◇2004年9月号◇

【近つ飛鳥近辺で撮影】

[見出し]
今月号の特集

永平寺を訪ねて

渡辺一史著「こんな夜更けにバナナかよ」

被爆体験を手話で語る

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

2004.9.1
永平寺を訪ねて

永平寺をおとなうのは二度目になります。最初は、大学2回生か、3回生のころ、 大野市出身の友人に誘われて夏休みの何日間かを彼の実家にやっかいになって過ごしたとき、 つれていってもらったのです。もう三十五年くらい前になります。そのときの記憶といっても、 ぼんやりしていて、何か階段をのぼっていったような覚えがある程度で、 その階段も回廊の階段なのか、石段なのかもはっきりしないのです。思いだそうとすると、 何だかそれもアイマイになり、永平寺を取り上げたテレビを見たりしているので、 階段といっても本当の記憶かどうかあやしいものです。要するにほとんど記憶が残っていません。
だから今回の訪問は、はじめてと言ってもいいようなものだったのです。
最初に吉祥閣で説明を受けてから、三々五々七堂伽藍を見て回りました。
法堂(はつとう)にお詣りしてから、 道元禅師の遺骨を安置してある承陽殿にいって焼香までさせていただいたのでした。 そこでは、道元禅師生前のころとおなじように朝昼晩と食事が供されているのです。
道元は、宗教家としても、思想家としてもすばらしい天才だったことはまちがいありませんが、 また、日常作法にもたいへんうるさい方であったように思います。風呂に入る作法から、 トイレの使い方、食事の仕方まで、きっちり決められた作法があるそうです。
はじめて、道元を読んだのは、いつごろのことでしょうか。 まったく何のことやらわかりませんでした。これが日本語かと思ったものです。 いまでも歯がたたないにはちがいないのですが、 その分からない思いを分からないままにずーと抱え込んであたためてきたことによる親しみはあります。
振り返ってみると、思春期は死への恐れがつねにこころにひっかかっていました。
そんな中で道元のことばは新鮮なおどろきでした。

「生も一時(ひととき)のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとえば、 冬と春とのごとし」(現成公案)

「生も一時のくらゐ」「死も一時のくらゐ」だというのです。「くらゐ」というのは位ですね。 いまオリンピックで3位のことは「3rd position」と言っていますが、 そのポジション。生も一時のポジション、死も一時のポジションだということでしょうか。
これを先日亡くなった中野孝次氏はつぎのように解説しておられます。
「生があり死がある。それは冬があり春があるのと同じ当り前のことで、 別にどうということではない。ただそのものとして受け取るがいい、と言っているのである。」
もちろん、そこまでさとるのはたいへんなことなのでしょうが……。

先日(2004.6.12)NHKスペシャル「永平寺・104歳の禅師」の中で、 永平寺78代住職宮崎奕保(えきほ)氏へのインタビューがありました。 こころに残ったことばがあります。
子規の「病牀六尺」を引用して
「人間は、いつ死んでもいいと思うのが、悟りだと思っておった。ところがそれはまちがいやった。 平気で生きておることが悟りやった。」と語っておられたのです。
「平気で生きておることはむずかしい。死ぬときが来たら、死んだらいいんやし、 平気で生きておるときは、平気で生きていたらいいのや。」
このことばはぼくのこころに残ったのです。 確かに言われてみれば、いろんな危険や病気をかいくぐるようにして、 この生を平気で生きていくのもたいへんな ことのようにも思えてくるのです。
その番組のことが記憶にあったので、 今回の永平寺行はいっそう意味深いものとなったのでした。


2004.9.1
渡辺一史著「こんな夜更けにバナナかよ」

夏休みに、渡辺一史著「こんな夜更けにバナナかよ−−筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」 (北海道新聞社)を読みました。
筋ジストロフィーで全面介護を必要とする鹿野靖明さんとボランティアたちを 描いたノンフィクションです。
ボランティアたちの中心にいる鹿野靖明さんの個性が、エゴイスティックな 面まで含めて深いところまでよくとらえられています。
本の中で著者は、そのことについてボランティアに問いかけています。
「そんな鹿野の魅力とは、いったい何なのだろう。」
それに対するボランティアの答えは様々です。
「シカノさんの魅力は、弱い部分がとてもわかりやすいこと」
「フツウはあれだけ好き放題やってたら、まわりはうんざりしていなくなっちゃうと 思うんですけどね(笑)。どうして彼から人が離れていかないのかっていうのは、 ぼくもつねづね不思議でしょうがないんですよ。なんででしょうかね。」
そこで、「寅さんと”とらや”の関係」という理論が出てきたりする。
「ぼくらの時代には、シカノさんの話をサカナにすると酒席がすごく盛り上がりますからね。 (中略)例えば、ぼくやワタナベさんの話で、ひと晩中、場が盛り上がるなんてことがあるのかな? フツウはありえないんじゃないかな」
「どういう人だと、一晩盛り上がれるんでしょうね」
「そりゃあワガママなヤツでしょう!」
「とらやにとって、寅さんというのはやっぱり”わがままなヤツ”なんですよ。 でも、みんなそのワガママに、ふと人生を感じちゃうというね……。 逆にあのキャラクターが変わってしまったら、 シカノさんの面白味の半分はなくなっちゃうような気がするんだけど」
「もう一つ言うと、障害を抜きにするとシカノさんのキャラクターもなくなっちゃうから難しいんですよね。 障害がなきゃ、今のシカノさんじゃないだろうし、こういう言い方は語弊があるのかもしれないけれど 『障害あってのシカノさん』というところがありますからね」
ボランティアたちとそういった会話があって、著者もまたそのことを認めざるをえくなる。
そんなふうに自分をさらけ出している鹿野さんにたいして、彼を介護するボランティアたちは 自分自身を振り返らざるをえないはめに陥ることがしばしばなのです。 そこで、ボランティアたちの人生が浮かび上がるのです。それも、ふだんの生活においては、 けっして意識されることがないような深みまでもが照らされて。家族でさえも、 親密な関係を築くことが困難な時代にあって、それは得がたい体験をボランティアたちに もたらしているのです。だから、彼らは、ボランティアをやめてからの生き方に 影響を受けているにちがいないのです。
家族関係をのぞいて、人間関係が疎遠になりつつある現代において、 いや、家族関係でさえますます疎遠になりつつあるこの時代に、 鹿野さんを焦点にしたボランティアたちの人間関係は、ほかでは得がたいものに なっていることがわかります。
鹿野さんは、本の中で、自分のことを「教師」と捉えておられますが、 たしかに鹿野スクールはボランティアたちには「私の大学」、いや、 それ以上に人生の学校になっているのかもしれないと納得させられてしまいます。
ともかく、この本、大収穫です。お勧めの一冊です。


2004.9.1
被爆体験を手話で語る

長崎に原爆が落とされた日、8月9日にNHKスペシャル「体いっぱいで原爆を語りつぐ」が 放映されました。生まれつき耳が不自由な山崎栄子さん(77)が、 18歳のときに被爆した体験を語りはじめた経緯、また手話によるその語りの様子が丁寧に伝えられて いました。 以前にも書いたことがありますが、ぼくは以前にろう学校に勤務していたことがあり、 少しだけですが、手話ができるのです。しかし、手話ネイティブである山崎栄子さんの 手話は読みとりにくかった。そして、そこにこそ彼女の手話による語りの独特さがあるのです。 山崎さんは、以前から、近くの中学などで被爆体験を語ることはあったようなのですが、 さらにいろんな場所で被爆体験を語りはじめるきっかけになったのは、 昨年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に被爆者代表として出席してからのようです。 (そのときの場面も出てきていましたが、手話通訳があまりにも流暢にこなれすぎていて、 彼女の手話の個性をまったく削いでいるようでした。式典ともなると、 それも仕方ないことかとも思うのですが。)
山崎さんは、長崎からそう離れてはいない田舎に疎開していて、 直接の被爆はまぬかれたのですが、病院に勤めておられた姉が実家にいて、被爆したのです。 その姉を捜しに、その日の夕方、歩いて長崎市内に入って行かれました。 そのときの経験が迫力の手話で語られるのです。それは、現在の中学生でも 「気合いが入った手話だった」と言わせるほどのものでした。それは手話による被爆体験談、 魂をこめた手話による迫真の語りでした。
さらにぼくがみょうに納得したのは、彼女は、爆弾の被害について、思い違いをしていたというのです。 長崎の被害が実は原爆一つ落されたことに起因するということを知ったのは1年後。 また、その後結婚した夫から原爆がどんなものなのか詳しい説明をうけたのは三十年後、 その説明をきいたおかげで被爆体験を語ることができるようになったというのです。 ろう者がどれほどのコミュニケーションを疎外されているのかをそれは物語っているのでした。 (振り返ってみると、ろう学校で教えていたころのことを考えても、手話で原爆の話をして、 どれだけわかってもらえたか、心許ない気がします。原爆の情報がこれだけわかっていて そんなふうですから、まして戦中ともなると説明が困難なのは当然かも知れませんね。)
それにしても、手話の力、魅力というものをあらためて感じさせてくれた番組でした。 簡単に手話の力といってしまってはいけませんね。ネイティブの手話といったほうがいいかもしれないし、 また伝えたいことがあって、必死に伝えたいと願ったときの身ぶり言語としての 手話の力とでも言った方がいいのでしょうか。とにかく、あらためていろんなことを 考えさせられた番組でした。

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