◇2004年10月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

憤怒の秘仏に恐縮する

「とりかえしがつかない」

吉田満著「戦艦大和ノ最期」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

2004.10.1
憤怒の秘仏に恐縮する

「紀伊山地の霊場と参詣道」が、ユネスコの世界遺産に登録されたのは、 ご存じでしょうか。
関西では、そのことを記念して、様々な行事が計画されています。
吉野の蔵王堂の秘仏、金剛蔵王権現の特別ご開帳も、その一環だそうです。
「世界遺産登録記念行事公式ガイド」には、つぎのように説明されています。
「秘仏・金剛蔵王権現像は、天正二十年(1592)の蔵王堂再建以来、 蔵王堂(国宝)のご本尊として四百数十年にわたり鎮座されている日本最大の秘仏です。 これまで、四年一会の密教儀式『伝法潅頂会(でんぽうかんじょうえ)』以外に、 私たちの目に触れることはほとんどなく、一年の長きにわたり開帳されるのは、 像立開眼以来、初めてのことです。」
案内してもらって、行って来ました。蔵王権現、聞きしにまさる迫力でした。
本堂の正面には、中央に釈迦如来、左に弥勒菩薩、右に千手観世音菩薩と並んでおられるのです。 普通なら仏のお顔で鎮座しておられるのですが、ここでは違うのです。大きさ、 躯の構え、憤怒の形相、すべてが相まって息をのむばかりの迫力です。
最初におまいりしてのですが、そのあと内陣に入れていただきました。
お詣りする場所からさらに仏像に近い位置を内陣と呼ぶようです。内部の人にしか許されない 空間なのでしょうか。そこに、一メートルくらいの障子の衝立でくぎられた 升目が並んでいるのです。それぞれの区画には蝋燭がともされています。 お坊さんの説明では、そこは内陣といって、本来は入れないところだそうですが、 特別に香炉をまたぐか、わたしは何かの小枝に水を付けて、印を結んだ指でしゅっしゅっと 切ってもらって、いわば即席に浄めてもらって入ることができたのです。 そして、担当のお坊さんが線香をたててくださって、それが燃え尽きるまでの間、 そこでお祈りをすることが許されたのです。
金剛蔵王権現の憤怒の視線が注がれる位置、仏像の足下に座禅させていただきました。 見上げると仏像の視線に射すくめられたような感じになるほど近いのです。 最初は居心地がよくなかったのです。しかし、しばらくするとその位置にも慣れてきました。 線香の煙を眺めながら黙想しました。それは祈りだったのでしょうか、 あるいは蔵王権現の怒りをもろにあびての、懺悔だったのでしょうか。 時間が来て、立ち上がったとき、しかし何か快さを感じていたのです。ふしぎな感覚でした。 瀧に打たれて身を浄めたような気分でした。まさに、蔵王権現の憤怒の瀧を身に浴びたような、 そんな爽快感だったのかもしれません。

激しい怒り(憤怒)はどういう意味をもっているだろうかと思っていたところ、 新聞につぎのような記事を見つけました。(朝日新聞2004/9/11夕刊) 「神も仏も怒っている?」と題されていて、そのなかで蔵王権現について 触れられていました。
「激しい怒りの蔵王権現は、金峯山を中心とする修験道の本尊として信仰を集める。
仏像には、四天王や金剛力士のような激しい怒りを表現しているものも多い。 しかし、それらは本尊を守る守護尊であり、本尊はあくまでも穏やかな表情をしている。 『蔵王権現のように、憤怒の本尊は珍しい』と大阪大の藤岡穣・助教授(仏教美術史)は 指摘する。
では、なぜ蔵王権現は怒っているのか。それは、かつて守護尊だったからではないか、 というのが藤岡さんの考えだ。
10世紀に書かれた高僧の記録には、金峯山に9世紀ごろ、 守護尊を二つ従えた如意輪観音が本尊としてつくられたとある。 しかし、わずか数十年のうちに、守護尊の一つが本尊に取って代わる。(中略) 『短期間にどうして交代劇が起きたのかは、今のところ手がかりはありません』と藤岡さん。
神や仏の怒りの真意は、人知でははかりしれないのだろう。」
そんなふうに解説してありました。古代人にとって、憤怒とはどういう意味を もっていたのでしょうか? 
ここ何年か私の机の上に敷いたビニールに怒りの像の大きな写真を挟んでいました。 それは、美術全集の宣伝用のチラシに印刷された仏像でした。毎日目にする憤怒の像が 何か私に生のエネルギーを与えてくれるような気がしていたからです。 そんなことがあって、憤怒の像が、たんに古代人にだけではなく、 われわれ現代人にとってもどのような作用を及ぼすのかは興味深いところですね。


2004.10.1
「とりかえしがつかない」

この人生には「とりかえしがつかない」ことが多すぎるような気がします。
最近のニュースを見ているとそう感じるのです。
長崎で少女が、同級生に殺されるという事件がありました。父親にとっても、 また加害者にとっても、それは「とりかえしがつかない」ことです。 父親が、その「とりかえしがつかない」ことからたちあがろうとするようすは、 粛然とさせるものがありました。
「とりかえしがつかない」ところから、まだ生きていかなければならない、 その辛さがひしひしとつたわってくる、そんな場面に出会うことがあります。 それが多くなったような気がするのです。
もちろん、「とりかえしがつかない」は、死にかかわっています。
最近、事故や犯罪による死がおおくなっているのでしょうか。
しかし、考えてみると、前の戦争中は、そんな事例がもっとたくさんあって、 ほとんどの家族が「とりかえしがつかない」ところから、 戦後を出発してきたのではないでしょうか。
そんなことを考えているところに、大江健三郎著「『自分の木』の下で」(朝日新聞社)の 中で、つぎのような文章に出くわしました。
「取り返しのつかないことは(子供には)ない」という題です。
大江氏は、「子供の時、なにより恐ろしかった言葉はなんだろうか?」と振り返って、 それは「取り返しがつかない」という言葉であることに思い当たるのです。 大江氏の父が亡くなった日の夜、母が遺体の枕元に一人で座って
「取り返しがつかない! と何度もいっているのでした。」
「あの遠い夜、森のなかの谷間の家で、まだ若いといってもいい年齢だった母が、 取り返しのつかないこととして、父の死を悲しみ嘆いていただけじゃなく、 取り返したいと思い、それができないので怒っているのを、私は暗く寒い廊下で 感じとっていたのだと気がついたのでした。」
そして、大江氏は本題に入って行かれます。
「子供にとって、もう取り返しがつかない、ということはない。 いつも、なんとか取り返すことができる、というのは、人間世界の『原則』なのです。 (中略)それでは、子供が取り返しがつかないことをすることはないかといえば、 現実にあるのです。人間にとって、それが自分の目で見るなにより苦しく辛いことだ、 と私は思います。子供が取り返しのつかないことをする、とはどういうことか? 殺人と、自殺です。ほかの人間を殺すまで暴力をふるい、 自分を殺すまで暴力をふるうことです。」
そして、「このような暴力を子供たちにふるわせない、子供自身もそれをふるわない、 と決意することが人間の『原則』だ、と私は信じます。」と最初に述べた「原則」を繰り返して、 結論づけています。

ロシアで子供たちがテロに巻き込まれるという事件も起きています。死者は380人を越え、 その半数近くが子供だと伝えられています。
「とりかえしがつかない」ことがいっぱい起こっているのです。家族の嘆きを見ていると、 どこでも同じだと感じずにはおれません。
この「とりかえしがつかない」という感覚にもっと敏感にならないといけないのでは ないでしょうか。


2004.10.1
吉田満著「戦艦大和ノ最期」

吉田満著「戦艦大和ノ最期」(講談社文芸文庫)ヲ読ム
以前ヨリイツカハ読モウト考エテイタガ、漸クニソノ思イヲ遂ゲタル心境ナリ 予想ニ違ワズスバラシキ本ナリ
直接ノキッカケハ、文芸春秋(2004.9)ノ特集「日本を震撼させた57冊」 ニオイテ鶴見俊輔氏ガ慫慂セラレタルニヨル
鶴見氏ガイカニ高ク評価シテオラレルカハ、本書ヲ「長編詩」ト規定シテ オラレルコトカラモ窺イ知ルコトガデキル
戦艦大和最期ノ光芒、ソノ悲壮ナル戦闘ノアリサマ、抑揚ノ効イタ詩文ニオイテホウフツタリ
特攻作戦ノ無謀、自ズカラ明ラカナリ
乗員三千有余人、死地ニ赴クニ、何ヲモッテオノレヲ宥ムルヤ
故郷ニ新妻ヲ残シテユク若者ノ心中ヤイカニ
考エルダニ胸塞ガルル思イシキリ
涙ヲトドメルコトアタワズ
カクモカケガエナキ若者多数ヲ死ニ赴カセタ責任ハダレニアルノカ
カノ無謀ナル特攻作戦ヲ計画セシモノハ責任ヲトリタルヤイナヤ

しかし、吉田満氏が活写しておられる戦艦大和の乗員に下士官が多いのはやむを 得ないことなのでしょうか。一兵卒も登場はするのですが、 寄り添い方に違いがあるような気がしたのです。たしかに、 最期まで人間的なプライドをもって行動したのは下士官だったのかもしれませんが、 一兵卒も生死の危機に立たされたあわれは同じだったのではないでしょうか。

「ワレ果シテ己レノ分ヲ尽セシカ 分ニ立ッテ死ニ直面シタルカ」

この「分」が、一兵卒と下士官では、違ったのでしょうか。
私の父は、入隊するとき、下士官の道を選ばず、一兵卒として入隊しました。 以前「うずのしゅげ通信」に父の戦地からの手紙を載せたこともありますが、 とても「己レノ分ヲ尽」して勤務しているとも、また「分ニ立ッテ死ニ直面」するように 戦闘に加わっているとも思えませんでした。
この吉田満著「戦艦大和ノ最期」、感銘を受けたのは事実ですが、文語「長編詩」にまで 昇華された文章から抜け落ちていったものが、そういった一兵卒への寛容、 寄り添いといったものだとしたら、その感銘も削がれるような気がするのです。 詩情に涙しつつも、そういったこだわりが澱のように残ったのも事実でした。 考え過ぎでしょうか。

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