◇2004年3月号◇
【道明寺天満宮の梅林】
[見出し]
今月号の特集
枝雀を、生で
犬養孝の「万葉の旅」
身近な「わだつみのこえ」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2004.3.1
枝雀を、生で
何とも切ない本でした。
上田文世著「笑わせて笑わせて 桂枝雀」(淡交社)を読みました。
もともとは朝日新聞に連載された記事を本にしたものです。
連載中にも読んではいたのですが、かなり加筆されているところもあるようで、
あらたな感興をもちました。
枝雀の落語を一度聞いたことがあるのです。多分、1991年か2年に、
富田林市のスバルホールで枝雀一門の落語会が催されたことがあって、
家族で見に行ったのです。隣り村の千早赤阪村出身の南光(当時はべかこ)、
それに雀松、そしてもちろん枝雀、そんな陣容だったように思います。演目は何だったのか、
それも覚えていませんが、一度ほんものを生で見たということは貴重な思い出として
あるのです。
宮沢賢治、棟方志功、桂枝雀……、この人たちがいたからこの世は生きるに値すると思える、
そんな人たちが好きなのです。個性的な生のスタイルを持っている人たちとも
言えるかもしれません。
それにしても、この本から受ける印象は、やはり何というか、死ぬべくして死んでいったというか、
それしかありえなかったというふうに妙に納得させられてしまうようで切ない気分が
残ったのです。
枝雀さんは往年のオーバーアクション落語からは、想像できないような繊細なこころをもった
人だったようです。若いころから仏教書を読み、死についても考えていたようです。
寄宿していた恩師の森本の影響もあるのかもしれません。
森本先生も「人間の運命、宿命、死後のことに感心が深く、仏教書を愛読していた。
ずうっと死のことを考えていた人間だ。」ったようです。
その森本先生の回想。
「当時は私の方が”死ぬのが怖い”と言うてまして、逆に彼から『人間はこれまで、
数えられんくらい生まれる、死ぬの繰り返しをしてきた。その流れにのれば、
どうっちゅうことはない。怖い言うたかて先生、死ぬのはいっぺんだけですよ』と、
たしなめられたんです。」
そんな枝雀(当時は小米と言った)が、長男が生まれて間もない1973年に
鬱の病になっている。
「小米が『演芸場に行きたくない』と言い出したのだ。」
「部屋に閉じこもって食事もしません。風呂には入らない。あんなにかわいがっていた
息子の動きも目で追うだけ。ひざの方へきても、見向きもしなくなった」
医者にかかって回復したころ、妻に「『あんなしんどい病気にはもうなりたくない』と語り
『これからは笑いの仮面をかぶる。』」と宣言しています。
そして、笑いの大ブレイクの時期があって、97年、鬱が再発します。
「この三十六年、落語をやっている。だが、やっかいな病気になってしまった。
鬱なんです。……繰り返し落語をやっていて、私はだれ症なんです。
だから、毎日違うようにやっていたら、そのバチが当たって、どれをどうおしゃべりしてええか、
どれが元々のやり方だったのか、よう分からんようになった。シャレにならんのです。」
あの「万事機嫌よく」をモットーとした「笑いの仮面」の下にあった繊細なもの、
とどめようもなく破滅的なところに追い込まれていく苦しみを想像すると平常心では
読めませんでした。
枝雀さんの「ゆめたまご」は、すばらしい落語でした。この「賢治先生がやってきた」の
ホームページには、「ゆめたまご」を本歌取りしたような落語「銀河鉄道 青春十七切符」
−夢たまごU 賢治先生、いじめに乗り出す−があります。つまり、私としては枝雀さんに
恩義があるわけです。
遅まきながら、冥福をお祈りいたします。
2004.3.1
犬養孝の「万葉の旅」
犬養孝の「万葉の旅」が平凡社から再版され、
現代ライブラリーの一冊として出版された。なつかしさのあまり思わず手にとってみた。
私が持っているのは社会思想社の現代教養文庫に入っている「万葉の旅」です。
学生時代に犬養孝の万葉集の講義を一年間受講したことがあります。
犬養先生の万葉集への情熱がつたわってくるような授業でした。
万葉集から引用される歌は、すべて「犬養節」と言われる独特の抑揚で朗誦されるのです。
おかげで、私も犬養節を覚えてしまいました。万葉集を犬養節で詠むことができるように
なったのです。それは思わぬ収穫でした。
学生時代に一度だけ万葉の旅に参加したことがあります。
実質は、甘橿岡にのぼるハイキングでした。
采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
いくつかの歌をろうろうと歌われたと思いますが、私が一番好きな歌は上の志貴皇子の
歌でした。
たしかその後甘橿岡にその歌が万葉歌碑として建っているはずです。
(一言つけ加えさせてもらうなら、こういった歌碑は私はどうも好きになれません。
理由は簡単、あざとさを感じてしまうからです。)
犬養孝先生の授業を受けた最大の功徳は、犬養節をマスターしたことです。
歌会始めのあの長く語尾を曳く発声よりもよほど歌の韻律を味わうのにはてきしているように
思っているのですが、どうでしょうか。
(なお、犬養節といっても聞いたことがないと言われるかたは、講義のようすを写した
ビデオが発売されていますので、興味があるかたは、ご覧ください。)
犬養節は大変私の役に立っているのです。
自分でも歌を詠むことがありますが、できあがった歌を犬養節で朗誦するときがあるのです。
そして、ことばが滞ることがないとやっと安心するといったふうなのです。
2004.3.1
身近な「わだつみのこえ」
最近ニュースを見ていたりすると、これはいつかどこかで見た光景に似ているといった
感覚に襲われることがあります。もちろん、わたしは戦後世代ですから、
そんなことはありえないことなのですが、どうしてそんな想いにとらわれるのでしょうか。
もっともそういった表現はあちこちで目にすることでめずらしい感覚ではないようです。
もしかしたら、本や映画で焼き付けれた影像にダブらせているのかもしれません。
そんなこともあって、今を過去から見てみるといった意味あいで、
「第二集 きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)を読んでみることにしました。
以前に「きけ わだつみのこえ」は読んでいるのですが、今回はワイド版の第二集を買いました。
(ワイド版というのが、歳を取ったあかしですね。)
そういうわけで読み始めたのですが、しばらく読んでいるうちに、ふと父が戦地から母に宛てて
出した手紙や葉書があったことを思い出したのです。父が亡くなってしばらくして、
遺品を整理しているとき、色あせた写真といっしょに手紙やはがき、絵はがきなど貼られたり、
挟まれたりしている未整理なスクラップブックを見つけたのです。
父の軍歴については、残念ながら私自身そんなに詳細には聞いていないのですが、
以前この「うずのしゅげ通信」(2001年8月号)につぎのように書いています。
「遺品の中に「軍人勅諭」が……
父が八十八歳で亡くなりました。大正2年生まれで、明治の息吹が残っている頃の生まれでした。
遺品を整理していたら、記章やら補充兵手牒やらが出てきたのです。父は太平洋戦争に、
8年間従軍させられました。中国戦線だったようです。
遺品の中に、記章と手帖がありました。記章の紙箱には、「支那事変従軍記章」と
上書きされています。記章というのは、銅のメダルのようなもので、三色のリボンがついていて、
軍服の胸に飾るようになっています。
もう一つ、陸軍省監修の「陸軍未入営補充兵手牒」というのがあり、手牒の中身は赤いインキで
「補充兵心得」やら明治、大正、昭和の天皇による「勅諭」やら、
大正、昭和の天皇の勅語やらが印刷されています。また、昭和12年の補充兵教育出席簿があり、
中に教育を受けた証印がいくつか捺されています。もう一つ、帝国在郷軍人会石川村分会、
正会員手簿というのがあり、正会員姓名に父の名が書き込まれています。表紙をめくると中には、
(明治十五年一月四日下賜)の軍人勅諭が印刷されています。」
八年間従軍した父は、生きて帰ってきました。だから、性格には「わだつみのこえ」とは
言えないのかもしれません。しかし、わたしとしては、ここに身近な「わだつみのこえ」が
あると考えたわけです。埃まみれのスクラップブックを取り出してきて、
手紙類を読んでみたのです。父の字は癖があって、大変読みにくいのでそれは解読しながら、
パソコンに打ち込んでいくという肩の凝る作業だったのです。結局手紙と葉書を選んで十いくつ
しか読み解けなかったのですが、しかし、その作業をしていると、父の気持ちが
乗り移ってくるように感じられたのです。新婚間もない二十七、八で否応なく戦争に
かり出された父の気持ちが幾分かは分かるような気がしたのです。その一部を引用してみます。
ほとんど同時期に書かれたものです。(番号は整理のために付けたものです。)
7、【手紙】
《封筒表》
大阪府南河内郡○○村□□
浅田照江殿
「航空」のゴム印、「軍事郵便」の印刷、「検閲済」のゴム印、田辺の印
赤鉛筆で「一、二一」の書き込み(何年か分からないが、他の手紙から類推するに昭和16年の、
1月21日に着いたということらしい)
《封筒裏》
南支派遣菰田部隊松野尾隊岩崎隊
浅田三郎
毎度記(?)しては居るが思ひ出すままに筆を取った。
寒さは事の外厳しいと聞いては居るが父上母上は御達者か、又例の神経痛は出ては居ないか、
俺は其の后到って元気である。
そして新年早々より本部の酒保勤務となり、毎日毎日兵隊相手に日用品や食物を売ってゐる。
案外楽で中隊に居るよりも此の方が俺に合って居るのかもしれない。勿論金銭を取扱って居る
関係で精神的には相当疲れもするが演習もなし午前中なんかまるっきり遊びのようである。
職責(?)もとてもよい人で終日面白く暮れて居る。
先日外出したが広東も中々賑やかになり又朗かになって居る。しかし未だにテロ事件の絶へないのは
嫌である。外出して何をおいても好きなコーヒを飲む事はわすれない。
日本人の数も相当大多数に上って居る。同封の写真は当地の写真屋で買ったものだが参考に
なるのでアルバムに張って居いてもらいたい。その中に原校二枚送るからこれも大切に
保存して居いて呉れ。
所で俺は最近にマラリヤの保有者として取扱れて居るが未だに発病しない。
やはり気持ちの持ちやうで油断すればきっとなるだらう。お陰で病気一つしないのは
皆一家のものや西の家のものやお前の一方ならぬ心配によるものだと感謝して居る。
此の間内堀氏に会って写真を取ったが其の后まだ会ふ機会がないのでそのままになって居る。
同封写真の内で◎印の物があるだろう。此処に居るんだ。とても立派な建物でね、
皆が心配してゐる様な野の臥し処(?)に寝て居るのとは大分違って居るだらう。
それから今度そちらから手紙をくれる時は何でも必ず封筒に入れてもらいたい。
それは先日隆一が呉れた葉書に馬に乗って居る写真とあったが、そんなのはいけないからね。
では今日はこれ位にして居かう。一寸便りがつかぬが始?の関係だと思ふ。
もしも誰か又はお前か病気でもと気になって居るが???と思ってゐる。ちゃんと便りを呉れ。
では。」
9、【手紙】(7と同じ便箋)
《封筒表》
大阪府南河内郡○○村□□
浅田清様
16.1.21の丸スタンプ、6の所が破れている。
「航空」のゴム印、「軍事郵便」の印刷、「検閲済」のゴム印、「田辺」の印
赤鉛筆で「一、二一」の書き込み(何年か分からないが、他の手紙から類推するに
昭和16年の、1月21日に着いたということらしい。
《封筒裏》
南支派遣菰田部隊松野尾隊岩崎隊
浅田三郎
御無沙汰致して居ります。お変わりありませんか。
さぞ査察にてお急しい事でせう。お察し致します。
当地は今時候外れの雨で終日降ったり止んだりの妙な天気ですよ。
所で小生も無事暮らして居ります故安心してください。
本月の八日やり本部の酒保勤務となり販売に毎日毎日ガンバっている所です。
まして兵隊の食欲の盛んなのには特?な乍らびっくりして居る次第です。
此のころは中隊のやうに??もなくのんびりと暮らして居り内地で想像されて居る様な
一線の気持ちはありません。しかし年末には討伐に行きましたよ。四日間野に臥し山に寝て
一発も撃たずに又帰って来ました。そんなわけでニュースとては無く唯だ其の日其の日を
すごして居ると云ふに過ぎません。
又外出も出来ますが広東市内には??ものがなく兄上の要求してゐられる様なものは
一つとしてありません。最近テロ事件の続発で困ったものです。正月の二日に衛兵に
立ってそぞろに内地の正月を思ひ今頃はと皆の姿をうかべて感無量でした。
それから今度便り下さる時は必ず封書にして下さい。そうでないと困る時がありますので。
又近い内に便り致します。
二伸
姉うえより??御送り願って居ります。よろしく御傳へ下さい。
礼状は普通便で出しておきましたが。
谷君に会いました面会に来て呉れましてね。二時間ほど話して行きましたよ。
とても元気です。
三郎
兄上様
8、【手紙】(7と同じ便箋)
《封筒表》
大阪府南河内郡○○村□□
浅田照江殿
16.1.27のスタンプ
「航空」のゴム印、「軍事郵便」の印刷、「検閲済」のゴム印、「南條」の印
《封筒裏》
南支派遣菰田部隊松野尾隊岩崎隊
浅田三郎
昨今は丁度内地の雨雪の如く毎日毎日雨である。此の気候ばなれのした一日全暇を
得て筆を取る。毎度の事ながら達者で居るだらうね。最近余り便りが来ないのでもしや
病気でもと案じて居るがどうかね。お前の事だから余り無理を通して体を悪くせない様
事前に母なり西に相談して何事も無理せざる様にせよ。どうもお前の性質から誰にも
相談せずがまんしてゐる様な気がしてならないのだ。唯此は俺の想像だ。
こんな事が当たらずにお前が元気で居て呉れる事をどんなに望んでゐるか分からない。
事の大小を問はず又俺は何事もかくさずに知らせてもらいたいのだ。
一寸便りが来なければ此んな心配をしなければならないなんて俺も大分よゆうが無いんだね。
出征以来母や叔母の教訓を守り通して只管に体の健全ならん事に注意してゐる。
此はお前に対して俺の取るべき義ムでもあり又皆様に対する報恩でもあるんだ。
戦線に来て吾々に取っては家の事を思ひ妻子の事を思ふのが唯一の楽しみなんだ。
娘子軍も居る、しかし此んな事は吾にはまして俺なんかには問題でない。
軽挙して汚名を取らんよりは日頃のお前達の配慮を思ひ出せばなんでもない事だ。
俺は皆にましてお前に誇ってもよいと思ってゐる。消灯后に思ひ出すお前達の事を只一つの
楽しみとして暮らしているんだ。それから父も今頃は聞いてゐるだらう東京?
角力のラジオ毎晩聞いてゐるよ。ニュースもね。だから俺の事は余り心配するな。
それよりもお前の体に元気を付けて此んなに丈夫になりましたと俺の前で見せびらかせる様な
(?)体になってもらいたい。
二伸
父も母も健康か。充分孝養を??して呉れ。同封の写真面白いから買ったのだ。
よろしく保管して居いて頂きたい。尚送付した絵はがきは出来るだけ残して居いてもらいたい。
内堀氏と共に写したのも送る
以上
三郎より
照江殿
これらの手紙を読み解きながら書き写していると、戦地での父がどのような気持ちで
過ごしていたかが六十年以上の時を隔ててひしひしと伝わってくるのです。徴兵されて
戦場に送り出されるということがどういうことであるのか、それが体温さえ感じられるほどの
身近なものとして迫ってくるような気がするのです。それは新鮮な驚きでした。
そんなこともあって少しながくなりましたが引用しました。
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