◇2004年12月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

感銘本ランキング

ラジオ深夜便

村瀬学「宮崎駿の『深み』へ」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

この「うずのしゅげ通信」、発刊から5年がたちました。
年の瀬、本屋さんに行くと新しい日記が並べられています。手にとっては見るのですが、買う気がおこりません。毎日書くとなるとあらたな決意がいります。しかし、考えてみると、この「うずのしゅげ通信」、月刊で3テーマ、日記代わりと言えなくもないと思います。忘れっぽくなって、この1年間に読んだ本を思い出そうとしても、すぐには浮かんでこないありさま、嘆かわしいかぎりですが、「うずのしゅげ通信」のバックナンバーを見ると、その頃、どんな本を読んだのか、どんなことを考えたのかを思い出すきっかけになったりするからです。
そんな日記のようなものにつきあっている暇はないなどとおっしゃらずに、またご訪問ください。読んでいただけることを励みに続けていきたいと思います。
とりあえずは、今年一年のご愛顧を感謝いたします。よいお年をお迎えください。

2004.12.1
感銘本ランキング

恒例の今年読んだ本のランキング
1、渡辺一史著「こんな夜更けにバナナかよ」(北海道新聞社)
2、大江健三郎著「『自分の木』の下で」(朝日新聞社)
3、上田文世著「笑わせて笑わせて 桂枝雀」(淡交社)
4、川西政明著「小説の終焉」(岩波新書)
5、佐野洋子著「神も仏もありませぬ」(筑摩書房)
6、関川夏央著「現代短歌そのこころみ」(NHK出版)
7、平田オリザ「『リアル』だけが生き延びる」(ウェイツ)
8、池内恵著「現代アラブの社会思想」(講談社現代新書)
9、中沢新一・赤坂憲雄著「網野善彦を継ぐ」(講談社)
10、辛淑玉「怒りの方法」(岩波新書)


今年は、何といっても、渡辺一史著「こんな夜更けにバナナかよ」が圧倒的な印象です。 深く揺り動かされ、これからも影響が残るだろうと思います。
大江健三郎氏の本は、読み続けてきたのですが、最近は語り口がやさしくなって、その分含蓄が深くなったようです。 「『自分の木』の下で」も味わい深く読みました。
上田文世著「笑わせて笑わせて 桂枝雀」は、 新聞に連載されていたときから愛読していたのですが、一冊にまとめられると、 そこから人間桂枝雀の個性があざやかに浮かび上がってきて、早世をやむを得ぬことと納得すると同時に、惜しまれもするのでした。 今年の思わぬ収穫でした。
最近おもしろい小説がなくて、もう小説という文学の形式は終わったのかもしれない、 と考えていたところ、川西政明氏が、小説の様々なテーマごとにその終焉を論じるという形で 「小説の終焉」を出されました。
「神も仏もありませぬ」は、名著「百万回生きたねこ」の著者佐野洋子氏の老いてますます意気軒昂な痛快過激エッセー。元気づけられました。
リアルを盛り込めなくなった表現形式は、滅びるしかないのかもしれません。そういう意味で、新しくリアルなテーマを見つけられなければ、小説は終焉を迎えるしかないとして、では、もっとも古い文学形式である短歌はどうなのか? 関川夏央著「現代短歌そのこころみ」を読みながら、短歌が今を生き延びている理由はどのあたりにあるのだろうと考えてしまいました。短歌の何が現代においてリアルなのでしょうか?
その問いは演劇においても問う意味があるようです。平田オリザ著「『リアル』だけが生き延びる」は、そのことのヒントを与えてくれます。
パレスチナから同時多発テロ、そしてイラク戦争にいたる中東情勢はわれわれには 分かりにくいものですが、アラブ世界を下支えするイスラーム思想の流れを概括したのが池内恵著 「現代アラブの社会思想」です。パレスチナのPFLPと共闘した日本赤軍のテロから、 どういう過程でウーサマ・ビン・ラーディンに到るのか、十分わかったとは言えませんが、勉強させてもらいました。
中沢新一・赤坂憲雄著「網野善彦を継ぐ」は、「無縁・公界・楽」という名著を上梓した歴史家網野善彦氏を 偲んだもの。
辛淑玉「怒りの方法」は、コミュニケーションとしての怒りのテクニックを伝授したもの。 それぞれにおもしろかったのです。

今年の感銘本ベスト10はとりあえず以上のようになりました。新書版が多いということは、その程度の読書しかしていないということでしょうか。


2004.12.1
「ラジオ深夜便」

NHKの「ラジオ深夜便」をご存じですか? いい内容がもりだくさんです。先日も、ロマンチックコンサート宮沢賢治「どんぐりと山猫」をやっていました。林光さんが作曲された曲を吉村あみこ(?)さんが歌う一人コンサートです。 なかなかよかったのです。
その前は、日曜夜のサンデートークで、 「こんな夜更けにバナナかよ」渡辺一史さんと最首悟さんの対談がありました。けっこう興味深い内容が盛りだくさんなのです。 ところが残念なことに、あらかじめ内容を知る方法がわからないのです。 新聞の番組欄にも詳しい内容は書いてありません。何を見ればいいのでしょうか。
せっかくいい内容をやっているのですから、もっとみんなに知らせることが大切なのではないでしょうか。
NHKさん、お願いです。一週間分の内容をどこかに掲載してほしいのですが、 いかがでしょうか?

追伸 林光さんと、吉村さんの名前を検索していて、 NHKのホームページにラジオ深夜便の番組表を見つけました。知らないこととはいえ、 失礼なことを書いてしまいました。申し訳ありません。内容が充実していることを知っていただきたかったということなので、悪しからずお許しください。 番組表、これからはせいぜい利用させていただきます。


2004.12.1
村瀬学「宮崎駿の『深み』へ」

村瀬学「宮崎駿の『深み』へ」(平凡社新書)は、たいへんすばらしい本でした。 宮崎駿論として画期的なものだと思います。
わたしはこれまでかなり忠実な村瀬学氏の読者でした。 氏が養護施設に勤務しておられた頃に書かれた「初期心的現象の世界」「理解おくれの本質」以来、ほとんどの著書を読んできました。 なぜなら、そのころの氏のテーマが知的おくれというのはどういうことかというもので、 それはわたしの興味と重なっていたからです。
最近は子ども論に重点を移しておられるようですが、それもまたなかなか興味深いものです。 興味のある方は、実際に氏の著書にあたってもらうしかありません。
さて、前置きはそのくらいにして、今回の宮崎駿論は、どのようなものなのでしょうか。
まずは、著者のスタンス。
「最初に私の決めたことは、作品の説明を宮崎さんの『説明』を使っては 絶対にしないということでした。」
その上で、例えばつぎのような問いを突き詰めていきます。
「風の谷のナウシカ」論においては、「まず『腐海』とは何か」、 次に「ナウシカとは誰か−−火と風を使う使者」、そして「『王蟲』とは何者か」
宮崎氏の説明を拒否する姿勢は、まずアニメ「風の谷のナウシカ」の最初のテロップを 疑うことから始まります。そのテロップは「腐海」について次のように説明します。
「巨大産業文明が崩壊してから1000年、錆とセラミック片におおわれた 荒れた大地にくさった海…腐海と呼ばれる有毒の瘴気を発する菌類の森のひろがり  衰退した人間の生存をおびやかしていた」 これまでは、この解説をもとに「腐海」をまるで「死の森」のように説明されてきたが、 それは誤解ではないのか。「この『森』にはたくさんの生き物が生きている」ではないか、というのです。 「『腐海』の問題というのは、ある意味では『菌の活性化』のテーマを扱うものでもあった ということなのです。」
そして、その論は、人間内部の「腐海」に行き着きます。
「私たちは、このように自分の内部に『腐海』を抱えています。『腹』と呼ばれる腐海です。 ここでは食べ物が『消化』されますが、そのためにはさまざまな『腸内細菌』が 分解を手助けしてくれています。」
こう言われてみると、たしかに腐海のイメージが、違ってくることがわかります。
「千と千尋の神隠し」論は、もっともユニークな展開になっています。 「ゆ屋」の「ゆ」を「ゆ=喩」と解釈するのです。興味のある方は、本書を読んでもらうしかありません。
しかし、その論は、なぜ「千と千尋の神隠し」がおもしろくないかという理由の 一端を教えてくれました。比喩の物語などおもしろいはずがないからです。最近の宮崎アニメが おもしろくないわけがわかりました。
初期の作品、「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」。 あの新鮮なスピード感のある影像、胸のときめくような物語の展開、腐海も天空の城もトトロも猫バスも 違和感なく受け入れられた……あのアニメの世界はどこへいってしまったのでしょうか。 私は宮崎アニメはこれらの三作品に尽きると考えているのです。

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