◇2005年4月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

オキナグサ

手話をうつくしく

留保

「うずのしゅげ通信」バックナンバー



2005.4.1
オキナグサ

2005.3.22の朝日新聞の声欄につぎのような投書が載っていました。
広島県の小川洋子さんからのもので「オキナグサに春の訪れを感じ」と題されています。
「うずのしゅげを知っていますか」という書き出しで始まる宮沢賢治の童話 「おきなぐさ」があります。「うずのしゅげ」とはオキナグサの東北での呼び名です。 そのオキナグサが、我が家の庭にも咲き始めました。」
声の欄で交流があった方から種を送ってもらったそうです。「祈るような気持ちで育てて」 こられて、「つい先日まで、葉も茎もつぼみも銀白色の産毛に覆われ」ていたのが、 ついに開花したというのです。
「賢治は童話の中でオキナグサを絶賛しています。それが我が家に根付いてくれたことが とてもうれしく、ペンを執りました。」と、締めくくられています。 オキナグサは、タンポポの綿毛のように種を飛ばすのですね。その種、 どこかで手に入らないものでしょうか。まずは、そんな感想。
そもそも、この欄、「うずのしゅげ通信」と命名したのは、 綿毛の種があっちこっちに飛んでいって根付いてくれることを願ってのものなのです。 どうでしょうか、毎月せっせと発信しているのですが、どこかに根をおろして、 花を咲かせているのでしょうか。
また、ホームページにならんだ脚本は全体として一つの星座であってほしいと考えています。 教師として、養護学校の教師として、折々に切実なテーマとして考えてきたことを、 自分なりに大切に育てて、劇に仕立て上げたものです。 いつのまにか十いくつもの作品になってしまいました。上演されたもの、 はじめから上演をあきらめて いるものなど、脚本によって運命は様々です。ただ、どの作品にもそれぞれ愛着があります。 こちらも一つでも読んでいただけたらと思います。読むだけでも楽しく、 癒される、そんな作品であってほしいという祈り、また、 非力ながら、賢治先生の教えをどうにかして伝えていきたいという切なる願いが 込められているからです。


2005.4.1
手話をうつくしく

先日NHK教育放送でストリートミュージシャンのデュオ「アツキヨ」が 紹介されていました。
あつしさん(佐々木厚)がギターを弾き歌い、難聴のkiyoさん(中村清美)が 手話を取り込んだダンスと 一部歌を添えるというかたちのデュオでした。kiyoさんはかなり高度な難聴のようですが、 話しているときはそんなことをあまり感じさせないしゃべりかたです。 しかし、自分の声を聞いてフィードバックできないということで、歌の音程を合わせにくいようです。 声を出して相方のあつしさんに聞いてもらい、音の高い低いを彼の手の動きを見て調節し、 その感覚を覚えるという何ともまどろっこしいやり方で 歌を歌えるようになったのだそうです。 その歌もさることながら、わたしが感心したのは、手話を取り込んだその身振りの すばらしさでした。その躍動感、優美さは目を見張らせるものがありました。 手話はいくらでもうつくしくなりうる言語だと思いますが、その実践がまだまだ 開発しつくされていないと思います。たとえば、日本語が詩歌や能狂言によって そのかがやきがましたように、手話もまたいろんな試みがなされることで、 そのうつくしさが見直されていくはずです。ろう者劇団の試みなどもそうですが、 「アツキヨ」は、身体表現の場において、手話表現のうつくしさをめざす試みの一つとして 期待できそうです。


2005.4.1
留保

朝日新聞2005.3.12「私の視点」欄につぎのような意見が掲載されていました。
「親の付添いをなくす会」代表の平山由紀恵さんの意見です。
「障害児教育 差別生む「分離教育」の再考
「「障害の有無によらず、すべての子どもが地域の小・中学校でともに学ぶ教育を展開する」。 こうした考えを基本理念にした「障害児教育将来構想」(中間案)を昨年暮れ、 宮城県教育委員会がまとめた。(中略)日本では79年に、養護学校が制度化されてから、 「障害児には専門の指導が必要だ」として、障害の有無による「分離教育」が原則になった。 90年代に入り、国連が統合教育を国際的な原則として認め、 国内でも障害のある子が普通学級で学ぶ動きが出ている。」
と現状を紹介してから、「もちろん、中には、別学や別級が必要な子もいるだろうが」と 留保をつけてではあるが、「分離による弊害のほうが大きいのではないか」と述べている。
「「隔離」という「分離」が差別を助長した」という考え方があって、 統合を勧めているのですが、「重度障害児が普通学級を希望する場合、 親の付き添いが当たり前という風潮」があって、 それにたいして疑問を投げかけておられるのです。

全般に理解できる論調で異存はないのですが、その論にのっかって言わせてもらうと、 平山さんが、留保を付けておられるところ、「もちろん、中には、 別学や別級が必要な子もいる」という部分を大切にしなければならないのではないか ということなのです。
聴覚に障害のある生徒には言語の獲得期に 手話を母語とするろう者の集団が、 また軽度の知的障害のある生徒にとっては社会性を身につける時期に 高等養護学校のような対等の集団が必要になります。仮に分離教育が問題だとしても、 そういった場合の留保まで否定すべきではないと思うのです。障害の種別、程度に応じて 問題の在処をきめ細かに見ていく 必要があるのではないでしょうか。(このことについては、先月号の「うずのしゅげ通信」でも 触れました。また、これまでも何度も取り上げてきました。 興味のある方はバックナンバーをご覧ください。)

追伸
「手話を母語とする集団」というものを考えるのに参考になる記事が先日の新聞に 載っていました。(2005.3.15朝日新聞)
手話も左脳で理解 日本語と同じ、実験で明らかに」という記事です。
酒井邦嘉・東京大学助教授(言語脳科学)が、手話を「母語」とするろう者の脳を 機能的磁気共鳴映像法(fMRI)という何やらむずかしい方法で調べた結果 「聴者が日本語の文を、ろう者が手話の文を理解したときの両方とも、 左脳の同じ場所が活性化することがわかった。」というものです。
「酒井さんは「手話にも音声言語と同じ神経基盤があることが示された。 ろう教育では、手話を身につけさせたのちに、第2言語として日本語を学ぶべきだと思う」と 話している。」
聴覚に障害をもった幼児が言語を獲得する時期に、 手話を「母語」とする集団が必要なことはおのずと明らかだと思うのです。 そういった条件が満たされなければ、耳の不自由な子どもは第1言語を身につけることができません。 第1言語が獲得できていないと、第2言語の獲得にも支障を来すことになるかもしれません。 こういったこともまたきめ細かに考えていかなければなないことだと思うのですが。

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