治先生にあわせないようにします。しかし、結局ざしきぼっこは賢治先生をつかまえて、 銀河鉄道でつれていってくれて懇願します。 そこで、力のある横綱やら、水戸黄門やらが登場して、地球脱出を阻止しようとするのです。 狂言に唐人相撲というのがあって、みんなで引っ張り合うという筋で、 そこから盗用したようなものです。 最後に、養護学校の生徒たちも、顔を半分白く塗って現れ、「そんなにいうのなら、 ぼくたちもいっしょにつれていってほしい」と言い出す始末です。 生徒たちもまた地球のざしきぼっこなのです。ざしきぼっこや生徒たちに去られては 地球は滅びてしまいます。さすがのざしきぼっこも地球脱出をあきらめざるをえなくなるのです。
しかし、太郎は、そこで水戸黄門やら横綱、それにドラゴンボールの孫悟空が登場して、 綱引きをするのが気にくわないというのです。子供だましで、ぼくたちをバカにしている 感じるらしいのです。
K先生の見方では、太郎はリアルでないと感じて、リアルでないことが、 自分たち生徒への侮辱と受け取ったらしいのです。リアルでないことが自分たちを 見くびったバカにした筋だと、そういう論理なのです。奇妙な論理だとしても、 彼はそう受け取ったのです。
劇の筋を考える前に、生徒の希望を聞いたときに、ドラゴンボールの孫悟空とか、 吉本の芸人、水戸黄門、古畑仁三郎などの意見がでたときも、彼は露骨に嫌な顔をしたのです。 彼が考える劇はもっとリアルなものだったのでしょう。
彼は、養護学校に自分が進学するということを納得しないで進学してきたのです。 障害の受容が十分にはできていないようでした。
だから、自分たちがバカにされるといったことにはとても敏感なのでした。 高校生らしくない振る舞いを強制されることにも拒否反応を示しました。
その琴線に、おとぎ話調の筋立てが触れたのでしょう。そのときも反発していたのです。
「どうして、とびだしていったのかな?」
K先生は、窓際に並んで、そとを眺めながらいいました。遠くに畝傍山や耳成山が 霞んでいました。とても静かでした。
「おれは、あんな筋はおかしいと思う。」
「どこがおかしいと思うのかな?」
「ドラゴンボールの孫悟空も水戸黄門も、あんなのおかしい。オレはやる気がないよ。」 「みんなで筋の話をしたときもそういっていたね。」 「こんな劇は高校じゃあやらない。」
「そうだなあ……、高校生はざしきぼっこじゃないからな……。」
「ざしきぼっこなんて、いないよ。あれはおとぎばなし……。」
「そうかな。おとぎ話の力を借りて、お客さんに分かってもらいたいんだ。 ぼくはね、ここの生徒はみんなはざしきぼっこじゃないかと思っているよ。それを分かって ほしいというか……みんなやさしいだろう。わるい考えなんてこれっぽっちももっていないよ。 世の中の人はわるい人もいっぱいいるけれど、きみの友だちは、みんないいこころばっかりだよ。 だからざしきぼっこだっていうんだ。そのことを知ってもらいたいんだ。」
K先生が少し語気を強めたので太郎は、しばらく考えているふうだった。
「君が考える高校生の劇とはちがうかもしれないけれどね、ぼくはぼくなりに真剣に 考えて劇を書いたんだよ。……でも、どうしてもイヤなら出演からはずしてもいい。 大道具を作ったりするほうにまわってもらうよ。 しかたがないからな。イヤイヤやっていたら、他のものがやってられないからね。」
太郎は、すぐには反論してこなかった。激情は静まったようだった。
「でも、ぼくとしては君に参加して欲しいと思っているよ。」
ちょうどチャイムが鳴ったので、K先生は教室を出ていきながら、穏やかな声で付け加えました。
太郎は悩んでいると、痛いほど分かりました。単に劇のことだけではなく、 この学校に来たことや、ほんとうに高校生なのかとか、将来のことであたまがいっぱいなのでしょう。 彼の力では担いきれないほどの重たい問題かもしれないと、 K先生は切ない気持ちで考えながら階段をおりていったのでした。

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