◇2005年9月号◇
【近つ飛鳥風景】
[見出し]
今月号の特集
フォーエンジェルズ定期コンさぁト
ジオラマ
「エンデの文明砂漠」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
一人語り「芭蕉翁桃青〜その内なる枯野から」
上演のお知らせが掲示板にあります。ご覧ください。
2005.9.1
フォーエンジェルズ定期コンさぁト
8月6日(日)、奈良のかしはら万葉ホールであった「フォーエンジェルズ」の定期演奏会に
行って来ました。
私が勤める学校の卒業生5人で結成されたバンドで、もう十年近くも続いているのです。
5人でフォーエンジェルズというのも変なのですが、学校時代に4人で結成したときの名前を
そのまま使っているそうです。
まず、最初は「父と母へのバラード」、キーボード担当のYくんの詩にメロディーをつけた曲で、
Yくん自身が歌いました。歌のできはともかくこれにぼくは感動したのです。
もう十年くらい前になりますが、Yくんが学校に通っていたころ、
電車の中で彼の詩のノートを見せてもらったことがあるのです。
内容についてはほとんど忘れているのですが、そのときの印象は残っています。
ことばづかいなどにおかしいところがいっぱいあるのですが、その表現がじつにユニークなのです。
解説してもらってもわからないような、ちょっとまねの出来ない飛躍があったりして、
ふしぎな歌詞でした。
Yくんの心の世界を垣間見させてもらったようで何か得をしたといった気がしたものです。
「歌にしたいんや」と熱っぽく話していました。たしかに彼の詩には表現したいという
熱意が溢れていたのです。(確か、私の記憶にあるのは、戦うヒーローを歌ったアニメの
主題歌調だったように思います。)
そんな思い出もあって、彼の歌を興味深く聞かせてもらいました。
ことばが十分聞き取れたというわけでもなく、また、音程ももしかするとはずれていた
かもしれません。
しかし、とてもよかったのです。あとで、考えてみると、
それはやはり歌の中に、歌詞や歌い方の中に彼の表現意欲が、
つまりは彼自身が現れていたからだと思います。
端的に言えば、その歌がまさに彼そのものだったからです。
「父と母へのバラード」の歌詞をきっちり知りたくて、家に帰って、
インターネットで調べてみました。
父と母へのバラード
−教えてくれた勇気への道−
心に今抱きしめられる
ぬくもりに今 心は動く
愛に苦しみなんかないのさ
今でも思い出す あの横顔
父はいつも俺のことを思ってくれた
母はいつも 明るい笑顔忘れない
苦しくても母と父は
優しさで包んでくれたよ
父と母の明るい優しさに
抱きしめられたよ
母上 父上の声に
いきづく俺の命さ
母さん 父さん ありがとう
祈りをありがとう
光をありがとう
お父さん お母さん ありがとう(叫ぶ)
「母上 父上の声に/いきづく俺の命さ」という言い回しなど、
ちょっと劇画調で、彼らしい表現になっています。昔見せてもらったノートを思い出します。
演奏だけではなく、途中に詩のコーナーもありました。
フォーエンジェルズの全員が自作の詩を読んでくれました。
いつも繊細な音を聞かせてくれるキーボードのKくんは、詩もまた繊細で素直なものでした。
ギターのNくんは、手でリズムを取りながら明日に向かう心構えを聞かせてくれました。
そしてボーカルのMくん、ボランティアをすることで苦手だった笑顔が素直にだせるようになった
という話に納得させられました。
そして、ドラムのHくん、話し好きの彼らしく、犬とまで話をしたいという楽しい詩でした。
またYくんの詩は、そのままで「スピッツ」の歌になりそうです。
演奏だけでは浮かび上がってこない個性を見ることができて、
このコーナー、印象的でした。
楽しい演奏会のなごりを胸に万葉ホールの外にでると、
来るときにはぱらついていた雨がすっかりあがっていました。
〈追伸〉
文章を書き上げてから、インターネットで「フォーエンジェルズ」を検索してみると、
何と書き始める前には探し出せなかったホームページを発見したのです。
そして、オリジナル曲もたくさんあって、CDまで出していることが分かったのです。
また、興味のある方は訪問してみてください。
そんなこんなで、いろいろ書かせていただきましたが、
来年の第10回定期演奏会を期待しています。
2005.9.1
ジオラマ
「戦後60年の夏に捧ぐ 人間この愚かですばらしきもの展
−南條亮【人形(ジオラマ)の世界】−
と題した展覧会に行って来ました。
この展覧会のことは、テレビで取り上げられていて、興味を持ったのです。
場所は大阪南部堺市の泉北ニュータウン・泉ヶ丘駅前のパンジョホール(8/10〜20)。
会場に入るとまずは、夕焼けの空を背景にした空襲の焼け跡がジオラマで再現されています。
けっこう大きくて、空襲の跡は、ほんとうにこんなもだったのだろうという雰囲気が
ただよっています。市内の焼け跡からは、生駒から葛城の山並み、
その間に二上山まで見通すことができます。白煙があがる焼け跡には人形たちが
茫然とたたずんでいます。もっと見ていたい気持ちを抑えて、さらに巡っていくと、
焼け跡から復興しつつある、戦後まもないころの大阪の街の様子が再現されています。
闇市、満員電車、浮浪者、パンパンなどが、実にリアルに表現されています。
作者の南條亮(なんじょうあきら)さんは、1943年生まれの62歳なので、
これらの風景は覚えておられないはずです。調べられたのでしょうが、
細部がしっかりと作られています。その他には、昭和20年から30年ころの小さな町の様子、
田舎の生活などが再現されていて、じつになつかしい思いがしました。
その他には明治の道頓堀のジオラマもありましたが、やはり引き込まれかたが、
ちがったように思います。
南條亮さんは、もともとは人形劇の舞台美術を手始めに、やがて
からくり時計やら、パノラマ人形からくりを手がけるようになられたようです。
芸術的な価値とかということではなくて、大変興味深くなつかしく拝見しました。
30分から40分が見る間に過ぎていってしまったのです。
こういったノスタルジーは、なぜこんなにも切ない余韻を残すのでしょうか。
2005.9.1
「エンデの文明砂漠」
昨年、私の学校では文化祭で「モモ」という劇を上演しました。
あのミヒャエル・エンデの「モモ」を下敷きにした時間泥棒の劇でした。
ミヒャエル・エンデさんは、もうすでに亡くなっていますが、最近、
彼の本を読んでショックを受けたので、そのことを書こうと思います。
その本というのは、日本放送協会から出版された「アインシュタインロマン」
シリーズの最終巻の「エンデの文明砂漠」というものです。十数年前にNHKで
「アインシュタインロマン」シリーズが放映されていたのをご覧になった方もおられると
思います。その放送が本になっていたのです。6巻本を古本屋で見つけて買ったのです。
その第6巻「エンデの文明砂漠」を読んで、晩年、彼が現代文明にいかにせっぱ詰まった危機感を
抱いていたかということをあらためて認識させられたのです。
その危機感をピックアップしてみます。
第1章が「時間の戦争がはじまっている」というふうになっています。
冒頭つぎのようなことことが書かれています。
「私は第三次世界大戦ははじまっていると思うのです。
ただ、私たちがそれに気づかないだけです。なぜならこの戦争は、
従来のように領土を対象とする戦争ではなく、時間の戦争だからです。」
どういうことなのでしょうか?
「私たちが今行っていることの、恐ろしい結果の大部分は、私たちが生きている間に
経験することはないでしょう。だからこそ私たちは、そのことに無頓着なのです。
(中略)私たちは、意識を変えることで、まだ見えない危険に
対応できるようにならなければなりません。この危険が見えたときには、
すでにもう手遅れなんですから。」
「私たちの子孫の生きる空間を文字どおり奪うからです。私たちは大地を破壊し、
空気を汚染し、河川・海を荒廃させます。この先、何千年も足りたであろう資源を無意味に
消費しています。」
「私たちは社会的破局と環境問題的破局、この二つから一つを選ばざるを得ないのです。
ここにおいて、本当にこの悪のルーツに迫るためには、私たちのお金のシステムを
変革することが必要です。」
「私たちは、現実の経済および工業生産が、つねに成長し続けるように
強制することがないお金のシステムを得なければなりません。(中略)私たちは、
皆がよい生活ができ、しかしそれ以上ではないお金のシステムを実現すべきです。」
エンデの危機感がひしひしと伝わってきます。では、どうすればいいのでしょうか。
「唯一の解決法は意識の変革」です。そして、そこで、ファンタジーが
クローズアップされてきます。
「私にとってファンタジーとは、新しい観念を形成する、または、既存の観念を新しい
関連形態におく人間の能力なのです。その意味では私たち現代の人間にとって、
具体的なファンタジーを発達させることほど必要なものはないのです。
この具体的ファンタジーによってこそ、私たちは、まだ見えない、
将来起こる物事を眼前に思い浮かべることができるのです。」
それがミヒャエル・エンデにとってのファンタジーの意味です。
彼がいかにファンタジーに期待を込めて書いていたかを窺わせます。
彼は「ファンタジー=新しい観念を形成する人間の能力」と言います。
それを支えているのが新しい感受性だと思います。モモの何がすばらしいかといって、
彼女の感受性のナイーブさは、類のないものです。
そして、その感受性は何によっているのでしょうか。以前、この「うずのしゅげ通信」でも
触れたことがありますが、彼女はおくれをもっているのではないかと思うのです。
その理由の一つは、「サーカス物語」のヒロイン エリについて、作者自身が「知恵おくれの女の子、
おはなしの中では王女」といったふうに注しています。また、この「サーカス物語」のストーリーは
「モモ」の中にもほとんど同じ形であって、そこでは、モモが王女になっていたのです。
そういったこともあって、モモ自身もまたおくれをもっていると
考えてもおかしくないと思うのです。
ただ、彼女は、おくれはあるかもしれませんが、じつに深い知恵をもっているのです。
モモは、現代の社会になじむことなく、異質の感受性を保ち続けています。
それは、私の学校の生徒にも部分的には言えることのようにも思うのです。
彼らは、現代の「つねに成長し続けるように強制する」
「現実の経済および工業生産システム」とは、あいいれないところがあります。
大量生産システムの流れ作業にもついていけないし、
また、必要以上のお金を求めるということもありません。
一言でいうと、まったく現代の資本主義にはむいていない人たちです。
また、彼らは現代の社会がそうなったことに責任もありません。
私は、彼らが「おくれている」ことに引け目を感じることなく胸をはって生きていける社会の構想、
そういったこともエンデのいう新しい観念の一つの大切な要素だと思うのです。
ミヒャエル・エンデがいうように
ファンタジーによって新しい世界が構想されるのなら、その発信源の一つは子ども、
一つは障害を持った人たちでなければならないと思うのですが、どうでしょうか。
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