◇2004年5月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘周辺で撮影】

[見出し]
今月号の特集

励まし

二つの老い

映画の誘惑

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

2004.5.1
励まし

「生徒から励まされてやってきました。」
私もほんとうにそんなふうに思っていますし、同僚からも同じことばを聞くこともあります。
しかし、「生徒から励まされる」とはどういうことか、とあらためて問われると答えに 窮してしまうのです。
これこれこういうふうに励まされている、と具体的にいうのはたいへんにむずかしいのです。 分析できるようなものではないからです。
それで、「生徒から励まされる」ということをフィクションで具体的にイメージ化して みようと試みたのが、先月号の「うずのしゅげ通信」のショートショート 「中村選手の絵」なのです。
そういった機微が表現できているかどうか。まあ、感想をお寄せください。

この「励まし」の構図を理論化しようとするとなかなかむずかしいのです。
どういう枠組みで考えていけばいいのか迷っていたとき、 鷲田清一「〈弱さ〉のちから」(講談社)に出会いました。 (鷲田清一氏の本については以前にも紹介しました。)
この本は、「ある意味でその存在に、深く深く〈弱さ〉を抱え込んで」いる人たち 十三人を訪れた、鷲田氏の報告からなっているのです。

「それらの《ホスピタブルな光景》にはしかし、いつも、どんな場面でも、 ある反転が起こっていた。存在の繕いを、あるいは支えを必要としているひとに 傍らからかかわるその行為のなかで、ケアにあたるひとがケアを必要としているひとに 逆にときにより深くケアされ返すという反転が。より強いとされる者がより弱いとされる者に、 かぎりなく弱いとおもわれざるをえない者に、深くケアされるということが、 ケアの場面ではつねに起こるのである。」

そして、「〈弱さ〉の力について考えてみたい……。」とも言っておられます。

鷲田氏の文脈で言えば、ショートショート「中村選手の絵」が訴えたかったのは、 「ケアにあたるひとがケアを必要としているひとに逆にときにより深くケアされ返すという反転」、 あるいは「〈弱さ〉の力」についてということになります。
「生徒に励まされる」ということばの内実はこのようなことなのではないかと思うのですが、 どんなものでしょうか?


2004.5.1
二つの老い
−−フジ子・ヘミングと佐野洋子−−

NHKの「わたしはあきらめない」で、ピアニスト、 フジ子・ヘミングさん話を聞いていて、ひっかかったところがあるのです。

「だんだん私は清らかになりましたよね。むかしはまだ黒いものが渦巻いていたけど、 人間というのはみんなエゴイストでしょう、だれだって。神様なんていませんからね。 それをだんだん人生を渡るにつけて、だんだん清らかになっていくのが、……、 そのために私たちは生まれてんだと思いますよね。……(「それとご自分がやってきたピアノ、 クラシックですね、音楽というのは勿論すごく密接な関係が……」という長嶋一茂さんの 質問を引き取って)ありますよ。絶対あるわよ、精神的なものがすごくありますよね。」

それまでに、若い頃は悪いことをした、という話が伏線としてあって、 さらに人間というのはみんなエゴイストだという認識を受けて、 「それをだんだん人生を渡るにつけて、だんだん清らかになっていくのが、……、 そのために私たちは生まれてんだと思いますよね。」というふうに話が進んでいるのです。
自分を振り返って、そうだろうか、とひっかかってしまったのです。人間というのは、 ほんとうに「人生を渡るにつけて、だんだん清らかになっていく」のだろうか。 たしかに、そういう面もあるかもしれないが、しかしごうつくな年寄りだっているだろう。 やはり、これはフジ子・ヘミングさんの一つの覚悟、「そのために生まれてんだと思う」という 理想が吐露されているのだと考えたい。
自分もそうありたいと思うが、そんなふうになれるだろうか。
フジ子・ヘミングの音楽の秘密が一瞬だがかいま見れたような瞬間だったように思う。 やはり歳をとってから世に出たのは偶然ではないと思いました。

老いということでいえば、いま佐野洋子さんの著書「神も仏もありませぬ」 (筑摩書房)を読んでいるのですが、そこにあるいさぎよいきっぱりした老いのなんと 魅力的なことでしょうか。
佐野さんといえば、例の「百万回生きたねこ」の作者なのです。
本があまり好きではなかった私の息子が、小学校時代、私が買い与えた「百万回生きたねこ」 をしぶしぶ読んで感想文を書きました。それはそれでよかったのですが、息子は次の夏休みも 「百万回生きたねこ」で読書感想文を書いたのです。そして、もしかすると次の年も。 彼はまさにその本のお世話になっているのです。佐野も歳をとられました。 しかし、何と言っても「百万回生きたねこ」の作者のこと、その老いは、 やはりみごとというしかない老いなのです。読む価値があります。 強い意志に支えられた老いというものがいかにさばさばしたものであるか、 感じ取ることができるのではないでしょうか。ぜひ、ご一読を。

自分もそうありたいと考えてしまうようなみごとな老いというしかありませんね。 しかし、どうして二つながら女性なのでしょうか?


2004.5.1
映画の誘惑

最近、仲間と会う機会があって、映画の話になりました。 「ラストサムライはくだらなかった。あれではアカデミー賞を取れるはずがない。」とか 「スペイン映画の『何とかの母』とかいう作品がよかった。」とか、映画談義になったのですが、 そのとき、そういえば、ここ十数年、映画館にいって映画を見ていない、 ということに気がついたのです。
知らない観客と詰め込まれた暗い空間で、大きい音響と光の明滅に浸りきって映画の世界に没頭する。 忘れ去っていた楽しみを 思い出させてもらったのです。また、映画にはまってもいいなと、 あらためて誘われた気分でした。
映画といえば、つい先ごろ、BSで小津安次郎の特集をやっていました。 これまでにも見たことはあるのですが、どうも小津映画のよさがわからなくて、 どうしてあんなに評価が高いのかを自分なりに考えてみようと、今回、何本か観たのです。 丁寧に撮られていて、自分が育ってきた時代の雰囲気になつかしさは覚えるのですが、 そのよさがいまだに十分には納得できませんでした。何度目かの 「東京物語」なども、生死をもそんなに 起伏なくのみこんで流れていく日常生活がしっとりと描かれていて それなりの感動はあるのですが、 良質の私小説を読んだ気分で、映画としては何かもの足りない感じが残ったのも事実です。 小津礼賛の本でも読んで教えてもらわないと 分からないのかもしれません。そんなふうな名人芸なのでしょうか。 かつて私が心酔した映画というのは、たとえばチャップリンであり、 タルコフスキーであり、黒澤明といった作品群でした。 映画よりも本を重視して来たようなところがあって、 映画にはそんなに詳しくはないのですが、 眼が悪くなってこれ以上の読書には耐えられないということもあり、 活字の世界はほどほどにして、映画の世界に鞍替えしようとひそかに企んでいるのです。 友人たちの話を聞きながら、そんなきっかけをあたえてもらったのでした。

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