◇2006年4月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

福岡高等学園で「ざしきぼっこ」(続)

映画「雨あがる」

いい詩をみつけた

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2006.4.1
福岡高等学園で「ざしきぼっこ」(続)

「ぼくたちはざしきぼっこ」福岡高等学園の文化祭で 上演されたということは、先月号の「うずのしゅげ通信」で紹介しました。 それを受けて、劇を指導された幸田先生から掲示板に投稿をいただきました。
「ざしきぼっこ」の最後はお笑いでもりあがることになっています。 お笑いについては、もっと地元になじみのあるものに変えていただいてもよかったと思います。 例えば博多にわかなどを題材にできないものかと考えます。関西では何と言っても吉本新喜劇ですね。 博多では深夜に放映されているそうですが、生徒たちになじみがあるのでしょうか。 われわれは小さいころから親しんでいるので、違和感がありません。 それにしても、あの十年一日のごときギャグ、くだらないようですが、 意外と息がながいので感心させられてしまいます。
以前にこの「うずのしゅげ通信」でも書いたことがありますが、 生徒たちは「ボケとツッコミの構造」は十分に使いこなしていて、 日常的な会話でもそれらしいやり取りを見かけることもあります。 やはり関西人だからでしょうか。教師としても、生徒がボケたときは ちゃんとつっこんでやらないといけないので、心構えが必要ですね。
また、生徒たち、おやじギャグも大好きなのです。 それで、「ぼくたちはざしきぼっこ」を上演するとき、 生徒からそんなギャグを募集して使いました。
「ギャグ3連発を受けてみよ。」
「ひとーつ、妻に用事でつまようじ。」
このギャグも生徒が考えてきたのを採用したものです。
「モモ」も「ざしきぼっこ」と似たようなお笑い合戦のパターンを踏襲しています。 お笑い路線はかなり定着していて、 つい先ごろ卒業生を送る会でも ピン芸でギャグ10連発とかをやっていました。演じた生徒は 思いついたギャグをノートに書きためたりもしていたのです。彼は、修学旅行の飛行機の中で ギャグ勝負をして、友だちを打ち負かせたようで、相手の生徒がくやしがっていました。
お笑いの質の理解においてもいろんな生徒がいるはずですし、 また地方によってお笑いの伝統もことなったりするので、 この大団円のお笑い場面は、生徒に分かりやすい形で 改変していくのがいいと思っています。
しかし、お笑いといって侮ってはいけないと思います。 それが生徒たちの身に付いたとき、 生きていくためのおおいなる力になる思うのですがいかがでしょうか。


2006.4.1
映画「雨あがる」

ふしぎな余韻をのこしています。一編のメルヘンと考えなければならないと思います。
そういった意味では、小泉堯史監督の意図は成功しています。しかし、 いかにメルヘンとは言え、登場人物があまりにも単純化されすぎていて、 やはりリアリティを感じ取れないといった不満ものこります。 宮崎美子演じる三沢の妻たよなど、絵に描いたような良妻で、 観ているこちらの方が気恥ずかしくなるほどです。 従来の黒澤映画と比べると、演技の密度とでもいうべきものは、 はるかに及ばないようにも思いますが、この作品にはそれなりのスタイルがあって、 黒澤明の脚本から小泉監督が受け継いだメッセージは充分に伝わってきます。
主人公は、寺尾聡演じる三沢伊兵衛。
今は浪々の身ですが、彼の生き方がテーマです。
雨が降り続いているために川止め、旅人たちは宿で暇を持てあましています。 止宿人の中に侍夫婦がいます。これが三沢伊兵衛と妻のたよ。 同宿の人たちの間では、降り籠められた不満からか、 諍いがたえません。見かねた三沢伊兵衛がどこからか酒肴を都合してきます。そこで飲めや歌えの ドンチャン騒ぎ。そんな状況から物語がはじまります。
次の日、三沢伊兵衛がひょんなことから若侍の切りあいに出くわし割って入ります。 それが、たまたま馬で通りかかった殿様の目に入り、 お城に招かれます。三沢の腕を見込んで剣術指南番にと乞われ、聞かれるままに身の上を語ります。
この殿様、いやにものわかりがよくて、現実に「こんな殿様はいてへんやろう」と つっこみを入れたくなるようなキャラクターです。
そこで、三沢伊兵衛の身の上話。

「私、若年のころ奥州の去る小さな藩の勘定方に勤めておりました。 しかし、どうも一日中机に向かって、その、書き物をしているのが退屈至極で、 やむなく脱藩して……」
「逃げ出したのか?」
「はい、そして江戸へ出ようと思ったのですが、何分夜逃げ同然の身の上、路銀の用意もなく……」
「それで、どうした?」
「友だちの一人がいい策を教えてくれました。」
町道場で勝負を挑み、立ち会い寸前であやまる、というものです。
「そのようにすると道場主はいい気分になるらしく、親切にもてなしてくれます。 奥へ招き入れて膳を出し、一本つけてくれたり、旅の餞別にといって若干の金子を 紙に包んでくれたり……」

そのようにして最後にたまたま訪れた江戸の無外流(?)の道場で気に入られて、 腕を磨いたというのです。辻月丹というのが道場主。
彼は、立ち会ったのち三沢の構えをつぎのように評します。

「これで分かった。わしはこれまで数え切れぬほど多くの人と立ち会いをしてきたが、 お主のような人ははじめてだ。一見隙だらけのように見えるが平然と構えていて勝とうとする 欲がさらに見えぬ。捉えどころがまったくない、私はどうしていいかわからなくなった。 それで木刀をなげた、いやほんとうにまいったよ、きょうは……はっはっはっ……」

そして、辻道場の内弟子になって、師範代にまでのぼりつめるのです。

「先生の推挙である藩にめしかかえられましたが、それからがいけません。 どうもうまくいかないのです。何だか評判が悪くなって、その藩を辞し、その後、 二つの藩を転々としまして、今は浪々の身です。妻はあなたは宮仕えはムリだともうして、 あきらめておりますが……」

しかし、三沢の生き方を、彼の妻が言うように、「宮仕えはムリ」な性格というだけで 割り切っていいものでしょうか。わたしには、どうも、それだけだとは思えないのです。 まわりとの関係の中にもっと普遍的な何かがあるようにも思うのです。
それを補強するのが、三沢が御前試合をしくじった後、殿様と側女との間で交わされる会話です。

「いかがあそばしました?」
「何でもない。」
「また癇癪をおこしたのですか?」
「実はきょう庭で試合をして池にたたきこまれた。」
「まあ」
「それはそれでかまわぬが、ワシを池にたたきこんだ相手があまり鄭重にわびるので、 思わずどなりつけてしまった。おとなげない話だが、勝った者の優しい言葉は負けた者のこころを 傷つける。何だかからかわれているような気がして腹が立つ。」
「おもしろそうなお方ですこと、優しさというものは、時によって人のこころを 傷つけるのでしょうね。」
「そうかもしれん。だれだって気の毒に思われるのはいやだ。自尊心を傷つけられるから。」
「お強い方もたいへんですこと、……ほんとうに強い方はどんなに善良に生まれついても だれかしらの怨みをかってしまうでしょうし……」
「うーん、待てよ……あの男、たしかどこに仕官してもうまくいかないと言っていたが、 なるほど、そうか、そうかもしれん。うーん。」

このあたりのやり取り、映画のメッセージが凝縮されていそうです。
もともと彼は、「一日中机に向かって、書き物をしているのが退屈至極」で、 耐えられない性格のようです。じっと座っていることが苦手、 だから、雨がやむと林の中で居合いの型をなぞって汗を流したりしています。 また、雨に降り籠められた同宿者への接し方をみても、善良であることも明らかです。 もともとが善良で無欲な性格なのかもしれません。辻月丹は、 「平然と構えていて勝とうとする欲がさらに見えぬ。」というふうに表現しています。
そんな彼が、無外流の道場で腕を磨いて強くなります。そうするとどうなるのでしょうか。 せっかく辻先生に推挙してもらったのに、「どうもうまくいかないのです。 何だか評判が悪くなって」、藩を辞めてしまいます。「一日中机に向かって、書き物」をする 仕事ではありません。辻先生の推挙ですから、師範代とか腕を使う役目のはずです。 それにもかかわらず「評判が悪くな」る、その理由はどのあたりにあるのでしょうか。 殿様が側女相手に分析するような機微がそこにはあるのでしょうか。
「勝った者の優しい言葉は負けた者のこころを傷つける。」
「だれだって気の毒に思われるのはいやだ。自尊心を傷つけられるから。」
そんなことで、何だか評判が悪くなってしまったのでしょうか。
側女のことば、「ほんとうに強い方はどんなに善良に生まれついてもだれかしらの怨みを かってしまう。」
それが、黒澤明のメッセージなのでしょうか。
たしかに、力が強くて、道徳的にも及ばない、となると凡人としては、 二つながら負けということで立つ瀬がありません。 「何だか評判がわるくなってしまう」のもわかる気がします。 では、強くて悪辣ならどうなのか。人は負けて悔しさを感じつつも、力では太刀打ちできません。 しかし、悪辣非道ということで、自分の方が道徳的には優位に立つことができるわけで、 それは、それなりに納得できるところもあるのでしょう。 では逆に、弱くて悪辣、弱くて善良な人間にはどういうふうに対して いるのか。ほんとうに謙虚に接することができるのか。 あれやこれやと様々に想像を巡らして、考え込んでしまいました。
現代に置き換えてみるとどうなるかも考えてみました。 剣の腕を仕事能力というふうに読み替えてみます。 剣術指南番というのは、仕事だからです。すると三沢は仕事も凄腕、 おまけに善良な性格ということになります。
そして、殿様が、三沢の腕、人柄を見込んでヘッドハンティングしようとします。 ところが、保守的な家老がなかなか首をたてにふらない。後がまを狙っていた人たちも彼を怨み、 隙あらばと命を狙っています。
「ほんとうに仕事ができる方は、どんなに善良に生まれついてもだれかしらの怨みを 買ってしまい」、「どうもうまくいかない」、「何だか評判が悪くなって」しまう、ということに なりかねません。いや、なりかねないどころか、まさにそんなふうな立場に追い込まれて、 とどのつまり、彼は不遇に甘んじなければならなくなってしまう。
現代のサラリーマン諸氏、たいがいは自分の力が認められず、 相応に待遇されていないと感じておられるのではないでしょうか、 そういった心情がこの「雨あがる」の三沢に共感を抱かせる要因のように思うのです。 さらに小泉監督は、その三沢にこうあってほしいという妻を配して、 社会的な不遇と癒しをテーマにしたメルヘンを完結させた。 この映画が支持された背景には、こういった機微があったのではないか、 というのが私の分析なのですが、納得していただけるでしょうか。

追伸
夕食時の夫婦の会話
「『雨あがる』を観ていて、勤めということについて、いろいろ考えさせられた。」
「わたしはほとんど観ていないけど、あの宮崎美子さんの演技、 なんか入っていけないというか……。」
「しかし、寺尾聡はなかなかよかった。善良なところがはまっていたし……、 勤めに不向きなところがぴったり、……ぼくも 定年まで後2年、それまでにはみじめなこととかいろいろあるのかな、 それを考えるとなかなかつらいものが あるなあ。」
わたしは、そこで映画を観た後の感傷的な気分を振り払うように、つい言わでものことを 付け加えてしまったのです。
「ストレスで円形脱毛症になるかもしれん。」
妻は「ふーん」といたずらっぽく笑って、
「定年になってから円形脱毛症になったりして……。」
「なるほど、妻にいじめられて……、その可能性の方が高いかもしれんなあ。」と私。
「でも?」と、妻はしばらく考えて、「円形脱毛症になっても、 どこがなったのかわからへんのとちがう?」
「うん、何……。」と、妻の不意打ちに、ことばに詰まってしまった私。
「頭の上のあたりはもう脱毛症だし、まだ毛が残っている脇のあたりに丸い穴があくの?  それだったら、わかるけど……。」
私としては、「ここらあたりか?」と、脇の髪を掴みながら、 「でも、ぼくが毎日家にいるとなると、そのストレスで君に円形脱毛症が現れる ということも考えられるよなあ。」と、せいぜいそんなふうに反撃するしかなかったのです。
しかし、これぞ妻たるものの現実、リアリティだと、あらためて痛感させられました。
やはり三沢伊兵衛の妻は、 どう考えてもリアリティがない。そう思いませんか?


2006.4.1
いい詩をみつけた

阪田寛夫詩集(ハルキ文庫)を読んでいて、教室で使えるいい詩を見つけました。
阪田寛夫といえば、あの有名な「サッちゃん」や「ねこふんじゃった」の作詞者ですね。
以前にもこの欄で書いたように、私は理科の教師なのです。高1で「地球のよごれ」という 単元を勉強しています。地球がたいへんなことになっている、という内容です。 「地球のたいへん 1」が地球の空気の汚れの話、「地球のたいへん 2」が地球の温暖化、 「地球のたいへん 3」が地球の水の汚れ、といった具合です。地球のたいへんは まだまだ続くのですが、今回は割愛します。
で、話を元に戻すと、この「地球のたいへん 3」の水の汚れのところで、 この詩が使えるんじゃないかと踏んだわけです。
では、その詩を紹介しましょう。

題は、「『絶対に』は否定の副詞」というのです。 これは生徒にはすこしむずかしいかもしれませんね。でも、内容はそうでもありません。 こんなのです。

 「絶対に」は否定の副詞

 バケツ一杯のごみを
 父ちゃんは気軽にざばっと
 川へ投げこんだ
 文句言ったら
 夜は見えないからいいと言う
 みんながよごすからおなじだと言う
 言いながらタバコに火をつけて
 マッチを棄てた
 しまいにタバコも投げこんだ
 あついよう
 にがいよう
 くさいよう
 ごみごみの川からその時声がきこえた
 そういえばぼくはさっき
 キャラメルたべて空箱すてた
 こないだなんか死んだネズミを棄てちゃった
 ああ よくないな
 反省しちゃうな
 夕方はあんなにやさしく匂った川が
 今はぶくぶくあぶくを吹いている
 痛かったろう
 にがかったろう
 まずかったろう
 なあ 川よ
 「絶対に」は否定の副詞だ知ってるか?
 今日からはもうぜったいによごさないぞ

 それからタケシのうちへ行った
 タケシもぜっ    たいよごさない
 と言った
 そのいきおいでねじこんだ
 とうちゃん とうちゃん
 川をよごすは自分をよごすこと
 ぼくらはもうぜっ          たいよごさないからね
 とうちゃんは四の五の言ったが
 それでもついにおしまいに
 おまえが汚さないならおれも男だ
 こんごはぜっ                       たい
 汚さないからそう思え、と言った

どうですか? 河や海の汚れについて話をする導入にもってこいでしょう。
「ぜっ    たい」といったふうに空間を開けて、 絶対を強調しているところがいいでしょう。子どもが決してしないといった気持ちが よく表現されています。「地球のたいへん」の導入に読ませたら、 どんなふうに読んでくれるでしょうか。 楽しみです。

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